最近、八戒の周りの空気が不穏だ。何をした覚えもないし、彼を取り巻く空気は、不機嫌な時のそれではない。
 では、一体?
(……。また見てる)
 最近、八戒がじいっと自分の背中に視線を注いでくることがある。それは殺意や悪意とも異なるが、熱い視線と言うにも程遠い。三蔵としては八戒にじっと見つめられるなら嬉しいのだが、くるりと振り返ると八戒は慌てて目を逸らしてそのまま逃げてしまうのだった。目を逸らすだけならいじらしい、ともとれるのだが、逃げるところまでいくと三蔵は自分が何かしたのではないかと考えるしかなかった。

 ちょっと気持ち悪い(悟空談)また、キャラが違う(悟浄談)と言われるほどに三蔵に甘やかされ溺愛されているにも関わらず、当の本人、八戒はさっぱり気付かずに、たまに「僕って愛されてないのかなぁ……」と鬱に入っているのだ。そしてそれを毎度聞かされるのは自動的に同室にされてしまう悟浄だ。まあ悟空は悟空で、八戒と同室になれなくて不機嫌な三蔵にやつ当たりされているだろうからそれよりは遥かにマシなのだが。
 しかし八戒に羨ましそうに「……もしかして本当は三蔵って僕より悟浄の方がいいのかなぁ」と呟かれた時には泣きそうになった。それは、八戒にうまく話しかけられずに窮地に陥った三蔵が逃げ道にいつも悟浄を使うせいである。八戒にとってはそれが、三蔵は自分とは話してくれないのに悟浄と話してる時は楽しそうだなぁ……というように見えるらしかった。
(見てる見てる、超見てる)
 あの三蔵が本命の前でもじもじしているのはかなり見ていて気持ち悪いので早々に解決して欲しいなぁと思う悟浄だったが、恋愛偏差値ゼロどころか経験ゼロで計測不可能な坊主と唯一の恋愛相手が姉、という薄幸美人の組み合わせではそううまくいきそうにない。いっそ八戒が三蔵に、「僕にも話しかけてくれなきゃ淋しいです……」とか言えば力技で何とかなりそうな気もする。が、八戒が自分の思うように動くはずがないのだった。いつも自分の意表を突く行動ばかりしてくれる同居人なので、下手したら「別れます」なんていうことも言いかねない。
 背後から八戒の視線を受けてどうしていいのか分からずに固まっている三蔵を横目に、悟浄は気付かれないようにため息をついた。

 なんて悟浄は思っているが、一番困っているのはこの三蔵である。愛しい恋人の無言の訴えを読み取ることが出来ずにその恰好のまま悶々と脳を働かせていた。何か怒らせる事をしたか、それとも自分が何か約束を忘れているのか、はたまた本当に何か訴えたいことがあるのか。
 もう既に持つ部分が熱いくらいに短くなり始めている煙草を灰皿に落とし、三蔵は足音と共に去っていった視線から解放されて大きく息をついた。どうするべきなのか、解決策が全く見えてこなかった。
 元からそう人とコミュニケーションを取るのを得意としていないのに加え、相手が相手なだけに尚更言葉が上手く出ないのだ。

