あの朝焼けが夢の終着を告げる。
 鴉が啼かなければずっとあなたといられるのに。

「……何をしている」
 旅の途中に通り掛かった小さな町で、八戒が怪我をした小さな女の子を助けた。少女はその町の町長の娘で、娘を救った旅の青年は三蔵法師の一行のものだと知った町長が是非持成させてくれと申し出たのだ。それは一行にとっては嬉しいことではあるのだが、お祭騒ぎを好まない三蔵が一瞬顔を顰めたのを目の端に捉えた八戒は、その申し出を丁重に断った。が、なかなか引き下がらない町長やその部下たちに、無碍に断ることも出来なくなって、“今夜一晩泊まる宿を貸していただけませんか”と頼んだのだった。
 そう言ってすぐに用意されたのは、町の端の方に位置する林の中に建つ草庵だった。庵と言ってもなかなかに上品な作りで、高級な旅館の離れのような雰囲気だ。手入れの行き届いた庭は、ここを使っている僧が手入れしたのだろう。少し歩けば小さな川もあり、贅沢な場所だった。
 料理をしたいと申し出たところ、材料もどんどん庵に運び込まれ、一晩で食べ切れるか、という量の野菜や肉が軒先に積まれた。そのどれもがなかなか高級なもので、この町は小さいなりに活気ある町であることが窺えた。
 何人前か数えるのも億劫になるほどの料理を作り、それを(殆ど悟空に)一気に平らげられたあと、八戒はぼうっと庭に面した縁側に腰掛けていた。悟浄は町へ出掛けたし、ジープと悟空は近くの川に行って来ると言って出ていった。三蔵は町の中央にある寺に呼ばれていってしまった。
 しんと静まる中、ぼんやりと玄関から、建物が並んでいる向こうの地平線に真っ赤な日が沈んでいくのを見て、こんなことなら悟空について行けば良かった、と少し後悔した。が、すっかり地平線の向こうに太陽が沈んでしまう頃になると、静かな空気の中、虫の音や風の音が響き始め、風情のある久しぶりの穏やかな夜を過ごしていた。
 頃合を見計らって軽く備え付けの風呂に入り、使って下さいと町の若者が置いていった浴衣に腕を通した。
 庭の灯篭に火を灯し、先ほど食材と一緒に運び込まれた高そうな酒を盆に載せ、また縁側へと舞い戻った。簡単なつまみも作り、久々の一人酒を口にした。そういえば疲れもかなり溜まっている。入った酒で少しずつ身体が暖まってくるのを感じながら、炙ったするめに手を伸ばす。庭では虫ののんびりとした鳴き声が響いており、ひなびた旅館といった風情だ。その穏やかな空気にそっと目を閉じながら、少し得をした、と八戒はうっすらと唇に笑みを刷いた。

 今頃悟浄は女性に囲まれて有頂天だろう。それもそうだ、ここ最近そういう店のある町には行き当たらなかったせいで欲求不満の筈だ。悟空とジープはちゃんと魚を捕まえられているだろうか。遅くなるようなら迎えに行かなくては。そう考えて一口酒を口に含み、くすりと笑う。びしょびしょになって帰ってくる悟空とジープが想像出来る。着替えを用意しておかないと、と八戒は猪口を盆に戻して、縁側から立ち上がった。
 庵の奥は火を灯していないので真っ暗だ。庭から差し込む光だけを頼りに、リュックの中身を漁って悟空のシャツとパンツを引っ張り出す。タオルは差し入れて貰ったのがあった筈だ。
 悟空の服と、ジープの身体を拭いてあげるタオルを手に縁側に戻り、それを自分の横に置いて、また元の場所に座った。
 控えめに鳴る、鈴の音のような虫の声が心地いい。そのひとつひとつに耳を澄ましながら、そっと瞼を閉じた。
 今頃三蔵は何をしているだろう。説法を乞う僧たちに向かって何か無体をしていないだろうか。
「……」
 悟浄や悟空がどうしているだろう、と考えると何だか楽しいのに、三蔵が今どうしているのだろうと思うと心臓の辺りがきゅっと圧されるように苦しくなる。それが一般的に言われる、少女のような恋煩いなのだと自覚していながら、いい歳をした、しかも男の自分がそうなっていることが恥ずかしくて認めたくなかった。
 認めてしまったら。
 これは独占欲だ。彼が今もしかして誰かと親しく話しているのではないかと思えば顔も知らないその相手を憎みたくもなる。
 ……一番怖いのは、もう彼が自分の元には来てくれないのではないかと思うこと。今は旅をしているから、厭でも毎日一緒にいることになる。しかし、もし一緒にいなければならない、という鎖が消えたとき、もう彼は自分に見向きもしないかもしれない。
 八戒は、今共にいられることを喜ぶより、いつか一緒にいられなくなることを考えて苦しむタイプだった。幸せには終わりがある。長く続かなかった花喃との穏やかな生活。しかしそれを失った今、学習能力のない自分はまた別の人を好きになってしまった。
 その人を失うことが見えているのに。
 失うことを分かっていて大事な人を作ることほど馬鹿なことはない。失いたくないならそのものを作らなければいい。持っていなければ失くすこともない。……もう、あの絶望を味わうこともない。

