陳腐でもいいから、愛の言葉を。
「なーなー八戒、“赤い糸”って何?!」  どこで仕入れたのか、悟空がそんな、少女のような話を持ってきた。
「うるせぇバカ猿! 仕事の邪魔すんじゃねぇって言ってんだろ!」
「イッテェ! だって今三蔵仕事してねぇじゃんっ!」
 どうやら悟空なりに三蔵の仕事状況を把握しているらしい。確かに今三蔵は、八戒が淹れた緑茶と土産の羊羹を突付いているところだった。ささっとその羊羹を隠しつつ怒鳴るところは流石としか言いようがない。
「まあまあ三蔵……突然どうしたんですか、悟空」
 ソファにゆったりと腰掛けていた八戒が横からゆっくり声を掛けると、悟空は主人に呼ばれた仔犬のように目を輝かせた。
「赤い糸の話、聞いたんだ!」
「誰に聞いたんです?」
 八戒はそう言いながら、自分の座っていた場所をずらして悟空に半分席を譲る。すると悟空はぴょんとその場所に座って嬉しそうに八戒を見上げた。それを見下ろして八戒もゆっくりと微笑む。とてもとても微笑ましいと言えば微笑ましいのだが、蔑ろにされた状態の、向かい側に座った三蔵は面白くない。
 離れやがれ、と悟空をブン殴ってやろうかと思ったが、八戒が本当に嬉しそうに微笑むのを見てそうするのも憚られるのだった。
「うんとね、瀏に聞いたんだ」
「りゅう、……さん?」
 僧の名前だろうか、と三蔵の方に八戒が目配せをした。すると茶碗を置いた三蔵は、少し肩を竦めて言った。
「……いや、悟空よりちょっとチビなガキだ」
「ここに子供がいるんですか?」
「若い宮大工の息子でな。毎日父親にくっついてここに来てる」
「そうなんですか……彼が言ってたんですか?」
 隣にちょこんと座る悟空に問いかけると、コクコクと頷いた。
「あのね、瀏のとーちゃんとかーちゃんは赤い糸で小指と小指が繋がれてるんだって、かーちゃんが言ってたんだって。これってどういうこと? 八戒」
 それを聞くと、八戒は笑顔のままぴしりと固まった。その話の意味が分からない三蔵と悟空は首を傾げるばかりだ。しかし、八戒は二人に不審な目で見られていたのに気付いて、カッと頬を火照らせた。
「あ、いえ……あのですね、“赤い糸”っていうのはですね、“運命の人同士を結ぶ見えない糸”のことなんです」
「え?」
 そう言って悟空が自分の小指を見て首を傾げた。それを見て八戒が慌てて手を振った。
「いえ、本当にあるわけじゃないんですよ。そういうお話があるんです」
「へぇ〜……じゃ、瀏のとーちゃんとかーちゃんは“うんめいのひと”なんだ」
 そう臆面もなく言い放つ悟空に、八戒は曖昧に笑うことしか出来ずに悟空の頭を撫でた。
「あはは……ラブラブですね」
 そう苦笑した八戒に悟空が不思議そうな視線を投げかけたが、八戒は何でもないと首を振った。
「あ、悟空、お土産に肉まん作ってきたんですけど……後で調理場お借りして蒸してあげますからね」
「マジでっ?! やった〜! あ、じゃあ調理場借りられるか聞いてくる!」
「ええ、……あ、じゃあ三時頃に借りられるか聞いてきて下さい」
「うん!」
 嬉しそうにソファから立ち上がった悟空は、入ってきたときと同じようにどたどたと足音を立てて出て行った。大きな音を立ててドアが閉まるのを見て、三蔵が大きく息を吐いた。
「疲れる……」
「あはは、可愛いじゃないですか」
 そう言って笑うと、三蔵は呆れたように息を吐き、さっき隠した羊羹をテーブルに戻して爪楊枝を刺した。
「お前は、信じるのか」
「は?」
「……だから、その糸のようなものをだ」
