決して欲張りません
 ほかのことなど望まないから

 だからあのひとにあわせて


「なーなー悟浄、たなばたって何だ?」
「は?」
 最近、三蔵は今までにないほどに忙しかった。慶雲院とも交流のあった寺院の大僧正が亡くなったり、墓参りだ何だと何かと書き入れ時の寺院である。その一切を取仕切る三蔵法師が忙しくない筈はない。よって三蔵もいつものように悟空を構っている余裕は本気でないらしい。いつもはサボりがちに進める仕事を、寝るのも惜しんでやっている姿を見ては、悟空も話しかける事は出来なかった。人一倍元気で、少し他とは違っていても、一応悟空はまだ子供だ。保護者が仕事仕事では淋しいらしい。三蔵が自分を見ていない隙を狙っては一人でこっそり悟浄の家を尋ねてきていた。その度に悟空はびったりと八戒に張り付いて離れずに、八戒を苦笑させていた。不思議そうにする八戒に、悟浄が「お父さんが構ってくれなくて淋しいからお母さんに甘えてんだぜ」と言うと、悟空は頬を膨らませて悟浄に飛びかかってきたが、きっとあながち間違いでもないのだろう。
 悟空の言っていた事が本当だとしたら、悟空は五百年の間子どものまま幽閉されていた事になる。以前の記憶がないという悟空だが、果たして記憶がなくなる前にも親がいたのかどうかも微妙な線だ。悟空は“父親”も“母親”も“兄”も“姉”も知らない。三蔵に母性を求めるのはかなり無理がある。父性でも微妙なところだが、悟空を拾ってちゃんと食わせてやっている辺りはお父さんに違いはないだろう。
(おかあさん、ねぇ……)
 悟浄にだって母親の記憶なんて良いものはない。だけどきっとなかったらなかったで苦しいのだろう、そして母親がいる皆が羨ましく思えるに違いない。朝になればご飯を作って、洗濯をして掃除をして、甘えてじゃれつけば微笑んで頭を撫でてくれて。洗濯物の匂いがしたりして。寺院にも悟空と遊べるような年頃の友達がいるという。彼らにもきっと母親がいて、遊び終わって暗くなったら迎えに来て名前を呼んでくれる。そして子どもたちは一目散に母親の方に駆けていくのだろう。悟空には誰が迎えに来てくれるのか。忙しくない時なら三蔵が探しに来ることも有り得る。だがそれは悟空を自分の監視下に置くためのものであって、皆の母親のようなそれではない。
 食事の時以外はぴたりと八戒の腰に抱きついて離れない悟空を見かねて、悟浄は悟空に餌を与えて八戒を庭の方に逃がしてやった。八戒だって悟浄だって嫌なわけではないのだけれど、これでは八戒の家事の効率が落ちてしまう。折角悟空の為にと料理の材料をたんまり買い込んでいた八戒の気遣いも不発に終わりかねない。

 食事が終わって八戒がいないことに気がついた悟空は、また立ち上がって彼を探しに行こうとした。しかしそれを悟浄が、洗濯物を干しているだけだと引き止めてから暫くのこと、悟空がそう悟浄に訊ねてきたのだった。
「七夕知らねぇの?」
「うん……」
 笑われるだろうかと身構える悟空をよそに、悟浄は瞠目していた。それもそうだ、正月や盆など寺に関係のある行事ならともかく、祭や子どものための行事のことなど三蔵が悟空に教えるはずはない。祭=何か食えると思っている悟空のこと、行きたい行きたいと大騒ぎするに違いない。
「あんなー、七夕っつうのは……何て言えばいいんだ?」
 丁寧に解説してやろうと椅子に深く座りなおした悟浄だったが、冷静に考えると七夕をどう定義付けていいのかよく分からない。
「えーと、だな、昔織女と牽牛っつうカップルがいたわけだ。あ、夫婦になるんだったっけ」
「うん」
「で、そのカップルは滅茶苦茶ラブラブで、その相手といちゃつきたいが為に仕事まで放り出すようになったわけ」
「うんうん」
「それが天帝……っつう偉いヒトの逆鱗に触れて、年に一度しか合わせてもらえなくなったんだよ」
「へぇえ」
 興味津々といった顔で頷く悟空に、続きを話さないわけにいかなくなった悟浄は必死に頭の中の引き出しを探って続きを思い出そうとする。こんなとき物知りの八戒がいたら、さらりと知識を口に出すことが出来るのだろうと思うと少し情けなくなる。
「そんでそんでっ?」
「で、その年に一回だけ会うことを許された日、ってのが、七月七日。しかも晴れてなきゃ二人は逢えない」
「え……でもっ、二人は愛し合ってんだろ?」
「あ? ああ」
「一年も逢えないなんて……」
 悟空は少ししゅんとした顔で俯いた。それを見た悟浄の顔も少し曇る。彼の頭の中で、その話と何がリンクされているかに思い至ったから。