 この話を聞いたら、きっと三蔵は呆れたように目を細めて顔を顰めて、大きく溜息を吐いて。そして、『阿呆なこと抜かすんじゃねぇ』と紫煙を吐き出しながら吐き捨てるだろう。
 今どうしても、その顔を見たい、その声が聞きたいと、思った。





 三蔵は庵へと向かう道を急いでいた。
 思いの他引き止められた時間は長かったらしく、三蔵が寺院を出た頃にはもう既に日は落ちてしまっていた。今日が雨でなかっただけ救いか、とそう思いながら、三蔵は歩く速度を上げた。
 きっと悟浄はもう街に出てしまっているだろう、多分朝帰りだ。悟空は八戒の隣にいるだろうか。慶雲院に勾留されていた頃から、自分が傍にいられない時は悟空を悟能の傍に置いていた。……きっと八戒は、自分が危険人物だから見張りを立てているのだろう、と思っていただろうが、そうではない。ふとした瞬間に過去を思い出して自虐に走る悟能をセーブさせるためでもあったが、基本は悟能が一人で淋しくならないようにという配慮だった。悟空と一緒なら五月蠅くて感傷に浸る暇さえないだろう、というのが三蔵の考えだった。
 しかし、いられる限りはまめに悟能の勾留された部屋に足を運んだ。仕事をほっぽりだして、と自分はともかく、とばっちりで悟能の評判まで悪くさせないよう、その時期は真面目に仕事もこなしていた。
 雨の日に壊れるあの青年は、暖かい日の中でみればまるで普通の穏やかな物腰の青年だった。今はあの時期の暗い面影は殆どないが、独りぼっちにされたり雨の暗い日などは、それでもまだ辛いのだと、自嘲するように話していた。
 あの庵は電気などはなかった筈だ。真っ暗な庵の中で、ぽつんと所在なさげに立ち尽くす線の細い青年の姿が容易に想像出来て、三蔵は大きく舌打ちをした。やはりあの僧たちなど振り払って早く帰るべきだった。
 ……分かっていながら、長居してしまったのは、あの寺院の僧正のせいだ。
 形式通りの挨拶に三蔵が飽き飽きし始めた頃、するすると気配もなく近づいてきた僧正は、三蔵でなければ聞き取れないほどの小さな声で、「美人じゃな」と話しかけてきたのだった。

