「なあ八戒、……ぁ、いいや」 「……?」 最近悟浄がよく八戒の方を見て、何か言いかけて止めることが多い。 人の心に踏み入ることを善しとしない八戒は、今までにこんなことがあっても問い詰めたりはせず、殆ど諦めていた。返事が来るなどと期待していなかったから。そして、もし返って来たとしても良いことではないだろうと思っていたから。 だけどその相手が、もう同居し始めて一年を越す相手だとなれば、その例には沿わない。良くも悪くも気心が知れ、町の人から夫婦のようだと言われるぐらいの仲でありながら、だ。 「悟浄」 「ん? なーに」 「そろそろ鬱陶しいんですけれど」 「……は、八戒ちゃん?」 「何か僕に後ろめたいことでもあるんですかあなたは」 妻が浮気した夫を責める様な口調に思わず悟浄もたじろぎ、うっかり近くにあった空き缶に吸殻を捨てようとしていた手を引っ込めた。そして少し遠くにあった灰皿に手を伸ばして、吸殻を押し付けた。そろり、と八戒の顔色を伺うも、彼は責めるのを止めようとはしないようだ。鋭い翠の瞳と、たじろぐ紅の瞳が絡み合い、当然ながら先に紅の方が降参するように伏せられた。 「……ワリ」 「話していただけるんですね?」 「いや……そう大したことじゃねえんだけどさ……」 言いづらそうに言葉を濁す悟浄を見て、八戒の顔からはやっと険が消えていった。それを見てやっと悟浄も息をつく。八戒は美人なだけあり、怒った表情をすると尋常ではなく恐ろしい。もごもごしている悟浄をよそに、立ちあがった八戒は台所へ戻って行く。そして暫くすると湯気を揺らしながら白いマグカップを二つ持って現れた。ふわりと漂うコーヒーの香りに、ゆっくりと強張った身体から力が抜けていく。 「で、何なんでしょう?」 「……いや、さ。最近お前、髪伸びたじゃん?」 「そうですか?……そうですね、そう言われると、そうかも知れません。で、それがどうか……」 そう言って八戒が首を傾げると、悟浄は何だか少し言い辛そうに言葉を濁して、ハイライトのパッケージに手を伸ばした。トントンとパッケージを叩いて器用に一本取り出し、火を着ける。そんな一連の動作を見つめながら、八戒はきょときょとと瞬きを繰り返している。それに更に悟浄は言い出しにくそうに言葉を詰まらせた。 「だからー……さ、その……悟能の時の髪型と、同じだー……っと、思ってさ」 「……」 「別に普通に言ってもよかったんだろーけど、さ。ちょっと迷って」 「……それでもごもごしてたんですね。何だ、ビックリさせないで下さい」 「ワリ」 何度も謝る彼に、何だかこちらの方が申し訳なくなって、八戒は小さく笑った。こんな見た目でも中身は結構繊細だったりするから面白い。可愛いだなんて言ったら怒られるだろうか。 「謝らなくていいですよ、こちらこそ責め立てたりしてスミマセンでした」 「お前の方こそ謝る必要ねぇっての。あーもう変に気ィ遣って疲れたー」 「はいはい、存分にリラックスしてくださいね」 そう言って八戒は席を立つと台所に向かい、お詫びの気持ちとしてハイライトを一つ持って現れた。普段八戒は悟浄が吸いすぎないように本数を制限しているのだった。ちなみに八戒のハイライトの隠し場所は幾ら探しても見つからない。あの悟空に鼻を利かせてもらっても見つからなかったというのだから不思議だ。そして八戒はそれをトン、とテーブルに置いた。 「お詫びです」 「おっ、マジでいいの?」 「まぁ、程々にお願いしますね」 「サーンキュ」 嬉しそうに封を切る悟浄を見て八戒は穏やかに笑い、さっきまで悟浄が弄っていた空のパッケージを握りつぶしてごみ箱に放った。 「にしても、切らなくっちゃ流石に邪魔かも……」 前髪を指に絡ませながら言う八戒に、悟浄は灰皿に灰を落としながら訊いた。 「何で悟能は長かったんだ?」 「ああ……あの頃はですね、ちっちゃい村だったから近くに床屋がなかったんですよ。