 悟浄が作ってくれた隙を見て洗濯物を干すために庭に出てきた八戒は、眩しい空を見上げて目を眇めた。
「いい天気ですね」
 この分なら今年は天の川が見られそうだ。伝承を信じる性質ではないが、きっと織女と牽牛も今夜は逢えるに違いない。伝承など信じないはずの八戒がそれを信じたくなってしまうのは、やはりそれなりの理由がある。
(晴れても……きっと僕は逢えないんですけど)
 逢えなくなって、もう一ヶ月が過ぎた。今は忙しいな時期だ。仕事帰りであってもそうそう寄り道をするわけにもいかずに、仕事が終わったらすぐに寺院に戻ってまた事務の仕事をこなしているのだと悟空が言っていた。ちゃんと食べているだろうか。ただでも寺院の飯は不味い、と寺院の食事を拒む彼のことだ。仕事や寝不足でストレスが溜まっている時に食事も摂っていなかったら。
 本当は今すぐにでも出掛けていきたい。だが、八戒にはあの寺院の敷居は高すぎた。踏み込むだけで、同じ空気を吸うだけで、存在するだけで後ろ指を指されている感覚に苛まれる。実際そうなのだろうが。それに仕事に塗れて懸命になっているであろう姿を見られて、あのプライドの高い彼が喜ぶはずはない。見ないようにしてあげた方がいいのだ。

 ふう、と息をついた後、洗濯籠に入っているシャツやタオルを一枚ずつ取り出して、庭に突っ張ってある洗濯紐に掛けていく。悟浄のシャツを伸ばしてパンパン叩きながら、シャツの横から覗くように眩い太陽を見上げた。
 ああ、この太陽はこんなに近くにいるのに。しかし哀しいことに八戒は、その太陽ですら近くにあるようでいて決して手の届かないところにあることも知っていた。



「……あいつらは一年逢えないわけじゃねえだろ」
「でも、逢いたいのに逢えないのは、苦しいし、哀しいだろっ」
「そりゃあ、そうだけどな」
「さんぞーも、何にも言わないけどぜったい八戒に逢いたいんだ、俺だけしかここにこれなかったときは絶対にまず先に八戒はどうしてたって訊くし、そんで、だから……っ」
 必死に言い募る悟空の頭に、手をポン、と乗せてぐしゃぐしゃと撫でてやる。そして少し身体を屈めて、悟空の顔を覗きこむようにして言った。
「大ー丈夫、八戒もそこんとこは分かってるって」
 しかし悟空はなかなか納得した様子を見せず、口をへの字に曲げて悲しげに悟浄を見上げる。
「でも、さ、……こーゆうのって、“リクツじゃない”っていうんだろ?」
 突然悟空の口から出た言葉に、悟浄はまたも目を見開く。
「おま、……そういうの何処から教わってくんのよ……」
「ないしょ!」
 父親がちゃんと構ってあげないとこういうことになっちまうのかねえ……と触覚も萎れさせながらがっくりと悟浄は肩を落とした。それをよそに、悟空はジュースの入ったコップを両手に持ちながらにこにこと言った。
「でもさっ、今さんぞーすっげーがんばってるからさ、今日もしかしたら来れるかもしんねー」
「……悟空、それ八戒に言うなよ?」
「え? 何で? 来れるんだから嬉しいんじゃん?」
 無邪気にこてん、と首を傾げる悟空を少し苦々しげに見て、悟浄は煙草に火を着けた。
「もし来なかったら、期待した分辛いだろうが……――――」



