「本当にすみません、もっと早く気付ければ良かったのに……」
「う〜……だいじょうぶぅー」
「へー猿にも風邪なんてモンがあるんだなァ、猿の霍乱ってか?」
「悟浄、感心してないでお水取替えてきて下さい」
「へーい」
 四人のうち誰かが旅の途中寝込むのは珍しいことではない。何せこのハードスケジュールに加え、絶え間ない刺客の襲来、(一部)心労も日々溜め込んでいっているため、いつ身体を壊してもおかしくないのだ。だが今日は少し違う。たまに疲労で熱を出す八戒や、無茶をして怪我で倒れる三蔵や悟浄でもない。あの健康優良児として名高い悟空だった。最初食べ過ぎか何かだろうかと思っていた三人だったが、次の日になっても部屋から出てこない悟空を心配して部屋に入っていった八戒が慌てて部屋から出てきたことでそれが間違いだったと気付くことになる。
「……悟空はどうだ」
「ええ、今悟浄に面倒見てもらってます。その間に買い物……色々薬とかも買ってきたいんですけど、カードお借りしてもいいですか?」
「構わん」
 三蔵が懐からカードを出すと、八戒はそれを両手で受け取り頭を下げた。小さな仕草まで細かいやつだ。
「じゃあ、行って来ます。何かあったら三蔵も手伝ってあげてくださいね? 悟空の場合、暴れた時にどうなるか想像がつきませんから」
「お前、一人で行くのか」
「この状況で誰を連れて行けと。ああ、じゃあ三蔵悟浄と代わってあげて下さい、悟浄と一緒に行って来ますから」
 眩暈がしそうだ。
「そんなに悟浄と一緒がいいのか」
「は? ええ……そりゃあ悟浄は力持ちですし、一人で行くよりは早く済みますね」
 じゃあ何か。自分は奴よりも非力だと思われているということか。連れて行っても役に立つまいと。
 プライドをいたく傷つけられた三蔵は、八戒に渡したカードを引っ手繰る。
「ちょっ、え、何……」
「待ってろ、着替えてくる」
「は? あ、その」
 戸惑ったように言葉を詰まらせる八戒を無視して、三蔵はカードを持ったまま部屋の奥へと消えていった。



(何を考えてるんでしょう……三蔵は)
 着替えてくると言ったきり、カードを持ったままいなくなってしまった三蔵の後ろ姿を追っていた八戒の目は、それがドアによって遮られるとゆっくりと瞼を閉じた。
(ひょっとして、荷物持ちをしてくれるということでしょうか)
 いやでもおかしい。あの三蔵が自分からすすんで荷物持ちだなんて。三蔵はアレで悟空のことをかわいがっている(と思う)ので、悟空の面倒を見るのが億劫だからということではないだろう。第一悟空の看病より荷物持ちの方が明らかに面倒だ。風邪で苦しそうな悟空を見ていられないから、とか。……流石に有り得ないか。
 八戒はとりあえず、すぐに奥から出てくるであろう三蔵を待つために近くにあった椅子に腰掛ける。座ったまま小さな窓から外を見ると、外は澄み切って晴れた綺麗な青空だった。
(雨の心配はなさそうです……)
 何とか二人ともそういうことは減ったものの、お互い余り雨には良い印象がない。晴れている内にさっさと出掛けて帰ってこよう。悟空に薬と、食べられるような果物やお菓子、そして三蔵と悟浄の煙草、足りなくなった保存食の調達。そう考えているうちに、奥の扉からジーンズと白い洗いざらしのシャツに着替えた三蔵が顔を出した。腕に掛けた法衣から煙草とライターを出してジーンズのポケットに移している。それを見て八戒はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓辺で外を眺めているジープを呼び寄せた。

(ホントに行く気なんですねあの人……)
 少し信じられないものを見るような目で八戒が三蔵を不躾に眺めていると、三蔵はその不機嫌な顔を崩そうともせずに、
「行くぞ」
 と、一言だけ言って先にドアから出ていってしまう。八戒もまた、三蔵のそんな行為に思わず肩に乗ったジープと目を見合わせて首を傾げてしまった。



「何を買うんだ」
「えーと、まずは軽いものから……薬、ですか」
 ぶっきらぼうに訊ねてくる三蔵に苦笑しつつ、差し出されたカードを受け取る。無愛想ではあるが、一応荷物は持ってくれそうだ。
(だけど三蔵よりもしかして僕の方が力あったりして)
 そんな、口に出したら物凄い目で睨まれそうな事を思ったりする。殊の外ちょっと心が浮き立っているらしい。そんな自分に、八戒はゆるりと苦笑した。
(だって)
 少し前を歩く三蔵の、斜め後ろからの表情を盗み見て、八戒はそっと笑った。