花喃もなかなかの不器用でしたし……。自分で切れるのなんて前髪くらいじゃないですか」 「……成程。切らなかったんじゃなくて切れなかったのか」 「ええ。……そういえば悟浄、僕が慶雲院にいた頃、バッサリ髪の毛切ったじゃないですか。あれって誰に切ってもらったんです?」 「んああ? あれ? 俺が自分で切ったのよん」 「え?……悟浄って器用なんですねぇ、結構真っ直ぐ綺麗にセットされてたので誰か女性にでも頼んだのかと」 「俺ってば器用よー? どうよ一晩俺に身を任せてみない?」 「あはは、おバカは休み休み言わないと本当におバカになっちゃいますよ」 割と本気で言った悟浄はそのままテーブルに沈む。酷いことを言った自覚はなかったらしい八戒はきょとん、と首を傾げるばかりだ。そんなやりとりに慣れた悟浄はまあすぐに復活して同じことをするのだが。 ずーんと沈んだ悟浄を不思議そうに見ていた八戒だったが、そういえば、ともう一度台所に向かい、色々なチョコレートの入ったアソートの袋と菓子皿を持って現れる。その彼の、少し肩に掛かる髪の毛を、テーブルに肘を付きながら見ていた悟浄は、ポツリと呟いた。 「……んなぁ八戒」 「何ですか?」 「俺が切ってやろーか。髪」 その後ほんとですかだいじょうぶですかもしかしてひごろのうらみをはらすためにぼくをまるがりにしようっていうんじゃないでしょうねなどと驚き混じりに(多少心外な)質問攻めしてきた八戒だったが、実は満更でもないらしく、ちょっと嬉しそうだ。家の脇の物干しをする芝生のスペースに青いビニールシートを敷いた。その上に椅子を置き、さながら美容師のように、きょとんとしている八戒を椅子へ誘った。 「うわあ何だか本当に美容師さんみたいです悟浄」 「だろぉ? 惚れた?」 「あはは、僕が女だったら惚れるかもなあ」 「ひでー、三蔵様には男でも惚れるくせに?」 「よ、余計なことは言わなくっていいです!」 そう言って八戒はすぐに顔を伏せてしまったが、この状態では彼の紅潮した耳や首筋は丸見えだった。 (ベタ惚れ、ってわけね……) 分かってはいたが決定的な何かを見せ付けられたようで何だか淋しくなってしまう。 「悟浄?」 「んぁ? ああワリィ……長さは前くらいでいいんだろ?」 彼の命を此処に繋ぎとめたのはあの男かもしれない。だけど最初に拾ったのは自分だ。……手に入らなくても幸せを祈るくらいは許されてしかるべきだろう。当然の権利、特典だろ。 「……何かすごくプロっぽいです」 「そ?」 シャキシャキシャキ……とリズミカルに聞こえる髪を切る音に思わず八戒は感嘆の声を漏らす。 「八戒の髪ってやっぱ綺麗なー」 「そうですか? 手入れなんて何にもしてないですよー洗って乾かすだけで」 「元がいんだな、元が」 「悟浄の髪もすごく綺麗ですよ。元がいいんですね」 鋏を拭き取りながら話をしていた悟浄を、八戒が悪戯っぽく真上を見上げて笑う。一瞬それにきょとんとした悟浄は、はた、と手を止めた。そして図らずも同じタイミングで笑ってしまった。 「あー笑った」 「あはは……っと、ごじょうー目に髪が入りそうです拭いて下さいカユイです」 「ワガママな客だなあもー」 「では是非にVIP待遇を要求します」 「了解」 そんなやり取りの後、また二人で吹き出してしまうのだった。 こうして20年ばかり生きてきたが、こうして毎日太陽の下で笑って生活したことなんて殆どなく、こんなのは殆ど非日常だった。それはあの日から生きるための灯を失くした八戒も同じ。 「……実は僕ってちゃんと胸張って友達って言えるような人が出来たの、悟浄が初めてかも知れません」 「へ?」 「花喃に会うまでホントに愛想のない子供だったんで。同年代の女の子には恐がられシスターには窘められ」 「へぇー……お前が女の子に恐がられるところって想像出来ねえよ。お前愛想の塊みたいだもんな」 「それはそれでヒドイです。……でもそうなれたのは悟浄のお陰だと思ってますよ?」 