 十分ほどすると八戒は洗濯籠を小脇に抱えて家の中に戻ってきた。そして何やら悶々と話しこんでいる二人に目を瞬かせる。
「どうしたんですか二人とも」
 悟浄は丁度悟空に「大人の恋愛」について講義していたところで、突然背後から投げかけられた質問にビクリと背中を伸ばした。悟空はやっと帰ってきた八戒に、嬉しそうに椅子から立ち上がってトテトテと八戒の元に走り寄った。そしてニコニコと嬉しそうに笑いながら八戒の腰にしがみ付く。八戒はそれを疎むこともなく、淡く微笑んでそっと悟空の頭を撫でる。そんな雰囲気が好きだから悟空も懐くのだが。
「何の話をしてたんですか? 悟空」
「あ、あのね……」
「あー! いいからいいから! 八戒ちゃんコーヒー欲しいなー!」
 慌てて話を切り替えようとする悟浄に、怪訝な目を向けつつも八戒はだっこちゃんのままの悟空を引き連れて台所の方へ入っていった。その二人の後ろ姿を見て悟浄は大きく息を吐いた。八戒は自分のことをゴシップ的な視点で見られるのが嫌いだ。特に今回は恋愛ということで最もデリケートな問題であるし。手助けをしたいところではあるが、この問題をどうにかするにはつまり三蔵の多すぎる仕事をなくすしかないのだ。それは自分にはどうしようもない大きな問題である。
(……七夕、ねー)
 そりゃあ仕事もせずに逢引ばかりしていたら怒られても仕方ない。だが、三蔵の肩を持つわけではないが彼だってその歳にそぐわないほどに十分すぎるほど仕事をしている。こんな日くらい、会わせてやってもいいではないか。
(なーんて。俺人が良すぎやしねえか)
 しかし、自分の心を押し隠してでも、三蔵に加担することになっても彼の笑顔を守ると決めたのは自分だ。自分の意思を押し通してそれで彼が泣くようなことになるのなら、そんなものはいらないと。
「器用貧乏、っつか、貧乏くじ引くタイプ、だ」
 そんな風に貧乏くじばかり引いてきた半生だったけれど、八戒を拾ったことは間違いじゃなかったと思えるから。悟浄はギシ、と椅子の背凭れに体重を掛けた。そして天井を仰いで、煙草の煙を、不意に思い浮かんだ仏頂面に吹き掛けるように吐いた。
(三蔵様もこれくらいの苦労、屁でもねえだろ)
 自分を待っていてくれる人がいると思えば、そのくらいのこと。



