『……相変わらず、酷い成績ですねぇ』
『お前だって英語ぼろぼろだったんだろ』
『あなたの数学ほどじゃないですよ。何ですかこのバツの乱舞。その割にやけに字が巧いから逆にシュールですね』
『……るせー』
『これじゃ、週末のお花見許してもらえないかもしれませんよ』
『……』
『どうするんですか? 来週末になったら散り始めちゃうんですけど』
『……あー、いざとなったら窓から飛び降りるから窓の下で待ってろ!』
『僕までおばさんに叱られるんですけどね……わかりました』
『約束だからな』
『はいはい。……週末、晴れるといいですね』



++++



「式が終わったら職員室で待ってろ。勝手に帰るなよ」
 入学式の開始時刻が近くなり、その場にいた五人とも体育館に向かわなければならない時間になった。特に悟空を始めとした三人は役員として仕事があるため、早めに行かなければならないのだ。悟空はいつまでも名残惜しげに天蓬に引っ付いていたが、次第に諦めたのか悟浄と八戒に両腕を掴まれ捕獲されて、体育館へと送られていった。
「はい」
 三人が行ってしまった後、ゆっくりと二人は階段を降りていた。生徒のいない校舎に、靴が床を打つ音だけが響く。捲簾に一歩遅れてその後ろを歩いた。一歩先を行くスーツの背中がやけに大きく見える。あの頃は殆ど体格に差などなかったのに。その背中がどこか強張っているのを見て、(ああ、やっぱり彼は怒っているのだ)と理解した。
「ごめんなさい、捲簾」
 (謝ってどうなるものでもないけれど)と思いながらも、そう背中に向かって告げる。立ち止まった彼は、少しだけ首だけで振り返って、視線を落とした。何も告げずに去ったこと、この十年近く全く連絡を取らなかったこと。怒りたくてもどう怒っていいのか分からないような顔をしていた。手持ち無沙汰に唇を舌で湿らせ、何度か躊躇うように口を閉じながらも、彼はゆっくり言葉を発した。
「会えたから、許す」
 言葉尻が震えている。こんな風に言われたら、自分はどんなに怒られても責められても反論すべき言葉を持ち得ない。
「待っててくれたんですか」
「うん」
 どこか幼げな口調で言う彼の背中に、十年前の活発な少年の背中が被る。そういえばあの最後の夕方、次の日に宿題を見せることを約束していたのを思い出した。そして、週末一緒に花見に行く約束をしていたことも。
 あの春の桜はもう帰ってこない。幼かった彼ももうどこにもいない。約束を果たそうとしても、もうどこにもいない。自分が裏切ってしまった少年のことを思い、待っていてくれた男の背中を見て、胸が詰まった。一歩踏み出そうとして、階段の滑り止めに足が引っ掛かり、そのまま足を止めた。カツン、と音が静かな校舎に響く。
「ありがとう。……すみませんでした」
 今のあなたへ、待っていてくれたことに。あの頃のあなたへ、置いていってしまったことに。
 僅かに震えた広い背中を見て、遠い記憶の中いつも明るく笑っていたその少年が、今も笑っている気がした。



++++



 式が終わり、その後の諸々の処理が終わった後、捲簾は何も言わずに天蓬の腕を引っ張り、学校を後にした。他の教員の視線が不躾なほどだったが、全て無視して校舎を出る。既に日は落ちている時間だった。とりあえず彼に、予備で学校に置いていたヘルメットを渡してバイクの後ろへ乗るよう促した。
「もしかして車か」
「いえ、バスです」
 ごそごそとヘルメットを被る彼を横目に、自分の心拍が異様に速いことに気付く。よく見れば手の平が僅かに汗ばんで気持ちが悪い。横目に見た彼は、変わっていたけれど何も変わっていなかった。無表情でいると冷たくすら思える美貌と、どこか心許ない気分にさせる取り巻く雰囲気。見事なまでの処世術としての微笑みも、なくなるどころか更に磨きが掛かったようだった。
 彼がいなくなってから十回目の春。気持ちがあの頃から全く変わっていないらしい自分に、少し溜息が出る思いだった。彼を後ろに乗せて家へ向かう距離が妙に長く感じた。いつもなら飛ばせばすぐの距離。勿論それは二人乗りしている重みのせいではない。じりじりと背中が焼けつく気分だった。少し躊躇いがちに身体を掴んでくる細い手に気を取られそうになる。いつもならしないような丁寧すぎる左右前後の確認までして気を紛らわせながら、捲簾は赤から青へ変わる信号を見上げた。
 そんな異常なほど長く感じた時間を経て到着したマンションを見上げて、天蓬はヘルメットを取りながら小さく声を漏らした。ヘルメットのせいで髪の毛が少し乱れていて、思わず昔の調子でそれに手を伸ばしてしまいそうになった。しかし怪訝な目で見られるのが怖くて、彼が振り返る前にその手を引く。
「一人暮らしなんですか」
 平坦な声でそう訊ねてくる彼に捲簾は首を傾げた。
「ああ、親は実家だし」
「いえ、恋人とか」
 街灯の下、彼は感情の読めない微笑みで自分を見ていた。一瞬言葉に詰まった捲簾は、おざなりに返事をしながら彼に背を向け、バイクを停めに行った。やっと彼から見えない場所へ来たところで、溜め込んでいた息を一気に吐き出す。口元を手で覆ってぎゅっと目を瞑った。鼓動が速い。悟空がいたらいたで邪魔だと思うくせにいなかったらいなかったで間が持たないなんて。昔ならあり得なかった。彼と自分とは、気の置けない仲であって、こんな風になることは。
(当たり前か)
 十年経っているのだ。昔の通りでいようなんて思うのは、我儘なのだ。あの頃から全く進めていない自分と、さっさと先に進んでいってしまった彼の間に距離が出来ないはずがない。最後にあの河川敷で別れた日のことをまだ鮮明に覚えているなんて、お前は笑うだろうか。

