きっと、明日のあなたはもっと違う人。

 あの日のあなたに手が届かない。
 明日からのあなたが、見えない。


 三蔵は、ふと目を覚ました。ぼんやりした視界の中、右側からぼんやりと水色の光が差し込んでくる。顔を右に傾ければ、水色のカーテンが外からの光を透かして、水色の光を部屋の中に投影させているのだと分かった。きっともう朝なのだろう。
 光のせいで目が覚めたのだろうか。そう寝起きの頭で考えながら、三蔵は硬直している右腕を布団の中から出して、それで前髪を掻きあげた。そして、伸びをしようと両腕を頭の上に上げようとした三蔵は、聞き慣れないものを耳にした。
「……っ、ぅ……っく」
 それは聞き慣れない唸り声だった。野生動物か何かが入り込んだか、それとも妖怪か。布団の中で動かぬまま意識を集中させた。しかし自分が全く気付かないほどに気配を消せる妖怪などいるはずがない。ましてや単なる野生動物がそんなことを出来るわけがなかった。じっと気配を探っても、何も感じるものはなく、三蔵は枕元の銃を持ち上げ、ゆっくりと上体を起こす。四方八方に意識を研ぎ澄ませながら、室内を見渡す。しかし目に入るものは何の変哲もない家具ばかり。では、あの声は……。
「ぐ……ぅ……う、う……」
「っ」
 そういえば過去に聞いた事のある声だ、と三蔵の記憶の中のそれとこの声がオーバーラップした。
「悟空……?」
 そう、あれは悟空の制御が外れた時の唸り声に似ていた。まさか寝ている間に何かがあって制御が外れたのか、しかしそうだとしたら自分が無傷でここにいるとは考えづらい。咄嗟に三蔵は顔を、少し離れた隣のベッドを見た。その布団は丸く盛り上がっており、中に悟空がいるのは間違いない。だがその膨らんだ部分は微かに震えていて、その中から先ほどの唸り声が漏れ出てきていた。
 三蔵は布団から足を抜き、ベッドから降りた。そして数歩歩き、その悟空のベッドの脇に立った。あの制御が外れたときのような禍々しい妖気は感じない。多分、危害は加えてこないだろう。そう息を吐きながら考え、その布団の端を少し掴んで、軽く捲る。そこから覗いたのは、きつく握られている悟空の左手だった。爪は長くなっていない。その握り拳もブルブルと震えていた。そのまま三蔵は布団を全部剥ぎ取った。するとそこには、ベッドの真ん中で丸くなってブルブル震えている悟空がいた。横顔は青白く、歯軋りしている。
(具合が悪いのか……?)
 三蔵はそういった病気に詳しくない。それに悟空ははしゃぎすぎて熱を出したり木から落ちて怪我をしたりすることはあっても、酷い病気になったことはなかった。三蔵が見たことがあるのも風邪を引いたところくらいだ。
「……悟空、悟空」
 とりあえず揺すって声を掛けてみる。だが、悟空は今までと変わらず唸りながら、うわ言のように何かを呟くだけだった。



