「……なあなあはっかい」
 迷惑を掛けると解っていても、彼が自分に背を向けていると声を掛けたくなってしまう。
 自分に背を向けたそのあたたかないきものが、確かにそこに存在する事を確かめるように。
「はい? 何ですか悟空」
「……んと、さ……」
 洗い物をしていて忙しいだろうに、自分が名前を呼ぶと穏やかに笑って振り向いてくれる。そんな存在に少し照れくさく思いながら、少しだけ俯いた。初めて見た時から綺麗だと思っていた(実はちょっと美味しそうだとも思った)その目で微笑まれると、いくら破天荒な悟空といえどもどうして良いのか解らなくなってしまう。それは、前に図鑑で見た宝石に似ている。確かエメラルドとかいう名前だったと思う。

   『なーなーさんぞうっ』
   『あ?何だバカ猿』
   『さるじゃねぇっ! で、あのさ、これなんて読むんだ?』
   『……? ……emerald、エメラルド、だ』
   『えめらるど? ……へー』
   『……それがどうかしたのか?』
   『う? あのさ、この石ってはっかいの目に似てね? って思って』

 その後三蔵が口に含みかけていたコーヒーをそのまま吹き出して書類を汚して、汚したのは自分のくせに俺のせいにされた。ものすんげえ怒られたけど、それくらいでいつもそんなに怒らない筈なのに。何か拙いこと言ったかな、俺。
「どうかしましたか? あ、もしかしてお腹減ったとか……」
「あ、う、ううん!」
 笑いながらそう言う八戒に、瞬時に(迷惑がかかる)と、思わず否定すると、八戒は目を見張ってはた、と食器を洗っていた手を止めた。そしてさっと泡に塗れた手を洗って水を止め、エプロンで濡れた手を拭い、悟空の方へ身体を屈めた。
「悟空にお腹が減ってない時があるなんて……まさか風邪? 熱はないですか? お腹痛くないですか?」
 冗談のようだが本気で心配している様子の彼に、断ることこそかえって申し訳なくなって、いつものようににかっと笑ってみせた。
「嘘うそっ、マジハラ減ったー」
 そう言うと、八戒は一瞬きょとんとしたがすぐ安心したように笑い、ちらりと時計に目をやった後そっと悟空の頭を撫でた。
「もうすぐ三時ですから、おやつにしましょうね。だけど今日は材料を用意してなくて……ホットケーキでもいいですか?」
「うん! 八戒が作るのだったらなんでもいい!」
 元気な声に安心したように八戒は小さく息を吐いた。
「さて……それじゃあちょっと片付けが終わるまで待っていて下さいね。その間に悟浄を起こしてきてくれませんか?流石に今の時間まで寝ているのは不健康ですからね」
「わかった! 部屋で寝てんの?」
「ええ、ホットケーキが出来るまで遊んでいていいですよ」
「うん!」

 悟空の様子のおかしさには勘付いてはいたものの、彼が話そうとしないのなら詮索は無意味だ。悟空は頑固になったら絶対に心の内を明かさない。それは秘密主義という訳ではなく、悩みを知られるのが恥ずかしい、という可愛い見栄なのだけれど。三蔵の事も、唯一無二の存在として思っているだろうが、それゆえに弱みを見せるような事は余計にしたくないだろう。彼が弱みを明かすとしたら、きっと悟浄。悟浄がもう起きているだろうことは知っていたが、それでも彼の部屋に行かせたのは、それで悟空が楽になるならという、余計な気遣いから。
(……僕ってあんまり役に立たないんですねぇ……)
 食器に付いた泡を洗い流しながらこっそり思う。
 自分に出来る事といえばこうして掃除洗濯をして、彼にねだられるままに料理を作る事だけ。そのいずれもが、自分でなければ出来ない事ではない。まるで家政婦の仕事内容のようだ。
「悟空をあまり甘やかすな」
「そうですね……だけど出来ることといったらこれくらいしか……、え?」

