同居人が恋人と喧嘩をして帰ってきた。よくある話だ。ぼんやりしたまま帰ってくることも、物凄く険悪なオーラを出して帰ってくることも、泣きじゃくって目を赤くして帰ってくることも。全部全部、よくある話。

 悟浄の部屋にはこっそり酒類が隠してある。いざという時のためだ。同居人から禁酒令が出された時のためでもある。しかしメインは今日のような日のためだ。笑顔が一番似合う同居人が、目を赤くして帰ってきたような、そんな日のための。しょんぼり、という効果音が付きそうなほどとぼとぼと部屋に入っていく彼の後ろを、ペットの白竜が追いかけるものの、今日の彼はペットを気に掛ける余裕もないのか、背後にペットがいるのも忘れたように部屋に滑り込むと、パタリとドアを閉めてしまった。お陰で主人の部屋から締め出されてしまったペットのジープは、淋しそうに鳴いてパタパタと羽根を動かして悟浄のいるリビングに戻ってきた。そしてだらりと悟浄が座っていたダイニングの、テーブルの上に降り立った。
「キュウ!」
「……なーによ?」
 どうにもこうにも気の合わない一人と一匹だが、ある一人のためなら結託することだってあるのである。
「キュキュ、キュウ〜!」
「いつものことながら何言ってんだかわかんねぇよお前は〜。……しかしま、……いつものやっとくか?」
「キュッ!」
 悟浄がにやりと笑ったのを見ると、ジープの眸がキラリと光る。そして長い首をこくこくと上下させて、悟浄の服の袖を口に咥えてグイグイと引っ張り、催促するような仕草を見せた。そして、吸っていた煙草が短くなったのを見てそれを灰皿に押し付けると、悟浄は膝を叩いて立ちあがった。そして一人と一匹は不穏な行動を開始した。
 そして十分後、悟浄は同居人の部屋のドアをノックしていた。恐らく中で彼はベッドの上、シーツでいもむし状態になって不貞ているに違いない。いつもそうなのだ。あの状態で帰ってくるといつもそうで、その日が雨に重なったりするともう手のつけようがなかったりするのだ。
「はっかいさーん、ちょっと起きて来ません〜?」
 中から返事はない。多分返事を出来るような声の状態ではないのだろう。プライドの高い男だから、ガラガラになった声でひっくり返った返事をすることなど耐えられないのだと思う。ここで、出て来られる状態なら戸口までやってきて少しだけドアを開け、「何ですか」と聞いてくる。しかし出て来られないようならそのまま引きこもって一晩部屋から出てこないのだ。
(……今日は無理だったりする?)
 隣で羽根をぱたぱたさせながら心配そうにドアを見つめるペットの存在もある。普段小憎たらしいばかりの存在だが、同居人を心配する心は一緒だったりするので、こういう表情を見ていると可哀想にもなってくる。しかしこういう時にあまり無理に部屋から出そうとするのは彼に対しても可哀想だ。ひょっとしたら今日は放っておいてもらいたがっているのかもしれない。悟浄は半分諦めて、もう一度呼んで出てこなかったら今晩は諦めよう、と再びノックをした。
「八戒〜?」
 そう呼んで一瞬待つ。すると、薄い戸の向こうから、何かがのそりと動く音がした。そして起き上がって来たのだろうかと思って待つと、ゆっくりと戸が五センチばかり開いた。そして、その隙間からちらりと、シーツに包まったまま立っている同居人が見えた。見慣れたとはいえ、やはり少し痛々しい。
「起きてこれる?」
 出来る限りの優しい声で呼ぶと、すっかり赤くなってしまった目を子どものように擦りながら、彼はコクリと頷いた。
 いつもならどれだけ打ちひしがれていようとも悟浄の前では幾らか取り繕ったりするのだが、今日はそんな気力もないのかシーツに包まったままの八戒は、裾を廊下でずりずりと引き摺りながら悟浄の後ろについてリビングへ歩いてきた。リビングのテーブルでは、一足先に戻ったジープがテーブルの上で心配そうに八戒を見つめている。
「……ジープ、心配掛けてごめんなさい」
「キュゥ……」
 ペットがあまりに心配そうだったからだろうか、八戒は少しだけ苦笑してジープに手を伸ばし、鬣をそっと撫でた。ジープはその手に顔を擦り寄せている。その間に、悟浄は冷蔵庫からビールを二缶取り出して戻ってきた。
「そんじゃ、まずビール」
「……ありがとうございます」
 八戒は一瞬戸惑ったような顔をした後、キンと冷えた缶を受け取って悟浄の向かい側の椅子に座った。八戒が落ち込んで帰ってくると、悟浄は出来る限り、徹底的に八戒を酔わせることにしていた。酔っ払って潰れてしまえばずぶずぶと彼が悪い方向に物事を考えることもなくなるからだ。勿論それには、ジープも加担している。
 シーツを肩に掛けたまま、缶に口をつけた八戒は、小さく息を吐いた。瞼は微かに腫れぼったく、帰ってきてからも大分泣いたのだろうということが窺えた。目元は何度も擦ったのか赤くなっている。正面でビールを口にしながらそれを眺めていた悟浄は、手持ち無沙汰になっているジープへテーブルの脇にあったバナナを剥いて、小さく千切って皿に載せてやった。
 ジープがそれを突付き始めるのを横目に、両手で缶を包みこんだまま切なげな溜息を吐く同居人に声を掛けた。
「……んで? 今日は何があった?」
 二ヶ月ばかり遅く生まれた自分だけれど、こんな風にしているとちょっとした、“弟を見つめる兄”の気分になる。自分によくもこんな優しげな声が出せたものだ、と最初の頃は思ったものだ。ん? と軽く問いかけるように首を傾げると、八戒は微かに赤らんだ目をちらりと上げて、缶を包む手に力を入れ、躊躇いがちに口を開き始めた。
 聞いてみれば何ということもない。いつもと同じ痴話喧嘩。ただ、喧嘩の大抵の原因が相手の嫉妬にあるのが問題だった。たまに何故か悟浄が喧嘩の原因になっていることもあって、彼の恋人の顔を思い浮かべては今度どうお返ししたものか、と青筋を立てているのだ。八戒も、原因は相手が自分を愛する故に嫉妬に狂っているからだとしっかり理解出来て、尚且つそれを裏でこっそりほくそえむくらいに図太ければいいのだが、恋愛に関してはまだまだ未熟で余裕もないらしい。
 ぽつりぽつりと今日あった出来事を話しながら、少しずつビールに口をつける彼を正面から見つめる。
 自分だったらこんな風に傷つけないのに、なんていう常套句はもう何度も頭の中を過ぎっていた。そして口に出した例もない。  今の恋人に別れを告げられる、という時点で、彼がどれだけ傷付くかを考えたらそんなこと口に出せるはずがないだろう。