 ドンドンドンドン!
 朝早くからそんな風にノックで起こされて気分のいい人間はいない。悟浄も勿論その一人だ。しかも悟浄は他の三人に比べて極めてまっとうな神経を持ち合わせている、いや普通よりも繊細なくらいだと思いたい。鳴り止まないノックに、悟浄は布団を跳ねのけた。ふわふわと肌触りのいいその布団は惜しかったが、折角の気分の良い眠りから叩き起こされた身としては一発くらい殴らなければ気が済まない。
 ベッドから降りて足音も荒くドアに向かおうとすると、背後から何やら「ふにゃ……」と間の抜けた声がした。振り返るとそこでは、ぼんやりと目を擦っている八戒が上体を起こそうとしていた。
「なにか、あったんですか……?」
「おー、さっきからノックが煩くってよ」
「さんぞう、ですかねぇ……」
 ベッドの上で上体を起こして、ふわふわと猫のように欠伸をしている八戒に苦笑して、悟浄はドアに向かった。八戒は他の三人よりもずっと疲れているはずなのだ。起こしてしまって悪かった、とらしくもなく反省した。
「はいはいどちらさ……」
「八戒は起きているか」
「……三蔵様。あーたね、今何時だと……」
「早くしろ」
 戸口で二人が押し問答をしていると、背後からとてとてと目を擦りながら八戒が顔を出した。
「すみませんさんぞう、おそくなりました……」
「八戒、お前は疲れてんだから謝るこたねぇよ」
「ああ、すまんがこっちの部屋に来てくれ」
 三蔵の口から漏れた“すまん”という言葉に目を瞠ったものの、それは八戒一人に対してのものだと理解すると悟浄は呆れたように息を吐いた。三蔵様は八戒にだけはとてもとても甘い。
「何かあったんですか?」
 ことん、と首を傾げる八戒に、三蔵は少し顔を顰めた。それに悟浄もふいに真剣な顔になる。
「どーしたよ? 三蔵」
「悟空の様子がおかしい」
 それに八戒の顔が強張る。悟浄は咄嗟に、在りし日に彼に噛みつかれた腕を庇った。どんな怪我でもその時の事を思い出すと何故か傷口が疼くものである。
「それは、一体……」
「分からん。何かに魘されていて……泣きながら何かを呟いているが聞き取れない」
「それは……」
 八戒はすぐに部屋の奥に戻り、上着を持って戻ってきた。それに倣って悟浄も部屋を出た。

 悟空はまだ魘されていた。ベッドで丸くなって唸っている姿は手負いの獣のようにも見える。一瞬悟浄は怯み、三蔵は顔を顰めたが、八戒は臆することなくそのベッドに手をついて悟空の顔を覗き込んだ。そして額に手を当てたり髪を梳いたりしている。
「……悟浄、宿のおばさんにお願いして、水を入れた桶とタオルをお借りしてきてくれますか」
「あ、お、おう……一応飲み水もいる、よな?」
「あ、そうですね……お願いします」
 慌てて部屋を出ていく悟浄を腕組みしながら見ていた三蔵に、八戒は声を掛けた。
「三蔵は部屋を出ないで下さいね。悟空に何かあったときに止められるのはあなただけです」
「……分かってる」
 優しく、しかしきっぱりと告げられた八戒の声には、少しの苦さが含まれていた。また過去の事を考えているのだろうとすぐ分かったが、今言ったところでどうにもならない。三蔵は口を噤んで、鏡台の前にあった椅子を、悟空のベッドの傍に引き寄せて座った。それを見ていた八戒は薄く笑った。そして自分は悟空のベッドの端に腰掛けて、そっと悟空の髪に手を差し入れる。その瞬間。
「ぐ、うぁ、あ……ッ……っぁあああぁ……」
 一層強く唸り出した悟空に、思わず三蔵も腰を浮かせ、いつでも対応出来るようにとベッド際に寄る。八戒も一瞬怯んだものの、すぐにもう一度悟空の額に手を当てた。そしてドタドタと足音が廊下から響いてくる。バン、と強く開け放たれたドアから悟浄が駆け込んできた。
「ほらよ、水とタオルと、手拭いしかなかったんだけど」
「十分です、ありがとうございます」
 まずタオルだけ受け取った八戒はベッドに戻り、悟空の汗や涙に塗れた顔を拭いていく。三蔵は悟浄からミネラルウォーターのボトルを受け取り、ベッドのサイドテーブルに置いた。悟浄は八戒の足元にその水桶を置いて、そのまま悟空の顔を覗き込んだ。
「どうよ、こいつの様子」
「ええ……さっきから一層強く唸っているので……」
 そう言って八戒が悟浄の方に顔を向けた瞬間、八戒の腕の下の悟空の手が一層大きく震えた。
「八戒!」
 三蔵の声が届き、八戒と悟浄は悟空に向けて視線を下ろした。悟空は大きくかぶりを振り、滲む涙を散らしている。歯は噛み締められたままで痛々しい。
「……何か、悪夢でも視ているようですね」
 ベッドの上でのた打ち回る悟空を、そっと押さえながら八戒は苦々しげに言った。それを見て三蔵もベッド脇に腰掛け、仰向けになった悟空の左腕をベッドに押さえつける。
「――――……い、……ょ……・」
 微かに聞こえた言葉に、八戒は目を見張る。そしてその後三蔵に目をやったが、三蔵にはそれが聞こえなかったようだ。次に悟浄を見上げると、彼もまた自分と同じように目を見開いていた。そして自分を見ている八戒に気付いた悟浄は、もう一度悟空に視線を戻した。
 ――――確かに言ったのだ、『はっかい、ごじょう』と。