 で、また八戒が三蔵をじっと見つめている。勿論背後から。こっそりと(のつもり)。三蔵はどうしていいのか分からずにカップを持って脚を組んだポーズのまま固まっている。きっと今頭の中で精一杯今後の対応を考えているであろうが、どうせ三蔵では碌な対応を思い付き得ない。
 悟浄は眉を寄せてテーブルの端で頬杖をついて顔を逸らした。なんて不器用な恋愛だと思う。いつぞや自分がいなかった時に三蔵が、八戒を“中学生日記の学級委員”と称したらしい。まあ確かに言い得て妙だ。しかしこの状況では今の自分は、学級委員と金髪不良のもどかしい恋愛劇を見せ付けられているクラスメイトといったところか。
(……うわぁ、イヤー……)
 そのものずばり想像してしまって厭な気分になってきた悟浄はとりあえず煙草を取り出して火をつける。そして三蔵が、うっかり持っている部分まで灰にしてしまって驚いて煙草を振り落とすという、何とも間抜けなシーンを目撃して更に溜息を吐いた。じっと三蔵の後ろ姿を見つめていた八戒も、何か諦めたように哀しそうに溜息を吐いて、部屋の外に出て行ってしまった。そしてそれと入れ違いになるように悟空が部屋に入ってきた。肩にはジープが乗っている。
「おいサンゾー、八戒に何したんだよ? 八戒何か落ち込んでた……」
 部屋の外を不安げに窺いながら、唇を尖らせた悟空が三蔵を責めるように目を細めた。
「……知るか」
「正確には分かんねぇんだろ」
「テメェには分かんのか」
 勝手なことを言う悟浄を責めるようでありながら、答えを求めて悟浄に探りを入れているようでもある三蔵の目には確実に焦りが見えている。相当切羽詰っているらしい。
 猪八戒といえば、学級委員タイプでありながら一旦怒らせると喧嘩番長にもなれる(普段は主婦)オールマイティーなタイプだ。何かふとしたきっかけで怒らせたら、その怒りに任せて三行半を叩き付けられそうだ。いや、旦那が三蔵だとしたら書かされるのか。

「手前らの痴話喧嘩の理由なんて俺が知るかよ!」
「喧嘩なんてしてねぇ!」
「……」
「……」
「……マジで?」
「ああ」
 真面目な表情で顔をつき合わせる二人に、その横で悟空が目を見開いている。
「三蔵、マジで理由分かってなかったのか……」
「……いくらなんでもあんなに背後から見られてたら喧嘩してても謝る」
「……それもそうか」
 いくらなんでもあの無言の攻撃に耐えられるはずはない。つまり喧嘩した覚えもないのに冷戦状態に縺れ込んでいるということだろうか。ならば原因は。
「……お前以外に原因は有り得ないんだからな」
「……」
 そう言うと三蔵は苦虫を噛み潰したように顔を顰めて、まだ長い煙草を、もう既にこんもりと吸殻が溜まった灰皿に突っ込んだ。あのままでは吸殻がそのまま発火しそうで怖い。と、思ったら早々に悟空が水を汲んできて吸殻にぶっかけている。これも八戒の教育の賜物だろうか……ではなく、今問題なのは、悟空の掛けた水が袖に染みつつあるのにも気付かずに頭を悩ませている、目の前の最高僧だ。
(どーするよこの坊主……)
 普段の傍若無人ぶりを見ていると言うのすら躊躇われるが、これはかなりの奥手だ。八戒だって悟浄から見れば決して積極的なタイプではない。が、その八戒すら焦れるほどに三蔵が奥手なのだ。いやむしろ八戒は焦らされているという見方をしていて、冷たい人だとか、そういった却って悪い印象になってしまっているかも知れない。
「……喧嘩してないと思ってんのはお前の方だけかもよ?八戒が何かお前に不満があんのかもしんねぇし」
「……」
「早い所解決した方がいいぞー、ある日突然別れましょうとか言われてもフォロー出来ねぇからな」
 片眉を上げて面倒臭そうに言う悟浄の隣で、悟空とジープがうんうんと頷いている。動物たちにまで諭されている自分に嫌悪を抱きつつ、三蔵はテーブルに置いていた煙草を懐に仕舞った。そして大きく息を吐きながら立ち上がる。
「あら、奥様のご機嫌取りに行くの?三蔵様ってば」
「るせぇ」
 いつものように銃をぶっ放したりハリセンを取り出すような心の余裕もないらしい三蔵は、そうぽつりと返しただけでそのまま部屋を出て行った。ぱたん、とゆっくりドアが閉まり、部屋に残された悟浄と悟空は顔を見合わせた。

