――――――願わくは 花の下にて、

「悟浄、今日の午後暇ですか?」
「あ?」
「一緒にお花見、行きません?」
 突然の言葉にしぱしぱと目を瞬かせる悟浄に、彼はうきうきとしているのを隠そうともせずにそう続けた。選択肢はひとつしかないのだ、いつものことである。それは悟浄の都合を尋ねる言葉ではなく、行くということを確認するだけの言葉だった。この同居人の手に掛かれば、悟浄の手中に拒否権など存在しないのである。
「悟空と、来られたら三蔵も一緒なんです」
「……へいへい、分かった分かった」
 にこにこと嬉しそうに言うのは、今年一番の桜見だからか、それとも、彼の人との久しぶりの逢瀬だからか。そんな日常にも慣れていた悟浄は、最高の笑顔を見せる同居人に苦笑して、伸びをした。今日はどうして過ごそうかと考えていた矢先のことだったので、必死になってキャンセルすることもせずに悟浄は頷いた。
「僕これからお弁当作りますから……」
「ビニールシートでも出しておけって言うんだろ?」
「あ、流石」
 ご名答、と言わんばかりにぱちぱちと手を叩いた八戒に、悟浄は軽く肩を竦めた。もう数年の付き合いなのだからそのぐらいは分かる。いや、と言うより分かるようになってしまったと言うべきか。有り体に言えば、ツーといえばカーの仲なのである。但しそれは、ある一線だけは決して越えることのないものであったが。
「はいはい、分かりました」
「お願いしますね、悟浄の好きなものもちゃんと沢山入れておきますから」
 そんな風に笑って言うから、悟浄は無意識の内に彼を『母親のようだ』と思ってしまうのだった。一般的な『母親』のことなんて少しも分からないくせに。朝になれば部屋中掃除機をかけて回り、それでも起きようとしなければ最高の微笑で被っている布団を剥ぎ取りに掛かり。服を脱ぎ散らかしてもぶつぶつ文句を言うだけなのに、空き缶を灰皿代わりにすることだけは許してくれなかったり。そんな鬱陶しくて仕方のないような存在こそが、ずっとずっと小さな悟浄が望み続けた母親の存在だった。
 実際『帰る家』というものを持たなかった悟浄にとってここが本当の意味の家になったのは彼が居ついて少し後、あの騒動の後だったし、自分にとっての『家庭の味』と言われればもう八戒の料理の味しか思い当たらなかった。
 自分を振った、二人目の美人。
 台所へ入っていく後ろ姿を見ながら、悟浄は咥えていた煙草を灰皿に押し付けてゆっくりと立ち上がった。時折外で食事をする時に使うシートは外の物置に置いてあったはずだ。吸いさしを灰皿に捨てて、ドアを開けて外に出た。ぐるりと家の脇に回ると小さな物置が立っている。森の中に立っているこの家は、土地だけは豊かだった。それに他の民家は結構離れているために騒音などありはしない。夜だって聞こえるものといえば虫の声か鳥の声のようなものだ。
 少し錆び付いた物置の戸を開けて、中にある畳まれた空色のシートを取り出す。そして再び戸を閉めようとしていると、頭の上から小さく高い鳥の声がしたのに気付く。戸を閉めながら上を仰ぐと、家に掛かるように枝を広げた大木からの木漏れ日が優しく降り注いでいた。よく目を凝らして見れば、枝の先の方に小さな白い小鳥が止まっている。他の鳥は見当たらない。一羽だけでそれでも美しい歌声を森の中に響かせている。自由を誇って、綺麗な声で啼いて。淋しくはないのだろう。それでも、いつか寂しくなる時が来る。その赤い目を細めて、悟浄は美しい啼き声を響かせる小鳥を見上げた。
(――――お前に帰る家は、あるか?)

