どうしてこんなに醜いか。腹の中の澱みが顔に滲み出しているからだ。
 朝日に照らされ、鏡に映った自分の頬に手を添える。青白く、血色が悪い。三蔵の綺麗な白さとはまた違った白さだった。凝視すれば解ってしまう片方の義眼。義眼というのは放っておけばずれてしまう。ずれた黒目の位置を直して、両目が対称なことを確認した。じっと見れば作りものだなんてすぐに解ってしまう。結局これは無機物なのだ。
 冷たい偽物の目が鏡に映って、自分をじろりと睨みつける。大学の研究所の一室で、ホルマリン漬けの得体の知れない生物と目が合った時のような不快感に襲われて、反射的に拳を固く握りしめた。今にも鏡を叩き割ってしまいそうな自分を押し留めて無理矢理に笑ってみた。
 人に言わせると、自分は温厚で優しそうだという。この作り物めいた笑顔を見て、どうして優しそうだとか、温厚だとか思うことが出来るのだろうか。これは只の偽善者の笑みだ。腹の内を顔の皮一枚で覆い隠そうとする人外のものの笑みだ。
 醜い。
 そんな自分を笑って、自分の頬に添えた指を立てて、爪を軽く頬に食い込ませた。過去に愛した彼女も何度か羨む言葉を口にした、無駄に綺麗な皮膚だった。更に力を加えると、少し伸びていたその爪は柔らかい頬に食い込み、赤い筋を作った。意外に深かったのかぷくりと血の珠が生まれて、つう、と頬を伝い。シャツの胸元に真っ赤な染みを残した。
 頬の傷が、やっと自分が生き物なのだということを証明しているようだ。




 前日の夜の部屋割りは、悟空が「たまには俺も八戒と一緒の部屋になりたい!」と騒いだために悟空と八戒、そして三蔵と悟浄だった。決まるまでには時間がかかったが実際部屋に入ってしまえば、三蔵と悟浄はわざわざ嫌いな相手と会話をしようとなどしないために、とても静かな夜だったようだ。対してこちらは悟空がはしゃいでしまったために寝かし付けるのが大変だったが。
「あれ、八戒ほっぺたどうしたの?」
「……ああ、これは……」
 起きた悟空に服を出してやりながら、苦笑して八戒は頬に手を伸ばした。あれから自分のしたことに自己嫌悪を覚えながら絆創膏を貼ったのだった。真ん中にじんわりと赤いものが染み出している。
「痛そう……」
 自分はこんなものでは済まない怪我を日常的にするくせに、何かに付けて悟空は八戒の怪我を気にする。三蔵や悟浄の怪我も勿論心配するが、彼等の方の場合は命に別状ないと解ればもう安心、ということらしい。
「さっきちょっと、剃刀で切っちゃったんですよ」
「八戒でもそういうことするんだな」
「え?」
「悟浄とか、たまに寝惚けて髭剃って顔切ってるんだぜ、バッカだよなー」
 それは、同居していた頃に悟浄がよくやっていた怪我だ。顎に絆創膏を貼ってやると、「かっこつかねぇよ」と唇を尖らせてブツブツ文句を言っていたものだ。
「ええ、ちょっと手を滑らせちゃったんです」
 この子どもには、何度か怖い思いをさせたことがある。丁度慶雲院に軟禁されていた頃。悟能に懐いていた悟空は、毎日毎日、悟能の拘禁されている離れに足を運んだ。雨がとても強かった、その日も。
 雨に因って呼び覚まされた記憶と自分の殺した人間や妖怪の断末魔の叫びが幻聴となって一気に襲い来たその日、堪え切れなくなった悟能は割ったカップの破片で自傷行為に走った。格子の嵌った窓越しに、大きな金の眸がそれを見つめていることにも気付けないままに。
 彼に自傷などという行為は決して理解出来ないだろう。理解出来ないものは恐ろしい。狂ったように血に塗れ死に急ぐ悟能を見て、その眸の主は一体どんなことを思っただろう。
 何も言わなかったけれど、その後も悟空が心配してくれているのを知っていた。腹部の傷は勿論、体の至るところに残る自傷の痕も、今は薄くなっている。昔はやんわりと、それでも決して人の前で服を脱ごうとしなかった自分が少しずつ気を許しつつあるのを喜んでくれているのも知っている。優しい子だ。
 これから先、優しさだけでは生きていけないし優しさが生きることの障害となることもあるだろう。だけど彼にはそのままでいて欲しい。
 無理だと解っていても、穢れなど知らないままでいて欲しいと願ってしまう。決して自分のような、狂った思考回路が理解出来るようになどならないよう。
「……気ィ付けてな」
 だけど、そう言って心配そうに見上げてくる純粋な視線は、もう全てを知ってしまっているような気がした。
「……はい」
 靴下を履きながら、じっと八戒を見つめていた大きな目は、何かひらめいたように瞬いた。そして悟空はぴょん、とベッドから飛び起きて八戒の元に歩み寄り、顔へと手を伸ばした。
「悟空?」
「……初めて人を見て思ったことって、第一印象っていうんだろ?」
「え? ……ああ、そうですね」
「俺さ、悟能を初めて見た時、“すげぇ強ェ”って思ったんだ」
「……? はい」
「んで、暫くしてから悟浄と一緒に、八戒になって寺に来た時、“きれー”だって思った」
「……?」
 だから……と言い掛けて、何を言おうとしたのかさっぱり解らなくなってしまったのだろう、頭の中がこんがらがったように悟空は顔を顰めて何か考えている。
「だからー……えーと……よく解んないけど、きれいでいて欲しいんだ、八戒に」
「……」
 悟空からそう言われて、初めて頭に思い浮かんだのが“母の日に子どもから母親へ贈られる言葉”で。
(おかーさんいつまでもきれいでいてね……ってそれは違うでしょう、何考えてるんですか僕は)
 そんな八戒をよそに、悟空は必死に言い募った。
「旅の途中だから、怪我するのも仕方ないけど……八戒が痛そうなの、見たくないし……」
 そうごにょごにょと言うのが幼子のようで、どうしようもなく愛しくなった八戒は少しだけ腰を屈めて、困ったような表情をする悟空の顔を覗き込んだ。
「はい、解りました。だけど、僕も悟空が痛そうなのは見たくないんです。……だからあんまり、無茶しないで下さいね」
 そう言って頭を撫でると、少年は大きな目を何度も瞬かせた後、真剣な顔をして大きく頷いた。
 大丈夫だ。この子は強い。
 自分とは違う。