 布巾で手を拭きながら、思わず返事をしてしまってからゆっくり後ろを振り返る。と、そこにはその凛とした声通りの美丈夫が不機嫌そうに斜に構えて立っていた。服装は法衣のままだ。
 元々悟空は、彼の仕事に連れていく訳にはいかないからということで悟浄の家に預けられているのだ。ということは……。
「お仕事、終わったんですか? 三蔵さん」
「……さんは止めろと言ったろう」
 自分の呼んだ名前に一瞬顔を顰めた彼……三蔵は、懐からいつもの赤いソフトパッケージを出し、一本器用に取り出してみせた。そしてまた懐からマッチを取り出し慣れた手付きで火を着ける。それを見てすぐ八戒は台所に引き返し、綺麗に洗われたガラスの灰皿を近くのチェストの上に置いた。
「そういう訳にはいきませんよ」
「あの河童はよくて俺は駄目か」
「だって元々悟浄は“悟浄さん”って柄じゃないじゃないですか。それに……仲間意識があるんですよ、悟浄には。……いろいろ」
 そう穏やかに言ってみせる八戒に、三蔵は顔を顰めて右眉を跳ね上げた。
「お仕事終わったんでしたら、悟空連れて帰りますか? それとも晩御飯食べて行かれます?」
「ああ、そうさせてもらう。疲れているんでな」
「そうですか、僕に出来る接待ならさせていただきます」
「コーヒー」
「はい」
 命令すれば何でも聞く、その姿勢が煩わしかった。

 次第に部屋に、コーヒーの香りが漂い始める。ふと視線を上げれば、コーヒーメーカーに向かう細く薄い背中が見える。短く切られたえりあしと首元が広くとられたコットンシャツのせいで覗くうなじは、大の男のものとは思えないほど白く細く、酷く情欲を煽った。
(何を考えている?)
 まるで幻を見ているようだ。蜃気楼のように、手を伸ばしても実体を持たないのではないかとすら思えてしまう。非現実的すぎる自分の思考に嫌気が差す。悶々と考え込むのは性に合わない。先程八戒が出してくれた灰皿に手を伸ばし、吸い殻を押し付けて火を消してから、一度口を閉じ、声を出した。
「……おい、八戒」
「はい。何ですか三蔵さん」
 名前を呼ぶと、その存在はすぐにくるりと振り返った。その碧の瞳を瞬かせて、不思議そうに小首を傾げている。
 ほら、幻なはずがないだろう?
「……どうかしました?」
「いや、何でもない」
 そう答えると、八戒はいかにも不満そうに顔を顰めた。用もないのに名前を呼んだことが気に触ったのだろうか。いや、いくらなんでもそこまで心の狭い人間とは思わない。では?
「……何だその反応は」
「さっき悟空にも名前を呼ばれたんです。で、今の三蔵さんみたいになんでもないって言われちゃって。……何か言いたいことがあるなら言ってくれればいいのに」
 そう言って、少しだけ八戒は顔を伏せた。元々血色が良いとは言えないその顔に翳りが出る。それを見て三蔵は思わず舌打ちしそうになった。それも何とかぎりぎりで食い止める。悟空の違和感には何となく気付いていた。決定打は二週間ほど前、突然公務中の三蔵のところに、大きな図鑑を抱えた悟空が現れて、読み方を教えてくれと言ってきた時だった。男の目を宝石に喩えるほど、悟空がロマンチストとは思えない。昔赤紫の夕焼けを見てグレープジュースと言った子供だ。普段からそういったことを言う人間……まあ悟浄が言ったとしたらキモイで済む。だが、あの悟空が、だ。



「へー……えめらるどかー」
「おま、何を考えてるんだこのバカ猿!」
「でさーこっちの字はなんて読むんだ?」
「……翡翠、ヒスイだ」
「ひすい……」
 食い入るように図鑑に見入る悟空を、三蔵はとんでもないものを見るような目で見下ろした。
「こっちも似てんなー」
「……お前……」
「さんぞーの目はブドウ味の飴に似てんぞ!」
「……」
 張り合うつもりはないが、八戒の目は宝石で自分の目は飴というのが微妙に気に食わない。まあ悟空にして見ればそう価値に違いはないだろうが。むしろ食べられる分、飴の方が上かもしれない。
「これは三蔵の目に似てる。そんでこっちは悟浄の目」
 にかっと笑って悟空が指差したのは、アメジストとルビー。飴に喩えられても気に食わないが、悟空に目を宝石に喩えられるというのも何だか不気味な気さえする。
「だけど、やっぱえめらるどが一番きれー」



