蒸し暑い夜が終わった。僅かに開いたカーテンから朝の日差しが細く部屋に入り込んでくるのを、起き抜けの明順応が進まない目を細めて見た。その光の中、隣のベッドの主がごそごそとシーツから起き出そうとしている。
 昨日三蔵が怪我をしてその影響で僅かに熱が出たため、看病と回復のために治癒能力のある彼と同室になっていたのだ。悟空が悟浄と同室は嫌だとごねたが、結局は面倒見のいい男に些か乱暴に後ろ首を引っ掴まれて、すごすごと隣の部屋に入っていった。
 三蔵は首を廻らせた。確かに眠りにつくまで額に置かれていた濡れタオルは、枕の隣に落ちている。濡れたそれがシーツに染み込むのを嫌って、手を伸ばしそのタオルをサイドテーブルに放った。しかし狙いが外れて床に落ちてしまう。濡れたものが落ちる音に、隣のベッドの男はゆっくりと顔を上げた。彼は既に着替えを済ませている。どこかに出掛けるつもりか。
「目が覚めましたか」
「……ああ」
 張り付いたような笑みを浮かべる彼に今更何の感情も覚えない。最初の頃こそその彫像めいた微笑みに苛立ちを感じもしたものだが、それも過去の話。一々そんなことに腹を立てていたら自分の寿命が縮むだけである。
「起こしてしまいましたね、抜かりました」
 彼が人形だと思えばいい。人形だと思えば、この不器用な微笑しか感情表現の方法がないのだと諦めもつく。人形にすれば感情豊かな方ではないか。
 彼はゆっくりとベッドから立ち上がり、三蔵の枕元へやってきた。先程投げ捨てたタオルを拾い上げて、少し身体を屈めた。
 白い彼の手がゆっくりと伸びてくるのを、避けることもなく薄く目を細めて受け入れた。体温の低い彼の手が心地いい。そして自分の頭はまだ少し熱いのだろう、と理解した。
「……まだ少しあります。出発を延期しましょうね」
 そう言って、聖母のような微笑で三蔵の乱れた前髪を少しだけ撫でつけた。汗のせいで張り付いて気分が悪い。
「……どこかに出掛けるつもりだったのか」
 少し痰が絡むのを感じ、咳払いをしながらそう訊ねると、彼の睫毛は二、三度上下した。
「少し散歩に行こうかと思っただけです」
「老人か」
 こんな早くに、と呆れたように言うと、彼は口元を緩めて笑った。
「あはは、似たようなものでしょう。よく言われます」
 ああ、あの歯に衣着せぬ男ならば彼に対して「爺さんかよ」などと怖いもの知らずなことを口走りそうだ。しかしそんな不躾な遣り取りの中でも彼はそんなに怒っていないことも知っている。親しき仲に礼儀など存在しない二人のことだ。
「……爺さんかお前は」
 あの男と同じ言葉をなぞってみる。彼はふふ、と笑った。今、彼が怒っているのかどうか全く判別出来なかった。


「何と言いますか、こう」
「何だ」
「散歩っていうのは、もう少しこう、楽しく歩くものじゃないですかね」
 その後三蔵は、散歩に行くのをやめようとした彼に、俺も行くからさっさと準備しろと告げた。勿論彼が病み上がりで微熱もある三蔵を宿から出すのを善しとするはずもなく、一度は止めた。しかし結局彼は三蔵の我儘に屈し、困ったように笑って肩を竦めた。
 夏とはいえ、日が昇る前の時間帯は少し涼しい。昇る前、というのは語弊があるか。後ろを少し振り返ってみれば、背中の方角からゆっくりと白い日差しが昇ってくるのが見えた。
「お前は楽しくないのか」
「は」
 大きな翠玉を瞬かせて暫く口を凍らせていた彼は、その後少し困ったような笑顔で「敵いませんねぇ」と呟いた。
 田舎道を、会話もなく歩く長身の男二人は土地の者にはどんな風に見えるだろう。舗装もされていない石ころだらけの道を歩く。両脇は草原が広がっており、放牧が行われている。所々には恐らく作業小屋であろう、掘っ建て小屋が建っていた。長閑なところだ。一昨日まで随分と賑やかな街にいたものだから尚更そう思う。あんな活気に溢れた雰囲気も悪くはないのだが、如何せん喧しい。その点ここは休養にも、そして療養するにも最適だった。昨日の晩は雨が降っていたらしい。草が水に濡れ、雨粒を先に乗せたまま朝日に光っている。雨の夜に体調を崩し、同じく雨が苦手なはずの彼と二人きりで何事もなく過ごすことが出来たというのは大した進歩だ。
 いつまでもいつまでも過去に囚われ続ける者などいないということだ。永遠とも思われた絶望も、いつの間にかどこまでが絶望だったのか解らなくなっている。現実と絶望の境界は解り易い。解り易すぎるほどに突然突き落とされる。しかし絶望から希望への境界は解り難い。もう二度とこの暗闇から出られないのだろうと自己憐憫に浸っている内に、いつの間にか日の下にいるのだ。しかも、それをずっと望んでいたはずなのに少し心許ない気分になるのはやはり、自己憐憫に酔っていたせいか。