 お茶を啜りながら、素っ気無い風を装って聞いてくる三蔵だが、どこか感じがよそよそしかった。
(三蔵も気になるんでしょうか……)
 紛らわすように羊羹を口に運ぶ三蔵をきょとん、と見つめながら、八戒も自分の茶碗を持ち上げた。そして少し口をつけた後、思いついたことを口に出した。
「さっき言った“赤い糸”ってあるでしょう?」
「ああ?」
「あれはね、唐の時代のお話から来ていると言われてるんです」
「唐?」
「ええ。何でも袋を持ったおじいさんがいて、その袋の中には赤い縄が入っているんです。その縄を男女の足に繋ぐと、どんなに遠く離れていても、どんなに憎しみ合っていたとしても、結ばれる運命になってしまうんだそうで」
「傍迷惑な……」
 如何にも三蔵らしい感想に、思わず吹き出して軽く睨み付けられる。でも確かにそうだ。
「赤い糸のお話は運命の人同士に元々結び付けられているもので、赤い縄のお話は縄が人の運命を左右してしまうわけですからね」
「くだらん」
「しかも縄ですからね」
 危ないプレイみたいですね、と八戒が漏らすと、そういうことをお前が言うなと嫌な顔をされた。それに何でですかと問うと、少しも恥ずかしがらずに言われると萎える、と納得しかねる答えが返って来て、八戒は顔を顰めた。
「そういうことばかり考えてると、悟浄みたいになっちゃいますよ」
「河童と一緒にするんじゃねぇよ」
「またそういうことを……そんなこと言ってる三蔵と悟浄の足にその赤い縄を結べばラブラブになるんでしょうかねぇ……」
「ざけんな」



 運命を信じますか。



「三蔵はそういうものは信じないんですか? 占いとか……ジンクスとか。三蔵よくテレビ見るでしょう。星占いとか、血液型占いとか」
「さあな」
「三蔵何座でしたっけ、さそり座か、いて座ですよね」
「……信じるのか、お前は」
「あー微妙ですね、良いことは信じて悪いことは信じないって感じです」
 確かにな、と三蔵は相槌を打った。
「いい結果は見るだけで何となく気分がいいですし。悪い結果を見て落ち込んでしまえばそれだけで悪いことじゃないですか」
 そう言って八戒は、自分の分の羊羹を楊枝に刺して口に運んだ。今日持ってきたのは、彼が旅行する近所の夫婦の子供を預かり、その謝礼に貰ったというなかなか高価な菓子だ。それをゆっくりと咀嚼しながら、八戒はふんふんと頷いていた。それに三蔵が訝しげな視線を向けると、彼は少し困ったように笑って、頬を掻いた。
「いえ……三蔵はやっぱりそういうのは信じないんだなぁって、思いまして」
 そう言ってふと顔を伏せたそれが、何故だか少し淋しげに見えて三蔵はテーブルに茶碗を置いた。
「……信じていて欲しかったのか?」
「そういうわけじゃ、ないですけど。三蔵は、悟空と出会ったことも、悟浄と出会ったことも、……僕と出会ったことも偶然の繋がりだと思ってるのかなぁって」
「偶然?」
「運命なら必然でしょう。ああ……まあ、悟空とあなたの場合、そういうもので量れるものではないんでしょうが」
 そして、組んだ自分の両手を見下ろすように俯いた八戒に、三蔵は内心溜息をついた。またネカティブシンキングにはまっているのだろう。さっきまで笑っていたかと思えばこうだからどうなっているんだと三蔵が思うのも仕方がない。だが、自分がその一端を担っているのだと思えば、気分も暗くはなる。八戒は自分と他人とを比べて卑屈になるような男ではないと思っていた。しかし繊細そうに見えて実は図太く、図太く見えて淋しがりで、淋しがりかと思えば誰より強かった。きっとまだまだ自分の知らない彼がいる。