 三蔵と悟空とは花見をする公園での待ち合わせらしかった。その場所は二人の家のある町で一番大きな公園で、桜の大木がこの時期一斉に咲き誇ることで有名な場所だ。その木々が囲むようにしている大きな池に、散った花弁が桜色の絨毯のように一面に浮かぶのが圧巻だったりするのである。もと夜型人間の悟浄がそんなことを知ったのも、ここ数年の身辺の変化のお陰だった。以前の夜型、賭博中心の生活では興味も持たなかったことだ。
 午前中からせっせと作っていた弁当箱……というか重箱を抱えた八戒と、酒瓶やら缶ビールの入った袋を持たされた悟浄はゆっくりと公園へと足を運んでいた。公園に着く前辺りから八戒は少しずつそわそわし始めた。桜色に満ち始めた街路に、あの金色の想い人を探しているのだ。悟浄はその相手を好ましく思っているわけではないけれど、そんな風な浮き立つような笑顔で、大好きな人が嬉しそうにしているのは純粋に嬉しかった。本当に美しい笑顔を見せる同居人、いや、今は只の同居人なんていう関係ではないのかもしれないけれど。
 桜並木は満開だ。その桜色の中で微笑む大切な存在が、嬉しそうにしているのが嬉しかった。思わず口元に浮かぶ笑みを堪え切れないまま、悟浄は空を仰いだ。青い空に白い雲が細くたなびいていて、そこに桜の花弁がふわりふわりと舞う。
 天気は快晴、気分は上々、隣の美人は上機嫌。何も文句はないはずなのに。
(……何か足んねぇ)
 何も、足りないものなどないはずなのに。

 広い公園に入っていくとやはりシーズンということもあって花見客で溢れかえっていた。待ち合わせは公園の入り口だったので、八戒はそこでまだ来ない二人を待ち、悟浄は場所取りのため先に中に入ることにした。周りを見渡せば楽しそうな家族連れ、若者たちやカップルたちがみんな楽しそうに各々食事を摂ったり遊んだりしている。しかし揃って誰一人、花を愛でている人がいないのに悟浄は苦笑した。花見だなんて只のドンチャン騒ぎのための口実なのだ。そのために暴れた酔っ払いに傷つけられたり根元を踏み固められたりしてしまう桜は可哀想かも知れない。そんな人込みを横目に見ながら、悟浄はシートが引けるような場所を探した。珍しくナンパなどをする気にもならなかった。
 ゆっくりと奥へ歩いて行くと、段々と人が減っていく。なのにもかかわらず、その奥には一際綺麗に咲いた大きな桜の木が見えた。
(……何であんなに綺麗なのに……)
 悟浄はそのまま、その木の下へと足を運んだ。こんな穴場があれば誰かが陣取っていてもおかしくないのに、木の下どころか周りにも人はいなかった。手に持っていた缶ビールや一升瓶が重かったけれどそんなことも気にならなかった。
 その桜の木は見事だった。
(願わくは、花の下にて……ってか)
 今ならその言葉の意味も分かる。死ぬ時、こんな満開の桜の下ならばきっと本望だろう。
 悟浄はその木の幹に手を付いて、その根元に手にしていた酒の瓶を下ろした。
「美人だな」
 そう、囁くように言うと、それに感応するようにその枝振りの良さそうな桜は、風もないのにさわりと揺れた。それを見上げて、ポケットから煙草を取り出し、片手で風を遮るようにして火をつけた。紫煙が細く伸びていく。

(……ねぇ、――――……?)

「あ……?」
 咥え煙草で足元を見下ろしていた悟浄は、花がさわりと揺れる音に混じって、微かな声が聞こえた気がした。本当に小さなもので、何と言っていたかも聞き取れなかったのにその声は耳から消えることがなかった。風が耳元を撫でるようなさらりとした声。何かに問いかけるようなその声。それは悟浄に向けてのものだっただろうか? それとも花の精の仕業だろうか。頭が少しぼんやりとした。桜は人を魅入る力があるという。もう既にどこか囚われかかっているのかもしれない。それでもいいかな、と悟浄はふわふわした思考のまま桜の木を見上げた。そして、次の瞬間何か思いついたように、幹を確かめるように何度か叩く。そして手をかけて木の上へと昇ってみることにした。
 その大木は、悟浄の体重にもぴくりともしなかった。それどころか幹を背に太めの枝に座ってみると、そこがまるで自分のために誂えられたのかと思うほどに馴染む。
(……何なんだろうな、この木は)
 もしかすると、ずっと昔からご縁があったりして? と心の中で思うと、さわさわと揺れる花弁が風で流されていった。その位置からは桜の花弁に囲まれて殆ど周りが見えない。世界が薄紅色に染まったようだ。下を見下ろせば芝の緑色があるのだけれど、今の悟浄にはその色しか目に入らなかった。
(あれ……?)
 これは違和感なのか、既視感なのか。目の前の光景と何かがオーバーラップして頭の芯がユラリと揺れた。煙草による酩酊感とは違うふわふわした感覚が頭を襲う。