「……何だ貴様は」
 その僧正の目が、町の若者と何やら話をしている八戒に向かっているのを知っていて三蔵ははぐらかすようなことを言い、睨みをきかせた。だが男はちっとも怯むことはなく、ほっほっほ、と笑い、食えない穏やかな表情で三蔵を見上げた。
「いやぁ、玄奘殿の恋人は美人じゃな、と申しておるのですよ」
 一瞬不覚にも目を瞠ってしまった三蔵は、苦々しげに顔を顰めた。他の者の言動に踊らされるようなことは好きではない。
「……とんだ狸だな」
 踊らされることは好きではない……筈なのに、気がつけば八戒の名前や素性を話させられていた。狸にはこの半生何度も出会ってきているが(割と八戒もそうだ)これほど内面を悟らせないのは自分の師匠であったその人と張るだろう。
「ほっほっ、薄幸美人といったところですかの」
「自虐癖もある」
 勧められた酒を口に運びながら、三蔵はその食えない老爺を見つめた。
「ところで、……いつ気付いた?」
「ほ? ……ああ、まず立ち位置ですかの。玄奘殿は八戒殿の前に立って周りから隠すようにしていらした。大抵それは従者の方がすることです」
「……他は」
「後は、随分と愛おしげな視線を送っていらっしゃいましたので。何となくです何となく。爺の鈍った勘ですよ」
 そういうところが狸なんだ、と三蔵は顔を顰める。
 というか、この男が特別鋭いのか、それとも自分の態度がわかりやすすぎるのか、そこが問題だった。わかりやすすぎる、ということはない筈だ。……多分。
「おい、爺さん」
「なんでしょうかな?」
「俺の態度はわかりやすいか」
「それはもう」
 即答かジジイ!といつもの癖でハリセンを取り出したくなるのを必死で抑えて、三蔵はぎゅっと両手の拳を握りしめた。
 ……わかりやすい、ということはない筈なのだ。
「……本人には半分も伝わりゃしねぇ」
「身分差もありますからの」
「……」
「玄奘殿の恋人は刹那の幸せを噛み締めることに臆病になっていらっしゃるご様子」
 そう、まったくその通りだ。
 三蔵にはあの彼の屈折した思考回路を理解することは出来ないが、彼は、現在が幸せであればあるほど未来に訪れるであろう不幸に足が竦む性質なのだ。そういえば語弊があるかもしれない、訪れるであろう、ではなく、訪れるかも知れない、なのだ。誰も不幸が必ず未来に訪れるだなんて言っていやしないのに、彼はそう信じてしまっている。それは彼の、幸せだったであろう姉との短い同居生活の、あんな突然で理不尽な終わり方に原因があるのは間違いない。
 今幸せでも、きっと別れが来るのだと。
「あなた様まで臆病になることはないのでは」
「……俺が、臆病になっていると?」
 軽く鼻で笑ってやるつもりだったのに、動揺したためか言葉尻が少し詰まってしまう。
「自分が気持ちを押し付けてお相手を壊してしまうのを恐れておられる」
「……ッ」
「さあ、そろそろお開きにいたしましょうかの。八戒殿も庵でお待ちでしょう」
 空になった銚子を振りながらそう言う僧正をキッと睨みつける。やはり少しも怯むことはなかった。
「手前……ただの坊主じゃねぇな」
「ほっほっほっ、玄奘殿に言われるとは思いもしませんでしたわい」
 狸ジジイ、と三蔵が漏らすと、僧正は本当に可笑しそうに声を立てて笑った。








「あ……さんぞう」
「んなカッコでフラフラしてんじゃねぇ、風邪引くぞ」
「あはは、大丈夫ですよ。お酒で身体もあったかいですし」
 あ、言っちゃった、と思った頃には既に三蔵の眉は寄せられていた。
 いつ帰ってきたんでしょう、と思いながら自分の横の酒瓶を見ればもう一瓶は空になっている。そういえば二本目に突入したんだった、と思えば、もう既に二本目も半分以上なくなっていた。ぼんやり虫の声を聴きながら呑んでいたらうっかり時間を忘れてしまっていたらしい。
 ああまた眉間に皺が、と思いながら三蔵をぼんやりと見上げていると、三蔵はさっと庵の中に消え、手に何かを持ってまた現れた。なんだろう、と振り向く間もなく、それが八戒の背中から肩にふわりと掛けられた。見ればそれは三蔵が涼しい頃にたまに着る薄手のジャケットだった。
 問うような視線を三蔵に向けるが、彼は徹底的に無視するつもりなのか視線に気付かない振りをして、皿やお銚子の載った盆を挟んで八戒の隣に腰掛けた。そんなぶっきら棒な優しさに、八戒は本人に知れないようにそっと微笑む。が、感情の動きに敏感な三蔵はすぐに気付いてしまったようで、決まり悪そうに顔を顰めて八戒を睨みつけた。
「ありがとうございます」
「出発が延びちゃ敵わんからな」
「ふふ、そうですね」
 そう言って笑うと、煙草に火を点けようとしていた三蔵は、ますます苦虫を噛み潰したように顔を顰めてそっぽを向いてしまう。小さい子どもと変わりないな、と思わず八戒は口元だけで笑った。
「……一人でこんなに呑みやがって……」
「あ、すみません。でもあと二瓶はありますよ、今持ってきますね」
 三蔵が首肯するのを見ると、八戒は縁側から立ち上がり、しずしずと庵の中へと入っていった。その時ふとずり落ちそうになった三蔵の上着を、落ちないように八戒が少し嬉しそうに掛け直したのを見て、三蔵が微かに頬を赤くしたのは背を向けてしまっていた八戒は気付かなかったことだ。