「……確かにあいつは最近様子がおかしい」
「え、三蔵さんに対してもなんですか?」
「まあな」
 見る人が見れば丸分かりだろう。悟浄辺りはそういった感情に敏感だし、そろそろ気付くに違いない。八戒は周りの人間の感情には酷く敏感だが、それでも自分に対する好意に対しては酷く鈍感になるのだ。今こうしている自分の感情にも十中八九気付いてはいまい。十割と言ってもいい。
(あんな初恋中学生みたいな反応……)




「江流江流」
「……何ですか今度は」
「恋と言うのは素敵なものなのですよー」
「……」
「あ、今あからさまに厭な顔をしたということはあなた、さては初恋がまだですね?」
「こんな寺の中でどうやって恋をしろと」
「それもそうですねぇ、ええ、初恋は大事に取っておくといいです」
「はあ……」
「世間には“初恋は実らない”なんていう俗説もあるんですが、とんでもないことです。恋が実らなかった方の負け惜しみですよ」
「俗説など当てになりません」
「そうです。あなたも、ひょっとしたら……初めてにして、最後の恋をすることになるのかもしれませんよ?」
「……」
「ま、初恋が実れば、の話ですが」




(……死してなおあの方に試されているような気がしてきた……)
 今この瞬間、彼が何処かから自分の不甲斐ない状態を見ている気がしてきて落ち着かない。いや、(いやぁとうとう初恋ですねえー)とのほーんとしている姿が瞼の裏に浮かび、額に冷や汗が滲む。初恋が実らないだと。冗談じゃない。
「……八戒」
「何ですか?」
「これからはさん付けで呼んでも返事しないからな」
「……そんな幼稚な」
(何とでも言え)
 今の三蔵は割と本気だ。初恋が実らないという俗説に沿うという屈辱のみならず、よりにもよって自分の拾った小猿にその相手を奪われる……という最悪の事態になりかねないのだ。このぐらいの失態を何とする。八戒は悟空に甘い。とりあえず抱きつくところまでは無条件で許されている。それは悟浄もだが、悟空は滅多な事では怒られない。例えば悟空がキスをねだったら。ひょっとしたら八戒は、“子供が親からの愛情を欲するようなものだろう”と軽く考えて与えてしまう可能性がある。八戒はとりあえず悟空のことを“清純で、煩悩と言えば食欲・睡眠欲ぐらいな子供”と思っている。……実際はそれに収まるはずもない。
「……三蔵、さん?」
「……」
「さんぞうさん」
「……」
「玄奘三蔵法師」
「……」
「……鬼畜生臭坊主……」
「ああ?」
「って悟浄が呼んでるじゃないですか。じゃあこれからそれで……」
「今の返事は無効だ。“三蔵”以外は認めん」
 ほとほと困り果てた顔をした八戒は、戸惑うように辺りに視線を動かした後、ぱたぱたと台所に歩いていった。そして間もなく、ふわふわと湯気といい匂いをさせた白いカップを持って現れる。
「……どうぞ……三蔵」