「なーなー八戒」
「何ですか? 悟空」
 八戒の腰にしがみ付いたまま、ぽたりぽたりと濃茶のしずくが落ちていくのを見ていた悟空が不意に口を開いた。
「もしさ」
「はい」
「八戒が、一年間三蔵と逢えなかったら、どうする?」
 その純粋な問いに、八戒は一瞬言葉を失う。もし、一年間彼に逢えなかったら。もし、物理的に距離が離れていて逢えないのならきっと自分は、辿り着くまでにどうせ一年間かかるとしても逢いに行く。しかし、“逢う事を禁じられたとしたら”、きっと一人で一年間待つことしか出来ない。彼と自分にはたとえ近くにいても、見えない距離があるから。少しだけ震えている自分の指先を意識しながら、八戒は声が震えないように気を遣いながら声を出した。
「じゃあ、もし悟空が三蔵に一年逢えないとしたらどうしますか?」
 腰にぴったり張り付いている、視線が下の琥珀の目を見下ろすと、その大きな目はきょろりと動いて、事も無げに言ってのけた。
「あいにいく!」
「……」
「三蔵がくんなっていっても、あいにいく!」
「……三蔵じゃない、別の人に逢うなと言われても?」
「うん、だってきっと、一年なんて待てないもん」
 その返事を聞くと同時に、何だか妙な安堵や深い哀しみに襲われて、八戒は視線を落とした。どうしたらそんな風に純粋な想いだけをぶつけることが出来るのだろう。彼より、自分の想いがちんけだということなのだろうか。自分は逢うなと言われたら黙って逢わずにいられる程度の想いで、悟空は一日も待つことが出来ないほどの切実な想いだということだろうか。
 歳を取って、経験を重ねて。生きるための術を身に付けて、夢や理想を手放し、打算や妥協ばかり覚えてきた自分のせいか。
「はっかい?」
 心配そうに自分の顔を見上げる視線に気付いて、八戒は咄嗟に笑顔を取り繕ってみせる。
「いえ、何でもないですよ」
 大人になって、希望を口にすることすら出来なくなってしまった。体面を気にして、プライドを気にして足元を塗り固められて、一歩も動くことが出来ないなんて。なんて情けないんだろう。
「八戒もさ、逢いたいだろ?」
「……逢いたい、ですよ?」
「逢いにいかないの?」
 何故か自分より年下でずっと小さいはずの悟空の前で、叱られている子どものようにしゅんとしてしまった八戒に、悟空は慌てたようにぱたぱたと手を振った。
「あの、あのっ、おれ、俺きいたんだ! オトナはあいたくってもそんなに簡単にあいにいけるもんじゃないんだって。だから八戒もだいじょうぶだよ!」
「聞いた、って」
「悟浄がいってた」
 悟空に何を話してるんだか、と少し呆れそうになりながらも、あの人らしいと思えて思わず笑みが漏れる。それを見て悟空はほっとしたように息を吐いた。
「やっぱり八戒も、寺だと行きにくい、だろ。俺もあんま好きじゃない」
「……そう、ですね。やっぱり少し、入りにくいです」
 シンクに両腕を掛けてにこにこと話しかけてくるその仕草は幼いのに、何故かずっと年上の人に見守られているようなそんな感覚さえ覚えてしまう。
(あ……ホントはプラス500歳なんですもんね……)
 歳は取っていなくても、普通の人よりずっと色んなことを考える時間があったはずだ。それは生まれたままの赤子のような純粋さではなく、世の穢れを知って尚、自分はそれに染まらない強さ。そんな彼だからこそ、三蔵の傍に常にいることを許されるのだろう。
(おっと……ネガティブになりそうです……)
 そんな風に自分のことなのに他人事のように考えてしまうのが八戒の悪い癖だ。そのくせ他人の心の動きには敏感で、近しい者であればあるほど自分よりも優先してしまう。それでいつも三蔵を始め、悟浄や悟空にも叱られている。が、本人はそのことに関しては一切気に留めていない様子である。結局のところ、五百ウン歳の悟空に比べたら自分など赤子同然ということだ。
「悟空」
「ん?」
「ありがとうございます」
 一瞬動きを止めて、ゆっくり自分を見上げて目を瞬かせた悟空に、そっと微笑みかけてみせた。



