「海です」
「海だな」
 波打ち際にしゃがみ込む後ろ姿を見つめてそう返す。捲簾は冬の海の寒さに僅かに肩を竦め、目を細めた。彼の黒く長い髪が海風に攫われて流れては乱されていく。彼はといえば、しゃがみ込んで膝を抱えながら右手を伸ばして打ち寄せる波に触れようとしている。しかし波はその指先を避けるように寄せては引いていく。頬を撫でる風が冷たい。鼻先を擽っては去っていく磯の匂いが何だか懐かしい気がした。冷たい風に洟を啜り、顎を反らして対岸を眺めてみる。遥か遠く遠くの方に、ぽつぽつと白や赤、黄の暖かい光が浮かんでいる。空には星がない。ただ一つ、細い三日月だけが冷たい空に浮かんでいる。陽が暮れ泥む中、空は僅かに光を帯びて、黒から青、青から紫へと色を変えていた。
「……で、何で」
「人間は、海から生まれるそうですよ」
「あ? ……母親からだろうが」
「……もう、どうしてそう現実主義なんですか」
 顔は見えなかったけれど、彼が面白くなさげに顔を膨れさせたのが分かった。彼が手近にあった小石を拾い上げて海に向かって放り投げる。僅かに見えていた石の放物線が、暗い海に向かって消えていく。そしてぽちゃん、と小さな水音がして、石が海の底へと沈んでいくのが分かった。
「ああ、そういう話に関しては詳しいんですよね。股間の事情は」
「……お前さあ」
 本気で言っているのだろうか。ひょっとしたら何か怒らせることでもしただろうか、それで説教に呼び出されたとかか? そう考えてがりがりと頭を掻く。しかし思い当たることはない。浮気なんてしていないし、彼を放って出掛けたりもしていない。彼は、自分のことは棚に上げて捲簾が自分を放って出掛けると拗ねるのだった。拗ねると厄介な彼だが、しかしそれがそれだけ彼が自分に執着しているということを表しているようで、何だか不思議な気分にもなるのだった。
「天蓬」
「何ですか」
「何かあったのか」
「別に」
「ふーん」
「……もっと気にして下さいよ」
「追及すると怒るじゃん、お前」
 そう言って腕を組み、顔を逸らしてやると、しゃがんだまま顔を上げた彼が恨みがましげな目を向けてくるのが分かった。内心、そんな彼に吹き出していたけれど表面に出すことはなく、遠くの暖かそうな光に目を向ける。吹く風が頬を打って髪を攫った。一息置いてから、唇を尖らせながら自分を睨み上げる天蓬を笑って見下ろす。
「……何をそんな拗ねてるんだ、お前は」
「別に」
 聞いたら聞いたでこうして逃げるのだ。だけど聞かなかったら聞かなかったで拗ねる。面倒で面倒で、放っておけない奴だ。自分がいなければそのまま死んでしまうのではないかと思えてしまうほど。実際そんなことはないことを十分知っている。彼は一人で生きていけるくらいに強い。自分がいなくても。
 打ち寄せてくる波をやっと捉えて、天蓬は右手を波に浸けている。きっと後から冷たいだの寒いだのと騒ぐに違いない。
「……どうして、海なわけ?」
「還ってみたかったから」
 彼の言うことは一々難しい。凡人の頭しか持っていない自分にはその意味を飲み込むだけでもやっとだ。彼のお気に召す返事を弾き出すところまで行くには少し時間が掛かる。しかし今回はどう考えても彼の気に入る返事をすることは出来そうになかった。寒さのせいで頭の働きが鈍く、そんな余裕がない。
「分からん」
「別にいいです」
「そ」
 そう言っている間にも天蓬はぽいぽいと石を海に投げ込んでいる。ぽちゃんぽちゃん、と水音が聞こえてきた。暗い水面に波紋が広がるのが見え、奥へ進につれ黒に近づいていく。しかしその波紋も、すぐに波に掻き消されて白い泡に覆われていった。
「……寒いですか」
「寒いよ」
「帰らないんですか?」
「帰りたいのか?」
「いえ、あなたが」
「……置いて帰ったら、怒るだろ」
「別に」
 そんなこと言って、と心の中で溜息を吐く。分からないことに変に返事をするものではない、と思い、吐き出そうとした言葉をそのまま呑み込む。そして考え直した言葉をゆっくり吐き出した。