 バイクを押しながら駐輪場へ向かう後ろ姿を見ながら、ヘルメットを抱く腕に力を込めた。何だか、何も変わっていないのではないかとすら思えた。あの日と同じ笑顔で見つめられて、何の距離も感じさせない対応をされて。十年前から何も変わらないなんて夢見がちなことを思ってしまう。そんなはずないのに。彼は大人になっていて、自分よりもずっと体格が良くなっている。昔彼は自分に剣道で一度も勝てたことがなかった。今だったら、絶対に負けてしまうだろう。
 彼は保健体育の教師だという。悟空に教えられて、あまりにもらしくて笑ってしまった。彼が教師になったのだとしたらきっと保健体育か美術だろうと思っていたところだったから。運動神経がよくて、武骨な手をしている割に料理や絵を描くのが上手かった。その手で自分も何度頭を撫で回されたことか。
(もう、そんなことはないだろう)
 二人共もう、二十の半ばを迎えるのだ。いつまでも子供のままではいられない。恋人だっていて当たり前だ。昔から女の子に優しくてもてる人だったし。それにそうだったとして、何だというのだ。結婚して赤ん坊を抱いていたっておかしくない歳なのだから。自分はどうこう言える立場ではないし、言えたところで何と言って責めるのだ。勝手に姿を消して、連絡を全て絶ったのは自分だ。それは自業自得というもの。
 上げられた彼の家は、綺麗に片付いていた。そういえばあの頃も、中学生男子の部屋とは思えぬほどに綺麗に整頓されていたのを思い出す。見た目にそぐわず几帳面な男なのだ。几帳面で綺麗好きで、いつも世話ばかり焼かれていた。最初それが嫌だと思わなかったと言うと、嘘になるのだが。自分によく似ていて、なのに全くの正反対に位置するようなおかしな感覚を覚えたものだった。
「何か飲むか」
「コーヒー、ありますか」
「ん。座っとけ」
 そう言ってソファに上着を落とし、彼はキッチンへ入っていった。綺麗なシステムキッチンが入っている。料理の腕は確かな男だから、簡易キッチンがあるだけの家なんて耐えられないのだろう。暫く手持ち無沙汰に立ち尽くしていた天蓬は、そのままストン、とソファに腰を落とした。軽く沈み込んで、疲れた身体を包み込む。そうしていると、キッチンの方からコーヒーのいい香りが漂ってくるようになった。ポタポタ水が落ちる音がするのは、ドリップしている音だろうか。室内には、それ以外の一切の音がなかった。まどろむようにソファに凭れ掛かっているうちに、キッチンの電気が消えて、ぺたぺたとスリッパの音が近づいてきた。
 差し出されるままにカップを渡されて、手を伸ばす。上がる湯気を見つめて香りを感じながら、その水面に視線を落とした。黒い水に、自分のぼんやりとした顔が映っていて少しおかしかった。
 そうしていると、座っていたソファに僅かに衝撃があった。隣に彼が座ったのだった。三人は座れるソファの、ぎりぎりの両端に自分たちが座っている。二十半ばの男二人としては妥当な距離だろう。くっつき過ぎれば気持ち悪いし、離れ過ぎれば他人行儀だ。しかし、昔の自分たちならもう少し近づいていてもおかしくなかった。広がるのは距離と、沈黙ばかり。
 これが十年で出来た溝か、と天蓬は少し感慨深く、自分と彼との間の部分を見つめて、笑った。
「あの、さ」
 躊躇いがちに彼が口を開く。横顔はすっかり男の風貌で、さぞかし女性から声が掛かるのだろうと思わせた。
「どこに、行ってた」
 たった、それだけの言葉だった。しかしその短い言葉の中に、万感の思いが込められていることが解っていた。顔が見られなくて天蓬は自分と彼の間の部分に視線を落とした。
「あなたには僕を責める権利があると思っています」
「だから、そういうことが聞きたいんじゃない!」
「話します、全て。それを聴いて、僕が憎いと思うなら思っただけ殴ってくれて構いません」
 殴ることが出来るような人じゃないことも分かっていた。きっと怒りも全部その拳を握り締めるだけで我慢するのだろうと解っていた。我ながら性が悪い、と自嘲した。