 そしてしばらくブルブルと首を振っていた悟空は、一瞬、ビクンと一層大きく身体を揺らした。そして。
「っ……ぅ、う……ああああああぁぁぁああああっ!!!」

 大きな叫び声を上げてバッと起き上がった悟空に、悟浄は一瞬怯み、三蔵はその身体をもう一度ベッドに押し戻そうとしたが、それを八戒に制された。
「八戒……?」
 訝しげな三蔵の返事に答えることなく、八戒は涙で濡れた顔のままきょろきょろと周りを確認する悟空を、両腕で引き寄せて胸に抱きこんだ。
「……大丈夫ですよ悟空、ここにいます」
 そう囁くように言った八戒に、三蔵は目を見張った。そして次に悟浄も、ポン、と悟空の頭に手を乗せだ。
「おう、俺もここにいるぞ」
 そう言って微笑む二人を見て、恐慌状態だった悟空はほうっと息を緩めた。その途端、堰を切ったように金の瞳からぼたぼたと涙が零れ落ち始める。それで服が濡れるのも構わずに、八戒は悟空の顔を自分の肩に抱き寄せた。小さなその身体ごと抱き寄せて、小さな子供をあやすように、自分の身体ごと揺らし始める。それでも悟浄も悟空に触れた手を離すことはなかった。それがどうにも、“若い夫婦と小さな子供”の図に見えて面白くない。
「……おい」
 声を掛けていいものかと迷ったが、三蔵は控えめに声を掛けた。すると八戒は少し困ったように笑い、悟浄は余計なことを、というように三蔵を睨みつけた。八戒は相変わらず、母親のような微笑でしゃくりあげる悟空の頭を見下ろしている。
「何があったんですか? 悟空」
「……っ、の、……は、はっかい、と、ごじょ、が、おれにはっ、さんぞうが、いるから……って、ふたりで、敵の、方に……・っ、で、ふたり、とも……っ」
 そう途切れ途切れに言った後、また小刻みにしゃくり上げ始めた悟空を、八戒は痛ましげな目で見下ろし、その背中を優しく擦った。それを、三蔵は複雑な想いで見つめていた。