 忘れることはすまい、と思うが、引き摺ることはしない。過去に、自分よりずっと深い絶望の淵から突き落とされたはずなのにずっと強かに現実を受け入れた男が、隣で穏やかに笑っているのを見れば、自分がうじうじした臆病者に見えても致し方ないだろう。
「昨日の夜は、淋しかったですよー」
「……?」
「雨が降って、悟空も出掛けられなかったみたいですぐに寝ちゃって。いつも雨の日なら悟浄が遊びに来てくれるのに三蔵が熱を出したからってらしくもなく気を遣って来てくれなくて。……あなたは死体みたいに寝てるし」
「……縁起でもねぇ」
 三蔵が毒づくと、八戒はゆっくりと目を伏せた。雨の日の翌日の割に顔色はいいようだ。こうして雨の降った次の朝、彼の顔色を窺うのがいつしか癖になっていた。最初の頃は本当に傷の舐め合いに過ぎなかった。それを彼は不快がっている節があるし、自分自身続けたいわけではない。しかし気をつけて止められるものであればとっくに止めていた。

「三蔵、雨、平気になったんですね」
「何」
「昨日の夜、すごく呑気な顔で寝てました」
「……ずっと見てたのか」
「ええ。だって暇だったんですもん」
 にこにこと笑って青年は悪戯っぽく三蔵を覗き込んだ。ああ本当に食えない男だ。見た目に騙されてはならない。彼の見た目も中身も全て気に入っている“趣味の悪い”自分だから言うのだ。今でも妖怪を手に掛ける度、彼の目の奥に妖しい光が灯るのを知る。この男は“殺しの愉悦”を知ってしまった。本人もそれに気付いていて自分の心に巣食うそれを嫌悪しているに違いないのだが。
 穏やかな見た目とは全く一致しない嗜虐性と自虐性を併せ持っている。どうにもならないのを知ってはいるが、どちらかにしろと言いたくなる。しかしその二面性が自分を惹き付けて止まなかったのだった。
「乗り越えなければ、生きていけないだろう」
「……まあ、教科書通りのお返事ですね」
「喧嘩売ってんのか」
「高いですよぉ」
 それから暫く会話が途切れた。彼も真っ直ぐに歩くだけで、時折片眼鏡に手を掛ける以外は余計な動作をしない。一定の速さで運ばれる足の下で、朝露に濡れた草が小さな音を立てた。

「失いたくないものの一つくらい、あった方が生き易いんじゃないですか」
「……何だ、急に」
「但しその大切なものを失う時のシミュレーションが大事だと思うんですが」
 一歩一歩確実に運ばれる足の下で、草がサクサクと鳴く。少し横を向いてみれば、八戒は手を後ろで組み、少し俯くようにして微笑んでいる。その目に何が映っているのかは解らなかった。僅かに覗く義眼が、綺麗に濡れて朝の光を弾いている。
「何かに囚われることで生かされるのはよくないでしょうか」
「……お前は何に囚われていると?」
 興味を惹かれてそう訊ねると、ゆっくりと顔を上げた彼は、思案するように視線を巡らせた。
「そうですね、悟空のこととか、悟浄のこととか、そういうのもあるんですけど……簡単に言ってしまえば、まだやりたいことが沢山あるから死ぬわけにはいかないってことなのかもしれません」
 そう言って笑い、勿論あなたのこともですよ、と付け加えた。その“ついで”っぽさに思わず顔を顰めると、八戒は困ったように笑った。
「やりたいことがまだまだあるんです。一度は死のうとしたのに現金なものです。未練がましいと思うでしょう。だけどこういう生き方もあるって、知っていて下さい」
 朝露に濡れた草から水が滴り、ズボンの裾を濡らしていく。
 何物にも囚われまいと思いながら、その“想い”自体に囚われて進めなかった自分を尻目に、彼はどんどん進んでいく。
「昔は自分の中の常識や、固定概念が崩されていくのが怖かったんです。だけど今は、色んなことを知るのが楽しい」
「……一段と図太くなったもんだ」
 そうですね、と彼は笑って、一層高くなってきた日差しに少しだけ目を細めた。
「やっぱり、村の人たちも妖怪たちも、花喃も、皆僕が殺したんだと思います」
「おい……」
「死んで償うことが出来ないのなら、今の僕に出来ることは一生忘れないで囚われ続けることしかないでしょう」
「囚われ続けることが弔いになるのか?」
 三蔵が嘲るように鼻で笑うと、彼は小さく笑って靴にまとわりつく濡れた草を蹴飛ばした。視線は優しく足元に落とされている。
「自分を殺した人間が、自分のことを忘れて呑気に生きていることほど、憎いことはないと思いませんか?」
 尤も過ぎて二の句が継げなかった。
「自分の犯した罪を忘れることは、最も許されない罪です」