「……あっちー……」
 日暮れが近くなれば気温も下がると見ていたのだが、ひょっとしたら今日は熱帯夜というやつかもしれない。晴れるのは嬉しいのだが気温はそんなに上がらなくてもいいのに、と都合のいいことを考えてしまう。悟浄はシャツを脱いでしまっている。このままの勢いだと下は下着だけになりそうだったのだがそれは八戒が止めた。悟空もいつものきっちりした服は脱いで、Tシャツとハーフパンツに着替えさせた。割と暑さには強い八戒ではあるが、いつものチノパンに薄手のTシャツに着替えている。
「アイスコーヒーでも如何ですか?」
「いるいるー」
「悟空、サイダーはどうです?」
「いるっ!」
 注文を取った後、八戒は台所に戻った。トクトクと三人分の飲み物をタンブラーに空ける音がした後、不意に八戒の足音が遠ざかった。不思議に思って悟空が台所を覗きに向かうと、八戒は丁度奥の自分の部屋から何か、小さな箱を持って出てきたところだった。
「八戒、その箱何?」
 そう悟空が問うと、ふふっと少し悪戯っぽく笑った八戒はその箱を、タンブラーの三つ載った盆の上に載せて、箱ごとリビングに持っていった。その後ろを悟空が追う。テーブルに置かれたタンブラーに二人がそれぞれ手を伸ばしたのを見た後、八戒はその箱を手にして、そっとその蓋を取った。
「お。風鈴じゃん」
「風流でしょう。ちょっと気分だけでも涼しく、と思って」
「ふうりん?」
 不思議そうに首をひねる悟空に向かって、八戒は風鈴の紐部分を指で摘んで掲げてみせる。揺れた風鈴は、涼やかに「ちりん」と音を立てた。八戒の持ってきた風鈴は、硝子細工の美しい、深い青から透明、白へと移り変わっていく柄のものだった。ところどころに葉の文様があしらわれている。
「きれー……」
「俺だったらあの鉄製の方が見慣れてるけどな」
「ああ、あれも綺麗な音がしますよね。だけどちょっと色が気に入っちゃって」
 そう言いながら、八戒はその風鈴を窓辺に吊るした。手を離すと、下についた長い紙が風に煽られて、ちりん、ちりんと音を立てる。
「あー……夏だー……」
「うー……」
 まるで兄弟のようにそっくりなポーズでだれている二人を見て、八戒はクスリと笑いを漏らした。
「晩御飯はどうします? あ、その前に悟空、そろそろ帰らなくて大丈夫ですか?」
「あ。……うー……」
 どうせ悟空は今帰ったところで三蔵に構っては貰えまい。それどころか忙しさがピークに達し、ストレスの塊と化した三蔵にやつ当たられること間違い無しだ。それに、折角居心地のいいこの場所、そして八戒の傍を離れたくはあるまい。境遇はかなり違うものの、母親から離れたくない気持ちは痛いほど分かる悟浄は、溶け出した氷の入ったタンブラーをテーブルに置いて、その手で悟空の頭を撫でた。そして八戒に向けて提案する。
「……いんじゃね? メシくらい。なんだったらメシ食い終わったら俺送ってくし」
 そう助け船を出した悟浄に、バッと悟空は顔を上げた。その目は捨てないでと懇願する仔犬のようで、思わず八戒は苦笑してしまう。三蔵に心配を掛けてしまうだろう。だけど、……今日くらいは。
「……分かりました。本当に悟浄、送っていって下さいね? 悟空、帰ったらちゃんと三蔵に話して、怒られたら素直に謝るんですよ」
 八戒がまさにお母さんの風に提案すると、二人はこくこくと頷いた。悟空に至ってはしっぽを千切れんばかりに振っているようにさえ見える。その様子に苦笑しながら、八戒はエプロンの裾で手を拭って、空になったタンブラーを盆に戻しながら言った。
「それじゃあ、夕飯のメニューを決めましょうか」
「やったーっ!」
「実はもう二通り決めてあるんです」
「二通り?」
 悟浄がだらしなく腹を掻きながら言うのに、八戒は右手の人差し指を立てた。
「メニューAは素麺、胡麻・梅・濃縮の三種のタレ付き。そしてごまだれの冷しゃぶにデザートはマンゴープリン。メニューBは焼肉、ほかほか炊き立てご飯と野菜スティック、デザートは杏仁豆腐。如何でしょう?」
 一瞬沈黙した二人が、本気でどっちにしようか悩み出してしまった為に、結局全部作るはめになったのは、十分後の話。



