花喃。
 君が好きだった花を、あの頃の僕が苦手だと言った花を、段々好きになり始めています。

 ここまで来て、僕が分かったのは貴女が僕を生かしてくれたということだけだった。
 花喃という女性は酷く強かな女性だった。昨今の強かという言葉は些か印象が悪い。だが、彼女は純粋に強い人だった。ただ彼女は結構なロマンチストで、シチュエーションに凝ったり、イベント事が大好きだったりする―――悟能はそんな彼女を、本当に恋人と思っていたのか、それとも姉と思っていたのか。今彼女のことを思い出してみれば、自分の前での彼女は姉でも何でもなく、ただの可愛い女性だった。
 彼女はものを強請ることはなかったけれど、悟能との接触を強請ることはよくあった。勿論性的な交わりもあったけれど、彼女はそれ自体よりもただぴったりと悟能と肌を合わせるのが好きだったらしかった。突然耳掻きを持ってきて「耳掻きしてあげるわ、悟能」と言い出したり(花喃はとても不器用だったのでとてもとても痛かったが我慢した)、突然膝枕を強請ったり、手を繋ぐことを強請ったり。それを悟能は微笑ましく思いこそすれ、疎ましくなど思わなかった。それどころか、もっとかたちのあるものを強請ってもいいのにとすら思っていた。しかし最期まで、彼女はそれを望まなかった。
 だがきっと、彼女はかたちのあるものなど必要なかったのだろう。服もアクセサリーも必要最低限のものしか彼女は欲しがらなかったので、悟能が彼女に与えた高価なものと言えば、今自分の手元にあるあの懐中時計だけだったのだ。
 そして彼女は突然訳の分からないことを言う人だった。突飛な発言をしては目を瞠る悟能の表情を本当に楽しそうに眺めていた。
 結局、自分は彼女の言いたかったことに思い至ることはなかったけれど。

「悟能が女の子に生まれたらきっと可愛かったわよね」
「は?」
「今だってその辺の女の子よりもずっと綺麗よ、悟能」
「……?花喃もちゃんと綺麗だよ?」
 彼女の言葉の裏が読めなくて、悟能はとりあえず思ったことをそのまま口にした。するとその瞬間、花喃の白い頬にぱっと紅が散った。それに驚いて悟能が口を開こうとするとそれを妨げるように花喃はドスッと物騒な音を立てて拳を悟能の腹に突き立てた。思わず咽る悟能は、赤くなった頬をぱたぱたはたく花喃を見ることはなかった。
「いつからそういう恥ずかしいことを臆面もなく言う子になったの……」
「え?あ、ご、ごめん。……って僕に恥ずかしがって欲しいの?」
 訝しげな顔をする悟能ににこりと微笑みかけて、花喃は先ほど自分が殴った悟能の腹部にそっと手を当てた。
「それは置いておいて。あなたが女の子で、私が男の子だったらなって思って」
「……花喃、男に生まれたかったの?」
 悟能が女だったら、という話をしていたのだから別に女の双子でも構わない筈だ。が、ふるふると花喃はゆっくり首を振った。
「いやね、そういうことじゃないわよ。でも、……もし性別が逆だったら、私がもっといっぱい、心でも身体でも、あなたを守って、愛してあげられたでしょう?」

 そうして自分は何と答えたのだっただろうか。あの時の花喃は、とても美しく、とても強くて慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。彼女は男の自分よりもずっと強い人だった。そして何より悟能を本当に愛しく思ってくれていた。
 出会ってお互い惹かれ合った時にはまだ自分たちが姉弟だなんて知らなかったのだ。それなのに、一体花喃は悟能の何処が良かったんだろうと我ながら思うことがある。自分で思い出しても運動も勉強も最上級に出来たもののひと欠片の愛想もない男だ。花喃の趣味が悪かったとしか思えない。