(……、――――……)

 薄紅色しかない世界で誰かが微笑む。そしてその風が耳元を撫でるような優しい声で誰かを呼ぶ。白濁した空間に少し紅を滲ませたような視界に、白い後ろ姿が浮かんだ気がした。
 俺の名前じゃない?
 その穏やかな声が自分ではない誰かの名前を嬉しそうに呼ぶのが憎らしくて一瞬顔を顰めた。
(……憎らしいって?)
 どうせよくも聞き取れない微かな声なのに、その声が自分以外に向かうものだというのが悔しい気がする。ゆらゆらと紫煙を揺らす煙草を指にとって、逆の手で桜の幹に触れる。あの声の主は誰を呼んだ?桜の精の声とでも言うのだろうか。馬鹿な。ここ最近になって持ち歩き始めた携帯灰皿に吸いさしを突っ込んでポケットにしまう。そうしてみると、桜にも花の香りというものがしっかりあるのだと分かる。
 さわさわと揺れる度に少しずつ花弁が散ってゆく。しかし不思議とそれが勿体ないとは思わないのは何故だろう。散っているその瞬間さえ、桜の盛りだと思えるからだろうか。咲いて、散るまで、そして葉を繁らせて、散らせて、また花を咲かせるまでが桜。
(一年中だよな。それって)
 何で持って昇ってきてしまったのだろうと思っていた酒瓶を抱え直す。ふと思いついて、悟浄はその栓を抜いた。そして八戒が用意していた猪口を引っ張り出し、落とさないようにしながら慎重に酒を少しだけ注いだ。ふわりと酒の甘いような香りが鼻を撫でる。膝で瓶を挟むようにして支えながら、猪口を口に近づけて傾けた。
 瞬間、桜の風が吹いた。視界が薄紅色に染まる。


『……やっぱりまたここでしたか』
『あれ、ばれたか』
『ちょっとヒネリが足りませんね。67点』
『あーあ、お前ってホント俺探すの得意な。まあ俺もそれを見越して隠れてるんだけどよ。見つけられなかったら淋しいし』
『お褒め戴き光栄ですね、御大将』
『うーんやっぱり愛の力かね? らぶぱわー?』
『下手に横文字を使うと可哀想な人みたいですよ。桜を蹴って落とすのは忍びないのでとっとと殴られに降りて来なさい』
『……へーい。つめてーの』
『さっさと来ないと便所ゲタで撃ち落としますよ』
『……どんな武器だよそりゃ』
『カウントいきますよー』
『わー待て待て待て! 今行くっつの!』
『早くして下さいよ。……もうあなたを探してて疲れちゃいました。ねぇ、――――』

「……悟浄!」
 そう声をかけられた瞬間、情けなくも全身が固まってしまった。思わず瓶を取り落としそうになりながらもバッと下を見下ろす。
 見下ろしたそこにいたのは、緑の目をした同居人、八戒だった。にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべて木の上の悟浄を見上げている。その濃い茶色の髪に、ひらりひらりと桜の破片が舞い降りる。
 ―――――違う。彼では、ない。
「あ、やっぱりここですか。もう、場所取りは目立つ場所にいて下さいよ」
「あ……悪ィ」
 謝罪をしつつも、心臓がドクンドクンと大きく脈打つのを鎮められない。右手で胸を押さえると布越しだというのにその手にすら脈動が感じられるようだった。その間にも、八戒はきょろきょろと辺りを見渡している。
「それにしても、綺麗なところですね……この辺り。誰もいないんですか?」
「……あ、ここ駄目だわ。毛虫とかいっぱいいるし。サンゾー様が大騒ぎすんだろ?」
「え?そうなんですか……残念ですね」
 虫嫌いの恋人を思うと、折角の綺麗な桜の木の下も諦めるしかないと踏んだ八戒は苦笑したようだった。
「さっき、ここに来る途中に綺麗な桜の下が空いてたんです。そこに今悟空と三蔵がいるんですけど……そっちにしましょうか?」
「あ、うん……」
「じゃあ僕、先に行ってますね。ここより少し引き返したところです、すぐに分かると思いますから……」
 そんな風に言う彼の言葉を、目を瞑って聴いてみる。先程聞いたそれに、似ているようで全く違う。悟浄は返事をしなかった。しかし八戒は特に何かを問うこともなく、逡巡したのちゆっくりと歩いていく。さくさくと芝を踏む音が遠ざかっていった。そして、最後には風の音しかしなくなった。自分の名前を呼んだのが八戒だということに落胆し、そしてそんな自分に驚いた。一体何故、何に落胆するというのか。何が残念なのだろう。何を期待していたのだろう?あの時名前を呼ばれて、下を見下ろした時に一体誰がいれば自分は満足したのだろう。
 虫がいるなんて嘘だ。きっと八戒も気付いていただろう。けど何も訊かずにいてくれた親友。誰もこの木に近づけたくなかった。彼等がここに来てしまったら、その強さであの微かな声が消え去ってしまいそうで怖かったから。
(あんたは、誰なんだ)
 声が聞こえる。それは、この木から発せられているわけではないことに漸く気付き始めた。これは自分の中から聞こえているのだ。記憶のずっとずっと奥深くから。