 盆に新しいつまみや酒を載せて八戒が現れたのを見て、手持ち無沙汰に煙草を吹かしていた三蔵は、手にした煙草を捨てる場所がない事に気付く。が、そこは気の利く八戒のこと、盆から灰皿を取り、三蔵の横にそっと置いた。それに目で謝意を伝えると、八戒ははんなりと微笑み、その場に膝をついた。
 置かれた猪口を手に取ると、計ったようにお銚子を持った八戒がそれに酒を注いだ。そういえば、実情はどうであれ一応坊主とその従者(に見えるであろう)の一行に堂々と酒を持ってくるとはなかなかの町衆だと思う。まあ先ほどの僧正もそれなりにやらかしていそうな狸だったのでそういう町なのだろう。般若湯と言っては毎晩ウワバミのように呑んでいそうである。
 そういえば自分の師匠も顔色一つ変えずにぐいぐい呑む人だったが、三蔵の中での一番の底抜け上戸はこの目の前の恋人である。

「奴等はどうした」
「え?ああ二人ですか。悟浄は町でお姉さんたちと、悟空はジープと一緒にそこの川に行ってます。何でもそこの川、お魚が獲れるんだそうで、獲ったら持って帰ってきてくれるそうですよ」
「フン、とうとう野生に還ったか」
「……冗談に聞こえませんよ三蔵」
 そう軽口を返しながら八戒はほわりと笑った。
 白い頬と頸が、灯篭だけが照らす縁側で一際白くぼんやりと浮かび上がっている。

 彼の頬がほんのり色づいて見えるのは酒のせいではなく庭の灯篭の灯りのせいだ。いつもよりずっと華奢に見えるのは深い翠の浴衣のせいだ。そうは思っても心臓が強く打つのを止められない。それを誤魔化すように酒を呷ると、八戒は何を思ったか、くすりと小さな笑みを漏らした。
「……何だ」
「いえ……何か、贅沢だなぁって思いまして」
「?」
 三蔵が片眉を上げて訝しげに八戒を見ると、少し困ったように微笑んだ彼は手に持った猪口を両手で包むようにした。
「こうして、あなたの隣で呑気にお酒を呑んでいられることが、です」
「……」
 幸せそうな事を言いながら、彼の顔はまた、幸せの後にある絶望を見つめている。いつだってそうだった。どんな幸運が訪れても目先の幸せに喜ぶことはなく、この幸せの後にどんなに辛い不幸が来るのだろうと顔を顰めるような奴だ。
 このペシミストの恋人の短所を挙げるのなら確かにこの、悲観主義なところを挙げる筈なのに、そんな風に沈み込んでいる彼はいつも以上の艶があり、なくなってしまえと声を大にして言うことが出来ない。
 矛盾した自分の心に苛立ちを隠せずにそのままの勢いで言葉を吐き捨てるも、八戒は微笑を絶やさないままフルフルと首を振った。
「……寝言言ってんのか」
「やだなぁ起きてますよ。……嬉しいんです、こうして隣にいられることが」
 そう言って八戒は横を向き、注ぎ直そうと銚子を持ち上げた。そしてその手をふと止めて、目元をそっと緩めて三蔵を見上げる。
「今日も、失わずにいられた」
 そして、本当に嬉しそうに、綺麗に笑うから。