 風邪薬を買って、その小さな紙袋はそのまま八戒が小脇に抱えた。次は八百屋に寄って林檎を四つ買う。すると八戒はその袋に先程の薬の袋を入れて一つにして抱きかかえるように持った。その次はこぢんまりとした和菓子屋。そこで饅頭の二十個入った箱を一つ買う。そして八戒は、店の主人にビニール袋を頼んで、紙袋を持っているのと逆の手にその饅頭の箱を持った。
(これは)
 甘やかされているとか優遇されているとかそういう問題ではなく、単に戦力にみなされていないのではないだろうか。自分に荷物がない事自体は好ましい。だが、隣を歩く男がどっさりと両腕に荷物を抱えていて、自分が持っているのがライター一個というのは一体どういう事か。擦れ違う町の人間に二人の関係がどう見えているのだろう。不遜な主人と我儘にも首を振らない下僕……。
「おい八戒」
「はい?」
 不思議そうにきょとり、と目を瞬かせた八戒から、林檎と薬の入った紙袋と饅頭の袋をひったくる。慌てたのは八戒だ。
「え、ええ?! さんぞ、どうかしちゃったんですか?」
「……いいからテメェはさっさと買うモン買え」
 ぶっきらぼうに言い放つと、八戒は目をぱちぱちさせた後、嬉しそうにふわりと微笑んで、「はい」と何処となく明るさを滲ませる声で返事をした。それが何となくくすぐったくて、抱えた荷物をもう一度抱えなおす。紙袋に入っていた鮮やかな赤の林檎が擦れ合ってキシ、と音を立てた。
「あと何かしか保存食を買ったら買い物は終わりですから……」
「ああ」
 八戒が抱えているとそれなりに重そうに見えた荷物だったが、よく考えれば重いのは林檎だけで饅頭も薬もそんなに重みのあるものではない。三蔵としてはそんなに気を遣われなくても構わなかった。三蔵は滅多に八戒の買い物に同行しない。よって彼の買い物をする姿を見るのも久しぶりだった。実に面白くない状態である。
 薬局の初老の女性も、片田舎の町では滅多に御目に掛かれないであろう、穏やかな面差しの綺麗な男に色めき立っていた。和菓子屋の看板娘も声を掛けられるまで、頬を赤くして八戒に見入っていた。八百屋の若い息子も、ほわりと微笑む八戒に生唾を呑んだのをこの目でしかと見た。おまけに桃を付けてくれたのだってそのお陰に決まっている。というか林檎のおまけに桃、だなんてどう考えても可笑しいのに八戒は何故気付かないのか。 きっと今までの町でも、自分が宿で悠長に新聞を読んでいる間にもいろんな人間が八戒をそういう意味の篭った視線で見ていたのだろう。
(これからはなるべく買い物に付き合うか……)
 そんな風に決意を新たにしている三蔵の横で、少し俯きがちの八戒の口元が幸せそうに上がっていた事に三蔵が気付かなかったのはかなり勿体無かったに違いない。