「やけに今日は素直じゃーん。何かあったの? サンゾー様と」 そう言うと、八戒は少しだけ顔を曇らせた。怒っているともいえない、どちらかと言えば少し淋しそうな……。 「……三蔵と悟空、って。切っても切れないと思いません?」 「は? クソボーズと猿が? ああまあ猿回しと猿だしなぁ……」 何やらシリアスな雰囲気に、どうしたものかと少し茶化したことを言うと、八戒は余計に顔を曇らせてしゅん、と俯いてしまう。 「三蔵にばっかりそんなひとがいるのはズルイです。悟浄、もし僕が三蔵に捨てられたら拾ってください」 「はあ……」 悟浄の脳内では、先程までの八戒の言動と、今さっき告げられた衝撃の言葉をフル稼働で解析していた。おバカおバカと言われても色恋に関しては鼻が利くのだ。 「……」 つまり。 (……悟空が羨ましいわけね……) 感情の表現だとか言い回しが屈折しているようでいてその行動は余りにも正直だ。実は根本はものすごく素直なのではないかと思ってしまう。まあ、確かにもし自分が八戒の立場だったら悟空という存在が気にならないとは言えない。寧ろかなり気になる。だが、彼とは違う意味で、であるが。 だって三蔵と悟空とが“恋人”などという甘やかな関係に見えるはずがなかろう。猿回しと猿、父と子、飼い主とペット……。 (恋の病ってやつかね) 悟浄ががしがしと頭を掻いている間にも八戒はしゅんと俯いてしまっている。端から見た人間がどれだけ変だと思おうが当人にとっては切実な問題なのだ。それは分かる。分かるのだが、どうすることも出来ない。三蔵はあれで一応悟空を大事にしている。と思う。だからきっと悟空を一生突き放すようなことはないだろう。普通に考えれば三蔵の方が絶対先に死ぬわけだし。それに八戒だって悟空に対してはかなり甘い。昔先生のようなことをしていたことがあるせいかも知れないが、子供にはとりあえず甘い。 (小猿ちゃんも罪だな……) 存在一つで大人の恋をここまで乱すのだ。いや寧ろこの大人たちが少しばかり……いやかなり不器用過ぎる点に問題があるのだが。 「……はいはいいーですよ、何かあったらオニーサンの胸に飛び込んでらっしゃい」 「必ずですよ!」 幼い子供のように約束を念押しする八戒に、ますます苦笑するしかない。 「でもそんなことしたら俺が三蔵様に殺られちゃうんだけど」 「そんなことになるのならまだ捨てられたことになりませんよ。……僕が言ってるのは、三蔵が僕に一切の執着を持たなくなった時の話です」 (え……そんなことあんの……?) 鋏を動かしながらちょっと顔をひくつかせた悟浄は、それでもそれ以上反論せずに口を噤んだ。きっと今反論したところで碌なことにはなるまい。ないない、と首を振りつつもご立腹の八戒の逆鱗に触れぬように殊更丁寧に髪を梳る。彼の得意の自虐思考がこういう落ち込んだ時に突然顔を出す。いつもなら悟浄だって何かしてやれることがある。だが今は理由が理由だ。深刻に考えている彼に気軽なことは言えないし、下手なことを言って後で馬ならぬ三蔵様に蹴られては堪らない。 「どうせ三蔵は僕がいなくなったって悟空がいるからいいんです……」 なんて言われたって悟浄にどう答えられると言うのだろう。 (イヤーンたーすけてー) 何を口にしていいのか分からず、しかも誰に祈っていいのかも分からない悟浄は“誰か”に向けて助けを求めた。神など信じちゃいないが、困ったときのうんたらかんたら……という一般的な思考は健在である。 そんな悟浄に天使が降りてきた。その天使はまあ微妙に小猿のような姿をしていたような……。 「はっかーい、エロガッパー」 だかだかと足取りも軽く二人の家の方へ走ってきたのは、小猿の姿をした天使(悟浄ビジョン)……もとい悟空。この際“エロガッパ”呼ばわりには目を瞑っておく。突然の悟空の訪問に、八戒は動けないながらも目を瞬かせた。 「どうしたんですか、悟空? 