「あの晩、父は会社で首を切られて帰ってきました。元から父の力が生かせる職場ではなくて……けど母親のいない幼い子供一人抱えたまま離職して、再就職を目指すという賭けが出来ずに父は我慢して悪環境に耐えていました。そしてとうとう辞めさせられたその日、前々から父の才能を拾ってくれると言っていた友人がいるところへ引っ越すことにしたと、言われたんです」
 天蓬の舌が、乾いた唇を潤すように滑る。手の中のカップはとっくに温まってしまっていたが、それを離すことも出来ずに、握ったまま彼の俯きがちの顔を見つめていた。
「父は僕をどこか、全寮制の学校にでも入れて日本に置いていくと言いました。だけど僕は父と一緒に渡米することにしたんです」
 それは、あの頃の自分の想像を遥かに超えていた。あの頃の自分が考えたことなんて、関東の中かもしくは本州の中だけのことだった。まさか国境まで越えていたなど考えもしなかったのだ。
「寮制の学校なんかに僕を入れるお金なんてないことは分かっていました。父はどうにか資金繰りするつもりだったみたいですが。それで、その晩二人がかりで荷造りをしました。調度品は全て粗大ごみに出しました」
「うん、見た」
 呆然と見ている自分の横で、業者がトラックに棚やベッドを積み込んでいくのを。がらんとした、何も落ちていない部屋を。何の名残もなく、風のように消えた彼を思って、立ち尽くした。
「そして、その日の内に日本を発ちました。学校に連絡したのは、あっちに到着してからです」
「何で」
「……」
「何で連絡して来なかった。その時すぐに出来なくても、電話なり手紙なり出来たんじゃないのか」
 その言葉が思いの外責めるような色合いが濃くなり、目の前の彼が僅かに顔色を悪くしたのが分かった。
「悪い」
「いえ。責める権利があるって、言ったでしょう。あなたに連絡をしなかったのは、必要がないと思ったからです」
 頭の芯が揺れた気がした。堪えなければ、激情のまま彼の肩を揺さ振って有らん限りの言葉で詰ってしまいそうだった。必要ない。必要がないというのは何だ。拳の中、手の平に爪を食い込ませて激情を堪えた。言葉を探るように視線を彷徨わせていた彼は、何かを堪えるように息を吐いてからゆっくり口を開く。
「何度も何度も手紙を書こうとしました。けどそのどれもが、書き掛けのまま出されることもなく抽斗に入れてあります」
「……」
「必要ないと思いました。父は現地に家を買いましたから、大人になるまで日本には戻れないと分かっていました。……その頃には、もうあなたは僕を忘れるだろうと思っていたから」
 天蓬は、手持ち無沙汰にコーヒーカップの縁を指でなぞっては、爪で引っ掻くようにしている。その指先を視線で辿りながら、呆然と彼の言葉を聴く。鼓動が手の平にまで伝わってくるようだった。
「それが、日が経つに連れて余計に募っていきました。ああ、もう少し早く連絡していれば、なんて思ったりもしました。だから結局、現地の家の僕の抽斗には、宛先のない封筒が幾つも入ったままです」
 不機嫌な顔で机に向かい、便箋にペンを滑らせるあの頃の彼の姿が思い浮かんだ。脇には書き掛けの便箋が何枚も溜まっていく。自分が彼の行方を考えていた分だけ、彼も自分のことを考えていたのだと思ってもいいのだろうか。
 コト、と音がして、彼がカップをテーブルに置いたのだということが分かった。視線を上げると、彼の真っ直ぐな視線が自分に向けられている。臆することなく、捲簾もその目を見返した。
「この全ては僕の我儘であり、臆病さゆえです。だから、どれだけ詰られても仕方がないと思っています」
 ああ、やっぱり根本は全く変わっていないんじゃないか。さっきは伸ばすことを躊躇ってしまった腕を、今は何も止めるものはなかった。