「何をそんなに煮詰まってんだ、お前は」
 そう訊ねると、彼は一瞬呼吸を止めたようだった。しかしすぐに時間が動き始め、もぞもぞとその小さくなった背中が動いた。そして少し籠もったような、波の音に掻き消されそうな声が聞こえてくる。
「僕ね」
「うん」
「思う以上に、あなたのこと好きなんですよね」
「……はぁ」
「おかしな、話です」
 見下ろした横顔は、照れも何もなく、本当に不思議がっているようだった。ゆっくりと波の音に合わせるかのように睫毛が上下する。
 本当に、何を考えているのかさっぱり分からない。疑問に思う必要がないことまで無駄に深く考えてしまうのが彼の悪い癖だ。
 一歩、彼に近付く。砂浜がジャリ、と音を立てるのに、彼が少しだけ目を揺らした。
「……俺のことが好きなのが、そんなに変」
「変ですね」
「何でよ」
 そう言うと、彼は目だけで捲簾を見上げ、暫く見つめた後溜息を吐きながら視線を落とした。
「……お前、今“何でこんな奴のこと”って思っただろ」
「もう、どうしてそう被害妄想が酷いんですか……」
 そして彼は再び、呆れたように溜息を吐く。僅かに白く曇った吐息が海風に攫われてすぐに見えなくなった。
「別に今更、男同士だの何だの悩んだりしませんよ」
「そりゃあ……」
 そうだろう、と返しかけて、ひょっとして失言ではないだろうかと思い留まる。しかし彼は何とも思わなかったらしく、視線を海に向けたままだ。その目に暗い海と、その向こうの小さな光が映りこんでまるでビー玉のようだ。そしてふと、彼の口元が柔らかく緩んだ。
「……どうかしてる」
 そんな優しい表情から呟かれる自嘲するような言葉に、何だかもやもや広がるものが抑えられなくて髪を掻き毟った。吐き出した白い息が視界を覆って、彼の姿をますます見えなくする。
「分かんねえ、何が言いたい。要するにお前は何がしたいんだ。なかったことにしたいって言うなら俺にも考えがあるが」
 そう矢継ぎ早に口にすると、彼はゆっくりと、少し驚いたような目で見上げてきた。
「あれ、そこまで発展しますか」
「しないって言うなら、どういう意味なんだ。お前ほど高性能な頭を持ってるわけじゃねぇから易しい言葉でな」
 彼ほどではないが、自分とてそう気の長いタイプではない。のんびりと捲簾を見上げている彼を威圧するように睨みつけてみる。しかし全く動じる様子のない彼は、ひたすら不思議そうにゆっくり瞬きする。(なにをそんなにおこっているんです)、とでも言いたげな眼差しに歯噛みする。いつもいつも、惑わされるのはこちらばかりだ。
 苛立った様子の捲簾をじっと見ていた彼は、やがてゆるゆると首を振って、膝の上で組んだ両腕の上に頬を載せた。
「自分でも、言葉にするほどちゃんと形になってないんです」
「……あ」
 苛立ち紛れに砂を踵で擦る。蹴飛ばした砂は、すぐに波に攫われて形をなくした。
「そもそも、そう人に固執したことなんてないので……何か、今の状態の自分がよく分からないんです」
「何か、不安なのか」
「……そう、かもしれません。何か、変わっちゃいけないものが変わってしまいそうな感じで。変わらないものなんて何一つないんでしょうが」
 頭の良い奴は本当に何を考えるのか分からない。
「変化なんて、なるようになるんだから身を任せときゃいいんだよ」
「出来ればこうしてませんよ」
 尤もだ。解決策が見つからないまま頭を掻いていると、じっとしゃがみ込んだままだった彼が徐に立ち上がった。そして波打ち際に沿ってゆっくりと歩いていく。捲簾は何が何だか分からないながらもそれをゆっくりと追った。
「ああ寒い」
「だったら何で海にしたんだ海に」
「あなたがいつも暑苦しいから、寒いくらいが丁度いいと思ったんです」
「何だ暑苦しいって」
 失礼な、と一人ごちると、彼は僅かに笑い声を漏らして肩を揺らした。
「あのね」
「はいはい」
「あれが、僕なんですよ」
「は」