「……知らんな。悟空は呼ばれた気がして黙らせに行ったら勝手についてきただけだし、悟浄はお前を探してたら会いたくもないのに会っちまっただけだ」
 そう言うと、そっと顔を上げた八戒はゆっくりと首を傾げた。
「お前と会ったのが偶然だと言いたいわけじゃないが、運命なんぞに動かされるなんて性に合わねぇ」
 存外長い睫毛をぱちぱちと上下させて、濡れた翡翠色は三蔵の顔を映す。ほやんとしたそれをきつく睨みつけると、八戒は少し驚いたようにぱっと目を見開いた。そしてその後ゆっくり眦を緩めて、淡く笑った。
(運命だと言って欲しかったのかもしれない)
 意外に言葉を欲しがる奴だ。言葉など陳腐だと一蹴しそうにも思えるのに、それでも暫く好きも愛しているも言わなかったら一人で不安がったりもする。これでもし相手がそこらの女だったら鬱陶しいことこの上ないのに、相手が八戒というだけでそれさえ愛しいと思えるのは、痘痕も笑窪の類だろうか。実際三蔵は気持ちを言葉にすることが多くない。自分の思うことを全て的確に言葉にすることは出来ないと思っているし、必要な時以外はする必要もないと思っている。それに、八戒なら“口にせずとも理解してくれるだろう”という甘えがないとは言い切れなかった。八戒はいっそ聡過ぎるというほど気のつく男だったから、三蔵に限らず悟浄や悟空にでも、“あれあれ”と言えば“ああこれですか”という対応が出来るほどだった。だからという訳ではないが、彼に必要以上のことを話すことがあまりなかった。
「お前は信じるのか?その運命とやらを」
「……よく、分かりません。信じたいだけかもしれません。今まで生きてきた中で起こった災いが、全て偶然だと思うのが許せないだけかも。花喃と僕が双子として生まれたのも、別々に生きざるを得なくなったのも、花喃が百眼魔王に連れ去られたことも、……死んだことも、あれがみんな偶然だと」
「運命だ必然だと決めつければそれを作った奴のせいに出来るからな」
 そう言うと、組まれた八戒の両手がぴくりと揺れた。彼の姉はその手が好きだったという。ほっそりと長い指と、うっすらと皮膚の下の血管を透かした色の薄い手の甲。一対のそれが白く薄い陶磁の茶碗を包む様を三蔵はじっと見つめた。その手が血に濡れる様を、不謹慎にも見てみたいと思った。決して、彼は自分のそんな姿を三蔵に見せることを望まないだろうが。
「……まあ、赤い糸というのもおかしくはないな」
「あはは、血生臭い繋がりですからねぇ」
「お前の好きな血の色だからな」
 そう言うと八戒はぴくりと肩を震わせた。
「くだらねぇこと考えてると押し倒すぞ」
「普通ブン殴るとか言いません……?」
 三蔵の軽口(半分本気だが)に少しだけ表情を緩めた八戒は、茶碗をテーブルに戻してうっすらと笑った。
「そうですね、血の色……」
「俺が今まで殺してきた人間や妖怪共の血の色だな」
「僕の殺した百眼魔王の一族と、花喃の流した血の色ですよ」
 三蔵が言うのに張り合うかのように八戒は少し表情を厳しくして三蔵を上目遣いで見上げた。暫く間合いを取るように睨み合っていたが、そのうち耐え切れなくなったように八戒が吹き出したのを見て、三蔵も口元を緩めた。
「どうしてこうロマンチックな話をしてたのにこうも生々しい話になっちゃうんでしょうねぇ」
「性だ」
「そうですね」
 茶碗に少し残った茶を飲み干すと、にやりと笑って八戒を見た。すると彼もまた三蔵を、気が抜けたような微笑で見つめていた。
「流れた血が元の場所に戻ることはない」
「……」
「生きるのはそういうことだ。生きていれば自ずと知れる」