「……あれ、八戒」
「……悟浄。おはようございます」
 着替えをしている悟空に言い置いて下の階に降りると、廊下の窓辺には悟浄が立っていた。その手には煙草があって、八戒は、折角空気の綺麗な朝なのに、と苦笑した。相手は空気と同じようにニコチンを吸い込む男だ、もう八戒も半ば諦めている。
 昨晩は部屋がほぼ満室で、取れたのは三階と二階に一室ずつだった。そのため、悟空と八戒で三階、悟浄と三蔵は二階の部屋に泊まっていたのだった。
 八戒の挨拶におはよ、と答えた悟浄は、その煙草を指でトントンと叩き、灰を窓の外に落とした。それを八戒が目で窘めると、少しだけ肩を竦めて、ワリ、と呟いた。そして何の気なしに視線を流して、人差し指で頬をちょんちょんと指した。
「その顔、どしたの?」
「え? ああ……今朝ちょっと剃刀で」
「らしくねぇ」
「あはは、悟空も言いましたよ」
 八戒が笑うと、悟浄も笑った。彼の隣に歩み寄ると、窓辺に両腕を掛けたまま、彼はこちらを見上げてきた。そして煙草を持つのとは逆の手をゆっくりと八戒の頬に伸ばす。避ける気は起きなかった。
 その、少しざらついて硬い人差し指の先が絆創膏の上に触れた。そしてなぞるように親指がその上を撫でる。
「……もったいねーの」
「……」
 三蔵や悟空に言ったら怒られそうだが、八戒は悟浄にこんな風に触れられるのが少しだけ好きだった。自分には殆ど記憶にない、父親の存在を思い出させるような気がするから。人に触れられるのを酷く怖がった、悟能から八戒へと変わる頃の自分を辛抱強く慣らしてくれたのも彼だった。それは幼い頃から与えられなかった父性の力強さを教えてくれた。
「大事にしろって」
「……はい」
 そしてすぐすみません、と言おうとして言葉を飲み込んだ。
「……ありがとうございます」
 すると彼は、納得したように「よし」と言って、笑って頷いた。
 八戒として悟浄の家に居付くようになり、暫くしてから、何かにつけて「すみません」「ごめんなさい」を繰り返す八戒に、嫌そうな顔をしてもうやめろ、と言ったのは悟浄だった。
 謝らせたくて怒ってるんじゃないと。お前を心配して言ってるんだから、謝罪するくらいなら感謝しろと言うのだ。
 言葉だけ聞けば尊大で、怒りたくなるような話だが、じわりと心に染みた言葉はそれからずっと八戒の心に留まっていた。謝罪の言葉の満ちた家より、感謝の言葉で満ちた家の方がいいに決まっている。
 心配してくれてありがとう、と、心配させてごめんなさい、の、ほんの僅かな違いだけれど。
「俺も悟空もさ、心配なワケよ。サルはお前がいなくなっちまったら餓死だし。ジープは多分拗ねるし」
「……悟浄はせいせいしますか?」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
 煙草の先の灰を窓の外に落として、ケラケラと悟浄は笑った。そして笑いを収めて、半笑いの状態で八戒を見上げた。目だけはそれでも真剣で。一度だけ舌で唇を潤した彼は、少し躊躇うような仕草を見せた後、口を開いた。
「……泣くよ?」
「……」
 その言葉に、一瞬のうちに色んな思いが頭を巡った。嬉しいような、哀しいような、申し訳ないような。
 それには、とてもじゃないけれど“ありがとう”なんて言えなくて。だけど、“すみません”と言うのもおかしい気がして、八戒はなにも言えないままに、静かに笑った。悟浄も、笑っていた。
 たとえ自分がどうなってしまったとしてもこの人には泣かないで欲しい。だけど、きっとこの優しい人は本当に泣いてしまうだろう。
 その優しさが愛しくて愛しくて仕方がなくて、……そして少しだけ、苦かった。