「っ、ちょ!」
 強い力で抱き寄せられて、“十年で出来た溝”が埋まる。思わず倒れそうになって彼のシャツを掴んで堪えた。顔を見上げてやろうと思ったが、強く抱かれすぎて、上を見ることが出来なかった。鼻先を胸に押し付けられて、思わずぎゅっと目を瞑る。彼の身体は、染み付いた苦い煙草の匂いがした。
「忘れたことなんてなかったって言ったら、嘘になる」
「……」
「だけど、春になってお前との約束を思い出さないことはなかった」
 果たされることがなかった約束。二人しか知らなかった穴場。天蓬がいなくなって、あの場所を知るのは彼だけになったはずだ。あの場所はもう消えてしまっただろうか。もう十年経っているのだ。田舎だったあの辺だって、随分拓けてしまったのだろう。
「すみませんでした」
 彼のシャツの胸元に顔を押し付けられながら、背中を抱き寄せる強い腕を感じた。守れなかった約束と出せなかった手紙。どちらもが自分の胸に重く圧し掛かって意気地のなかった過去の自分を責め苛む。父に「久しぶりに日本に帰ろうか」と言われたこともあった。その度、怖くて自分は首を横に振った。彼は自分に背を向けるかもしれない、どんなに詰られるか分からない。怖がるばかりで一歩を踏み出せなかった。
「お前、最低だ」
「え」
 胸に顔を押し付けているせいで身体に響いてくるようなその声に、天蓬は顔を上げられないまま目を瞬かせた。
「俺が、お前をどう思ってたか、知らなかったわけじゃないんだろ」
 天蓬は昔からそういったことに聡い少年だった。それは妙な感情を抱く人間から離れ、危険を回避するためであったり、自分を好いている相手に好意を抱いていると勘違いをさせないように、と自然と備わったものだった。だから、捲簾が自分をどう思っているか、薄々は気付いていた。親友以上の感情を抱かれている、というくらいのことは。いや、一度だけキスをしたこともあった。だけど彼はすぐに忘れろと言ったし、それは本当に冗談だったのだと記憶していた。
(あれ……)
 本当に、本当で、あれが本気だったとして。そんなこと、一度も想定したことがなかったのだけれど。いや、しかし今冷静になって考え直してみるとどうして当時の自分はあんなにも簡単に結論付けられたのだろう。男にキスをされて、それが冗談かどうかなんてすぐに分かるはずなのに。
「だから、十年間も、覚えてたんですね」
 ただの友人を、十年間も忘れずに覚えていたりするものか。顔を押し付けた胸から、何だか少しだけ速い鼓動が伝わってきた気がした。尚更恥ずかしくて顔が上げられない。寧ろ捲簾も上げさせてくれない。二人とも相当おかしな顔をしているはずだ。
「忘れてたな、お前」
「だって、そんな一度も言われてもないことを覚えてろなんて」
 あまりの言い様に、天蓬は彼の身体を押し退けて顔を上げる。力を込めて言おうとしたはずの言葉は、彼の顔を見たことによって尻すぼみになり、静かな室内に消えていく。
「何でそんなに赤いんですか」
「お前な! その」
 何か勢い込んで言おうとしたらしい彼は、途中で空気が抜けたようにソファに手をつき、俯いて手で頭を押さえた。浅黒い耳が赤い。
「過去のこと、じゃないんですか。あなたが僕を好き、って言っても」
 あの頃の自分と今の自分は違う。女の子と見間違われるような容姿をしていたあの頃とは大分変わってしまったこの容姿だ。背だって彼に満たないとはいえ決して低い方ではない。百年の恋だって、冷めるはず。
「変わってしまいましたよ、僕は」
「何にも変わってねぇよ。少なくとも、俺から見ればな」
 そう言って、彼は少し照れ臭そうに頭を掻いた。天蓬はその動きをじっと視線で辿った。そして、その視線に気付いて恥ずかしそうに顔を顰めるのも。本当に、何も変わっていないんじゃないかと思わせる。
「だったら」
 今でもあなたは、と、そう続けることは出来ないまま、間近に迫っている彼の長い睫毛を目を閉じることもなく見つめた。少しかさついた唇が離れていくのを、ゆっくりと視線で辿る。何だか頭がふわふわした。唇が熱い気がする。さっと移された熱がすぐにも消えていきそうなのが名残惜しい、なんて。馬鹿な。
「……殴らねぇの」
「え」
 不意に声を掛けられて、ぼうっとしていた天蓬は慌てて顔を上げた。
「自分は責められて然るべきだから黙ってる、なんてのはなしだぞ」
 ぼやぼやしているうちに、ソファに膝をついて載り上がって来た彼に顎を掴まれていた。嫌なら、張り倒すことも出来る。真剣な目で自分を見下ろしてくる彼に、彼には申し訳ないけれど少し笑いと、愛おしさが生まれた。こんな自分を、こんなにも長い時間待っていてくれた。そして酷いことをされた自覚があるだろうに、それでも自分を今でも好きだと言う。愛しくて愛しくて、何だか可哀想ですらあった。自分を待っていることなどなく、さっさと幸せを掴むことだって容易だっただろうに。
「不思議ですね」
「何が」
 真剣な話をしているのに、と言わんばかりに、彼は笑っている天蓬を窘めるように顔を顰めた。そんな彼の眉間の皺に手を伸ばして、指でぐいぐいと押しながら笑った。豊かな表情はあの頃からちっとも変わっていない。
「嫌だとか、そういう風に思わないんです」
「本気にするぞ」
「構いませんよ」
 途端に情熱的過ぎるほどの口付けを受けて、更に頭がくらくらしてくるのだった。悪戯に彼の背に腕を回して、シャツの上から軽く爪を立ててやる。キスをしながら目を見開いた彼は、すぐに面白がるような顔に変わった。そして更に乗り上がるように、天蓬の背中をソファに押し倒した。柔らかいそれに押し付けられながら、ゆっくりと目を瞑る。その熱を更に強く感じるために。