 花喃は椿が好きだった。
 それも冬の、雪の中ひっそりと赤い花びらを湛えた冬椿が好きで、どんなに寒い日でも構わず悟能の腕を引いて、町の外れの椿の木まで見に行ったものだった。その頃の悟能は花を愛でる気持ちなど皆無に等しく、楽しそうにただ静かに咲く椿を見上げる、寒さで少し赤くなった花喃の横顔をぼんやり見ていただけだった。
 悟能は椿が苦手だった。
 花を咲き終えた後、ほろりと赤い花を落とすのが、ごろりと転がる人の首のようで。
 花喃はそれを“潔い”と称した。同じ理由で、花喃は桜も好きだった。意外にもひまわりのような花にはあまり興味がないらしく、夏には百合を近所から貰って来たりしていた。(何故かと聞いたら意味深に笑って、「生命力の象徴みたいな花は好きじゃないの」とあっさり言った。)
 楽しそうに百合を愛でる花喃。そして、どうしてそんな、首を落とすような縁起のあまり良くない花ばかり彼女が並べるのかと訝しげな顔をする悟能がその横にいて。
 結局彼女のことを何一つ分かることが出来なかった“猪悟能”は人格的に不完全なまま死に、その肉体はそのまま“猪八戒”へと受け継がれる。そして、花喃ではない他の人間を愛し始めた。単純なものだと思う。現金と称するべきか。あれほどのもの血を流してまで取り戻したかった女を失ってなお生き続け、そして他の人間へ目を移すことが出来るのだ。
 薄情な悟能。花喃は呆れるだろうか。そんな男を選んでしまった生前の自分を恨むだろうか。
 この思考に囚われて、悟能が死ぬまでの数ヶ月、あの寺院でどれだけ悩んだだろう。悩むのは勝手だが、それで暴れ回って結局三蔵や悟空に迷惑をかけてしまったのは予定外だった。誰かにまた迷惑を掛けてしまう前に死のうと思っていたのに、勝手にこの世に自分を引き止めた彼の人の手によって今の自分がいて。そしてその人に囚われてしまった自分は死ぬこともままならずに生きている。
 そんなとき、花喃の好きだったその花を見ては、(ああ、この花は自分と違ってこんなに潔い)と思うのだった。その姿が花喃に重なって今もこんなに自分の心を締め付けるのに、どうしてかその花を嫌いになれなくなっている自分を知った。
 答えは簡単なこと。花喃に重なって見えるような花を嫌いになれるはずがなかった。

 あの人を、愛していた。
 何を失って怖くないと思えるだけ、あの人だけを愛していた。
 そう思えたほどに愛したひとを失って、千の妖怪と村の人間を殺めて尚、生きている。これで人間でいられるはずがないのだ。あれは今考えてもただの人間の所業とは思えない残虐なものだ。償い切れない。きっと遺された人たちは悟能のことを、八つ裂きにしても足りないくらいに恨んでいるに違いないのに。
 だけど、悟能にとってのあのひとは、そんなものと比べてもずっとずっと重いものだったのに。本当に、かけがえのないないものだったのに。
 数で比べるのなら、悟能が失ったものより奪ったものの方がずっと多い。だけど悟能には、自分の大事なものを奪った百眼魔王一族も村の人間も、あの瞬間この世から消してしまいたいほど憎いものだったのだ。

 三蔵の言う“因果応報”。“前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること”。だとしたら、過去にあれだけのことを仕出かした自分が、どうしてこんなぬるま湯のような平凡な幸せの中に身をおいていられるのだろう。

 未だ夜毎、己が手にかけた妖怪や人間が自分の心を責め罵るのに。
 それを知ったら、彼はまた呆れた顔をして怒るだろうか。






「……おい、八戒」
 澄んだ声が耳に届く。自分の愛した声だった。
「……何でしょう?」
 彼の言いたいことは何となく分かるのに、しゃあしゃあとそう言ってのけると彼は思った通り、苦虫を噛み潰したような顔をして八戒の後頭部を小突いた。そして少々不服そうな顔をして眉を顰め、八戒の顔を覗きこんでくる。
「何考えてた」
「花喃のことですが」
 そう間髪置かずに告げると、彼は一瞬眼を瞠り、その後不満そうな、少し哀しそうな顔をして八戒から目を逸らした。その仕草が叱られた子どものようで何だか可笑しくなって、八戒はその頬に手を滑らせた。
「怒らないで下さい。……たまにはいいでしょう?」
「……だからといって、こういう時に考える奴があるか」
 こういう時、と彼が言うのもそう言われれば頷ける。二人は今肩を寄せ合って土手に座りこんでいたのだ。悟浄と悟空は後ろの林の奥でジープの上で眠っている。
「すみません。ね?」
 怒らないで、と顔を覗きこんで言外に訴えると、彼は満更でもなさそうにフンと鼻を鳴らして八戒の肩に回した腕に一層強く力を入れた。その仕草も何だかいつもの彼と違うようで、くすりと思わず笑みを漏らした。
 こう見えて、結構シチュエーションには凝る人だ。自分からは騒ぎ立てなくてもイベントなどは把握していることが多く、暇がある時なら、出来る限りのシチュエーションを用意してくれている。女の子ならきっと惚れ直すところだろう。
 だけど今日は、そういう訳にはいかなかった。
 今日は悟能が花喃と再会した日だ。