 保存食として缶詰やインスタントのものをどっさりと買いこんだので、今まで三蔵が持っていたものを八戒が持ち、重い缶詰やらを三蔵が持ち替える事になった。勿論八戒はこのままで良いと言ったのだが、三蔵が取り合わなかったのだった。表情は変わらないが満足そうな雰囲気を漂わせた三蔵に、八戒は戸惑いを隠せなかった。
(何事でしょう。雪でも降るんでしょうか)
 だとしたらこの服装じゃ寒いなぁなんてぼんやり考えながら、やはり自分より少しはや足な彼の後ろ姿を見る。不機嫌ではないようだ。ちろ、と斜め後ろから表情を窺って、ゆっくり息を吐く。胸に林檎の入った紙袋を押し付けると、一層強く胸が鳴った。そんな自分を抑える為に、彼に気付かれぬように静かに深呼吸をする。浮かれたりなんてしたら疎まれかねない。そうなる事だけは絶対に嫌だった。彼の分かりにくい優しさの元で傍に置いてもらっているようなものなのだから。その優しさだけで十分な頃もあったなぁ、なんて、そんな期間も僅かのものだったというのに。
 生きるように告げられてから、暫くの間、慶雲院で過ごした。雨が降る毎に生きる事を忘れ、放棄したかのように三大欲求を簡単に放り出す悟能を初めて見た彼は、初めて手を上げた。頬を強かに打たれた感覚を今でもリアルに思い起こすことが出来る。後にも先にも、彼に殴られたのは、それきりだ。それから、どれだけ仕事が忙しくても雨の夜には悟能の傍にいてくれた。決して甘やかすことはなかった。だけど、ひとたび自傷に走りそうになれば何も言わずに悟能の両腕を掴み、自由を奪い、完全に寝付くまで一晩中枕元にいてくれたこともあった。それだけでも十分甘やかされていることになるとも思うのだが。言葉一つでヒトの人生を良い方に曲げられるというのは、やはり彼の天性の何か。お坊さんらしくないなあなんて思った時もあったが、今考えると、彼を差し置いて誰が一体あの魔天経文を双肩に掛けられようか。
(すごい人、なんですよね。荷物持ちなんてさせていいんでしょうか)
 不意に申し訳なくなって、八戒は戸惑いながらもゆっくり口を開いた。
「あの……三蔵?」
「何だ」
「やっぱり僕が持ちましょうか……?」
「構わん、いいからさっさと買い物を終えろ」
「あ、はあ……」
 てっきりきつい口調で責められるのかと思えば、返って来たのは宿でリラックスしている時のような(彼にしては)穏やかな声で、思わず八戒は一瞬返す言葉を失ってしまう。
 この人は狡い、と思う。自分という存在がどれだけ周りを惹き付けるかという事が解っていない。いくら傍若無人な振る舞いをしたとしてもその威厳が失われる事はなかった。だからこそあの慶雲院の一切を一手に担う事が出来ていたのだ。自分のような穢れた存在が傍に居て良いような人ではない。寧ろ、穢れたものなど近寄ってしまっても光で総て焼き切ってしまうのではないかというくらいの強い光を持つ人だ。普通に近付いたら本当に消されかねないというのに、それなのに何故か彼は、自分が傍に居ることを許してしまっている。
 彼が光なら、自分や、彼にくっ付き回る僧たちは光に集る羽虫程度に過ぎない。
(それに……僕の場合害虫かも知れないんですよね、猛毒持ちの。ああ悟浄はゴキブリで丁度いいかも、光があんまり好きじゃないところとか)
 そんな風に冗談なのか本気なのか図りかねる様な調子でぼんやりと八戒は自分の思考に沈み込んでいった。