『生まれ変わった僕が、あなたの生まれ変わりを必ずしも好きになるとは限らないんですよね』
『逆もまた然りだろ』
『……ええ』
『別に俺は、構わねぇけどな』
『どうしてですか』
『生まれ変わった俺は、俺じゃないし、生まれ変わったお前もお前じゃないからな』
『……』
『生まれ変わったお前にはお前じゃないそいつ自身の気持ちがある。それで他の誰かを好きになるなら仕方ない。逆もそうだ』
『……そう、ですね』
『でも俺は、今ここにいるお前が今ここにいる俺を好きでいるなら、それでいい。生まれ変わりなんていらねえ』
『……――――プッ』
『……〜〜〜ちっと黙れよ、お前な、折角俺がだなぁ』
『黙らせてみたらどうですか』
『お、随分と露骨に誘うじゃん』
『ニヤケながら言わないで下さいよ。……ちょっと、機嫌が良いので』


 少し猪口に残っていた酒に、ふわりと風で舞っていた桜の花弁が舞い降りる。それを見つめながら、悟浄はそれを口に運んだ。飲み干してもう一度見てみると、猪口の中には花弁が張り付いたままになっている。ふとした瞬間にその人がふと頭の片隅を掠めるのに、実体が全く見えてこない。思い出せそうで思い出せないもどかしさ、というのはきっとこういう時に使うのだろう、と空になった猪口の中の桜の花弁を見つめながら思った。


+++


「……どうした、八戒」
「―――――あ……いえ」
 どうやら何かあったらしい悟浄を特に追及することもなく暫くそっとしておこう、と一人にして、三蔵と悟空の待つ桜の下でシートを引いていた八戒は、急に三蔵に声をかけられて肩を揺らした。どうやらぼんやりと桜の木を見上げていたらしい。訝しげな目を向ける彼に繕い笑いを浮かべながらも、八戒はもう一度桜を見上げた。ひらひら舞い散る桜が視界を過ぎる度、ズキンズキン、と脈動に合わせて指先が痛む。
「……何だろう」
「何がだ?」
「……何か、昔、……あれ? 何だろう……」
 首を傾げながら歯切れの悪い返事を繰り返す八戒に、三蔵はよく分からない顔をする。そして少し考えた後、面白くなさそうな顔をして鼻から息を吐いた。
「……花喃とのことでも思い出したんだろ」
「え? ……あ、それ……そう、です。あはは」
 そんな風に笑っておいて、視界を過ぎる桜の花弁を目で追う。そんなことはない。彼女と過ごした短い日々のことはどんな細かいことだって覚えている。忘れない。……だけど、花喃と一緒に桜を見たことなんて、一度もなかったのだ。
 それはとても、甘美な記憶のような気がする。だけど、何のことだかよく分からない。まるで記憶に扉がつけられ、頑丈な鍵が取り付けられているような心地がした。思い出すべきなのかどうかも、分からない。ぼうっと考えていると、後ろからトン、と小突かれて、我に返った八戒は焦って振り返った。するとその途端にぎゅうっと背後の男に抱き寄せられて、ああ悟空がいるのに、あ、それどころかお花見客の皆さんが、などと考えつつもその腕の中に大人しく抱き込まれた。
「俺以外見てんな」
「……今日は桜を見に来たんじゃないですか?」
 そう意地悪く返してみると、三蔵は逆ににやりと笑った。
「じゃあ、帰るか」
「は? ええ?」
「猿は飯が食えればどこでもいいだろうしな」
「え、あ、ちょっと待って下さい……もう、あなた以外見たりしませんから……」
 そう降参するように告げると、彼は満足したように軽く八戒の額に唇を寄せた。……その瞬間、その辺一帯の桜の木が一斉に風で揺れて桜の花弁を撒き散らした。風に思わず目を瞑っていた八戒は目をそろりと開いて、目の前の彼が桜まみれで風で髪も乱れて酷い状態なのを見て思わず笑ってしまった。憮然とした顔をした三蔵は、八戒が丁寧に髪を梳いてくれるのに心を鎮めつつも忌々しげに桜の木を見上げた。
「……何の恨みがあるんだ、俺に」
「え? 何か言いました?」
「……いや」
 そんな三蔵を笑うように、もう一度桜の風が鳴いた。