「あーもー、何だっつうのな」
 やってられねぇ、とばかりに悟浄が頭を掻きながら言うのに、悟空は目を瞬かせながら訊ねた。
「なぁ、三蔵は八戒が何考えてるのか気づいてないのか?」
「あ?そりゃあ分かんねぇだろ」
「……」
 そう答えると悟空は、その金の瞳を瞬かせて不思議そうに三蔵の出ていったドアを見つめた。
「……どうしたんだよ、悟空」
「……ホントにわかんないのかよ、三蔵」
「は?」
 どこか非難するように口を尖らせてドアを見る悟空に、悟浄は目を瞠った。
「お前は、何で八戒があんなんなのか知ってんのか?」
「見ればわかるだろ! 悟浄も八戒と長いこと一緒に暮らしてたのに全然わかんないのかよ!」
 悟浄を責めるようにそう捲し立てられて少し気圧されつつも、悟浄は前のめりになって責めてくる悟空の体を押し返して、とりあえず落ち着かせた。

「八戒は! さびしーんだよ」
「は?」
 向かい側の席に座って力説する悟空に、悟浄は間抜けな声を漏らした。それにジープがやけに冷たい視線を送ってきてどうにも居心地が悪い。家にいた頃から折り合いがあまり良くなかったこの同居人のペットは、自分の主人がなにものにも替えられない第一優先事項らしく、悟浄が八戒と喧嘩をしても、八戒を困らせる行動をしても後でべしっと羽根で叩かれる。しかも八戒のいない時に。
 悟浄がじりじりとその白竜と間合いを取っていると、じとっと目の前の悟空に睨まれた。
「だって三蔵、最近八戒と二人きりになってねーもん」
「えー……? ……あ、そう、いえば……そうかも」
「それに何かっつうと悟浄とばっかり話してるし、八戒が三蔵見ると三蔵なんか固まっちゃうし」
 どうやら動物たちは落ち込んだ八戒のフォローで大忙しだったらしい。道理で最近悟空が三蔵に纏わりついていなかった訳だ。
「……三蔵は、もう八戒のこと好きじゃないのかな?」
 珍しく沈んだ、そして真摯な声で呟いた悟空に、つい先ほどまで殺気立っていたジープも広げていた羽根を収めてテーブルにトン、と降り立った。
 そんな彼らをどうしていいのか分からず、悟浄は窓から外に視線を送る。外は快晴だ、空も透き通って青い。
 風が強い日だ。





 部屋を出た三蔵は、出てきたはいいものの一体八戒がどこにいるのか分からなかった。カードは預けてあるので買い物かもしれない。しかしこの前の戦闘で服を大層汚したので洗濯かもしれない。悟空がさっきまで腹が減ったと騒いでいたから台所を借りているのかもしれない。服は着替えてきたし煙草も持ってきてあるので町に出て探すことも出来る。
 ……しかし、彼の行動は大体読めているのに、どうしても彼が考えていることは分からなかった。
 どうしてあんな目で見るのかも。どうして声を掛けてこないのかも。
 分からないことばかりで苛々する。
 何より、彼にあんな顔をさせるような行動をしたのであろう自分に嫌悪を抱かざるを得なかった。

 一階まで降りた三蔵は、とりあえず食堂を覗いて調理場に誰か立っているか確認する。するとそこにいた宿の女将と目が合い、にっこりと笑って会釈された。気まずくなったのでとりあえず会釈し返して、そのまま食堂を出る。やはり買い物に出たのであろうか。
 ぼんやりと考え、とりあえず市へ行ってみようかと玄関に向かおうとすると、先ほど調理場にいた女将が食堂の入り口から顔を出した。
「あの美人のお兄さんなら庭で洗濯物干してるわよ」
 愛想良く教えてくれた彼女に謝意を伝えて、そのまま玄関を出てぐるりと庭に回る。あと一つ曲がれば庭、という角に差しかかると、庭の大きな木に括り付けられた洗濯紐が見えた。そこには見慣れた悟空の小さいズボンと悟浄の大きなジーパンが並べて干してある。