 ことん、と白いソーサーに乗せられ、濃茶の液体を湛えたカップがテーブルに置かれる。ゆっくりと、視線をカップから、そのほっそりした手の持ち主へと移すと、彼はばつの悪い顔をして眉を寄せていた。そして少し申し訳なさそうに躊躇いがちに口を開いた。
「……やっぱり何かあれですねぇ」
「何だ」
「あなた、自分が高貴な身分だっていう自覚ありませんよね」
「ない」
「……でしょうね」
 普段のペースを崩さない三蔵の返答に、八戒は諦めの混じった溜息を吐いた。それを横目にコーヒーを一口啜り、チェストの上に置いてあった灰皿に手を伸ばしながら、もう一度その名前を呼んだ。
「八戒」
「はい?」
「俺は誰だ?」
「……三蔵、でしょう」
「そうだ」
「ホント、悟空に負けず劣らず子供っぽいですよあなたも」
「サルと一緒にすんな」
「似たようなものです」
 仕様がない子供に対するような声色に、憮然として視線を上げる。するとそこには、口元を苦笑に形どって肩を竦めながらも、どこか嬉しそうに笑う姿があって。
 今までそういえば、こんな風に笑う彼を見たことがなかったような気がする。いや、見たことがないというのは語弊がある。見たことはあるのだ。しかしそれは、悟浄や悟空に向けられる笑みを、脇から勝手に見ていただけで……自分に向けられたのは、初めてだった。思わずその顔に見入ってしまっていると、次第に八戒は居心地悪そうに首を傾げた。
「すみません、そんなに怒らないで下さい」
「……怒ってねえよ」
「そうですか?」
 ちょん、と小首を傾げる仕草は、大の男には不釣合いな筈なのにどうにも愛らしく映る。男に対して愛らしいなどと、自分の頭はかなり沸いているらしい。
「悟空を甘やかすな」
「またそういうことを……」
 今度は少し呆れたような顔をした八戒に、フンと鼻で笑って見せる。
「甘やかすと碌な大人にならねえ」
「それもそうですね……」
 三蔵の言葉に、少し思案顔になった八戒は人差し指を顎に当てて小さく唸る。しかしそのうち、彼は何か思い付いたように悪戯っぽく笑って、目を少し細めて三蔵を見た。
「まあ、いいんじゃないですか。アメとムチってことで」
「……は?」
「でも、悟空って結構あなたに似てますよ?」
 はた、と動きを止めた三蔵に、八戒はクスクスと鈴を転がすように笑った。そしてゆっくりとその笑みを収めてぽつりと呟く。
「……俺と猿のどこが似てるって……?!」
「え? そうですねぇ……言い出したら聞かないところとか、反応が可愛いところとか、ですかね」
 にこにこ笑いながらとんでもないことを言い出す八戒に、三蔵は吸いさしを指に挟んだまま思わず目を見開いてしまう。
「悟空もあなたみたいな大人になるんですかねぇ……ちょっと心配です」
「何だと?」
 可愛い顔をしてしゃあしゃあと言ってのける八戒に閉口しつつも、吸いさしを灰皿に押し付けて軽く舌打ちした。何よりも八戒のその言葉に反論が出来なかった自分が一番腹立たしい。
(そりゃあ似てもいるだろうよ……)
 まさか、好みまで似るとは思いもしなかったのだ。