++++



「きれいですねぇ」
 天蓬の呑気な声に思わず肩から力が抜けた。次々に車を降りた子供たちも同じような声を漏らす。
「すげぇ! 桜も食えればいいのにな!」
「んー、ジャムくらいにならなるかもしれませんねぇ」
 悟空の、相変わらず食べることしか考えていない発言にも八戒が丁寧に答えている。天蓬はその後ろで大きく伸びをしていた。
「何で三蔵がいんの。俺今まで気付かなかったんだけど」
「八戒君が呼んだそうですけど」
 運転手は自分だったはずなのにいつの間に、と気付かぬ間に増えていた乗客に捲簾は首を捻る。対して天蓬は然程気に掛けてもいない様子だ。そして却って楽しそうに少し離れたところで会話を交わす二人を眺めている。
「ラブラブなのは結構ですけど、ばれたら三蔵先生も八戒君も相当やばいですよね」
「お前、気付いてたの」
「見れば何となくね」
 悟空と悟浄が兄弟のように、そして三蔵と八戒が仲良さげに連れ立って桜の方へ向かって歩いていく後ろ姿を見て、捲簾も(まあいいか)と溜息を吐くのだった。



「天蓬、土曜暇か」
「え? ……ええ、多分。何か」
「じゃあ空けておけ。朝、家に迎えに行く」
 日曜日に悟空たちと行く花見を控えた週末、捲簾はそう言って前日の土曜に予定を入れた。天蓬は行き先を告げられることもなくバイクの後ろに乗せられ、どこかへ連れて行かれた。ヘルメットを取ると、さわさわと草木が揺れる音がして、少しだけ土の匂いがした。
「覚えてるか、ここにお前の住んでたアパートがあったんだ。更地になって二年くらいか?」
 ヘルメットを取りながらそう言う彼の横顔を見て、もう一度、何もなくなっているただの更地を見つめる。平らに整地されたそのだだっ広い土地を見つめた。ああ、確かにこんな場所だった。前には小さな庭があって、花壇があって。
「無くなっちゃったんですね」
 住んでいた時点でそう新しいアパートではなかった。こうなってもおかしくない状態ではあったのだから、仕方ない。仕方ないと言いつつ、隠し切れない淋しさを滲ませる天蓬に、捲簾は少し困ったように笑った。
「……ほら、こっからちょっと歩くぞ」
 そう言って天蓬の肩を叩いた。歩けば、何だか十年の歳月などほんの僅かな気分になってくる。歩く道も、小学校も中学校も何も変わっていないのだ。ボロ校舎で有名だった小学校なんかは、改装されていてもおかしくないくらいなのに今でもあの頃と同じ、ボロ校舎だった。しかしこの歳になってから見てみると、少し古い校舎も味があるように思えてくるから不思議だ。
「それで、どこへ行くんですか」
 何だか楽しい気分になってきて、彼の横顔にそう訊ねる。悪戯っぽい顔をしていた彼は、視線だけを天蓬に向けて、「内緒」と言った。
「歩いてれば思い出す。思い出さなかったら最低だな」
 そう言われると否が応でも思い出さなければならない気分になって、天蓬は首を傾げた。彼の足は、小学校を抜けて段々と草むらへと向かっていく。当時は危ないから入るなと教師から念押しされていた場所だ。自分と捲簾が守った例などなかったのだが。昔から二人で危ないところへ入っていって、泥だらけになって帰っては捲簾の母親に叱られた。この草むらもだ。さくさくと草を踏み分け進む。あの頃は向こう側も見えなくて、奥は未知の世界に思えたのに、これだけ背が伸びると奥まで見通せてしまう。奥には何か素敵なものあるという期待感が、更にこの草むらを深く見せていたのだ。それは幼く素直な心を持っている期間でなければ味わえないものだった。