 きっぱりと告げる口調に、迷いはない。晴れ晴れと上げられる彼の顔に、自然三蔵の顔は俯いた。手は無意識にポケットを探るが、煙草など入っているはずもなく(八戒が抜いたのだ)、チッと舌打ちする。
「……大層なこった」
 そう毒づくと、ますます八戒は楽しそうに喉を鳴らして笑った。その笑顔に余計に苛立って、眉間の皺が深くなる。しかしそれを見て取った彼は少しだけ笑いを収めた。それでもまだ目が笑っている。
「あなたにこの考えがすぐに飲み込めないのは分かってますよ」
「何だそれは……」
「あなたと僕の頭の作りが根本から違うってことです。それから育ちも。先天的な違いと後天的な違いとで、あなたと僕は全く違った次元でものを考えるようになってるんですよ」
「……?」
「僕はあの時、あなたの言葉と考えに救われました。あの時まで、僕はあんな風に考えたこともなかったんです。それと同じく、あなたは今僕の思うようなことを、今の今まで考えたことがなかったでしょう?」
 そう言って顔を覗き込まれて言葉に詰まる。彼はまた穏やかに微笑んだ。やはり分からない。
「……人間と妖怪の差じゃなく、種類そのものが違うってことか」
「まあざっくり言えばそういうことです。だから、たまには別の種類の生き物の言葉にも耳を貸してくださると嬉しいんですが」
 ね、と言いながら悪戯っぽく顔を覗き込んでくる八戒に、三蔵は憮然とした顔をした。これは下手に出ているようで、子ども扱いされているようなものだ。それも、聞き分けのよくない子供に対しての。
「……普段から貸してる」
「おやおや、いつ?」
「〜〜〜……」
 頭を押さえて必死に怒りを収めようとしている三蔵に対して、分かっていて態とやっているのか本当に分かっていないのか、八戒は少し焦ったように声を掛けた。そっと肩に手を置かれて軽く擦られる。
「ほら、やっぱりまだ熱があるんですよ、今日一日は寝ていて下さいね」
 そして不意に頭に当てていた手を引かれ、代わりに彼の冷たい手が押し当てられる。それに目を瞬かせると、心配そうな目がじっと三蔵の顔を覗き込んでくる。その距離大人の拳一個分。このまま暴挙に出てしまおうかと悪戯心が顔を出す。しかし自分が風邪菌持ちだということを思い出し、泣く泣く断念した。彼に移したら猿や河童に色々勘繰られてねちねち責められることは間違いないし、彼を苦しませるのは本意ではない。
 欲を堪えるため、大人しく目を伏せた三蔵は溜息を吐いた。それをじっと見つめていた八戒は、くるりと踵を返して歩き出した。
「……おい」
 もしかして色々考えていたのがばれたのだろうかと内心焦って、先を歩いていく彼に声を掛ける。すると彼は足をピタリと止め、くるりと振り返ってじっと三蔵を見つめた。その目は何かを訴えたげだが、三蔵はそれを汲み取れない。焦れたように眉根を寄せると、八戒は少しだけ微妙な顔で笑った。
「……キスされちゃうかと思いました」
「……してもよかったのか」
「は?」
 目を瞬かせる彼に歩み寄り、その腕を掴む。そしてぐっと顔を近づけると、彼は少し身体を引いて驚いたように目を見開いた。更に近づけると、彼は僅かに肩を揺らしてぎゅっと目を瞑った。その子供のような仕草に三蔵は少しだけ笑い、軽く前髪の上から額に口付けた。彼は驚いたように目を開き、額を押さえて赤い顔のまま三蔵を睨み付けた。
「騙しましたね」
「騙してはないだろ、……お前まで風邪を引いて、お預けが長くなるのはご免だ」
 そう言って、先に歩き出す。暫くの間後ろから足音はしなかったが、十歩ほど歩いてから漸く後ろからゆっくり足音が聞こえてきた。
「変態」
「どっちが」
「あなたに決まってます」
 後ろから聞こえてくる恨みがましい不機嫌な声がおかしくて、少しだけ声を出して笑う。すると後ろの足音が止み、すぐにぱたぱたと速い足音が近づいてきて八戒の顔がずいっと近寄ってきた。
「今笑いましたよね、“フッ”て」
「笑ってねぇ」
「またまた、笑ったでしょ、これは縁起がいいですね! いや、却って悪いことがあるかも……?」
「お前は……」
 顔を引き攣らせる三蔵に、小さく笑って八戒は冗談だ、と繰り返した。すっかり高くなっていたらしい太陽の下で、その笑顔が文字通り眩しい。彼が目を細めて三蔵を見る。そしてどこか嬉しそうに口を開いた。
「きれいですね」
「何が」
「あなたの髪、太陽できらきらしてます」
 無意識に三蔵が指を髪に通すと、彼はますます嬉しそうに笑い、もう一度言葉を繰り返した。
「きれいです」
「そうか」
 照れもせずそんなことを言う彼に、少しだけ顔を逸らした。











足掛け4ヶ月かかりましたが、クオリティには関係ありません。熟成もされてません。        2006/10/01