 わざとではないだろう。実に健やかに悟空と悟浄は眠り始めてしまった。基本的に彼が従うのは本能と三蔵のみだ。悟浄に言わせれば「お前の言うことも聞いてんじゃん」とでも言うだろうか。
「さて……食器でも片付けますか」
 伸びを一度した後、八戒は先程まで酒宴をやらかしていたテーブルに向き直る。見事な惨状だ。但し悟空も悟浄も食べ物を粗末にするのはポリシーに反するらしく、野菜の欠片一つも残さずに食べてくれるので後片付けは比較的楽だ。それに皿に持って次の物を持ってこようとすると既に先程のものが食べ終えられているという有様だったので、食器も少なくて済んだ。まるであの量を食べたとは思えない少ない大皿を何枚かシンクに運んだ八戒は、それを水に漬けながら小さく息を吐いた。



 洗い物を終えた八戒は、濡れた手を拭いながら二人の転がっている悟浄の部屋へ向かった。悟浄のベッドの脇に置いた客用布団に転がっている悟空は、思った通り布団をはだけて寝ている。風邪を引かせてはならないと、とりあえず腹の部分にだけ布団を掛けてやる。悟空は何の夢を見ているのか時折笑い声を漏らしている。ベッドで枕を引き寄せるようにして寝ている悟浄も微かに口元がにやけている。彼は明日は二日酔いかもしれない、スポーツドリンクでも買ってきておこう、と八戒は立ち上がった。
「おやすみなさい、悟浄、悟空」
 すっかり楽しい夢の中の二人に囁いて、そっと悟浄の部屋のドアを閉める。完全に家の中は、しんと静まり返った。

 顔を上げて時計を見れば、もうすぐ日付が変わるという頃だった。悟浄の家は森の中だ。道は確かにしっかりあるのだが、殆ど雑木林の中の一本道のようなもの。その道を過ぎればちらほらと店が現れ始める。その辺りまで行けば自販機があったはずだ。
「さて……日付が変わるまでに行って来ましょうか」
 せめて七夕である“七日”の間だけは忙しくしていたかった。きっと自分は暇を持て余したら碌な事を考えないだろう。それで今このひとときだけでも、三蔵を忘れられるのならそれでよかった。じっとしていたら余計な事まで望んでしまいそうで怖いから。
 逢いたいと思うことがこれほど罪に思えるだなんて。
(織女と牽牛も、雨の七夕の日はこんな気分でしょうか)
 二人は一度逢えなかっただけで二年も我慢しなくてはならないのだ。それに比べれば自分たちなんて何でもない。それなのにあの人の熱に慣らされた自分は、こんな少しの間待つことさえ出来なくなってしまった。身分違いも甚だしく、まだ少しばかり残る寺の僧達の、若年の三蔵法師に対する反感を助長する事にしかならない自分という存在。
 ぼうっとしているとまたうっかり沈み込んでいってしまいそうだ。八戒はテーブルに置いてあった財布と家の鍵を手に、ドアを開けた。流れ込んできた風に、窓辺に吊るされた風鈴が涼やかな音を立てた。日中よりは涼しくなった風に、小さく息を吐きながら開けたドアを再び閉めて施錠する。一年程前に一度ぶっ壊れたドアだが三蔵に修復を頼んだところ、ここまでしなくとも……というくらいに防犯のしっかりしたドアに替えてくれた。……但しその数ヵ月後に悟浄が酔っ払って帰ってきてドアを壊したので、今はまた昔と同じ只のボロだ。三蔵はまた取替えてやると言っているのだが、悟浄が恩を着せられそうで怖いと言うのでそのままにしているのである。
(ああ駄目ですね……ぼうっとしてると三蔵の事しか思い浮かばない)
 見るもの総てが三蔵にリンクされているようで眩暈がする。どれだけ考えないようにしていても、自分の心の奥深くまで入ってきている彼は、もう追い出す事の出来ないところにまで達しているのだと実感する。
(卑怯です)
 どうせあなたは今仕事しか考えていないのに、自分ばかりこんな思いをしている。
(遠距離恋愛で心が離れていく過程ってこんな感じですかね)
 相手の心が分からない。顔が見られない。生で顔が見られない、触れられない。それがこんなにも重い。
 ため息を吐きながら見上げた空には、街灯が要らないほどの沢山の星が浮かんでいる。
(……今年の織女と牽牛はハッスルしてますね)
 そんな少し外れたことを思いながら歩き出す。森の中の一本道は、ライトが当てられたように明るい。背後ではちりん、ちりんと風鈴が揺れている。
(これだけあれば、叶ってもおかしくないのに)
 ひょっとして二人とも自分たちの事に精一杯で他の人の願いなんて叶えている余裕はないのではないだろうか。まあ確かにそうだ。確か去年も晴れなかったから、二年逢えなかった恋人と再開して、その人以外の事を考えられるはずはない。だけど。
(願うのは、タダですよね)
 どうせ叶わないとは分かっているけど、形式的にここは祈っておくところかもしれない。