「三蔵、おはようございます」
「……ああ」
 挨拶をしても返さない、そんなことにも慣れていた。眼鏡を掛けて新聞を見ていた三蔵は、少しだけ眼鏡をずらして八戒を見た。老眼なんだろうか、なんて考えて、少しだけ笑った。
 すると、一旦眼鏡を戻して新聞に目を戻した三蔵は、思い出したようにまた同じ仕草を繰り返し、眼鏡をずらして八戒を見た。あ、三蔵が二度見した、などと八戒が思っていると、三蔵は顔を顰めて眼鏡を外した。
「……その傷は何だ?」
「あ、これですか?さっき剃刀で……」
「随分と見え透いた嘘だな」
「……そうですね」
 三蔵は見て見ぬ振りなんてしてはくれない。解っていたから八戒は簡単に折れた。
「……雨は降っていなかったはずだ」
「そうですねぇ。……気分です」
「ふざけんな。……」
 その言葉の後に何か続けようとしたが、三蔵の唇はそのまま空回りした。しかし、八戒は彼が続けて何を言おうとしていたか解っていた。“殺されてぇか”。そう言おうとしたに違いない。そして、それに対して自分が是と答えるのを予測したのだろう。
「あのですね……別に死のうとしたんじゃないですよ」
「そりゃあそうだ。顔を引き裂いて死ねるはずがない」
「……三蔵が、自分が“生きてる”って実感する瞬間って何ですか?」
「さあな。強いて言えば三大欲求を満たしている時だな」
「僕は、血を見た時なんですよ」
「……」
「ああ、血、流れてるなぁ〜って思うんですよ。昔、妖怪の血って緑とか、青とかだと思いませんでした?」
 胡散臭そうな顔で三蔵がこちらに向かって歩いてくる。あ、叩かれるかな、と思ったけれど、避けるのも面倒で立ち尽くす。初ハリセンかな、と少し期待していると、すっと伸ばされた三蔵の指先が……
「……ぁイタ。」
 八戒の額を綺麗に弾いた。見事だ。
「三蔵、でこピン上手ですね」
「んなことで褒められて嬉しいわけねぇだろ」
 そう言ってむっとした顔をした。八戒は笑った。今の自分の笑顔は、彼にどんな風に見えているだろう。
「もう命を無駄にする気はないですから」
「……」
「大事にしろって、悟空も悟浄も言ってくれたし」
「……サルとカッパが大事にしろと言わなければ大事にしないのか」
 そう言われて、八戒はゆるりと顔を上げる。三蔵の顔が自分の真正面十センチほどのところにあり、その視線が自分が逃げることを許さない。綺麗だ。この人に欠けた部分などないのだろうと思っていたけれど実際そうではないらしい。それどころか欠けた部分がありすぎる、不良品だ。多分三蔵が完璧な人間だったら愛せやしなかっただろう。自分は嫉妬深い。完璧な存在になど嫉妬はしても愛情など抱けない。
「……そうかもですねぇ」
「……」
「何か、存在していて欲しいって思われるのが、嬉しいのかも知れません」
「ガキと変わりねぇじゃねぇか」
「そ、ですね」
 わざと悪戯をして親に構ってもらおうとする子どもと同じだ。わざと解るような怪我をして周りに心配してもらおうとしている。
 何だか情けなくて少しだけ俯いて笑うと、彼は鼻から息を吐いて腕組みした。
「……まあ、前よりは、マシだ」
「え?」
「少なくとも死のうとしての怪我じゃなく、生きることを認めてもらいたくての怪我だろう」
「……」
「……まだそれも、不味いがな」
 そう、八戒の顔を見ようとしないまま口にした三蔵は、煙草を一本咥えて懐を探っている。ライターを探しているのだろう。
「マッチならありますけど?」
 そう言ってポケットからマッチ箱を取り出すと、三蔵は少し訝るような表情を見せた。何でそんなものを持っているんだ、ということだろう。
「昨日の村で悟浄がバーでもらったやつですよ」
「……」
 どこか三蔵はさっきから歯切れが悪い。何か言いたいことでもあるのだろうか、と彼の顔をじっと見てみても三蔵の方は何か不味いことでもあるのか、するりと視線をかわすのだった。
「……三蔵?」
「……まだ、お前は誰かに生かされてると思ってるのか」
「……」
「神は誰も生かしやしねぇよ。生きたい者は自分で生きようとしなけりゃどうにもならねぇんだ。……まあ、その行為に因ってお前は生きようとしたんだろうが」
 八戒から受け取ったマッチを箱の脇で擦り、手で覆うようにして煙草に火を付ける。そして三蔵はマッチの燃えさしを灰皿に押し付け、紫煙を吐いた。目はやはり八戒の方を向いていない。
「少しは、周りから死ねと言われても生きると言い張るくらいの根性をつけてみろ」
「……僕」
「あ?」
「三蔵に言われるならともかく、悟空や悟浄に死ねなんて言われたら、ホントに死んじゃうかも知れません」
「……俺に言われたら死なないのか」
「だって、死ね、なんてもう三蔵の口癖じゃないですか。本気に出来ませんよ」
 そう言うと、彼は少し面白くなさそうな顔をした。自分が死ねと言っても死なないのが悔しいのだろうか。よく解らない。
「……悟空や悟浄に本気で死ねって言われたら、ショックで死ぬ気になるかもしれません。……まあ、三蔵に本気で死ねって言われたら自害するでしょうけど」
 すると今度は目を瞠って煙草に少し咽たようだ。そして何事だ、とでも言うような目で八戒を見つめてくる。
 ちょっとしたニュアンスの違いだ。
 悟空や悟浄に死ねと言われたら気分的に死にたくなるけれど、三蔵に言われたらもう何を思う間もなく死を選ぶ。それだけの差だ。
「……」
「手前の命は手前の物だって、あなたは仰るかもしれませんけどね……まあ、気分です」
 あなたに必要とされなくなったらもうお仕舞いだと。
「……お前の命は、お前の物だ」
「あれ、そのまま言いましたね」
「お前の命まで預かる余裕はねえんだよ」
「解ってますよ。預かってもらおうなんて思っていません。あなたの背中は、悟空一人でいっぱいでしょう」
 彼に自分が負われたのは、寺に囚われていた数ヶ月の間だけ。
「僕は体重以上のものを悟浄に負わせちゃってますし」
「……」
「辛いから、何度ももう切り離して欲しいと思ったんですけどね。結局あの人優しいから、一生背負ってくれちゃうつもりらしいです」
 あはは、と笑って言った八戒は、三蔵から返されたマッチの箱を手の平で弄ぶ。
「だから、もう開き直ってあの人にはお世話になっちゃおうと思ってます」
「それを俺の前で言うのか」
「気分です」
「……それ、何回目だ」
「何となくね、そういう気分だったんです。愛が欲しいなぁと」
「は?」
「で、悟空と悟浄は優しいので引っ掛かる振りをしてくれました。……流石に、三蔵は無理ですよね。我ながら無茶しました」
 もう正直に言ってしまおう、と自棄になって口にしたはいいものの、三蔵は何の反応も返さない。
 馬鹿にされないのはいいことだが馬鹿にする表情をされたら倍以上腹が立つかも知れない。微かに顔を顰めながら八戒が顔を上げると、少し驚いたような顔をしている三蔵と目が合う。一体今何を驚く必要があるのだ、と余計に苛立つ自分を抑えながら細く息を吐く。
「……僕は“何者にもとらわれずに生きる”だなんて出来ませんから」
 綺麗でいて欲しいと言ってくれた悟空。死んだら悲しんでくれると言った悟浄。その一つ一つが自分をこの世に繋ぎ止めるのだ。
 誰にも生きることを乞われずに生きるというのは如何なる地獄だろうか。
 もしかすると、それこそが大量虐殺を犯した自分への罰なのかも知れなかったが。
「……俺が死ぬなと言えば、死なないのか」
「……まあ、自分から死のうとすることはしませんかね」
「死ぬな」
「……」
 急に与えられた欲していた言葉は、すぐに心に染み渡らずに塊になって胸に落ちてきた。そしてころころ転がったまま。
「え……?」
「んな消極的なこと言ってんじゃねぇ。俺が死ぬなって言ったら、意地でも死ぬんじゃねぇよ」