「思い出して来ないか」
「そうですねぇ、この辺りで、この季節に楽しい場所と言えば」
 更に進んでいくと、少しずつ草むらが開けてくる。その奥には、真っ青な空。そこは崖だった。そして崖下にある公園には、一面に桜の木が植わっているのだ。だから、毎年この季節になると崖の下が一面桜色の柔らかい絨毯に覆われたように見える。二人しか知らない、穴場だった。嬉しそうに、少し誇らしげに笑う彼のを顔を見て、天蓬はくすりと笑った。彼は高所恐怖症で、いつも崖の近くには近寄れないくせにこの場所が好きだった。しゃがみ込んでそっと崖下を窺うと、あの頃から変わらずに咲き誇る桜の木が満開を迎えていた。
「もう整地されてなくなってると思ってました」
 そして、ここはあの日の約束の場所。二度と来ることの出来なかった場所。
「何か偶然にしちゃ、妙だと思うんだけど」
「何ですか」
「今日、十年前の約束の日と、同じ日なんだ」
 しゃがみ込んでいた天蓬はゆっくりと、真っ直ぐに立っている彼を見上げた。彼も自分を見下ろしている。彼の隣に、あの頃の少年が、明るく笑って立っているような気がした。ゆっくりと口元に笑みが浮かぶ。
(遅くなって、ごめんね)
 十年も待たせて、ごめんなさい。

 その場所からたっぷりと桜を眺めて、二人は元来た道を引き返した。捲簾の後ろを、天蓬が少し遅れてついてくる。彼も何か考えるところがあるのだろうと、捲簾は黙って振り返らずにいた。目指す場所はもう一箇所ある。
「捲簾、今度はどこに」
「ずっと後悔してたんだ」
「何を」
「あの河川敷でいつも通りに別れたこと。あのまま離さなければよかったって」
 最後に見た後ろ姿に記憶の中で縋り付いて、幾度も幾度も悔やんだ。自分に非がないことは分かっていた。だから尚更何を恨んでいいのか分からなかったのだ。あれから毎日ここを通っても、誰もいない。手を振る相手もいなければ、振り返してくれる相手もいない。いや、誰かがいたとしても自分は満足出来なかった。誰がいなくとも、彼がいれば。
 草むらを出て、小学校前を通り公園を通って、商店街の横を通って裏道を進む。天蓬は何も言わずに後ろをついてきた。その彼の足音が、ふと、止んだ。
「ここ」
「お前といつも別れてた場所だよ。分かるか」
 学校や道場へ通うために、いつもここを彼と一緒に防具袋を担いで歩いた。雨の日も風の日も、喧嘩別れをした日も仲直りした日も、いつもここを歩いた。サク、と足の下の雑草が音を立てた。川辺の少し冷たい風が頬を打つ。
「もう、どこにも行くなよ」
 彼を振り返ると、丁度彼の背後へと夕日が沈んでいく頃で、少しだけ眩しくて目を眇めた。逆光で、彼の顔が余りよく見えない。
「はい」
「約束だからな」
「でも、僕は約束守れない人ですから」
「おい」
「あなたが、どこにも行かせないでいてくれればいいんです」
 細めた目で彼を見る。よく見えなかったけれど、彼が僅かに微笑んでいるような気がした。
「手を、離さないでいてくれますか」
 天蓬がこちらに手を差し伸べる。記憶の中の彼が、あの頃と同じようにこちらに向かって手を振っているような気がした。