 ふと立ち止まった彼は、海の方へ身体を向けて空を見上げた。その視線を辿るようにして捲簾もまた空を見上げる。その空には、先程よりも少しくっきりと浮かび上がっている細い三日月。暗い色のカンバスに切れ目が出来たようなそれ。
「……あれ」
「はい」
 こくりと頷いて、彼はまた背を向けて歩き始めた。しかし捲簾はまだ、月を見上げたままでいた。
 確かに、僅かに冷たさを帯びた姿は月らしいと言えるかもしれない。しかし何でまた、このタイミングでそれを。
「それで、真夏の熱くて仕方がない太陽が、あなた」
「……え」
 唐突に続けられた言葉に反応が遅れた。慌てて顔を上げると、小さく笑った彼が立ち止まってこちらを見ている。月と太陽、とは、如何なる意味か。彼の頭の回転速度に追いつけずに混乱するままだ。混乱したように眉を寄せる捲簾を笑って見ていた彼は、小さく息を吐いて、視線を落とした。
「あなたがいないと輝けないとか、そういう陳腐な意味じゃないですよ」
「……そうですか」
 可能性として考えたものの、彼の考えとしては絶対あり得ない、と真っ先に候補からはじき出したものだ。だったら何だ、とますます焦りながら考えを巡らせる。そしてゆっくりと、空の浮かんだひとりぼっちの月を見上げた。それを見ていたら、何だか彼の考えることが少しずつ分かってきたような気がした。ぼんやりと優しく光る月を見上げたまま口を開く。
「お前が冷たくて、俺が熱いってことか?」
「正解です」
 そう言って彼は、二度ほど手を打った。その笑顔はそのまま、優しい。何だか先程までオーバーヒートしそうなほどだった頭の芯が、急速に冷えていくようだった。ゆっくりと身体を彼の方へ向ける。
「相容れないと思いませんか、僕ら」
「……何でそう、変なことばっかり考えるわけ」
「癖です」
「止める努力は」
「してます。だけど、こればかりはどうにも……」
 肩を竦めて彼はそのまま視線を逸らした。一層大きく打ち寄せてきた波が、靴を濡らしそうになって彼は少しだけ浜に逃げる。
「まあ、百歩譲って容姿のことだって言うなら、分からなくもないけど」
「容姿、ですか」
「お前、黙って笑わずいると、冷たく見えるから。だけど誰がお前を冷たいって言うんだ」
「別に……誰も」
「だろ、誰より暑っ苦しくてカッとなりやすいのはお前だし」
 そう言うと、彼は一瞬目を瞠った。そして少し不服そうに頬を膨れさせて俯き、「カッとなりやすいのは関係ありません」と小さな声で抵抗してみせた。その姿に思わず笑うと、恨みがましげに睨みつけられる。それに少し大袈裟に引いてみせると、ますます拗ねたように彼は顔を背けてしまった。
 ゆっくりと砂浜を歩いて、彼に近付く。シャリ、と砂が音を立てるが波の音にすぐに消されてしまう。手を伸ばして、潮風に煽られ乱れた彼の髪の毛を撫でて直す。そして不思議そうに見上げてくる彼に対して言い捨てた。
「そんな顔してたら、誰も冷たいなんて思わねぇよ」
 そう言って彼の髪から手を引く。小指に絡まっていた髪の房が、それにしたがって解けて風に乗る。黒髪から完全に離れたその指先を、冷たい指に捕らえられる。人差し指と中指の先を掴んだその手の冷たさに少し驚く。そして、先程まで彼が海に指を浸けていたことを思い出した。(ばかめ、)と心の中で呟きつつ、自分の指を掴んでくるその手を逆に掴み返して、両手でその手を包み込む。
「馬鹿な奴」
「……僕が、ですか」
「本当馬鹿だ。頭が良すぎて馬鹿に見えるんだと思ってたけど、実際馬鹿だろお前」
 過ぎた暴言だ、と思ったけれど、一度出た言葉を引っ込めることなど出来なくて捲簾はそのまま彼の手を握り込んだ。しかし想像したような反撃は訪れず、二人の間を潮騒だけが通り過ぎていった。
「何だか、あなたとははじめてのことばかり経験しますね」
「あん?」
「僕の部屋を勝手に片付けようとしたのも、殴りかかるような勢いで叱ってきたのも、アンタ呼ばわりしたのも、……“馬鹿”呼ばわりしたのも、みんなあなたがはじめてです」