 急に黙りこくってしまった八戒に、三蔵が訝しげな顔をして顔を覗き込んで来た。
「……三蔵」
「あ?」
「僕にとってあなたの言葉がどれだけ重いか、自覚して下さい」
「……?」
「……でも、軽い気持ちで仰ったのだとしても、嬉しいです」
 今も彼に囚われているなんて思っていない。けれど、もし彼が本気で自分に命令をしたら、聞いてしまいそうな部分は確かにあった。
 その後に残った空気は何だか居辛くて、八戒は曖昧に笑って三蔵を見た。彼は微かに機嫌を損ねたような顔をしているが、今はきっと自分にはどんなフォローも出来ないだろう、と諦めて、手で弄んでいたマッチ箱をポケットにしまった。
「……じゃあ、ちょっと僕部屋に戻ります。朝食までには一階に行きますから」
 そう言い残すと、八戒は三蔵の強い視線から逃げるように彼に背を向けた。背中にざくざくと視線が刺さるのが解るような気がして、八戒は少しだけ苦笑する。この人のことは、目を瞑っていたとしても気付けるような気がした。
 八戒は三蔵に背を向けて、部屋のドアに手をかける。そして少しだけ空けた隙間から身体を出し、振り返らないままに後ろ手でドアを閉めた。
 背後の三蔵が、無意識のうちに八戒へと伸ばしかけた腕を止め、空を切ったその手を見て舌打ちをして拳を握ったことなど全く気付かないままに。