 そう遠くない昔のこと。
「何ぼんやりしちゃってんの?八戒」
「……あ、……いえ、ちょっと花喃のことを考えていただけです」
 そう言うと、赤毛の親友は少し困ったように笑って、八戒の前の椅子に腰掛けた。慣れた手付きで煙草に火をつけるのを見ながら、灰皿を彼の前に置いた。
「どーも。……けど三蔵様が怒るんじゃねぇの?」
「どうしてです?」
「そりゃあ……お前がいつまでも花喃のことばっかり考えてたら面白くねぇんじゃねぇ? その、お前ら」
「そういう間柄にはなりましたけど」
「はいはい。だからさ、面白くねえんだって、お前が自分以外のこと考えてんのが」
「だって悟能は花喃を愛しているんですよ」
「お前は悟能じゃないだろうが」
「そうですね。だけどそれは建前だって誰もが知ってます。悟能と八戒は結局同じイキモノなんです」
「悟能は死んだ」
「いいえ。……きっと、僕が花喃のことを覚えている限り、その瞬間の思考と記憶は悟能のものなんです。そして悟能は花喃以外の誰のものでもない。花喃と自分以外の誰も愛せない。それがたとえ、三蔵だったとしてもです」
「三蔵、キレちゃうぜ?」
「あはは、でも“八戒”は全部三蔵のものですから」
「さいですか」
「さいです」
「なあ」
「はい?」
「じゃあ、今俺が話してんのは、“悟能”?“八戒”?」
「……僕の中には悟能と八戒が同居しています。実際表面に出てくる表情だとか言葉だとかはその二つが競り合って勝った方のものになるんでしょうか……」
「……じゃあ時々入れ替わるワケ?」
「かもですね」
「三蔵といる時も?」
「それはないですよ」
「どうして?」
「悟能は三蔵に借りがありますからね、遠慮して彼の前では出てこないんでしょう」

 花喃と自分以外は愛せない“悟能”。誰もに笑顔を見せ、博愛主義的な“八戒”。
 この身体は、“悟能”が“八戒”の皮を被っているのか、それともその逆なのか。
 八戒が“八戒”として確かな存在を保っていられるのは、八戒という存在を作り出した張本人の三蔵以外の前ではあり得なかった。


 もし彼が自分以外の誰かを見ても、引き止める術など持たないひとりぼっちの“猪八戒”。
 ねえ、あなたにとっての悟空は何ですか?悟浄は何ですか?
 そう問いかけて帰ってくる答えは分かりきっていて、それを再び態々聞く気にはなれない。恋人が最上であるわけではない。もし三蔵が悟空を家族より近く思っているのだとしたら、三蔵にとっての悟空は八戒よりもずっと近いはずだった。
 どうして三蔵は悟空よりも自分を選んだのだろう。
 聞くのは正直なところ面倒で。思った通りの答えしか出て来ないと分かっているからだ。