「つまり、僕とあなたが“悟空には三蔵がいるからこれからも旅を続けられますよね?”っていうようなことを言った後、二人で特攻隊紛いのことをしたっていう夢だったんですね」
「マジ笑えねえ……」
 八戒の殊更丁寧な説明に、悟浄は煙草の煙をドーナツ状に吐き出しながら言った。八戒はベッドに乗り、その膝の上に眠る悟空を乗せて抱き締めるようにして宥めている。三蔵は、タイミング悪くも訪れたこの町の寺の使者に呼ばれて寺へ行っている。一番可哀想なのはあの寺からの使者かもしれないとこっそり思った。
「何だってそんな夢……」
 苦々しげに言う悟浄に、八戒は苦笑した。内心、八戒は何となくの理由を掴んでいた。だがそれは言葉にすれば少し現実味を帯びないもので。
「……何となく分かってんじゃないの〜はっちゃん」
「……んー、忘れました」
「うっそん。はっちゃんてばボ……」
「ブン殴りますよ」
「ごめん。……でもマジ、何でよ?」
 さっきの冗談は、硬い表情をした自分を和ませるためだと分かっている。そんなところまで優しくて、本当にどうしようもなくいい人だ。八戒のことも、悟空のことも本気で心配してくれている。八戒は、一度嘆息したあと、ゆっくり口を開いた。
「実はね、悟空が見たっていうあの夢……僕は有り得ないとは思わないんです」
「へえ?」
 その相槌には含むところがありそうだが、まず全て話してしまってからにしようと八戒は決め、また口を開いた。
「多分、悟空は無意識の内に僕が考えていたことが分かっちゃってたんだと思います。……僕は心のどこかで、悟空は僕と悟浄がもし死んでも、三蔵さえいれば大丈夫なんじゃないかって、思っていました」
 八戒は、抱き寄せた小さな身体に触れる。こんなに成長していたのだ。触れる背中も、腕も、筋肉がしっかりついている。骨格もしっかりしてきているようだ。
「……悟空は優しい子ですから、もし僕が死んだら泣いてくれると思います。だけど、三蔵さえいればすぐに立ち上がれると思うんです」
 そうひと息に言い終えると、すっと目の前に悟浄の大きく武骨な手が伸びてきた。馬鹿なことを言ったから叩かれるのだろう、とぼんやり頭の中で考えて、歯を食い縛った。しかし、待ってもその衝撃は訪れることはなかった。その代わりに、ふんわりと八戒の頭にその手が乗せられる。すい、と視線を悟浄に送ると、少し憮然とした表情をした悟浄が、唇をひん曲げていた。
「また、変なこと悩んでやがるな」
「……え?」
「三蔵か? 三蔵になんかイジめられたんか? なんかされたんならすぐに言えよ」
 頭を撫でながらそう言ってくる悟浄の目は本当に真剣だ。その台詞はいじめられっこの弟を気遣う兄のようで、何だか笑えてしまう。
「……ありがとうございます。やっぱり優しいですね、あなたは」
「優しかねぇって、ま、お前相手だから?」
「それでも、です。……ホント、いい男ですよね」
「――――……これは喜ぶべきか当て馬にされる事を悲しむべきか、だな」
 そう言って悟浄は笑った。
 悟浄は何も聞かずに笑っていてくれる。三蔵ならこうはいかない。彼ならきっと自分が泣いて、逃げようとしたとしても、縛りつけてでも本音を吐かせるに違いない。本当に、悟浄を好きになればよかった。
「……ん、まーな……俺もお前の言うことが分からないわけじゃねえよ」
「え?」
「悟空は、強くなったからな」
 その“強さ”が肉体的なものではないことに八戒はすぐに気付いた。こころが、だ。思いやる心が出来た。年下の子供に対する時の態度は大人びていた。そして自我が生まれている。
「馬鹿らしい、ですよね」
 自分が必要とされないことがこんなにも苦しいなんて。