 そう言って鼻から息を吐くと、八戒は少し弱々しく笑って、少し視線を下げた。その目はテーブルの上で空になった二つの茶碗を見つめている。細い指を組み、俯いた姿はその背格好よりずっと小さく見えた。内面を表すような線が細く繊細な容姿は、初めて彼を目にしてからずっと恋焦がれたものだった。いつか触れてみたいと、自分らしくもない願いを持ったのも、きっとこの妖怪の魔性に当てられたせいだ。
「待って下さい。僕には、まだ正直なところ分からないんです」
「フン、そのうち知れる」
「……待っていて、下さいますか」
 そろり、と上げられたその翠玉に自分が映り込むのを見て、頭の中心が揺れるような感覚を味わった。この男は、このまま騙されて自分は食われるのではないかとうっかり思ってしまいそうになるほどの強く甘い魔性を持っている。それは抗うことの出来ない強さと依存性があった。
「生きてりゃそのうちどうにかなんだろ」
「……」
「見ててやるよ。お前が朽ちて、土に還るまでを」
 八戒は、一度大きく目を見開いて、ほんのりと笑った。そして皿に一切れだけ残っていた羊羹に楊枝を刺して、口に運んだ。それをゆっくりと咀嚼した後、何かに思い至ったように八戒は少し釈然としない顔をして首を傾げた。
「でも、僕より三蔵が長生きしますかね?」
「お前は詰めが甘いからな、変なところでポックリ死にそうだ」
 ちょっと拗ねたように言う八戒に三蔵はそう言い捨ててシニカルに笑ってみせる。そして煙草を一本取り出してマッチで火をつけた。八戒はそれを見て、テーブルの端にあった灰皿を三蔵の方に押しやった後、くすくすと笑った。
「あ、酷いです」
 くすくすと笑うのをやめない八戒に、ゆっくり心が凪ぐのを感じながら、灰皿に灰を落とす。それをも八戒は嬉しそうに眺めていた。その視線を受けながら、そして灰皿に視線を落としたまま、三蔵は口を開いた。
「但し、俺の見てないところで勝手に死ぬんじゃねぇ。それから誰かのために命を張るような真似は止せ。というか寿命以外の理由で死ぬんじゃねぇ」
 唐突で少々強引な注文に、八戒は目を瞬かせた。三蔵はじっと灰皿に落ちていく灰を見ていたし、八戒は三蔵の伏せ目がちになった瞼から流れる長い睫毛をぼんやりと見つめていた。
「僕に天寿を全うしろと」
「そんな理由でもなけりゃ、お前を手放せるはずがないだろう」
 そう自信満々に告げられ、八戒は一瞬きょとん、と動きを止めた。しかし数秒後にかぁっと頬に紅を刷いたように顔を紅潮させて慌てて俯いた。三蔵が訝しげにそれを覗き込むと、両頬に手を当てた八戒が、少し恨みがましい視線を向けて頬を膨れさせた。しかしその頬はまだまだ赤く、可愛らしいと思いこそすれ怖いとは思えなかった。
「悟浄よか、あなたの方がタラシの素質ありますよ……」
「は?」
 ずるいです……とブツブツ呟きながら頬に手を当てたまま俯いてしまう。最前の台詞には納得出来ないものも含まれていたような気もするが、目の前の恋人のその姿がどうしようもなく愛らしかったため、結局最高僧の頭は面倒なことを考えるのを放棄した。
 真っ赤になった顔を両手で覆いながらうーうー唸っているその頭をテーブル越しに撫でながら三蔵は、うっかり普段の三蔵に慣れた者が見たら卒倒しそうなほどの穏やかな笑顔をしていたのだが、生憎八戒も顔を覆っていて僧もやってこなかったために、誰も被害に遭うことはなかった。
「……運命ってのも、悪かねぇな」
「え?」
「お前に会えた今があるなら、偶然でも必然でもどうでもいい」