+++


 悟浄はまだ、桜の上から動けずにいた。猪口は風で乾き始め、張り付いていた桜の花弁も剥がれ掛けている。それを指先で転がしながら、ふうと息を吐いた。何となく踏ん切りが付かず、あれからずっとこうして黙りこくっていた。
(そろそろいかなきゃ、心配させるかね)
 気付かぬ振りをしてくれたのであろう同居人を思い浮かべると、先程まで考えていたことが頭からさらりと抜けていくような感覚に襲われた。何故かそれが怖かった。もしかしたら、この木を降りたら、その時にはもう、自分はさっきの声を忘れてしまうのではないかと。
 忘れたって構わないはずだ。だけど忘れるのが怖い。


 『どれもこれも―――忘れたく、ない。』
 『ねえ。ずっと忘れないって、約束して下さいね』


(何なんだか……ったく)
 頭を過ぎる台詞はどこからきたものなのか。ひょっとしたら、八戒が読んでいた本を少し拝借して読んだ時のベタな台詞かもしれない。どこかで見たドラマか映画、漫画。その割にその声はとてもとてもリアルで。こんなにもリアルな演技が出来るのなら相当に有名な俳優だろう。だが、悟浄は特にそれらを見るたちでもなければ、何かを見ても覚えているということはそうない。ぼんやりと手元を見つめながら考えていた悟浄は、手の中の猪口から、乾いた花弁が剥がれてふわりと風に乗って飛んでいくのを目で追った。
 ぷつり、と思考の糸が途切れた気がした。

「……・あーヤダ。とっとと降りちまうぞこんな桜」
 深く思考に沈み込むのは嫌いじゃない。しかし、何だか怖かった。忘れるのも怖いけれど、全てを知ってしまうのも怖い。さっさと桜を降りた悟浄は、抱えていた酒瓶と下に置いたままだったビールのパックを持ち、再びその桜を見上げた。周りより一際大きなその大木を見つめていると、魅入られてしまいそうだった。下で踏みしめられた芝が音を立てる。暫く木を見上げていた悟浄は、ふいにその木に背を向けた。しかし何となく足が進まない。
(……何、迷ってんだよ。俺)
 何に、何で、迷っているのか。その時、一際大きな風が吹き、その大木の枝を一斉に揺らした。桜の花弁が散ってゆく。それは足踏みする自分を叱咤するようで。背中を押す桜の風を感じて、ゆっくりと目を瞑る。今ならあの声の主の顔が、少しでも思い出せそうな気がした。
 青空の下、桜の木の上で、いつか見たその美しい笑顔。瞼に蘇る白い後ろ姿が、ゆっくりと振り返ろうとする。……その顔が、窺えそうになった瞬間、悟浄は目を開いた。
 風は止まない。その中、悟浄はそのまま駆け出した。走りながら考えた。ほら、忘れてない。木から離れたって、あの木がなくなったとしたって忘れない。覚えていて、とどこか怯えたように囁いた声の主へ、心の中から返事をした。強く目を瞑る。
(忘れてねぇよ、)

 ずっと、きっとずっとこれからも。


(『ずっとずっと、愛してる。』)












八戒さん絡ませずに純粋に悟浄→天蓬。開いてみればけんてんと無駄にいちゃこく38でした。前世と言っても、別人格ですから。
“アイロニカル・ワンダーランド”の伏線を少しだけ引いています。
BGMは定番でケツメイシの「さくら」。エンドレスでかけてました。……うちの方ではまだ桜咲いてるからいいんですよ。      2006/5/10