「おい、何余計なこと考えてやがる」
「え? 余計なことなんて考えてませんよ〜?」
「じゃあつまんねえこと考えんな」
「あ、それはすみません」
 そう混ぜっ返すように返答すると、三蔵は顔を顰めて舌打ちをした。三蔵はいつものことながら八戒の口でやり込められるのが嫌いらしい。とは言っても、変な処で三蔵は正直なので、八戒に勝てる確立はかなり低いのだが(悟浄は同居生活でそれなりに鍛えられたのに加え、弱みも幾らか握っているので結構勝てたりする)。
「三蔵、拗ねないでくださいってば」
「誰がだ」
 そう言ってふいと顔を逸らすところも分かりやすくて、思わず笑ってしまいそうだったが笑ったらもっと機嫌が降下することは必至で。別に三蔵を馬鹿にするわけではなく、何だか妙に心が穏やかで、ふと笑いたくなったのだけれどそれは奥歯を噛んで堪えておいた。笑いを堪えている事にも三蔵は気付いているだろう。どの道三蔵の機嫌が悪くなることは間違いないようだ。それでも怒られないことを少し不思議に感じながら、ちらり、と横目で三蔵の顔色を窺う。
「……三蔵、怒ってないんですか?」
「あ?」
「ホラ、ハリセンとか……」
「……」
「僕まだ未経験なんですけど、そんなに痛いんですか」
「されたいのか。マゾだな」
「はは、そうかもですね」
 そう返答した八戒に、三蔵は驚いて目を見開いた。が、それをにこにこ見つめる八戒に気付いて、またおちょくられたと顔を顰めた。
「ああもう、すぐに怒らないで……あれ?」
 宥めるように穏やかに微笑んで小さく小首を傾げた八戒の鼻先に、ぽつん、と水滴が落ちる。
「あめ……?」
 八戒が手のひらを上に向けながら空を仰いでいると、フン、と鼻を鳴らした三蔵は、両腕に抱えていた荷物を右腕に抱え直した。
「八戒」
「はい?」
 名前を呼ばれて八戒が振り向くと、突然三蔵に右腕を掴まれた。
「え?」
「……夕立が来る」
「え、あ、ちょ、ま、待って……」
 腕を引いたままツカツカ歩き出す三蔵に、バランスを崩しそうになりながらも八戒はとてとてと後ろについていく。暫く歩いているうち、雨粒は多くなり、ぱたぱたと八戒の服に濃い色を残していく。どこに行くんだろう……と思う間もなく、三蔵は強く腕を引いて、どこかに八戒を引っ張り込んだ。ぱたぱた降り注いでいた雨粒が落ちてこなくなったことに八戒が顔を上げると、そこは大きな木の下だった。
「ああ……雨宿りには丁度いいですね。ありがとうございました」
「いや、すぐに出るぞ」
「え? どうしてですか」
「すぐに雷が来る」
 そう言った傍から、遠くの空から腹の底に響くような重低音が轟く。これは今にざっと雨が降るに違いない。それに雷が鳴り出したらこんな大木の下は危なすぎる。
「どうしましょう、ここから宿まではちょっとありますし……」
「ここの奥に公園があったはずだ」
 そう言うと、三蔵はまた何も言わずに八戒の腕を引いて少し早足で歩き出した。雨足は少し強まっている。
(……なんか、不思議な感じですね)
 三蔵はあまり人と触れ合う事を好むタイプには見えないのに。それどころか触られることなど嫌がりそうなのに、そんな三蔵が自分から人に触れてくるというのが不思議で仕方ない。
(案外人肌に触れないと淋しいとか……なんちゃって、有り得ないですよね。っていうか触りたいなら悟空なら触り放題なのに)
 何で僕なんでしょう、とぽやぽやしているうちにそのまま公園の門をくぐった。そして公園の隅にある屋根のある休憩所に辿り着く。
「あー……ちょっと濡れちゃいましたね。三蔵、大丈夫ですか」
「ああ」
「ジープも連れてくるんでしたね……ジープがいたらすぐに宿に帰れたのに」
「ああ」
「……」
 何を言っても適当な返事の三蔵に少しムッとした八戒は、そのまま沈黙してしまう。ベンチに腰掛けて荷物を自分の横に置き、空を仰いだ。空は真っ青だ。三蔵の言うように夕立なのだろう。すぐに止むはずだ。
(そういえば、昔の僕じゃこうはいかなかった)
 数年前の雨の日の自分を思い返してみる。寺院に囚われていた頃は雨が降るたびに生きることを拒否したり、暴走したりを繰り返しては三蔵や悟空に迷惑を掛けていた。寺院を出て少しは落ち着いたと思ったのにタイミング悪く雨が降ったりすると部屋に篭りきりになったり、悪いときには寺院の頃のように暴走して自傷を繰り返した。そのたび悟浄が自分の着ていたシャツを脱いで止血したりしてくれていたのだけれど、一体何枚彼のシャツを血で無駄にしてしまったのか、今では想像も付かない。きっと彼に聞いても、優しい彼のことだから冗談で返してくるだけだろう。
(甘えてますね……)
「……八戒」
「はい?」
「辛いか」
「は」
「……今でも雨は辛いかと訊いている」