 ぽけーっと三蔵を見上げたその仕草が幼く可愛く思えて、もう一度その艶やかな濃茶の髪の毛を撫でる。今度こそ耳から首まで真っ赤に染め上げた八戒は、膝を抱き寄せてソファの上で小さくなってしまった。



「はっか〜い、頼んできたよ〜! 三時半頃には空けとくって」
 それから数分後、悟空が大きな足音を立てて部屋に駆け込んできた。それに窓際で観葉植物に水をやっていた八戒と、執務机で書類に、ずれるのも擦れるのも構わず適当に判を押していた三蔵が顔を上げた。その脇のローチェストではコーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てている。
「ありがとうございます悟空。……あれ?それは」
「これっ、瀏のかーちゃんがくれた!」
 悟空が両腕にみっしりと抱えていたのは赤くつやつやと磨き上げられた林檎だ。窓から差し込む光を弾いてきらきらしている。
「それはそれは……ちゃんとお礼言ってきましたか?」
「うん!」
 元気に返ことをした悟空は、そのまま部屋に入り、テーブルにごろごろとその林檎を置いた。ざっと十個くらいだろうか。手に持っていた霧吹きを窓辺に置き、手を拭きながら八戒は悟空の方に歩み寄った。悟空は主人の許しを待つ仔犬のようにきらきらと目を輝かせて待っている。
「うーん……林檎先に食べちゃっても肉まん食べられますか?」
「うん! 楽勝!」
 そう言うだろうと思ってました、と八戒はそのテーブルから一つだけ林檎を持ちあげた。それを光に当てて少しだけ目を細める。
「いい匂いですね。じゃあ二つまでですよ? 残りはまた後で」
「うんっ!」
「丸齧りするなら洗ってからですよ」
 八戒から林檎を二つ受け取った悟空は、それを持ってとたとたと隣の洗面台の方へ歩いていった。

「三蔵も如何ですか。一つ剥きましょうか?」
「……ああ」
 そっと細く白い指が、真っ赤な林檎を持ち上げるのを見て、三蔵は目を細めた。何となく、八戒が赤いものに愛おしげに触れるのが気に食わない。が、それを持って彼がこちらに微笑みかけるのを見て、そんな想いは昇華してしまった。
「すごく甘い匂いがするんですよ。きっと蜜もいっぱい入ってるんでしょうね」
 いそいそと果物ナイフを持って現れた八戒は、先ほどと同じソファに座り、林檎の上部にナイフを当ててしゅるしゅると球体に沿うように皮を剥き始めた。それにならって赤く薄い皮がするすると下に長くおりていく。
「器用なもんだな」
「はは、でも林檎剥くのって楽しいですよ? 全部切れずに剥けると嬉しいですし」
 そう笑いながら言う間は八戒は手元を見ていないにもかかわらず、それでも手は止まることなく長い赤のリボンを生み出していっている。驚異の器用さだと内心妙なところで感心した。
「はっかーい、洗ってきた!」
「はい、じゃあ周りを汚さないように食べて下さいね」
 自称保父さんだがもういっそ母親の風体で八戒は悟空の頭を撫でた。すると悟空は先ほどと同じように八戒の隣にちょんと腰掛けた。それを見て三蔵も執務机から立ち、二人の向かい側のソファに身体を埋めた。しゃりしゃりと動物園の猿のように林檎をむさぼる悟空に、ハリセンでもくれてやろうかと思ったが今何かをして八戒の手元を狂わせてはならない、と三蔵は自粛して、その手の動きをじっと見つめた。それは悟空も同じだったらしく、するすると伸びる赤い皮をじっと見ている。
「すげーっ! 魔法みたいだ!」