「はっかーい」
 三蔵がムスッとして沈黙している内に、家の奥の方から悟空の足音と声が聞こえてきた。悟浄が起きたらしい。それにまた激しく舌打ちして、三蔵はまた新しい煙草に火をつけた。そうしている間に悟空はどたどたとリビンクに駆け込んでくる。その後ろから何やらニヤニヤと悪戯を思いついた子供のような顔をした悟浄がついてくる。
「おはようございます、悟浄」
「おはよ。あらサンゾー様、来てたの?」
 触覚も元気な悟浄は美人の同居人ににっこりと微笑まれてご満悦の様子。つい一秒前に視界に入れたばかりだというのにたった今気付いた、というような顔をするその男が憎らしい。……それと同時に、それに何の意図があるのかと彼の顔をまじまじと怪訝な顔で見つめてしまう。

「じゃあ悟空、これからホットケーキ焼きますから少し待っていてくださいね。……悟浄はどうします?サンドイッチか、トーストか……」
「うーっと、トーストとスクランブルエッグでいーや」
「はい、……あ、コーヒーはセルフでお願いします、すみません」
「いーってそこまで気ィ遣わんでも」
 ぱたぱた手を振ってみせる悟浄に八戒は小さく笑った後、台所へ足を向けた。その途中、ふと振り返ると八戒は少し申し訳なさそうに言った。
「悟空、もし嫌じゃなければ少し手伝ってもらえませんか? そういえばまだ食器洗ってる途中でした……」
 そういえば三蔵と話し始めたときに八戒は一度食器を洗う手を止めていた。少し申し訳なくも思った三蔵だったが、すぐに横に立っていた悟空がきゃんきゃんと騒ぎながら八戒の方へ向かって行ったのを見て、そんな殊勝な感情も掻き消えてしまう。
「やるっ!」
「ありがとうございます、お礼にいっぱい焼きますからね」
「うん!」
 傍目から見ればほのぼのした、母と子……もとい歳の離れた兄弟のような二人が台所に消えていくのを見ながら、三蔵は紫煙がゆるりと昇っていくのを目で追っていた。そこにまた先程のような、からかうような目をした悟浄が近づいてきて、三蔵の方に腕を回した。振り払おうと腕を上げようとした瞬間、不穏な影が近付いて来た。
「小猿ちゃんもとうとう思春期だなァオトーサン、どんな教育してんのさ。早熟じゃね? あ、もうそういう歳か。16だっけ」
「……何?」
「さっきさー、悟空に色々と相談されたわけよ。それこそ保護者様には言えないようなこと……」
「……」
(沸いてるだけかと思えばサカリまでつきやがってあの馬鹿猿……!)
 明らかに頭に血を上らせ、微かに顔まで赤くしている三蔵を、悟浄は珍しいものでも見るようにマジマジと観察した。ただプツッとキレてハリセンや銃を振り回すのは普通だが、こんな風に怒りを持て余すように拳まで震わせている三蔵を見るのは初めてだ。きっとこの後悟空は滅茶苦茶に三蔵にヤツ当たりされ、八戒に会うことも当分禁じられるに違いない。
「不憫な小猿ちゃん……」
「ほう、それならお前が悟空の身代わりになってやるのか?」
「謹んでご遠慮しまス」
 懐に手を入れ、何らかの武器を取り出そうとした三蔵を見て悟浄は肩を竦めて彼から少し離れた。彼は、悟空の場合はハリセンが多いが悟浄に向かっては拳銃が多い。何故かって、悟浄の場合大抵八戒が絡んでいることが多いから。天下の三蔵法師が一妖怪(但し薄幸美人)の前では形無し、というのが何とも可笑しく、少しほっとする。
「三蔵様もやっぱり普通の人間、ってか」
「黙れ」
「っていうか俺もまだ諦めたつもりないんだけど」
「じゃあ死ね」
 今度こそ向けられた(いつの間に取ったのか)拳銃に悟浄が焦って避けようとすると、テーブルに乗っていたこんもりと吸殻が盛られた灰皿を落としてしまう。
「うげっ」
「あー悟浄が灰皿おとしたー」
 八戒に気付かれる前に迅速に片付けよう、と思った矢先に響いた声に、恐る恐る顔を上げると、八戒からの借り物のエプロンを付けてホットケーキミックスの入ったボウルと木べらを持った悟空が台所から顔を出していた。背中に冷たいものが伝う。そうして三人が何秒静止していただろう、台所の奥から怒っているようには感じない八戒の声が響いてきた。それに重なって熱いフライパンに何か流し込んだようなじゅわっという音が響く。
「悟浄ー? おとしちゃったんならちゃんと掃除してくださいねー、吸殻拾って掃除機掛けて、そして水拭きしてくださいー」
「お、おう!」
 珍しくお怒りにならない八戒に一瞬目を見開いたものの、彼の気が変わらない内に、と悟浄はすぐさま箒とちりとりを取りにリビングを出ていった。悟空が台所の入り口で目をぱちくりさせている。ふいに、そのどんぐり眼と三蔵の目が合った。
「さんぞー」
「……何だ」
「俺って、八戒のコト“好き”なんだって。さっき悟浄が言ってた」

 その後再びリビングに現れた悟浄が、無情に拳銃をぶっ放すのに箒とちりとりで応戦する羽目になるのを、悟空だけが目を瞬かせながら見ていた。そして暫く見つめていた悟空は、そのままボールと木べらを持ってトテトテと台所に戻っていった。
「何をやってるんですか二人は」
「よくわかんねー」
 コテン、と首を傾げる悟空に、八戒もまた首を捻る。
 だけどまあ、二人とも楽しそうだしいいか、と、じゅうじゅう音を立てるフライパンに向き直る。

 旅に出る前、穏やかな日常の一幕。












2005/8/4