 彼の冷えた指先が僅かに小さな熱を帯び始めた頃、ぽつりと呟かれた、どうしてか何だか少し嬉しそうにも聞こえる言葉に一瞬目を見開き、そして笑った。
「それはよかった」
「どうして」
「“はじめて”は記憶に残るもんだろ」
 少しだけ腰を屈めて、目を開いたままの彼に押し付けるだけのキスをする。冷え切った、柔らかな感触を感じてすぐに離れる。彼は最初から最後までそのまま目を開いたままだった。
「……冷たいです」
「もっと?」
 彼は何も言わなかった。一度ぱちりと瞬きをしただけで、なにか訴えるように捲簾を見上げたまま動かない。しかし捲簾はそれをすぐに肯定と理解して、両手で彼の両頬を包み込んだ。白い頬がすっかり冷え切っている。きっと自分も同じようなものだろうが。少しだけ熱を移すように軽く撫でた後、脈絡もなく彼の唇を自分のそれで塞いだ。一瞬驚いたように目を見開いた彼は、次第にそのままゆっくりと力を抜いて、目を伏せた。
 そのうち、彼の唇もまたすっかり熱を帯びて冷たさも消えていった。ゆっくりと唇を離すと、伏せられていた彼の瞼がゆっくりと開かれ、じっと自分を見上げてくる。目は口ほどにものを言う、とはなかなかいい言葉だと思う。特に彼の場合、言葉がさっぱり何を言っているのか分からないだけに目はとても雄弁で、捲簾が彼の意思を汲み取るための数少ない指標となるのだ。
「寒い?」
「死にそうなくらい」
「そう」
 そう言うと同時に、掴んだ彼の手を引いて身体を引き寄せ、両腕の間にすっぽりと抱き込む。抵抗はない。力を込めて冷たい身体を抱き締めると、自分の右肩に額を押し付ける形になっていた彼が、力を抜くように細く息を吐いたのが分かった。
「負けっぱなしだなぁと思うんですよ」
「うん」
「あなたが格好良く見える時点で、僕も相当終わってる」
「終わってねぇだろ、普通だよ」
「……」
「何で黙る」
 そう言うと、彼が肩に額を押し当てたまま声を押し殺して笑っているのが分かった。抱き寄せた背中が微かに揺れている。
「……何でそこで笑うかね」
「あれ、笑うところでしょう」
「もういい」
 脱力して、未だ笑い続ける彼の頭を抱えるようにして抱き寄せる。それでも彼はまだ笑い止まない。ああもう笑うだけ笑え、と思いながら、彼の頭をぽんぽんと宥めるように叩いた。
「お前が月じゃ、困るんだよ」
「え」
 独り言のつもりの言葉に思わぬ返事があり、捲簾は思わず言葉に詰まる。そして少し考えた後、ぼそぼそと言葉を返した。
「太陽と月じゃ、くっつけねぇだろ」
「確かにくっついたら、一大事ですね」
 そんな事態が起こったら下界が大騒ぎになることは間違いなかろう。もしもの話とはいえ、捲簾はそれを想像すると少々不謹慎ではあるが少し笑える気がした。何せ天変地異だ。腕の中の彼もくすくす笑い続けている。(これのどこが冷たいって言うんだ)と心の中で一人ごちる。先程言った通り、見た目のこととするなら確かに言えなくもない。無表情な、研ぎ澄まされたような横顔が冷たい三日月と重なる。
(でも、俺が太陽ってのは……とりあえず暑苦しいってことか)
 何を考えているのか分からない、理解に苦しむことばかり考える頭をぽんぽん叩きながら、その髪に頬を寄せた。
「温けえよ、お前は」
 確かに感じる体温に安心した自分に、一瞬どきりとした。
「本当はね」
「うん」
「あなたみたいなタイプってものすごく苦手だったんです」
 一般的に言えば“いい雰囲気”と言えるシチュエーション下で何でまたそんなことを、と脱力する。
「俺みたいなタイプって」
「誰にでも優しくって、兄貴分で頼り甲斐があるタイプ」
「……」
 褒められているのか貶されているのか計り兼ねて眉を寄せる。顔は上げないまでも、捲簾が悩んでいるのが雰囲気で分かったのか、彼はまたくすくすと笑って、小さく「すみません」と呟いた。
「あなたのことを悪く言ってるんじゃないですよ。僕の好みの問題です」
「じゃあ俺はお前の好みじゃなかったってことか」