 悟浄や悟空の意見など一切聞き入れない三蔵だが、八戒だけには甘かった。それは恋愛云々による甘やかしとは違った。不幸自慢をするわけでも何でもない。だが、旅に出る前から二人にあった共通のウィークポイントの“雨”。それが妙な繋がりを生んでいた。普段見せることのない八戒の、“悟能”の側面が雨の日には顕著に現れる。それを出来ることなら悟浄や悟空には見せたくないらしかった。悟浄には家に居た頃、この状態で散々迷惑を掛け、悟空にも寺院にいた頃、自傷を目撃させるなど怖がらせてしまったから、というのが八戒の言うところだ。
 八戒の内面は今でも半分は人間の俗物的なところが残っていた。妖怪や僧が俗物的ではないなんて馬鹿げたことは言わないが、今でも彼は純粋ゆえに痛々しく、与えられる愛を待っている。
 愛するものを妖怪に奪われ、その妖怪を酷く憎むことによって自分がその憎むべき対象へ変化してしまったなど。
 今でも八戒は、妖怪を憎んでいると言う。その憎悪は同時に、愛するものを救えなかった悟能、そして憎むべき対象と同じ妖怪になってしまった自身へも向けられているのだ。こんなこと、自分らしくない。ただ、自分に共通する痛々しいまでの過去が、彼の背中に見え隠れしたから。
「もう痛くも痒くもありません」
「……」
「っていう訳には、いかないですね。まあ、この後悔と絶望が消えたところで、きっと一生憎悪は消えないでしょうし」
「じゃあ」
 そう切り出すと、八戒は不思議そうにふいと三蔵を見上げた。ベンチに座った八戒と立ったままの三蔵の差はかなりあり、普段の視界との差に少しどきりとしてしまう。しかしそこは最高僧として顔には出さず、一度鼻を鳴らして腕を組んだ。
「今でも花喃を、愛しているか」
「……ええ」
 打てば響くように返って来た言葉に、思わず溜息を吐きそうになった。分かっていた。彼が姉であり恋人だった彼女以外を愛する事などない事を。それが解っていながら自分は何を期待した?それはきっと悟能、八戒どちらにとっても酷な事だ。
 三蔵が苦々しげに煙草のフィルターを噛んでいると、八戒は俯き、自分の膝の上で組んだ両の手を見つめながら呟いた。
「今でも、愛しています。けど、どこかあの頃の僕の気持ちと、重なり合わないんです。いえ、重なっているのに、交わらないというか……正直なところ今の僕は、あの頃と同じ気持ちではない。愛しているのは確かなのに」
「……」
「別に、身体的な片割れを探していたわけじゃなかったんです。二卵性って、ただ同じタイミングで二人一度に出来ちゃったってだけで、一卵性みたいに元は一つだったわけじゃないですし」
「……何が言いたい」
「よく、分かりません。ただ、出会って彼女に惹かれたその瞬間は、僕は彼女が姉だと知らなかったんです。顔がそんなに似た姉弟ではありませんでしたし。それなのに、生まれて初めて惹かれた、初めて愛せるかもしれないと思ったひとは他人じゃなくて姉だった」
「三文小説だな」
「ですね。自分でもそう思います」
「で、さっきから貴様が考えてる解けない謎は何だ」
 俯いたまま顔を上げようとしなかった八戒が、そのとき初めてゆっくりと顔を上げた。それは置き去りにされた子どものように頼りないもので。思わず手を伸ばしそうになって、その手をきつく握り締めた。
「バレバレ、ですか。かっこ悪い……ですね」
「悪かねえよ」
 目に見えてしゅん、としてしまった八戒に、思わず声を掛けてしまってから後悔した。八戒もまた、その言葉に驚いたように顔を上げたが、ゆっくりと視線を落として、口を開いた。
「愛していたのは確かなのに、その愛は何の愛だったのか、分からないんです」
 それは家族愛だったのか、異性に対する愛だったのか。はたまた同じ遺伝子を持つ相手に自分を反映させての自己愛だったのか。
「今では、花喃が本当に僕を愛していたかどうかも、分からなくなってしまいましたから」
 ただ、自分を必要とする人に自分を愛してもらって、愛したかっただけなのに。三蔵にも、花喃の行動に図りかねるところがないわけではない。愛し、自分を愛するものの前で自害することが、のちのち相手にどれだけの傷を残すか。この八戒の姉である花喃であれば、そこまで思い至らないはずはない。ひとときの甘い時間より、目の前で自害する方が、強く記憶に残るのは確かだ。だけど、愛した相手にそんな傷を残すことを普通は望むのだろうか。
「……さっぱりだな」
「え?」
「お前も花喃も。下手に頭のいい奴は何を考えているのかさっぱり理解出来ん」
「……」
「愛していたならそれでいいだろう。何でそれを種類分けしたり理由を付ける必要がある。花喃が自分を本当に愛していたか分からないだと? 花喃は愛していない奴に身体を許すような浅ましい女だったとでも言いたいのか」
「っ……」
「そうじゃないなら黙って花喃を信じてろ。ンなシケた面してるようじゃ女も浮かばれねえよ」
 そう言い切った三蔵の顔を見上げた瞬間、彼の顔にカッ、と強い光が差す。
「近いな」
 ぽつん、と三蔵が呟くと、少し離れた遠くから、腹の底に響くような重低音が鳴り響いた。
「……ねえ三蔵」
「何だ」
「雷って、遠い国の文学では不義密通や近親相姦に対する神の怒りに象徴される事があるそうですよ」
 それを聞いた途端、この期に及んでまだ……という顔をした三蔵に、すみません、と呟きながら苦笑した。
「……そうですね。花喃に失礼ですよね」
「そうだ。第一近親相姦が罪だの何だの言うほどお前はモラリストでも敬虔な信者でもないだろう」
「言いますねえ三蔵。まあ、深く信仰していたわけじゃなかったですけどね」
「宗教の教えなんて総て守るのは不可能だ」
「酒を呑み肉を食い殺生する僧の言う事は深みが違いますね」
「……お前な」
 多少顔を引き攣らせて三蔵が八戒を見下ろすと、彼はヘラッと笑って、首を振った。
「よく考えれば僕も三蔵と同じようなものです。もう、十戒なんてまともに守れてませんから……姦淫も、殺生も、偽証も。あ、まず第一に神がいないと思っている時点でアウトですね」
「名前の意味がねぇな。高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲……枢要罪も犯しっ放しじゃねぇか」
「異教のことを良くご存知で。まあ暴食はしてませんよー暴飲はしますけど」
 そう言ってヘラヘラ笑う八戒を見下ろして、三蔵は目を伏せた。
「フン、信じるのは自分自身で十分だ」
 そう、一層強い語気で言い放った三蔵を、ゆっくり八戒は見上げる。その横顔に、また雷の光が差したが、三蔵は目を瞑ることすらしない。
「三蔵は、何だか雷が似合います」
「そりゃ俺を馬鹿にしてんのか」
「は? どうしてですか」
「不義密通や近親相姦うんたらと薀蓄を垂れたのはお前だろう」
 少し拗ねたような口調が何だか幼い感じがして、思わず口元に笑みが浮かんだ。そうじゃなくて。あなたはそんな不浄なものではなくて。
「……違いますよ。ただ純粋に、眩しくて直視出来ないなぁと思っただけです」
 直視することも叶わず、きっと触れたら自分など焼き切れてしまうだろう、強く眩しい存在だから。そう言って八戒が俯くと、暫く沈黙が続いた。雨の日の、濃密な風が流れてくる。それを袖で振り払う仕草をしながら、三蔵は面白くなさげに呟いた。
「俺は目を見ねえで話をするヤツは嫌いだ」
 それに思わず八戒も目を瞬かせる。そして、その形のいい唇を笑みに歪めた。
「ものの喩えですってば」
「俺は眩しくなんかねえし、触ったところで焼け焦げやしない」
「ッ」
「違ったか?」
 強い光の宿った目に見つめられて、八戒は肩を揺らした。
 違わない。どうしていつもこの人には敵わないのだろう。いつも自分の負けだ。
「違い……ません」
「分かったらお前は黙って俺について来ればいいんだ」
「はは、何か一昔前の亭主関白みたいですよ」
 その言葉に、返事はなかった。