「……あいたい、です」
 誰に、なんて、口に出すのもおこがましいけれど。
「……あ……やっぱり逢いたくないかも」
 今逢ったら我を忘れるくらい甘えて我儘を言ってしまいそうだ。それで呆れられたらもう穴を掘って自分で埋まってしまいたい衝動に駆られるだろう。バスタブに入って蓋を閉めて閉じこもってもいい。
 どうせ相手はこんな風に思い詰めたことはないのだろうと思うと余計に淋しくて。だから、自分も彼と同じくらい余裕の表情が出来るようになるまで、それまでは逢いたくない。こんな状態の自分を見られたら絶対に笑われるに決まっている。
「やっぱりあえなくていいです」
 そう、誰もいないと思って空に向かって告げた。

「ほお。情の薄い恋人を持ったもんだな」
「っ?!」
 振り返りたいけど、振り返れない。逢いた過ぎたせいでの幻聴とかだったら、もう出掛けられないほど落ち込みそうだ。しかし、八戒が微動だにせず後ろを向いたままでいると、痺れを切らしたようにその人は八戒の肩に手を置いた。
「おい、振り返らねぇか」
「……さん、ぞう?」
 いるはずがないいるはずがない、物理的に来られるわけがない。
「夢でも見てんのか」
 そう思いたいのだからそんなこと言って笑わないで。
「だって……あなたは」
「仕事は一通り片付けた」
 文句は言わせないとばかりに堂々と言い切るその声は、幻などではない。そして後ろから吹く風に乗って流れてくる匂いも、普段家に流れている匂いとは違う煙草のもの。
「いいからこっちを向け」
「振り向いたらいなかったりしたらヤです」
「なわけあるかアホ」
 ため息の音が聞こえる。そして草履が地面を擦る音が聞こえて、大きな手に肩を掴まれる。
「幻じゃない」
 そのまま肩を引き寄せられ、振り返った八戒の目に映ったのは夜空に相反する黄金の色。そして、久しぶりの煙草の味がする唇に、自分のそれを塞がれた。
「こんな幻があるか」
「……幻とか、夢だったら、泣いちゃうかもしれません」
「馬鹿言え」
 フッとその人が笑うのが聞こえて。ちょっと恥ずかしかったけど、嬉しくて。
「まさかホントにお願いが叶うとは、思いませんでした」
「お前の願いを叶えるのは空想の人物なんかじゃねェよ、俺だ」
「そ、ですよね」
 背後から強く抱き締められて、自分の肩に彼の顔が押し当てられたのが解った。久しぶりの煙草の匂いのせいか、頭の奥の方がくわんと揺れる。
「明日になったら、三蔵は帰っちゃいますか?」
「……バーカ」
 肩越しに三蔵を振り返って、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて言った八戒に、逆に自信満々な笑みを浮かべた三蔵は、耳元で何言かを囁く。すると、きょとんとしていた八戒の顔が、ゆっくりと綻んでいった。

『お前の願いを叶えるのは俺だ。望むなら何だって叶えてやる』











2005/8/4