 そっと庭に一歩足を踏み出すと、さくりと庭の草が音を立てた。が、それは風の音に掻き消されて殆ど聞こえることはなかった。
 八戒が立っている。粗く編まれた籠を持ちながら移動し、一つずつ丁寧に洗濯紐に服を掛けていっている。洗濯バサミで吊るす訳でもないのだから、あれをいつも一人でするのは大変だろうに、一度も彼が不満を漏らしたことはなかった。
 時折、洗濯物を持ち上げる時に目を伏せがちにすると少しだけ目の印象が暗くなって、悟能の頃の彼を思わせる。それが、洗濯物を干すために上向きになると太陽に白い肌が晒されて際立って明るく見えた。光に透けて少し眩しそうに細められた目は、透き通って綺麗な翠だ。
 悟空の上着、悟浄のシャツを干し終えた彼は、滲んだ汗を拭いつつ、籠から最後の洗濯物を持ち上げた。三蔵の法衣だ。先日泥塗れ血塗れにされたはずのそれは、八戒の手に寄って丁寧に染み抜きされたのだろう、元の輝くばかりの白さを取り戻して太陽の下、ひらりひらりと揺れている。
 それを両手にとり、少し辛そうに眉を寄せた後、八戒はそれも洗濯紐に通し、紐の端を脇のこれまた大きな木の幹に括り付けた。すると紐に吊るされた洗濯物が一気に持ち上がって、いつもより少し強い風に揺れた。陽射しは良好で、これなら日没までに乾くだろう。
 風に揺られる洗濯物を見上げていた八戒は満足そうに口元を緩めて、足元に置いてある籠を持ち上げ、宿に戻ろうと三蔵のいる方を向いた。


「……いつから、いらしたんですか?」
「、……いや、今来たばかりだ」
 一瞬目を瞠った八戒は、すぐにそれを取り繕うように表情を緩め、努めて穏やかに微笑みかけてきた。その作った表情が苛立たしくて三蔵は顔を顰める。これでは、まだ自分に距離を置いていた悟能の頃に逆戻りしたような状態だ。
 八戒は少し居辛そうに身体を縮こまらせて、籠を抱えて微かに俯いた。時折強く吹く風で濃茶の髪がさらさらと流れる。それを目で辿りつつ、三蔵は一歩ずつ八戒との差を詰めた。
 びく、と微かに怯えたように肩を竦ませたのを見ない振りをして、そのまますぐ傍まで近寄る。ずっと俯いていた彼は、もう逃げられないと思ったのか、さらさら揺れる前髪越しに、翠の瞳を三蔵に向かわせた。
 そして再び顔を上げた時、彼は少し困ったような笑顔を張り付かせていた。そして三蔵を伺うように少し首を傾げて、取り繕ったような微笑みを見せる。
「あ……もう洗濯は終わりましたから……えっと……部屋で待っていて下されば今コーヒーをお持ちしようと思ったんですけど」
 そう言って笑った八戒は、ぎゅっと籠を抱えた手を握り締めた。
「部屋で待っていて下さい。すぐに上に行きますから……」
「顔くらい見ろ」
「だから、すぐに……」
「顔が見られないような後ろめたいことでもあるのか?」
 その、自分の横をするりとすり抜けて行ってしまいそうな態度に苛立って、つい口調が責めるようなものになってしまう。それでも八戒は目を合わせることなく、俯いたまま籠の網目を目で辿るようにしている。その煮え切らない態度に三蔵は顔を顰めた。
 目を合わせない真意にも、その行動にも、ぐっと胸が締め付けられる。
「八戒」
「ですから」
「それ以上話すなら目を見ろ」
「……」
「言わなきゃ分からんこともある」
 言ってしまってからうっかり子どもを叱る親のようなことを言ってしまったと気付き、少々ばつが悪くなる。が、今更撤回する事も出来ずに、籠を抱えたまま俯く八戒の揺れる前髪を見た。自分の方が少しばかり背が低いせいで、俯いているのにも関わらず、暗い色を湛えた翠の瞳が前髪越しに見えてしまう。