何かおつかいですか?」 目をぱちぱちさせて悟空を見る八戒に、先程までのやり取りを何も知らない悟空は無邪気にぴょんと八戒の膝に飛び乗った。切った髪の毛はもうほろってあったので安心だ。 「ううんっ、ただ八戒に会いたかっただけっ!」 そう言って太陽のように笑って見せる悟空に、八戒はその身体を支えつつきょとんと目を見開いた。そしてその後、少しだけ泣きそうな顔になった。こんな風に邪心もなく笑う少年に少しでも醜い感情をぶつけそうになったことを後悔しているのだろう。結局八戒もまた悟空には甘いのだ。泣き笑いのような顔になっていた八戒は、それでも優しく悟空に微笑みかけた。 「ひとりで勝手に来たら怒られませんか……?」 「ううん、これからさんぞーも来るから大丈夫」 「え?」 目を瞬かせる八戒を見て、悟空もまた目を瞬かせた。しかし悟浄はそんな二人を見てニッと口角を上げた。内心(助かった〜……)などと考えながら。 「さんぞーがさ、俺のコト置いて八戒んトコ行こうとしてたから先回りしてきちゃった!」 ずりーよな、おれだってはっかいのことすきなのに!と息巻く悟空を膝に抱っこしたまま、八戒は頬をゆっくり赤く染めていった。 嬉しいんだろ?と悪戯っぽい顔で八戒の頭を後ろから小突いてやると、彼は両手を赤く火照った頬に当てて少し困ったように背後の悟浄を見上げた。 「おい猿、三蔵様はあとどんくらいで来んのよ?」 「う? んーと……すぐに来ると思うよ」 「だってさ、八戒ちゃん。旦那が来る前に身だしなみ整えとかなきゃな〜」 「ご、悟浄!」 更に頬を赤くする八戒を、悟空が不思議そうにまじまじと見つめる。見かねた悟浄は悟空を八戒の膝から下ろして、冷蔵庫にプリンが入っていると言って先に家の中に入らせた。嬉しそうに家に入っていく悟空の後ろ姿を見ながら、八戒は赤い顔のまま大きく息を吐いた。それに対して悟浄はまたニッと笑ってちょっとからかってやる。 「三蔵様ってば小猿ちゃんを置いてまで会いに来ようとしてるなんてね〜なんてケナゲな……」 「悟浄……」 「ほらほら、キレイにして旦那を迎えないとさ。これ終ったら俺猿連れてちょっと出掛けっから」 「そんな……」 「悟空が勝手に抜け出したのがバレたらまた怒られんだろ? 三蔵が寺に帰る前に帰らせっからさ。……あ、それとも三蔵様一泊?」 「ご、ごじょう!」 カーッと顔を赤くするのが可愛いと思う辺り自分もかなりアレなのだが……この状態も悪くはない。あの日、あんな風だった八戒が、段々“生”の方向へ向かっていくのが、純粋に嬉しい。 (……俺、もしかして兄貴のポジション?) 夫・三蔵、妻・八戒、息子・悟空、そして妻の兄の自分……をリアルに思い浮かべてしまって思わず身震いする。 (うああ……何かリアル……リアル過ぎだって……) 「……悟浄」 「はい?」 「悟空とのお出掛けはナシにしてくれませんか?」 「へ?」 唐突な八戒の申し出に、悟浄は、鋏を動かしていた手をふと止めた。 「何でよ?」 「で、後で買い物に付き合ってください」 「ん……いいけど、何で?」 不思議に思い、横から八戒の顔を覗き込むと、彼は喜びを押し隠すように曖昧に笑った。 「悟空にご馳走を作ろうと思って……」 「……」 (まーまーまー幸せそうな顔しちゃって……) 余りにも幸せそうな顔に、からかう気さえ削がれて悟浄はそのまま立ちつくした。が、すぐに我に返って口角を上げた。 「はいはいオカーサン、お付き合いしますよー」 どんな感情にか、ほんのり赤く染まった頬で怒る八戒の頭をポンポンと宥めるように叩いてやる。 「おしあわせに」 「っ、悟浄!」 真っ赤な顔で声を上げる彼の振り上げた手を避けつつ、彼の身体に掛けていた布を取って髪をほろう。 「ホレ、完成ー」 小鳥の囀る森の中。 もうすぐあの子の愛しいあの人がやってくる。 一陣の風が吹いた。 2005/8/14 title by 自主的課題 |