「ああ、お帰りなさい三蔵」
「ああ……」
 八戒はよたよたと部屋に入ってくる三蔵に声を掛けた。寺の僧たちにもみくちゃにされてきただろうことが容易に想像出来る。まさかキレて銃を乱射してはいないだろうか、そんなことになっていたら今すぐにでもこの町を出なければならなくなる。
「……お前が心配するようなことはしていない」
「あ、わかります?」
「わざとだろ」
「そんなことないですよぉ」
 えへ、と笑う八戒に、三蔵は顔を顰めた。
「……猿は」
「ええ、この通り。一度起きたので、お昼ご飯を三人で食べました。悟空にしては、あまり食べていませんでしたけど……今は寝息も穏やかですし、多分大丈夫だと思いますよ」
 そりゃあそうだ、と三蔵は思う。きっと八戒のことだから片時も悟空から目を離さなかったのだろう。ということは自分がいなかった時間の殆どは、八戒の膝枕で寝ていたということになる。そんな状態で悪夢など見るものか、と三蔵はその健やかな寝顔に、安心と共に憎らしさを感じるのだった。三蔵は眠る悟空に構いもせずに、八戒の隣に座った。その衝撃でベッドのスプリングが軋み、キシ、と音を立てた。
「……ったく、えらいことをしてくれるもんだ」
「そんな風に言ったら可哀想ですよ」
「猿じゃねぇ、お前だ」
「は?」
「河童と心中なんて、何考えてやがる……」
 そう苦々しげに言って、三蔵は懐から煙草を出して一本取り出し、ライターの火を点けた。
「そんな、悟空の夢の中の行動を責められても」
「それを考えなかったかと言ったら嘘になるだろう」
 そう問われた瞬間、口元が笑うのを忘れた。そして次に訪れた鋭い視線に、息が止まる。
「気付いてないとでも、思ったか」
「……そんな」
 批難するような三蔵の視線に息が詰まる。何だかんだ言って悟空のことは大事に思っている人だ、悟空の事を蔑ろにしたりして、内心呆れているかもしれない、もしくは本気で怒っているのかもしれない。三蔵は相変わらずムッとした顔のまま紫煙を空中に吐き出している。それを見上げる余裕も八戒には無かった。
「夢の中だって現実だって、結局お前は悟空のことしか考えていない」
「え?」
 予想外の言葉に、ふと八戒が顔を上げる。その顔がよっぽど情けなかったのだろう、三蔵は少し驚いたように目を見開いて、くしゃりと八戒の頭を撫でた。そして、少し言い辛そうに顔を顰めた後、少し顔を逸らして、ぽつりと独り言ちるように言った。
「猿には俺が居ればいいだとかなんて知ったこっちゃねぇ。だけどお前は残される俺のことなんて考えちゃねぇだろう」
 苦々しげなその口調に、その目を見ようとすると三蔵の武骨な指に額を小突かれた。
「イタ……」
「俺は猿がいれば他はどうでもいいわけじゃない」
 どこか聞く方が辛くなるような絞り出したような声に、八戒はパッと顔を上げた。すると三蔵は八戒から顔を逸らすようにして横を向いてしまった。
「三蔵?」
「……河童と心中なんて真似は、夢の中だけにしておけ。もし俺が同じことをしたらどう思う」
「え……」
 三蔵が、夢の中と同じ事をしたら。“自分が死ねば他の三人が助かるから”と命を捨てたら。
「いや、です」
「……」
「絶対、やです」
「俺も同じ思いをしてる。忘れるな」
 俯いた八戒の頭に、もう一度手を伸ばした三蔵は少し乱暴にその髪を撫でて、最後にポン、と叩いた。そして。
「最期まで付いてくると、誓え」
 低く、囁くように告げられた言葉に、八戒はそっと窺うように顔を上げた。
「俺がいれば猿は無事だとか、猿がいれば俺は無事だとか、そんな馬鹿なこと考えてんじゃねぇ。考えてもみろ、お前がいなくなればジープは臍を曲げるに決まってるし、俺が毎日毎日運転なんて出来る訳がねぇ。それに俺も悟空も料理は出来ん。西に着くまでに、特に悟空は確実に餓死だな」
「そんな……」
 そう言いつつも、そんな状況がリアルに想像出来るのが苦しい。
「俺の為と言えないのならジープと悟空の為にと理由を付けてもいい」
「っ、そんなこと、ないです!」
「じゃあ誓え」
 誓う資格などあるのだろうか、と一瞬躊躇が頭を過ぎる。だけど、目の前の最高僧はいつもながらの偉そうな口調なのに、どこか辛そうで。
「……どうすれば、いいですか……?」
 口にすることが出来たのは、それだけだった。だが、それだけで彼の顔から力が抜けたのが分かって、少し胸が痛む。自分には過ぎた約束をする事になるのかも知れない、遂行出来ないかも知れないと思うと、指先がきんと冷たくなった。膝ですやすやと眠る悟空の背中の上で、両手をぎゅっと握り締める。
「……何もしなくていい」
「え……」
「 今まで通りにジープを運転して、料理をして、あの馬鹿共の面倒を見て、俺の隣にいればいい」
「……」
「そして、お前の寿命が来るまで死ぬことは考えるな」
「……プロポーズみたいですよ三蔵」
 そう言うと、三蔵はふっと顔を逸らしてベッドから立ち上がり、窓辺へと歩いていってしまった。八戒は視線でその後ろ姿を追いながら、先ほどの三蔵の言葉を頭の中で反芻していた。ひょっとしたら馬鹿みたいな思い上がりを口にしてしまったのかもしれない。三蔵にとっての自分は、きっとこの旅をしている間だけの恋人に過ぎないのだろうに。そう思うと馬鹿みたいなことを言った自分が恥ずかしくなって、俯く。段々顔が火照り出してくるのが分かる。見下ろした悟空の横顔を見ながら、視界はじんわりと滲んできていた。
 あなたにぼくはひつようないと。そう自分に言い聞かせて理性を保っていたのに。
 いつか独りになる、自分の為に。