「あっちに出店が出てる!」
 悟空はそう言って早々に姿を消した。いつの間にか悟浄も消えている。残った大人三人、子供一人は各々笑ってそれを見送った。
「相変わらずですねぇ、悟空は……」
 ぷかり、と天蓬が煙草の煙を吐く。隣に立っていた八戒がそれを聴き、目を瞬かせた。
「天蓬先生、悟空の小さい頃ってどんな風でしたか?」
 そう訊ねられて天蓬は一瞬目を見開き、悪戯っぽく捲簾に一度視線を流してから内緒の話をするように唇に指を当てた。
「そうですねぇ、今と大して変わりませんね。サイズが小さかっただけで」
「今だって十分小せぇ」
「それはそうですが。あと……好奇心旺盛な子でしたね、ものすごく」
 そう言ってから天蓬は何か思い出したかのようにくすくす笑い出した。不思議がるように八戒が目を瞬かせる。
「悟空がうっかり拾ってきちゃった捨て犬を抱えて、三人で里親探しに町内を走り回ったこともありましたねぇ」
「ああ」
 そんなこともあった、と捲簾も苦笑する。
「厄介事を運んでくるところは変わってねぇな」
「三蔵先生!」
 数ミリたりとも他人のために表情を動かさない三蔵が、八戒に叱咤されて怯んだように顔を引き攣らせる。それに揃って噴き出してしまい、捲簾と天蓬は三蔵の冷たい視線に晒されることになる。しかしそんなものでどうにかなるような二人ではない。
「やですねぇ……折角の満開の桜の下で痴話喧嘩なんて。聞かされる方も堪ったものではありません」
「じゃあ聞くな、どっか行ってろ」
「もう! いい加減にして下さい!」
 適当に天蓬へ手を振った三蔵に、更に八戒が怒り出す。仲の良さゆえなのだと分かっていてもおかしなものだ。捲簾は天蓬の腕を突付き、少し離れた桜の並木道を指差してからゆっくりと歩き出した。少し遅れて天蓬もそれを追った。
「あれはあれで仲が良いんだろ」
「ええ、それは大変よろしいんですが。あれでよく他の教員にばれてませんね」
「ばれかけたとして、誰があの鉄面皮と狸に真相を確かめるんだよ」
「まあそうですね」
 鉄面皮と狸、もとい三蔵と八戒。気付きかけたとして誰一人本当のところを訊ねることなど出来ないはずだ。並んで並木道を歩いていると、一層強い風が吹いて天蓬の髪の先を揺らして去っていく。桜の花弁が一斉に舞って、肩に髪にひたひたと纏わりついてくる。ほろってもまたすぐつくだろう、と二人ともそのままにしていた。
「“花散らし”ですね。まだ早いのに」
「まあ、でも」
「“散り際も好きだけど”、でしょう」
 目を瞠る捲簾に、天蓬がおかしそうに笑う。暫くそれを呆然と見ていた捲簾は、苦笑しながら肩を竦めた。
「やっぱり、何も変わってねぇなぁ」
「あなたもね」
「そうだな。……好い桜だ」
 空を仰ぐ。真っ白い雲の浮かんだ真っ青な空に、淡い桜色の破片が散っている。
「もうかなり、まともにお花見なんてしてなかったです。思い出しそうで嫌だったから。桜すら嫌いになりそうだった」
「酷い奴」
「そうですね。だけど今は、素直に綺麗だと思えます」
 そう言って桜の木を仰ぎ、彼は綺麗に微笑んだ。桜の花弁のくっついた髪が風に靡き、花弁だけを攫っていく。
「隣に俺がいるからだろ?」
「自意識過剰なところも、変わってないですね」
 十年振りに桜の下で笑い合う。一人過ごした桜の日は終わった。
「だけど、“当たり”ですよ」