「……付き合う前の方が、よかったです」
 ぽつり、と俯いたまま零された言葉に三蔵は目を瞠る。
「何だかんだ言って三蔵は悟空のこと大事にしてるし、喧嘩ばっかりしてるけど悟浄とも仲良いですよね。それなのに最近僕が話しかけてもすぐに悟浄の方に逃げるし、かといって僕が悟空と話してると割り込みますよね」
「おい」
 そう言って急に顔を上げたと思えば、その光に透ける翠玉にきつく睨みつけられた。うっすらと潤んでいるように見えるのは、突然興奮したせいか、それとも。
「……実際、あなたに好きだって、言われたこともないんですよ」
 そして、きゅ、と苦しげに寄せられた眉に胸を突かれる思いがした。
 好きだと伝えてくるのはいつも八戒だった。そして、その八戒に好きかと問いかけられて頷くだけなのがいつもの三蔵だ。非情に思われても仕方がない。独占欲ばかり先に立って、籠に押し込めて餌を与えず飼い殺しするような行為だ。
「僕は……」
 続けて何か言おうとして、躊躇ったように唇を噛む。そして顔の右側を手で覆い、ぎゅっと目を瞑った。それが彼の深い苦悩を表しているようだった。そして再び躊躇いがちに開かれる唇を、少しだけ目を細めて見つめた。
「あなたは抱き締めてはくれるけど、言葉なんて少しもくれたことないでしょう」
「……」
 確かに事実なのでそう言われればぐうの音も出ない。身体を縮こまらせて沈んだ表情で呟く八戒の、その肩を抱き寄せたい衝動に駆られたが、もしかしたらその行為そのものが彼にとっての不安要素なのかもしれない、と思い留まった。
 籠を抱きかかえるその細い手が痛々しい。水まわりを扱ったせいか、その指先は微かに赤かった。
 自分が悟浄のように簡単に甘やかな言葉を吐けるような体質だったら良かったのだろうか。そうだったら彼にこんな顔をさせなかっただろうか。そう思うと、八戒は心を読んだかのようにそっと顔を上げて、苦笑して見せた。が、またすぐに笑顔を取り繕えなくなって俯いてしまう。
「……愛してるだとかそういうことを簡単に言わないのはあなたの誠実さだって分かってます。それと……男同士で、愛してるも何もあったものじゃないとも、」
 そう言った八戒の言葉尻は、風に攫われてよく聞き取れなかった。その風に煽られた濃茶の前髪の隙間から、決して自分を見ようとしないこの上なく綺麗な翠玉が覗く。
 彼の失くなった右目をわざわざ有名な技師まで呼んで金に糸目をつけず作らせたのは、片割れを失くして光を失ったその両の瞳に、再び自分を映すためだった。
 そして今この瞬間、彼の目に自分は映っている。だが彼自身は自分を見ようとはしていなかった。その贋物の磨き上げられた面に自分が映っている、ただそれだけだった。
 求めたのは、こんなものじゃなかったはずだ。