 部屋を出た八戒は、一つ上の階の部屋には戻らずに、そのまま一階へと降りた。
 冬が終わったばかりの今は、空気がまだ冷たい。少しだけ冷え症の気がある八戒は、自分の指先を温めるように両手をぎゅっと握った。それでも、冷たい部分は温まることはなく、却って冷たい部分が温かい部分を冷やしていくようだった。
(手が冷たい人は心があったかい……なんて、やっぱり迷信ですよねぇ)
 だとしたら悟空や悟浄なんてキンキンに冷えているだろうし、自分は火照るくらいに熱いだろう。
「……辛いなぁ」
 誰かに求めて欲しい。
 生きていて。ここにいて。死なないで。そうやって自分を求めて欲しい。
 そうすれば自分は、その人一人のためだけに生きていることが出来るから。
(でも……あれが三蔵の優しさなんでしょうね)
 悟空は素直に自分を求めてくれる優しさ。
 悟浄は自分の罠に態と引っ掛かってくれる優しさ。
 そして三蔵は、甘えさせずに態と突き放す優しさ。
 宿の庭に出て、日が出たばかりで殆ど音のしない街を見渡す。空気が澄んでいて気持ちがよかった。これが少しでも自分のどす黒い腹の内を洗ってくれればいいのに。
(僕の腹の内が綺麗になる前に空気が逆に汚れちゃいますかね)
 遠くの東から日が昇ってくるのを見つめて、小さく笑う。
 温かくて、眩しくて、強くて、遠くて。


(愛 が 欲しい なんて)
 十分もらってるじゃないか。
(我侭が過ぎますよ、八戒)
 悟空が自分に笑いかけて懐いてくれるのも、悟浄が少し過剰なスキンシップで時折荒れがちな心を宥めてくれるのも。
 三蔵が隣にいるのを許してくれるのも。

「わがまま……」

 小さく呟いたその言葉が、朝日の中でさっと溶けた。











2006/4/1