 何をふざけたことを、と彼の言動を心の中で詰りながら、それでも彼にとっての自分が生きる上で必要なものなのだと実感させられることに安堵を覚えているのも事実だった。縛りたいのか突き放したいのか、腕の中に抱き込みたいのか距離を置きたいのか。それを自分自身で図りかねて、小さく息を吐く。
「……俺がそうそう簡単にやられると思ってるのか。なめられたもんだな」
 そう口にすると、八戒は銚子を傾けていた手をふと止めて、三蔵の顔を見上げた。その翠玉の中に灯篭の爛々とした光が映り込んで不思議な色を弾いている。
 しかし八戒はすぐに首をゆるゆると振った。そして自分の猪口にも酒を注ぎ足して、それを持ち上げながら囁くような小さな声で言う。
「……それは昔から散々怒られていますからね、あなたがそうそう簡単に死ぬとはもう思ってませんよ。……今怖いのは、あなたがいつ、僕の前から消えてしまうのか……ですかね」
 その言葉に三蔵が顔を顰めるのを見るや、八戒はパタパタと手を振って小さくすみません、と言った。
「疑っているとか、そういうことじゃ、ないですから」
「じゃあどういうことだ」
 存外きつい口調で問い詰められて、八戒は少し戸惑ったように眉を寄せた。酒で薄っすらと濡れた唇が赤く、灯りに照らされて潤んだように光っている。それをきゅっと噛み締めた後、無理に笑みの形に曲げたような唇で俯いたまま密やかに笑った。
「あなたの気持ちが離れても……止めはしないと。止めることは出来ないと、そういうことです」
 三蔵は、自分の手の中の猪口を投げ付けたくなった。
「……そのどういう仕組みなんだか分からねぇ頭打ち抜かれてぇか」
「すみません、あなたを怒らせたいわけじゃなくて」
 曖昧に微笑むその姿に、苛立ちと焦りが募る。もし自分がそう思っていなくてもふと彼が、自分に他に想い人がいると誤解したら。そうしたら彼は、今のこんな笑みを湛えたまま、自分に背を向けるのだろう。
 愛しい、と。守りたいと。確かにそう思うのに、最前の言葉を口にされた直後に芽生えたのは確かな殺意だった。
 伝わらないのなら、彼が自分に背を向けるのならいっそ、いっそひと息に。
 しかし八戒はそれでも笑みを絶やさずに、伏せ目がちに自分の手元を見下ろした。八戒の手の中の小さな猪口は、湛えた酒をゆらゆら揺らしながら光らせている。
「あなたが背を向けるのなら、その前に殺されても構わない」
「……」
「僕がいらなくなったら、疎ましくなったら、いっそひと息に」
 そう、先ほどの三蔵の思いを読んだかのように囁いた。声を潜めたせいで少しだけ掠れた声が扇情的で、褥でのそれを思わせる。睦言のような甘やかなその声で、話す言葉は別離の覚悟。あまりに違い過ぎる温度に三蔵は眩暈がする思いだった。
 しかしそれは、彼自身は決して三蔵に背を向けないと宣言しているようなものだ。

「……そうだな」
「……」
「お前が俺に背を向けたら背後からそのまま撃ち殺してやる」
 そう言って三蔵は自分と八戒の間にある盆を奥に押しやり、二人の間を狭める。そして浴衣の襟を、胸倉を掴み上げるように掴み引き寄せ、そのままその熟れた唇に喰い付くように唇を合わせた。驚きに瞠られた翠玉がやけに鮮やかに濡れて光っている。
「ん…………ん、ぅ……ふ…………」
 驚きに見開かれた目は、とても開いていられないというようにゆるゆると閉じられていく。ふるふると震える八戒の肩を左手で暖めるように擦りながら、それでも止めることはなくその甘い唇を貪り続けた。
 艶やかに濡れた赤い唇をぺろりと舐め上げると背筋がピクンと戦慄き、薄く開かれた翠の瞳が責めるような視線を送ってくる。それにも構わず襟を掴んでいた手を彼の後頭部に回して更に深く口付けた。頑なに閉じようとする唇と歯列を舌で割り開き、逃げを打つ舌を捕まえ、絡ませる。触れた肩が細かく震えていた。
「……、ん、…………んん……」
 八戒が甘く鼻にかかった声を漏らすのを、長いキスのせいでぼんやりする頭のどこかで聞いていた。が、途中できゅっと彼の手が三蔵の法衣を掴んだのに気付いてやっとその唇を解放する。
 どうしたのか、と息の荒いまま俯いている八戒の顔を覗き込むと、口元を押さえた彼に思い切りきつく睨みつけられた。それも、ほんのりと赤くなった頬、真っ赤に潤んだ唇と快感に濡れた翠玉の瞳では全く迫力がない。むしろこれは誘われているのだろうかと早合点しそうだった。
「と、突然何を……」
「うるせぇ、黙ってると手前はロクなこと考えやしねぇからな。精々善がってろ」
「なっ……み、身も蓋もない事を……ッ」
 ますます顔を赤くした八戒は、ふと自分の姿を見下ろして胸元が盛大にはだけているのに気付き、慌てて襟元を合わせた。が、時は既に遅く、ニヤリと凶悪なほど綺麗に意地悪く笑った三蔵の手が襟元に向かって伸びていた。
「や、だ…………だめです、すぐ悟空がかえって……っ」
「フン、川はこの庵の裏手だろう。帰ってきた気配がしたら俺が出てさっさと寝させる。それでいいだろう」
「……よ、よかないですよ! ちょ、……や、っ……まっ」
「待つかよ」
 ニヤリと笑った三蔵の瞳が灯篭の灯りで紫電を弾いた。それを見て八戒はくたりと全身から力を抜く。さながら肉食動物にこれから喰われるのを待つしかない弱い動物同然だった。