 十年前の約束は果たされた。これからは新しい約束だけを積み重ねていける。
 長かった冬が終わった。



++++



『天蓬? おはよう、そっちは朝だね。朝食を抜かないように』
 耳に届く深い声に、天蓬は口元に笑みを浮かべて受話器を肩と顔に挟んだ。そして焼きあがったトーストとバターナイフを持ち上げる。香ばしい匂いが部屋中に漂った。
「ええ、おはようございます。きちんと食べてますよ」
 バターを塗り終えて電話を右手に持ち替えて、天蓬はトーストに噛り付いた。相変わらずの父の様子に笑う。そういう彼こそきちんと食事を摂っているのか心配だ。何かに熱中してしまうとそのことばかりが頭に満ちて食事を忘れる人だから。そんなところもそっくりだ、と父の友人に笑われたことがあったのを思い出して苦笑する。
『ああ、昨日は電話番号をありがとう。あの後捲簾君のお母さんに連絡をした』
「怒られたでしょう」
『お前もか。何でうちを頼らなかったのかと小一時間説教されそうになった。相変わらずお元気そうで何よりだ』
「国際電話で小一時間とは、辛いですね。元気そうですよ、今でもあの定食屋さん、繁盛しているみたいですから」
 くすくすと笑うと、少し遅れて電話の奥から低い笑い声がした。そして「そういえば」と切り出される。
『捲簾君は体育教師だそうじゃないか。余りにもらしくて笑ってしまった』
「僕もです。あれで数学とかだったら逆に笑えるんですが……」
『腕白だから捲簾君は可愛いんじゃないか。尤も、もう腕白という歳ではないかな』
 父の中の捲簾は中一の頃から変わっていないらしい。もし今対面したらあの可愛くなさすぎるサイズにびっくりするだろう。
「とても可愛いとも言えませんよ。サイズ的にもね。きっと父さんよりも大きいですよ」
『彼のお父さんを見ていれば、さぞかし大きくなったんだろうと思うよ。……あ……すまない、呼び出しが来たようだ』
 電話の奥から微かに呼び声が聞こえた。彼が忙しいのは承知の上なので、天蓬も頷く。
「構いませんよ、僕もそろそろ。じゃあ、明日は僕から電話します」
『待ってるよ、行ってらっしゃい』
「ええ、行って来ます」
 そう言って電話を切る。少しの間じっと受話器を見ていた天蓬は、その後ゆっくりとそれを置いた。そしてにっこり微笑んで振り返った。背後には首からタオルを提げた捲簾が、きまり悪そうに立ち尽くしている。垂れた前髪からぽたぽたと水滴が落ちている。
「盗み聴きとはいい根性をしてますね」
「や、隣の部屋で話してたら普通聞こえるって! にしても……毎日してんの、それ」
「そうですよ、毎日交互に……ファザコンとでも言いたげですね」
 そうは言ってないけど、と返す言葉が尻すぼみになって、迫力のある微笑みを向けられる。何だか、父子のくせにやっていることが恋人同士のようで微妙な気分になるのだ。電話をしている最中の彼は自分には向けられることがないほどに穏やかで優しい顔をしていた。簡単に言えばそれが面白くないだけだ。
「やきもちですか、しかも親に」
 急に近くにいた彼に、思わず後退りそうになる。しかしそれを堪えて口をへの字に結んだ。
「んなわけあるか、ボケ」
「そうですか、つまんないですね」
 そう言うと彼は興味を削がれたようにトーストを咥えたまま冷蔵庫を開けて牛乳を取り出している。それを見ながら捲簾はパンをトースターに突っ込んで、淹れてあったコーヒーをカップに移して口をつける。
「今日実は悟空のクラスの授業、初めてなんですよ」
「ああ2Cか……うるせぇけど、叱れば言うこと聞くから」
「僕結構ビシバシいきますよ」
 そいつは怖そうだ、と捲簾は笑う。牛乳を持って戻ってきた彼は、ダイニングテーブルの向かい側に腰掛ける。
「早速モテモテらしいじゃん、お前」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。白衣に眼鏡、便所ゲタのルックスなのにな」
「そんな僕が好きなあなたも相当物好きな」
「俺はいいの」
 小さい音がしてパンが焼きあがったことを知らせる。腕を伸ばしてそのトーストを取り、バターナイフを滑らせる。
「何で一緒に来てるんだって訊かれたら、どうしましょうね」
「俺は早速訊かれたけどな」
「じゃあ、何て」
「深ぁいわけがあるんだよって」
「……あなたね。何でそう事態をややこしくするようなことを……ああもういいや、あなたに何を言っても無駄ですね」
 ぐぐっと牛乳を飲み干し、天蓬は席を立った。そして不意に壁を見上げる。
「捲簾」
「あん」
「職員会議、七時半開始」
 片言のような彼の言葉が、段々と頭に染み込んでくる。バッと振り返って時計を見れば、もうすぐ七時十分といったところ。
「……やべぇ! さっさと着替えろ!」
 教務主任の能面のような顔を思い出してぞっとした。
「何でこの歳になってまで先生に叱られなきゃならないんだか……」
 のろのろとネクタイを締めている天蓬の後ろで、着替えながら彼を急かす。
「いいから! どうにもこうにも……あーやだあの先公嫌いなんだよ!」
「あはは、その歳になってもまだそれですか」
「いいから! 出るぞ!」
 どたばたと天蓬の部屋を後にする。飲み残されたコーヒーだけがゆるゆると湯気を立てていた。











二人の地元は少々田舎イメージで。
BGM*スピッツ 「正夢」|柴咲コウ 「Sweet Mom」         2006/08/29