『ねえ。ずっと忘れないって、約束して下さいね』
アイロニカル・ワンダーランド
ね、と彼は、少しだけ遊ぶような響きで言い、答えを怖がるようにそっと目を伏せた。白い瞼が夜の闇の中に薄らと青白く見える。
そんな秘めやかな響きを以って囁かれた言葉に、捲簾は迷うことなく頷いた。
「約束する」
「そんなに簡単に約束していいんですか」
「出来ない約束はしない」
こんな強烈な存在を忘れられるものか。
「こうして並んでいられるのも、今晩限りかもしれませんね」
「だろうな」
そうかもな、と言いかけて、止めた。もう終幕を迎えるまでの脚本は出来上がっていて、それを捲簾も天蓬も今痛い程に分かっていた。“かも知れない”ではない。確実にもうすぐ、自分たちは命を落とすことになるのである。
終わりは近い。だから、僅かな時間でも、ほんの少しでも離れていたくなかった。
一センチも離れていたくなくて、彼の細い腰に腕を伸ばして引き寄せ、ぴたりと自分の身体を寄せる。それに少しだけ彼はもの言いたげな視線を向けたものの、非難の声は聞こえなかった。
死んだのち、自分の骸がどう扱われようと構わない。死んでしまえばもうどうされても良かった。
だから、今だけは。
「朝が来たら、もう」
「言わなくて良い」
「本当は、下界に降りられるなんて思ってない」
「言わなくて良いから」
「出来っこないって、知ってるのに……」
その男が漏らす、初めての弱音に目を瞠る。だけどそれは紛れもない彼の本音だった。
ああ、どうしてあんたは最後の最後まで。
愁いを帯びた横顔から目が離せない。それは昔からだった。彼の、ふとした瞬間の表情に、知らぬ間に目を奪われていて。
これを、好きという感情で括っていいのかどうかさえ分からなかった。好きでは足りない。だからといって愛していると言えばどうしても陳腐で贋めいた色合いになってしまう。
「天界に生まれたこと、後悔してるか?」
「していた、というのが……正しいかもしれませんね」
「……」
「こんな贋の世界で、あなたに会って、本当に救われたんですよ」
そう言って、顔を上げないまま薄らと微笑む。
いとおしくて、どうしようも、ない。
じっと、窓から外を見つめる目は、瞠られたまま閉じられることはない。それは、目に限界まで満ちた水分を必死に逃がそうとしているのだと気付いてしまって。
俯いたままの横顔を、飽きること無く見つめ続ける。
「……泣くなよ」
そう捲簾が呟くと、はっと顔を上げた彼は、すぐに顔を逸らしていつもの口調で言った。
「こういう時くらい、見て見ぬ振りするのがいい男の条件じゃないですか」
「出来ない」
「どうして」
「今日みたいな日に見て見ぬ振りして、後悔したくない」
「……あなたらしいです」
その言葉に一瞬目を瞠り、その後そっと目を伏せて少しだけ天蓬は口元を緩めた。目元に光るものを見過ごすことは出来なくて、思わず手を伸ばして、眼鏡の脇から指でそれを拭った。彼はくすぐったそうに肩を竦める。
その仕草が好きだった。人が撫でるのをくすぐったがる猫のような小さな仕草だった。
もうすぐ命を絶たれるのを知って尚、気丈に鳴き続け目を光らせ続ける、手負いの猫だ。
死にたかないさ。そりゃそうだろう。
しかし、今の状態が“生きている”と言えるのか。
「好きだ」
「はい」
「本当に」
「うん」
「本気だぞ」
「知ってます、ずっと前から」
「……」
「ずうっと前から、知ってます」
自分が彼に焦がれたのはかなり前のことになる。この天界のこと、数百年では済まされない遥か昔。そしてその気持ちを自分で自覚するまでに数百年。彼に伝えるまでに数百年、そして今に至る。
もしかしたら本当に彼は、自分の想いに気付いていたのではないかと、錯覚する。
本当は、何もかも。自分が、その存在に気付くずっと前から。
「……ねえ、覚えていて下さいね」
「え?」
「何でもいいです、僕のこと」
「……」
いつもはこんなことを、言う男じゃない。感傷的な言葉など似合わない男。いつも凛と背筋を伸ばして現実的なことばかり言う男。それは全て、彼の仮面だったのだろうか。
「愛用の便所ゲタのことでも」
そう冗談混じりに言うと、意外にも彼は怒らずに小さくクスリと笑った。
「もう少しマトモなことで覚えていて欲しいですねぇ」
忘れられるはずがない。
重い煙草の匂いとか、歩くたびに鳴るカラコロというゲタの音。半端に長い艶やかな黒い髪。心地良い高さの甘めの声。笑うときに少しだけ伏せられる白い瞼と、それから流れる長い睫毛。
どれもこれも――――忘れたく、ない。
戦場で見る、いつもの穏やかさなど微塵も見られない強い瞳。刀を軽く振るう、細く強靭な両の腕。血に塗れても尚、美しかったあの青空の下で見た後ろ姿。そして――――
「……忘れねぇよ、」
「……」
「愛してたこと」
もしもお前の容姿を忘れても。声を思い出せなくなっても。抱いた身体の感触を思い出せなくなったとしても。
それでも、愛したことだけは、忘れない。――――忘れて、堪るか。
「生まれ変わっても、変わらない」
「……ばかじゃ」
「生まれ変わったお前が、別の奴を見てたとしても、愛してる」
「……ばかじゃないですか……」
そう言いつつも、ぼろりと零れる涙は今度こそ隠せなくて。白い頬を流れた雫が、はらはらと黒い軍服の生地に落ちる。自然に泣き笑いの恰好になった天蓬は、見られたくないと言うように顔を伏せた。その瞬間に、目尻に溜まっていた涙が、そのまま筋を作って頬を流れていく。
離れたくない。
「……馬鹿は、おまえだ……――――」
それ以上言葉を紡ぐ余裕がなくて、俯いたその頭を胸に抱き込む。馴染みの、彼の重い煙草の匂いが鼻先を掠めて、じわりと目頭が痛んだ。……きっと、煙草の匂いのせいだ。そうでなければ、理由がつかない。今、自分が泣く、理由なんて。
「……もし、生まれ変わった自分が、誰か別の人を愛しても」
「……」
「あなたといたことは、変わりませんから」
ぎゅう、と腕に力を込める。するりとその身体が腕からすり抜けていかないように。
最期の時は、もうすぐ。
原作の捲簾と天蓬の関係に涙が出そう。 2005/12/25
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