「……ひ、ぁ、……や、もう、……あ……ッ……さんっ」
 しどけなく乱れた浴衣が、腰の帯と腕に引っ掛かって辛うじて落ちずにいる。思う以上に自分はその浴衣姿に興奮していたらしく、自分を落ち着かせるように汗が少し滲んだ鼻を手の甲で拭う。その際にちらりと八戒の顔を見上げると、彼は目を閉じて少し顎を逸らし、細く息を吐いていた。唇と肩は細かく震え、浴衣のはだけた薄い胸が上下する。頬や首元がほんのりと桃色に染まり、それが灯篭の控えめな灯りに照らされてやけに艶めかしく、思わず唾を嚥下した。
「……やけに煽るな、今日は」
「や、ちがっ……だっ、て……」
 三蔵の言葉にカッと頬を紅潮させた八戒は言葉にするのももどかしいようにふるふると頭を振る。それが余計に嗜虐欲を誘って、堪らない。恥ずかしがってはだけた浴衣の胸元を掻き寄せて俯く彼に構わず、三蔵はそのままその膝を割った。それにならって浴衣の裾が割れ、白い腿が露わになる。
「いや……、や、です……っ」
「何でだ?」
「えっ……」
「拒否する理由を言え」
 ひく、と肩を揺らした八戒は赤い頬のまま頼りなさげに、下から見上げる三蔵を見下ろした。
「俺に触られるのが厭ならそう言え」
 それが罠だ、と八戒にはすぐに分かったが、その落とし穴は、落ちなければ落ちなかったでその先にもっと酷い罠が待ち構えていた。いっそここで落ちてしまえばいい、と囁くのは、それこそ甘い罠だ。
「……っ、さんぞう、……やじゃないです……」
 恥を忍んで告げたために囁くような口調になってしまったが、三蔵はそれで満足したようにニヤリと唇を歪めた。そして、自分は落とし穴に見事に落ちたのだ、とかくりと強張った肩から力を抜いた。まさしくその瞬間、急に後ろに押し倒され、ビクリと八戒が目を剥く。その時には既に下半身を持ち上げられ、するりと器用に下着を取り去られていた。
「っや……! さんっ……」
「声出しても誰も聞きゃしねえよ。猿でも来りゃ別だけどな」
「っ……! だ、だったらっ…………おねがい、します、せめて、庵の中で……」
「聞けねぇ相談だ」
「なんでっ!」
「縁側で浴衣、ってのもなかなかねぇだろ」
「な……なにを――――」
 湯気が出るかというほど頬を赤くした八戒に、ニヤ、と口角を吊り上げた三蔵は、そのまま割り開いた膝の間に顔を埋めた。それを最後まで見ることは出来ずに、ぎゅっと目を瞑って唇を噛む。これから訪れるであろう強い快感と痛みに期待し怯えながら。











 ゆるり、と目を開ける。寝起きでぼんやりした視界に映ったのはひたすら深いブルーだった。鼻にふわふわと届くのはどこか心地いい匂い。
 何度か睫毛を上下させ、寝起きの目がしっかりと物を映し始める。その目に映ったのは縁側の天井部分の木の骨組み。その脇には季節外れの風鈴が下げたままで、時折風に揺らされて控えめな硝子の音を響かせる。それがぼんやりと混濁した意識には心地よかった。
「……目が覚めたか」
「…………さんぞ……?」
 声がした方に首を廻らせてみると、自分の横になっているすぐ横で胡坐をかいて煙草を吸っているところだった。なるほどあの匂いはこれか、と思わず頬が緩む。ひょっとしたら受動喫煙で自分こそ中毒になっているのかな、とゆっくり息を吐いた。
 中毒は中毒だろう。死ぬまで終わらない甘い毒だ。逃れることは出来ない。逃れたいと思うことなど出来ない。
 ふと自分の身体を見ると、身体には薄い布団が掛けてあり、タオルを丸めたものを枕代わりとして頭の下に押し込まれている。きっと全て三蔵がしてくれたのだろう。布団の中の身体を探ると、浴衣はしっかり着付けられていたし内股のぬめりや不快感もない。これも全部三蔵がやってくれたのかな、と思えば、何となくくすぐったい気分になった。
 何でも面倒臭いと切り捨てそうな風に見えて、こういう時には驚くほどに優しくしてくれる。
 八戒が横になったままありがとうございます、と囁くと、三蔵は照れたように顔を背けて紫煙を吐き出した。それが夜明け前のまだ暗い空気にほわりと浮かんだ。
「もうすぐ日が昇る」
「……ほんとう、ですね」
 その声は突然出したためにどこかいがらっぽく掠れた。それに何度か咳をすると、三蔵はまだ火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、その手を八戒の額に伸ばした。
「……風邪でも引いたか?」
「……。いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
 つっけんどんでもいつでも自分を気遣ってくれるその手に意識を移すと、その手から温かい気が送られてくるような気がした。まさしく手当てだな、と口元を緩める。触れた部分が暖かくなり、喉の違和感も取れていくような気がした。
 ゆっくりと三蔵の肩越しに見える山の頂にぼんやりと光が差し始めた。朝が来る。闇に隠れていたものを全て曝け出す朝がくる。