「やきもちなんて言われたって、納得できません」
「うん」
「どうして、お付きの小坊主さんに笑いかけただけで、怒られなきゃ……いけないんですか、ねぇ」
 先程から呂律が回っていない八戒は、珍しく軽く酔っている様子だった。いつもそうだ。こんな風にして帰ってきた日はいつもこうして愚痴を零しながら酔う。それでいいと思う。こんな風に辛い日に、少しも酔えないのはもっと苦しいから。
「やきもちって言えば、なんでも許されるって、思わないでほしいですよ、もう」
「そうなんだよなぁ、女も似たようなもんだぜ? こっちは何の気なしに他の子と話してるだけなのに、その気があるんじゃないかってカンカンになってさ」
「そ、なんですよ、さんぞうも、そゆところは、まだまだ子ども、みたいに」
 空になったビールの缶はもう隅に追いやられ、テーブルの中央には悟浄の部屋にこっそり隠されていた一升瓶がドンと置かれていた。それもこのペースではじきに空になるだろう。そして足元にはまだ開けられていない瓶が二瓶転がされている。自棄になったように呑み続ける彼は、彼らしくないほどに酔い始めていた。彼曰く、いつも酒を呑むと酔っているらしい。表に出ないだけで。
 悟浄は、表に出ないのではなく出さないようにしているのではないかと思っている。だから、こんな風に情緒不安定になった時はそんな制御も出来ずに酔っ払ってしまうのだろうと。