「……何故泣いている」
「ごめんなさい」
「謝れとは言っていない。……泣くほど嫌ならそれでいい」
 呆れたような、突き離すようなその口調に思わず肩が震える。どれだけそれを誓うことが未来の自分にとって苦しいことであろうとも、そうしなければすぐにでも彼は自分の元から去ってしまう。
「いやじゃ、ないです。だけど……」
「だけど?」
 窓枠に背中を凭れるように八戒の方を見た三蔵は、鋭い目を向けた。
「“旅が終わるまで”の、期限のある約束なんて、出来ません」
 結局自分が可愛いのだ。傷付きたくない。未来に自分が流すであろう涙が惜しい。
「……誰が“旅が終わるまで”だと言った」
「え?」
「端的に言う。死ぬまでついてこいと言っている」
 思考が一瞬停止した。

「……死ぬまで……?」
 三蔵は僕が旅の最中に死ぬと想定しているのだろうか。いやでもさっき“寿命が来るまで死ぬことは考えるな”と言っていた。じゃあ僕の寿命が旅の最中に来るということなのだろうか。
「……それは、いつまで、ですか……?」
「旅が終わって、俺とお前がジジイになるまでだ」
 三蔵の言葉は、八戒の屈折した複雑な思考を打ち砕いた。
「おじいさんになるまで……?」
「お前は約束は違えない主義だな」
「……はい」
 そして三蔵はじっと八戒の目を見つめた。窓の外から差し込んでくる夕日が、彼の後光のようで眩しくて直視出来ない。だが彼のその目は逸らすことを許さなかった。
 三蔵は咥えていた煙草を、窓辺のテーブルの灰皿に押し付けた。そして空いたその手を、ゆっくり八戒の方に差し出す。
「誓えるのなら、この手を取れ」
 少しごつごつした手。だけどあの手がどれだけ暖かくて優しいものか知っている。知ってしまったから。だから。込み上げるものが抑えられずに、急に熱くなった目の奥を押さえる間もなく、左の目頭からつうっと雫が零れた。三蔵はそれでも伸ばした手を下すことはせず、じっと八戒がそれを取るのを待っている。
 強くて優しくて、酷い人だ。
 八戒の目から零れた涙が、ぽたりと悟空の肩に落ちた。
 抗えない。それは自分に抗うつもりがないからだ。
 そっと、膝の上の少年をずらしてベッドの中央に寝せる。そして、少し足が痺れているのを感じながら、一歩窓辺に向かって足を踏み出した。遅い動作だが、三蔵は急かすことなく、じっとそれを見つめている。一歩一歩。あと数歩。自分が歩かなければ縮まることのない距離を、躊躇いながら進んだ。三蔵は自分を甘やかすことなく、あちらからは一歩も踏み出さない。手を取れと。つまり自分の足でここまで来いと。

「さんぞう」
 あと一歩、というところで、八戒は歩みを進めるのを止めた。
「何だ」
「もし僕があなたの手を取ったら、一生離さずにいてくれますか」
「……」
「あなたが離そうとしたら、腕ごと切り取ってしまうかも知れません。それだけ僕が危ないと、あなたは知っているはずです」
 そう告げた。脅しではない。傍目に聞いたら冗談だと思われそうなそれも、紛れもなく八戒の本音だった。しかし三蔵は少しも怯むことはなく、口元で笑っただけだった。
「いいだろう。……だがお前が離そうとしたら俺はお前を殺す。いいな?」
 実に甘やかな呪縛だ、と思う。
 八戒は、三蔵の伸ばした手の指先に、そっと手を伸ばした。触れるか触れないかの瞬間に、八戒の指先はその武骨な手に攫われる。銃器を扱い慣れた、ごつごつした手がひと回りラインの細い八戒の手を包みこむ。やはり暖かい。
「離したら、殺す」
「……はい」
 暖かな手の温度と、少しガサガサした感触、そしてその強い言葉にまた泣いた。この手に縛られるのなら、それもいいかもしれない。
「……一生俺が、お前に銃口を向けるような真似をさせるな。いいな」
 頬を伝った雫が、握り合った二人の手に落ちた。

 ぱたり、と三蔵の背後の窓に水滴が当たり、つうっと下に落ちてゆく。
 その雫は止まることなく窓に叩きつけ、次第に周りからは雨の音以外聞こえなくなった。












2005/8/31