「……ねぇ、三蔵」
「何だ」
「…………“三千世界の鴉を殺し”って、知ってます?」
 八戒が唐突に話し始めた言葉に、三蔵はゆっくりと眉根を寄せた。
「三千世界の鴉……?」
「正式には“三千世界の鴉を殺し 主と添寝がしてみたい”です。添寝が朝寝に変えられる場合もあるようですが」
 八戒はころりと寝返りを打ち、三蔵の方へ身体を向けた。細く差し始めた朝日を背にした彼が、少し遠い人に思えて思わず少しだけ目を伏せた。
「……三千世界というと」
「ええ、仏教用語ですね。三千大千世界……簡単に言えばすごーく広い範囲のことですけど」
「……の、鴉、というと?」
「……これは他国の、女郎さんの気持ちを表した言葉なんです」
 自分の額から髪にかけてを優しく撫でてくれるその手を感じながら、ゆったりと目を伏せながら呟くように告げた。
「鴉は色街に朝を告げる鳥です。鴉が啼けば客は帰ってしまう。鴉を殺す……つまり、“もし鴉が啼かなければ、ずっとあなたと一緒にいられるのに”……」
 呟いた自分の声が、やけにその夜明け前の空気に響いて、居た堪れなくなる。鬱陶しい女のようなことを言っていると自分でも思う。……それでも、このまま夜が明けなければ、鴉が啼かなければ、と思ってしまう自分がいる。
「……待ってろ」
「え……?」
 少し思案した後、三蔵は八戒の額をさらりと撫でて立ち上がった。そしてそのまま庵の中に入っていってしまった。
 その後ろ姿を目で追いながら、やはり疎まれたのだろう、と八戒は鼻の上まで持ち上げた布団に潜り込んで自嘲の笑みを浮かべた。どうしていつも自分は彼の重荷になってしまうのだろう、と自己嫌悪に苛まれながら。





「猿! 起きやがれ!」
 昨日、八戒と事に至っている最中に帰ってきた悟空に、行為を中断させられたことで少々苛立ちながら誘導した部屋の戸を勢いよく開ける。そこでは悟空とジープが激しく掛け布団を乱しながら(左足の指先に辛うじて掛かっている)寝ているところだった。
「んぉっ……? んな……なにィ……?三蔵……?」
「メシだぞ猿」
「ナニッ、飯!?」
 そう言うとガバッと元気よく起き上がった悟空の鼻先に札を何枚か押し付けた。
「んにゃ……? 札は喰えねぇぞぉ……」
「お使いだ。寺の僧正のところに行ってこい」
「え?」
「そして今から言うことをそのまま伝えて来い。そうしたら帰りに何か買ってきてもいい」
「まじっ?! 何なに? 覚えるから!」
 簡単な奴め、と思いながら、三蔵は二回ほど悟空に伝言を言い聞かせ、尻を叩いて出ていかせた。後ろからぼんやりと起き始めたジープが追っていったので迷子にはならないだろう。三蔵はその後ろ姿を見て息を吐き、もう一度縁側へと足を向けた。





「……三蔵……?」
 縁側に戻ると、八戒は少し頼りない目で三蔵を見上げていた。身体はまだ辛いだろうに無理に体を起こしたらしい。少し辛そうに腕で身体を支えていた。
 縁側に置きっぱなしの食器など色々片付けなければならないものもあったが、それはまだいい、と三蔵は彼の横に跪いた。
「さんぞう……?」
 不思議そうに見つめてくるその視線には応えず、そのまま彼の背中と膝裏に腕を回した。そしてそのまま立ち上がる。所謂横抱きである。
「ええッ……ちょ、……さんぞう?!」
 混乱で暴れそうになる彼の額にキスを一つ落として、そのまま外に背を向けて庵の中へと歩き出した。丁度その時、背中から光を感じた。日が出てきたのだろう。その光から顔を逸らすように歩き続け、悟空が先ほど寝ていた部屋の隣の戸を開ける。そして部屋の隅に畳まれた敷布団を引っ張り出し、その上に八戒を降ろした。
 その部屋は、障子の戸がついているものの、縁側の柱の陰になってぼんやりと薄暗い。押入れ以外にはなにもないので、どうやらここは寝室らしかった。
「え……?」
 枕や掛け布団も引っ張り出して、枕は彼の頭の下に押し込んでやる。そして掛布団を上から被せた。そしてその横から自分の身体を滑り込ませる。
「え、ちょ、ちょっ……」
「阿呆かお前は」
「え……」
「一日延泊することにした」
「え、……そんな、どうして……」
 きょとん、と横にある三蔵の顔を少し不思議そうに覗き込んでくる。それに余裕の笑みで返しながら、少し乱れた前髪を掻きあげてやる。それだけで少し頬を緩ませるのが可愛い、と思う。