「ねえごじょう」
「はいはい?」
「なんで、さんぞうはごくうよりもぼくがいーって思ったんですか?」
「……はい?」
「だって、どうして何でなんですか?」
 もうさっぱり何を言っているのか解らない。多分彼も何を訊いたか解っていないだろう。ただ視線だけは真剣で、無視することを許さないといった感じだ。しかし暫く見つめあったままじっとしていると、眉根を寄せた彼は小首を傾げた。
「……あれ、ぼく今なにかいいました?」
「んー? まだまだ呑み足りないです〜って」
「……そうですか。じゃあのみます」
 もう訳が分からない。実際悟浄の方も軽く酔い始めていて、考える力が低下しつつあった。
 まるで子供がジュースを飲んでいるかのように両手で包みこんだコップを傾け、こくこくと嚥下していく八戒を見つめながら悟浄は大きく溜息を吐いた。
「ねえごじょ」
「はいはい」
「……いつも、おこらないですか?」
「は?」
「いつも、さんぞうとけんかして、帰ってきて、こんな風に愚痴ばっかり、いって」
 いつもいつも喧嘩して帰ってきては愚痴を言って呑み潰れることを怒っていないのか、ということらしい。
「何で八戒に怒る必要があンのよ?」
「らって、……めんどうなの、きらいじゃないですか、ごじょうって」
「……」
 面倒なのは嫌いだ。人と深く関わるのだって、嫌だ。だけど、お前は――――。
「責めるべきはダンナの甲斐性無しだろうがよ」
「……」
「どうせ悟空がいる前じゃいつも我慢してんだろ? 俺の前でぐらいぶっちゃけろって。鬱憤は溜めると身体に悪ィぜ?」
 そう言って笑うと、ガラスのコップを両手で包みこむようにして持っていた八戒は、その翠の眸を子どものようにぱちぱちと瞬かせた。
「……ね、ごじょう」
「あん?」
「ぼくって、ものすごーく独占欲がつよくって、プライドも高いんです。むだに」
「ん、知ってる」
「さんぞうと、ごくうの関係なんて、ねたましくてしかたないんです」
「うん」
「“声が聞こえた”ーなんて、三文小説の筋書きじゃないですか」
「うん」
「運命のであい、ってかんじですよねぇ。ぼくにしたらなめてんのかーってかんじですよ」
「うん」
「……もっと、ふつうの反応ないんですか」
「は?」
 そこまで言うと、八戒は目を吊り上げてテーブルに手をつき、悟浄の顔を覗き込み始めた。
「ぼく、けっこうヒドイことを言ってる自覚があるんです」
「あ、そぉ」
「もしかして、聞き流してました?」
「いや? 全部聞いてました」
「じゃあもうちょっと反応してください」
「したじゃん」
「ひどいこといいましたよぼく。あのふたりの関係を貶めるようなことをはずかしげもなくぺらぺら――――」
「いいから、座れって!」
 放っておけばどこまでもネガティブ思考に陥ってしまいそうな彼に少しだけ声を荒げると、ヒクリと肩を震わせた八戒は、空気が抜けたようにぺたり、と椅子に座りこんだ。そして糸が切れたマリオネットのようにくたり、と俯いてしまう。
「……いんじゃねぇの? 嫉妬なんて自由じゃん」
「よくないです。だって、ごくうはなんにもわるくないんです。なのに」
「そうだな、悪ィのは三蔵だな」
「さんぞうも!」
「悟空よりも自分が大事だってはっきり言葉にして言ってくれない三蔵が悪いんだろうが。違うか?」
「……」
 そう言うと、先程まで目を吊り上げていた彼は、しゅん、と落ち込んだように上目遣いで悟浄を見上げ、こくりと頷いた。
「自分の嫉妬ばっかりこっちに押し付けて、こっちだって悟空に嫉妬してんだっていうのを気付いてくれねぇアイツに腹が立つんだろ?だから悟空に当たりたくなる。……お前は悪くねえよ、あのクソ坊主が悪ィんだ」
「ごじょうにはぼくのこころがすけてみえてるでしょ」
「はっ?」
「なんでわかるんですか。プライバシーのしんがいですよ、すけべ」
「何、わけのわかんねぇこと言うなっつーの!」
 かってにみないでください、などと言いながら、八戒は両手で胸を隠している。落ち込んでいたかと思えばじとりとした視線を向けてくる彼に焦って弁解の言葉を何度も口にしていると、不承不承といった様子で、それでも彼は引き下がったようだった。
「ごじょうってすごーくいいおとこですよねぇ〜……そのうちぜーったい美人でかわいくってせいそな女の子とけっこんできますよ、ぼくが保証しますよ」
「……そりゃあどうも」
 これもいつものことだ。酔いが最高潮になって、潰れる寸前になると八戒は恥ずかしくなるほどに悟浄を褒めた。滅多に聞けない言葉もあったりして、喜ぶべきことかもしれなかったが、悟浄はそれが痛かった。
「まーさっさと寝ろ」
 どうせ明日、必死で仕事を終わらせ、引き留めようとする僧をあしらいながら彼の恋人が平身低頭謝罪に来るのだから、二日酔いで起きられないなどということになっては困る。まあ、少しくらい顔色が悪く、腫れた目をしておいた方が、喧嘩相手の罪悪感を煽るにはいいかもしれないけれど。
「うぅ……あるけませんのでここでやすませていただきます」
「何を言ってんだお前は……」
「えへへ……」
「……本当に酔ってんな」
 子供のように笑って、にこにこと笑った八戒はテーブルに伏せた。そして頬をぺたりとテーブルにくっつけて、目だけを悟浄に向けた。白目の赤みは殆ど引き、黒目の翠を引き立てる白に戻っている。
 そしてその目は、ゆったりと細められて微笑みを形どった。子どものような笑顔だった。
「……ごじょぅ」
「はいはい?」
「すごぉく、きれいなんです、ごじょうのかみがー」
「……」
「ごじょうは、きれいで、ばかです」
「は?!」
「ぼくなんか、ひろっちゃってー……ね。ほんと、かわいそうなあたまですよねえー」
「……」
「だけど、ごじょうがばかでよかったれす」
「何で?」
「なんでだとおもいます?」
 無邪気な笑顔を見せた八戒は、けらけらと可笑しそうに笑ってじっと翠の眸を悟浄に向ける。
「……わかんない」
「……そ、ですか。すけてみえてるんじゃ、ないんですねぇ」
 ぼくのこころ、と言ってころころ笑い、眠たそうに目を擦った。
「ぼくが」
「……」
「あなたにひろってもらえて、しあわせだから、です」
「……」
「……なんて、すていぬみたいですかねぇ」
 えへへ、と最後に妙な笑い声を残した後、八戒はゆっくり瞼を落とした。とうとう落ちたらしい。