 そう言われて八戒は少し照れたように悟空に微笑みかけた。ちなみにその瞬間も八戒は少しも手元を見ていない。そうしている間に八戒は林檎の下部に辿り着き、残った最後の皮を剥き終えた。皿の上にとん、と置かれた林檎は綺麗に赤い部分を取り去られている。それを八等分に切り分けて、楊枝を添えて三蔵の方に差し出した。
「どうぞ、三蔵」
 三蔵はその皿から一切れ林檎を取り、皿を八戒の方に押し返した。
「お前も食え。また痩せたな」
「あはは、実は最近悟浄がからっきしで家計が火の車……って冗談ですよ?」
 あまり冗談にも思えないリアルな話に三蔵が血相を変えたのを見て、慌てて八戒は両手を振った。そして皿から林檎を一切れ摘まんでそれに歯を立てた。
「あのアホに付き合うこともない、いざとなったらこっちに来い」
「ええ、ありがとうございます」
 ほわん、と微笑んだ八戒に、三蔵には付近の空気がパステルカラーに見えた。
 そんなほわほわした空気の中、空気の読めない悟空は、テーブルに伸びている林檎の皮をじーっと見つめていた。そしてそれを手に取ったり眺め回したりした後、その皮の一端を八戒の左手の小指に引っ掛けた。
「え、何です? 悟空」
 その後、その皮の反対側の端を持ったまま悟空は三蔵が座っている側のソファに回り、何やら今度は三蔵の左手に小細工を始めた。咄嗟に殴ろうとしたその左手を掴まれ、思わず動きを止めた三蔵に、悟空は今だとばかりにちょこちょこ何かをやっている。そして、満足そうに三蔵から離れた悟空は、胸を張った。八戒の小指に引っ掛けられたままの赤い皮はずっと伸び、反対側の端は三蔵の左手の小指に絡ませてある。
「赤い糸ってこんなかんじだろっ? うんめーのひとが赤い……糸じゃないけど」
 そう言ったあと、照れたように悟空は頭を掻いた。暫く目をぱちぱちさせていた八戒は、途端にまた顔を真っ赤にする。それに三蔵はニヤリと笑った。
「猿もたまにはやるじゃねぇか」
「さ、三蔵!」
「だろーっ?!」
 珍しく褒められて満面笑顔の悟空にそれ以上何も言えなくなって、八戒はかくりと頭を垂れた。先ほどに負けず劣らず耳まで赤い。いつも冷静で何にも動じない彼が時々見せる余裕のなさが愛しいと思う。
 が、悟空は何か拙いことをしただろうか、と俯いてしまった八戒の顔を覗きこみに行った。
「八戒? どうしたの? やだった?」
 いや、それは俺に失礼だろうと殴ってやろうかと思ったが、実際「イヤでした」と言われたら、とらしくもなく不安になって顔を上げた。が、それと同時に顔を上げた八戒とばっちり目が合ってしまう。すぐに逸らされるかと身構えたが、彼は赤い顔をしたままおずおずとぎこちなく笑った。
(くっ……)
 何だその可愛さは、と言葉を詰まらせた隙に、悟空がぐいぐいと八戒の服の裾を引いた。
「なぁ、八戒?」
「いえ、怒ってませんよ悟空。……ちょっと、嬉しかったんです」
 そう言ってくすぐったそうに笑う彼に、その反応を心配そうに見ていた悟空の頬が少し赤くなったのを見て、硬直していた三蔵の手がぴくりと動いた。
「……んの馬鹿猿!」
 部屋中に響いた痛そうな音に思わず八戒が肩を竦める。そして始まった親子喧嘩のようなやりとりに、思わず噴出してしまう。そして戦闘態勢に入ったか、二人がソファから立ち上がった。物を壊さないで下さいね、と思いながら、八戒はナイフを片付けようとテーブルに視線を戻した。そしてふとさっきの林檎の皮が目に入る。何となく、捨ててしまうのが惜しい。
「……折角だから、コンポートでも作って中に入れましょうか」
 そう呟いて、そっとその赤い皮を持ち上げた。

 いつか、それが血の色だと思えなくなるその日まで。











2005/9/12