 ピシャン、と水滴が水溜りに落ちた。
「……止みましたね」
「帰るぞ」
「ええ」
 素っ気無い口調でそう言うと、三蔵はベンチに置いていた荷物を持ち上げて先に歩いていってしまう。あの頃から何度この背中を見ただろう。神々しいと思ったことも、男らしいと思ったことも、ちょっと頼りないと思ったこともある。だけどそれは常に八戒の中で全幅の信頼を置いて良いものとして存在していた。二度と欲しくもなかった、そんな存在が。
「――――……三蔵」
「何だ」
 不機嫌な様子を隠さないまま、三蔵は水溜りの手前で振り返った。雲の切れ間から覗く太陽が、後光のように三蔵の背後から照らす。それに少し目を眇めながら、八戒はぽつりと呟いた。
「僕は、いつまであなたについていくことを許されるんでしょうか」
 旅を終えるまで。その返事が得られれば満足だった。それなのに。
「……さあな」
「さあなって」
「お前がついて来たいと思ってるならついて来ればいい。愛想を尽かしたなら離れればいい」
「何だか……本当に、亭主関白みたいです」
「煩い、いいからさっさと帰るぞ。帰ったらコーヒーだ」

 そう言って、三蔵は今度こそ背を向けて公園の出口へと歩いていく。その背中をぽかん、と見つめながら、八戒は自分の手が少し震えていたことに気が付いた。殊の外緊張していたらしい。
(緊張……だなんて。どうして……)
 時折彼が、自分に向ける所有欲のようなものに気付かないわけではなかったけれど。
「ちょっと、自意識過剰になっちゃいそうです……」
 もしかしたら三蔵も、なんて。そんな期待をしてしまった自分はなんて浅ましいんだろう。妖怪のくせに。男のくせに。大罪人のくせに。
「だめだなあ……」
 まだ、彼の後を追うことは出来そうにない。

 あと少し、もう少し。
 また普通に笑って彼に向き合うことが出来るまで。











2005/8/4