「鴉が啼いたって添寝でも朝寝でも出来るじゃねぇか」
「……」
「俺は客じゃねぇ、お前も女郎じゃねぇだろう。……夜だけの付き合いって訳でもない」
 かあ、とその色白な頬が桃色に染まる。照れたように俯くその頭を自分の胸に抱き寄せて、その頭の上に顎を乗せる。濃茶の柔らかな髪が甘いシャンプーの香りをさせている。
「さあ、存分に添寝して貰おうか」
 そう告げると、何も言わずに彼は三蔵の胸元に頬を擦り寄せてきた。
「……三蔵は、狡いです……」
「あ?」
「どうしてそう……」
「何だ」
「…………も、いいです。……寝ていいですか?」
「ああ、そのうち俺も寝る」
 正直、昨日の晩は事が終わった後も八戒の言葉の意味をずっと考えていたために殆ど寝ていない。しかも寝たと言っても縁側の硬い床の上でだ。自分でもそうなのだから自分よりずっと肉体的に疲労している筈の八戒は尚更眠いだろう。

「……さんぞう」
「何だ?」
「昨日の夜は……すみませんでした。怒らせて」
「……」
 無言で返した三蔵に、まだ怒っているのだろうかと思ったのだろう、八戒は不安そうに三蔵の胸元から顔を上げて見上げてきた。そして哀しそうに目を伏せて、ぼそぼそと呟き始めた。
「……失うものをわざわざ作る行為は、愚かだと思っていました」
「……」
「だけど、過去の痛手を学習もせずに、また」
「同じだ」
「え?」
「同じだと言っている。お前も俺も」
 過去の痛手を学習せずに、とは言い得て妙である。学習したつもりでいた。だから守るものなど欲しくなかった。そして守らなくてもいいものを、見つけた筈だった。それなのにその見つけたものときたら普段はいい性格をしているし笑顔でばっさり人を切り捨てるようなことをしながら、不意に過去の傷痕を辿られるだけで激しく過去に引き摺られそうになる。
 守る訳じゃない。現世に引き止めるために腕を掴んでいるだけだ。

「まあ、俺が先に死ぬかも分からんがな。その時は精々泣け」
「……酷いですよそれ……じゃあ三蔵は僕が先に死んだら泣いてくれますか?」
「さあな」
「……ひどい」
「その時になってみないと分からんな。……が、その時は俺が直々に弔ってやる」
「それってあなたにとっての最上級の扱いですか?」
「ああ」
「ならいいです」
 そう言うと、不機嫌に顰められていた顔は緩み、機嫌よく首元に顔を擦り寄せてくる。さらさらした頬の感触が心地いい。
 その髪を梳きながら、額にまた口付けると、八戒は身体を捩って、くすぐったそうに笑った。


「まだ、ね。少し、誰かに依存するのは怖いです」
「……ああ」
「あなたは、そうさせてくれますか?」
 そう言って儚く笑った彼は、ぽふん、と顔を三蔵の胸に押し当てて、寝の姿勢に入ってしまった。
「返事くらい聞いて寝ろ……」
 そう少し呆れながら、はだけた布団を彼の肩に掛け直してやる。その時、ふと彼が自分の法衣の合わせの部分をきゅっと掴んでいるのが見えた。
 大丈夫だ。きっと彼も、自分をこの世に引き止めるために腕を掴んでいてくれる。



 既に眠りに落ちていった八戒の身体から力が抜け、そのままごろりと寝返りを打ちそうになるのを引き寄せる。障子から少しずつ朝の光が差し込み始めてきた。

 遠くで鴉が啼いている。
 その啼き声で、胸の中の彼が悲しむことのないように、三蔵は一層強くその頭を抱き寄せ、目を伏せた。












2005/9/27