 何も言えない三蔵に唇を噛んだ八戒は、微かに視線を上げて、囁くような声量で呟いた。抱え直した麻籠が小さな音を立てる。
「それでも、僕だって好きだって言って欲しいし、あなたを抱きしめたりしてみたいんです」
「……あ?」
「……呆れるのも馬鹿にするのもあなたの自由です」
 突然の言葉に呆けた声を漏らした三蔵に、馬鹿にされたと思ったのか八戒は頬をカッと火照らせて視線を強くする。そして籠を抱えたまま脇をすり抜けて宿の方に戻ろうとした。言葉をまだ完全に理解する前ではあったが、今行かせてしまってはいけないと、無意識に背を向けた八戒の腕を掴んだ。その衝撃で彼の手から籠が離れて、麻の軽い籠は短い草の上にころころと転がった。
「……放して頂けませんか」
「落ち着け八戒」
「もう、いいです」
「勝手に終わるな」
「……始まってさえ、いませんでしたよ」
 何もかも諦めてしまったように、投げ遣りに微笑んだその顔が、死を覚悟した悟能を髣髴とさせて奥歯を噛んだ。
 過去を克服し自らで過去の幻影を消し去ることで、八戒は変わったと思っていた。だから、彼は強いと安心していたのかもしれない。元来、そんなに屈強なわけではないのを知っていながら。
 かぶりを振った八戒は、三蔵の手から逃れるように掴まれた腕を振るった。が、放す訳にもいかない三蔵はその腕を掴んだまま強く引き寄せる。そして少しバランスを崩した身体に両腕を回して逃れられないように抱き寄せた。
「ちょっ……三蔵! はな……」
「抱き締めたいならすればいいだろう」
「……あなたは隙がないんです」
「何だ隙って」
「……いつも、悟浄か悟空が一緒にいるし、僕のこと警戒してるし」
 やっと大人しくなり、自分の肩に顔を伏せた八戒がぼそぼそと呟くのを聞きながら、愚図る子どもをあやすようにそのさらさらした後ろ髪を撫で、ぽんぽんと叩いてやる。その動作を三組ほどやったあと、ふと思い立った。
「……じゃあ最近俺のことを背後から見てたのは……」
「気付いてたんですか」
 そう言って少し顔を起こした八戒は、責めるように軽く三蔵を睨みつけてきた。
 気付くに決まっている、と心の中で愚痴りながら、それでもやっと解明された謎に大きく息を吐く。と、同時にその行動がいじらしく思えて、細い肩を抱きしめた。
「だが俺と同室になりたがらなかったのはお前だぞ」
「気まずくなるのが嫌だったんです」
 むう、と拗ねたようにまた顔を伏せた八戒は、こつんと頭を三蔵の肩にぶつける。いつも悠然とした大人の対応をする彼がこういう子どものような態度を取るのが面白くて、背中に片腕を回しながらもう片方の手でその頭を撫でた。すると子ども扱いしないで下さい、と軽く睨まれてしまった。
「抱きつきたいなら構わずすればいいだろうが」
「抱きつくんじゃなく、抱きしめたいんです」
「あ?」
「どうしても、僕が抱きしめても抱きついてるようにしかならなくて……僕より三蔵の方が小さいのに」
 聞き捨てならない言葉を聞いたような気がしたが、不貞腐れたようにぼそぼそ言うのが何だか幼く、可愛く感じられて三蔵は小さく笑う。懸命に抱きしめようとしてくるその身体を抱きしめ返しながら、宥めるようにその背中を撫でた。
「十分だ」
「足りません」
「……そうだな」
 即答するのが何だかおかしくて笑みを漏らしそうになったが、笑ったらまた拗ねられてしまいそうなのでそれを収めて、目の前の、少しだけ自分より高い位置の、薄い肩に額を預けた。