「厳密に言うと、苦手というより反発したくなると言うか、腹立たしいと言うか、妬ましいと言うか」
「妬ましい。俺がか」
「あなたは僕にないものばかり持ってるから、でしょうね」
 何を言っているんだろう、と抱き締めた黒髪の頭を見下ろした。何だか不思議な気分になる。彼が他者の持つような感情を、普通に表しているのが何だか物珍しい気分だった。彼が特に、特別な存在であるわけではないのに何故かいつも彼が普通の男だと実感するたびに少し驚いてしまうのだ。その時点で、自分も彼と少し距離を置いているということになるのかもしれない。
「……分かんねえなあ」
「でしょうねえ」
 そう言ってまた、彼は肩を揺らして小さく笑った。その笑い声ごと抱き締めて大きく息を吐く。すると腕の中の彼がもぞもぞと身動ぎして顔を上げた。何故か責められているような気分になって口ごもると、途端に彼は噴き出した。
「何なんだ」
「別に」
 それは、先程まで幾度となく聞いた気のない返事だったけれど、今のものは明らかに先程までのものとは違い、いつも通りの力が戻ってきていた。どうやら、少しは悩みも解消されたらしい。その面白がるような笑顔に、漸く一息つく。
 彼はそのまま捲簾の胸を突き離すようにして腕の中から出ていった。そして再び、波打ち際に沿ってゆっくりと歩き出す。一歩遅れてそれを追う。日暮れは進み、先程より大分辺りが暗くなっている。見えていなかった小さな星が輝き始め、一人ぼっちだった月を囲んでいる。対岸の光が増え始め、水面に反射してきらきらと光っていた。彼の足が、悪戯に打ち寄せてくる波を蹴り飛ばす。
「おいおい、濡らすなよ」
「後でお風呂入ればいいじゃないですか」
「入るのか」
「入れてくれますか」
 その切り返しに思わず目を見開く。すると悪戯の成功した子供のように笑って、彼は肩を揺らした。いつもの調子を取り戻し始めた彼に呆れ半分、少しだけ安心した。あんな風に変に落ち込まれるのは気分が悪い。大股で彼に歩み寄り、後ろから圧し掛かるように抱きついてみた。盛大に嫌そうな顔をして振り払われるかと思えば、彼はきょとんとした顔で見上げてくるだけだった。
「何ですか急に」
 さむいんですか、などと本気なのかからかっているのか分からないようなことを口にして、それでも彼は抵抗しなかった。抱き締めた身体をそのままに、空を見上げて息を吐く。白く染まった息が潮風に流されて霧散していく。それを目で追って、なんだか余計に寒くなって熱を求めるように更に彼を抱く腕に力を込めた。
「そんなに寒いんですか。そんなナリして」
「お前に体温とられたからな」
「は」
「だから、返せ」
 海風が撫でていく頬が冷たい。ちゃぷ、と波が足元で小さな音を立てる。
「僕、体温低いんですけどねえ」
「十分だ」
 暫くそれ以上何も言わずに自分を抱き締め続ける男に、彼は少しだけ驚いた顔をした。しかし次第に少し脱力したように笑って、自分を抱く捲簾の腕をぽんぽんと叩いた。そして細く息を吐いた。白い息が暗闇にぼんやりと浮かび上がる。そして少し間を置いてから彼は、本当は、と切り出した。
「あなたが殺したいほど憎い時がありますよ」
「……」
「でもそれって結局それだけ僕があなたに執着してるってことなんですよね」
 何だか、今日は自分も彼も、らしくない。
「夜が明けたら、忘れて下さい。僕の言ったこと」
 少し間を置いて、分かった、と返した。少し掠れてしまったその声が、一際大きく鳴った波の音に掻き消される。対岸の光が僅か、二回だけちかちかと点滅するのを目を細めて見つめた。この場にある全てが何だか気分を一層淋しくさせるようで、寒さに少しだけ身震いする。そんな捲簾を見上げて、彼は小さく笑った。











大好きな漫画を読んでたら、素敵な海の挿絵があったのでリハビリに。太陽や月といえば他二人なんでしょうがそれは置いといて。
『愛おしげに抱きしめる』っていうのが好きなんですが、どうにも表現が難しい。         2006/10/10