「……くそぉ……」
 くたり、とテーブルに伏せて気持ち良さそうに眠る青年を見下ろす。テーブル周りは空き缶やつまみの空き袋、皿や空き瓶でいっぱいだ。ジープもいつの間にか眠ってしまったらしくソファの上で丸くなっている。
(拾ってもらえて、幸せ、ってか……)
「ふざけんなよ……」
 俺の生活を根本から変えやがって。規則正しく朝起こされて、毎日美味い手料理なんか食って、行事のお祝いなんてものも、なにげに楽しくやったりして。趣味と職業であるギャンブルなんて、今までの半分もやっていない。セックスだってどうだろう。朝帰りも少なくなった。全部全部こいつのせいだ。三蔵なんていうハゲ坊主が現れなければ、冗談じゃなく本気で河岸替えしても構わないくらいの心持ちにすらなっていたのだ。そこのところは三蔵に感謝すべきなのか……否か。
 女好きの自分が、三蔵が突然現れて攫っていきさえしなければ道を踏み外したって良いと思っていたのだ。
(負け惜しみ)
 分かっている。
 だけど本当に三蔵に感謝しかけた時もあった。引き返せないところまでこの男に魅入られるのを止めてくれたこと。……しかし、それも無駄に終わったらしい。ほら、今だって少し理性を手放せば彼に手が伸びそうだった。あんな風に無邪気に笑って、無防備に、“しあわせだ”なんて口にするから。

 最初、テーブル周りを片付けようかと思った。……しかしすぐにやめた。明日はきっと彼は動き回ることは出来ないだろうから、会いに来た彼の恋人に押し付けてしまおう。そのくらいやらせたってバチは当たらないはずだ。
 そして八戒を見下ろす。そのまま放置するのはよくないだろう。しかし、今彼に触れるのは少し辛かった。けれど放っておけば朝身体が痛いだろうし、風邪を引くかもしれない。要らない感情を押し殺した悟浄は、その身体に手を伸ばして、少しだけ揺すった。
「八戒、部屋で寝ろ。な?」
「う……ん」
「……担ぐからな、頭ぶつけてもしらねえぞ」
 少しでも早く彼から離れたくて、思い切って彼の腕を自分の肩に回して持ち上げる。あの日と、同じ重みを感じる。

 拾ってくれてよかったと、彼が少しでも思ってくれているなら。
(俺の人生、悪くもない?)
 悟浄の胸の辺りでうんうんと唸っている愛すべきヨッパライを見下ろして、悟浄は笑った。
 一生背負うと決めた、重みだ。
(俺様ってばやさしーの)
 八戒の部屋に入り、ベッドにその身体を下ろした。そしてシーツをリビングに忘れてきたことを思い出し引き返して、床に落ちたシーツを拾い上げて部屋に戻った。そしてごろん、と転がっている青年の上に広げてかけてやる。そして、そのまま部屋から出て自分も休もう、と思っていたのだけれど、ちらりと窺った八戒の寝顔に、足が止まった。数秒逡巡したのち、悟浄はテーブル脇にある椅子を引っ張ってきてベッドの横に置いて、そこに腰掛けた。
 そういえば、瀕死の彼を拾ってきたあの頃も、同じように彼の死んだような寝顔を見つめていた。
(……なんも、変わらねぇな。俺たちって)
 十年経っても、二十年経っても。
 三蔵が八戒と一緒に暮らそうと、誘っているのを知っている。その度に八戒が断っていて、理由は何も言わないけれど悟浄だということも。そしてそれを三蔵が知っていて、嫉妬しているのも。
 永遠で、親友でも良いと思う。
 三蔵の知らない八戒を、少しだけでも知っている。それで十分だ。……というのは言い過ぎだけれど。
(全部全部、八戒に泣いて欲しくないからだ)
 悟浄はポケットに手を伸ばし、煙草に火をつけて思い切り煙を吸った。胃がむかむかした。

 やれやれだ。









悟浄ファンによる38話でした。割と恋人より親友の方が気持ちを解ってくれたりするあれです。       2006/4/5