 背後からの無言の攻撃はどちらも悪いとしても、そもそもの原因の“言葉が足りない”というのは確実に自分のせいだ。大人しくなった八戒の頭を肩に乗せて宥めながら、小さく息を吐いた。
 その溜息をどう思ったか、八戒が不安そうにそっと顔を上げた。その視線にも居た堪れなさを感じながら、もう一度息を吐く。
「その……だな」
「?」
 不安げに三蔵の様子を窺う、どこか暗い翠の目が余計に胸を締め付けて口の動きを止めてしまう。
「……その」
 そこまで挙動不審でどもられれば、聡過ぎるほど聡い八戒でなくても何をしようとしているのか分かるだろう。それを見て八戒は少し困ったように眉を垂れた。
「あの……無理に、言って欲しいわけじゃないんです」
「無理じゃない」
 無意識の内にそう返してしまったあと、三蔵は深く深く後悔した。別に言いたくない訳でもないし言えない訳でも……言えないだけなのだが、今急に言わなくてはならない状況になるとは十分前の自分は思いもしていなかったわけなので、心の準備というものが出来ていなかった。その様子にますます八戒は戸惑ったように眉を寄せた。
「あの……だから、さんぞう……」
「八戒」
「あ、は、はい!」
 何とかここ数年使っていなかった勇気を振り絞って名前を呼ぶと、驚いたように八戒は背筋を伸ばした。そしてその時丁度勢いで言ってしまおうと息を吸い込んだ三蔵と目が合う。その途端脱力して吸い込んだ空気は声を発することなく吐き出される。
「……」
「……」
 数秒間の沈黙が続き、二人のほんの二十センチほどの間を風が通り抜けていく。どこか遠くからジープが細く高く鳴く声が聞こえた。
 ひたすら続く沈黙に、どのタイミングで視線を逸らしていいのかも分からずに見つめあったまま立ち尽くすことになった。
「……何で赤くなる」
「な、何でって、三蔵が赤くなるからじゃないですか!」
 両手を頬に当てて怒る八戒に、三蔵もまた自分の頬に手をやってみる。赤いのか。赤くなっているのか。
「もう、言うならさっさと言ってください! 言わないならそれでいいです!」
「ちょ、待て八戒!」
 沈黙に耐えかねたようにそう早口に言った八戒は赤い顔のまま強く三蔵を見つめる。一瞬尻込みしそうになったが、ここで退いては男の恥だと妙な決心をした三蔵は、両手を八戒の肩に置いた。びく、と反射的に彼の肩が小さく跳ね上がる。
「……あ」
「……、あ、あああ!」
 かなり力を振り絞って声に出そうとした瞬間強い風が吹き、それをも掻き消すような声を上げて八戒はするりと三蔵の腕から出ていってしまった。
「おい、八戒!」
「悟空のズボンが飛んでっちゃいました! あ、ちょ、三蔵! 悟浄のパンツが飛んでかないように押さえてください!」
「断る!」
「汚くないですってば!」
「汚ねぇ!」
「僕が毎日ちゃーんと綺麗に洗ってます!」
「河童のパンツなんてその手で洗うんじゃねぇ!」
「じゃあどうしろって……っ」
 草むらに落ちた悟空のズボンを取って三蔵の元に戻ってきた八戒の左手を取る。そしてその手の甲に口付けながら苦々しげに顔を顰めた。
「折角綺麗なんだ。大事にしろ」
 そう言い、顔を上げると、その手の主は顔を面白いくらいに赤く染めていた。そして見られているのに気付いてふっと顔を伏せながらぼそりと呟く。
「……あなたって人は……」
「あ?」
「好きとか愛してるとか言えないくせにそういうことは普通に言うんですね……」
 三蔵の耳には届かなかったそんな小さな呟きが、晴天の空の下で風に攫われていった。




「よかったー……喧嘩してない」
「きゅ」
 部屋の窓から三蔵たちの様子が見えることに気付いた悟空とジープは、こっそりと窓から少しだけ顔を出して二人の様子を伺っていた。その脇から悟浄も庭を見ていた。何やら赤い顔をして言い争っているようだが、別段喧嘩をしている様子には見えなかった。微かに聞き取れた単語は、八戒の発した“悟浄のパンツ”という言葉のみ。
「ってゆーか、何で俺のパンツで喧嘩……?」
「悟浄のパンツが臭すぎたんじゃね?」
「臭くねぇ――――!!!」
「きゅっ!」
「やべ、三蔵に気付かれた!」
「ぬおっ?!」
 鋭く鳴いたジープに倣って外を見ると、般若のような顔で二階の窓を睨みつけている三蔵が、銃の照準を二階の窓に合わせていた。横では八戒が頭を抱えてしゃがみ込んでいる。何やら耳まで赤い。
 銃声が辺りに響くまで、あと僅か。











2005/10/9