『例えば三蔵が、“八戒”を必要としなくなったらどうするんだ?』
『その時は笑って見送りたいですね。ああ……、でも一発ビンタくらいはしちゃうかもしれません』


「ねえ三蔵、百合の花、好きですか?」
「は?」
「どうなんですか?」
 また訳の分からない質問を始めた、と三蔵が怪訝な顔をするのにも構わず、八戒はにこにこと彼の顔を覗きこんだ。すると詰まったように三蔵は眉根を寄せた。そしてゆっくりと口を開く。
「……好きでも、嫌いでもねぇよ」
「そうですか。じゃあひまわりは?」
「何が知りてぇんだお前は」
「三蔵が知りたいんですよ」
 そう臆面もなく言ってのけると、三蔵は言葉を詰まらせて唇を曲げてそっぽを向いてしまった。暗がりでよく分からないがきっと顔が赤いのだろう。そういう言葉に対してあまり耐性がないのだろうかと思えば、街に出ればあっちこっちから恥ずかしくなるような言葉を浴びせられているのに。
『いつからそういう恥ずかしいことを臆面もなく言う子になったの……』
 その瞬間、顔を赤くして少し恨みがましい眼で自分を睨み上げた少女の顔が思い出された。
(……いったい、いつからなんだろうね、花喃。よく分からないや)
「……ね、どうなんですか? ひまわり」
「……。……嫌いじゃねぇ」
「そうですか。僕あんまり好きじゃないんですよねぇ」
「……相性でも占ってんのか」
「あははまさか〜ちょっと気になっただけです、どれだけ僕とあなたの好みが違うのか」
 そう言うと、訝しげな顔をした三蔵が八戒の目をじっと見つめてきた。
 まずいかもしれない。また変なことを考えていると思われただろう。今回は違うのに。
 八戒がどう切り抜けようか色々と思いを巡らせていると、三蔵は途端に諦めたようにゆっくり目を伏せて俯き加減になった。そしてぽつん、と疲れたような声を漏らした。
「……詮索されたくないなら考えんな」
「……」
 ばればれなんですね、と笑ってどうにかしようと思った。だけどそれは上手くいかずに、八戒の唇を凍らせた。どう声を発していいのか分からなくなって、八戒は自分の唇を噛んだ。
「……三蔵」


 彼が心変わりしても止めることはしない。
 笑って送り出そうと決めていた。それはもう、彼が顔を顰めるだろうほどに、完璧な笑顔で。
 不変の物などないのだ。形あるものは崩れやすいと言うが、形がなければいいのだろうか。形のないものの方がずっと脆い筈なのに。今だってこの瞬間、瞬きを一回して目を開いたら、あったと思ったそれが全く夢のように消えているのかも知れない。数秒前まで穏やかな目を向けてくれていた彼が突然嫌悪の眼差しを向けてくるかもしれない。
 形のあるものが欲しい。それはどんな安いものでも構わなかった。自分があの人のものであったという証拠が欲しい。
 いつか一人にされる自分のために。


「ねえ悟能、私、欲しいものがないとは言わないけど、それは別に高価なものじゃないのよ」
「え?」
「ブランドもののアクセサリーとか服とか、そんなものはいいの。安くたって、露天で売ってる安いアクセサリーだって何だっていいの。悟能がくれたっていうだけで、違うんだから。誰から貰った高価なものより、あなたから貰う安いものの方がずっと私には価値があるの」
「……いいの?」
「ええ。私、今年の誕生日はスカートが欲しいな。そこの角におばあちゃんがやってるお店があるでしょ?あそこに可愛いのがあったのよ」
 結局買ってあげられなかったね。花喃。君となら永遠だって夢じゃないと勘違いしていたんだ。
 悟浄と暮らすようになって段々と落ち着きを取り戻してからも、八戒は命日にはどれだけ季節外れであろうと椿を一枝、遠くから取り寄せた。遠くから送られてきたせいでその花は大分弱っていることが多く、次の日起きてみるとぽたり、とその花は下に落ちてしまっているのだった。
 彼女みたいだと思った。
 そしてその花を悟浄に気付かれない内に庭の穴に埋めながら、また一年、自分のことを戒めるのだ。忘れるなと。自分が殺した人たちの顔、犯した罪の重さ、そして自分をたった一人愛してくれた女性(ひと)のこと。
 そして、自分はこれからどれだけ不幸になろうと文句は言えないのだという戒めだ。むしろそうなるはずだったものを、彼が救ってくれただけの話で。
 いっそ救われずに“悟能”のまま死んだらよかったのかもしれないなんて、彼には絶対に言えないけれど。




 ゆっくりと八戒は口を開いて問いかけた。寒さのせいで少し唇は強張っていて動かしづらかった。
 星がきれいだ。彼もなんてきれいなんだろう。
 泣けそうだ。

「ねえ三蔵、椿って好きですか?」
「……どちらかと言うと、苦手だ」
 すると彼は、そう、あの頃の悟能と同じ答えを返してきた。それに八戒は、あの時の花喃と同じような微笑を湛えて告げる。
「そうですか?……僕は、好きなんですけどね」


 ねえ三蔵。

 僕が死んだら、あなたも悟能のように椿を見て僕を思い出してくれるだろうか。















2005/12/11