滅茶苦茶素直で美人でフリー。そうそううまくいくもんじゃないとは分かってるんだけど。
「……あの、悟浄?」
「んー? なーに」
「視線が背中に痛いんですが……何か付いてますか?」
「んーん。」
 綺麗だな、と思って。
 なんて言ったら怒るだろうな。怒ったところも(本気の時じゃなければ)結構可愛かったりするんだけど、あんまり何度もやると拗ねちまうから、程々のところで我慢しておく。それが常だった。もしいたらウザイと思ったであろう同居人、実際同居するようになってからも暫くは冷め切った夫婦よろしく必要事項以外会話のない生活を送っていた同居人。
 ぎこちない期間を経て、相手の長所や短所を知っていった。例えば細い容姿に関わらず割と力があるとか、微妙な理由で好きなものはブロッコリーだとか。もっと近付けば、黒に近いと思っていた髪は、太陽に透けるとチョコレート色だとか、やわらかそうに見えて実は固めの直毛だったりとか。珍しく彼が体調を崩した日に代わりに朝食を作り、半熟の目玉焼きを出したらブーブー言われてわざわざそれをスクランブルエッグに作り変えさせられたりしたほどに頑固で。
 少しずつ互いの過去を話したりして、どんどん腹の内の汚い部分を見つけていく筈なのに、不思議と彼のことをキタナイだとか、ましてや軽蔑だなんて、そんなことがどうして出来るだろう。

 家で待っていてくれる存在を、はじめは気持ち悪く思っていた。
 そう、正直に告げたら、彼は少し苦笑して、実は自分も誰かが家に帰ってくる、という感覚が心許なかったのだと、告白してくれた。

 傷だらけの血塗れで、それでも奴は生きている。
 奴をこの世に留めているのは自分にとっては不本意でしかない、だけど奴にとってはただ一つの存在。
 恋に早い者勝ちなんてものは存在しないと分かっていても、もやもやする気持ちを抑えられない。
 抱きたい、イカせたい云々の問題ではなかった。出来るなら、もう奴が雨の日に一人で泣いたりしないように、と、らしくもないことを考えたりもした。
 そしてそれは叶ったと言っても良い。八戒は雨の日でも狂ったようにならなくなった。
 ただ一つ、悟浄の隠れた望みだけは、叶わなかったのだが。

 “出来れば、自分の手で”、なんて。


「うん? 八戒ちゃんどうしたのそんなご機嫌で」
「え? ……機嫌……よく見えますか?」
 そう返事をする八戒の顔は、浮き立つ心を隠しきれない様子だった。どうせ三蔵が家に来るのだろう。
 駄目なら駄目だと言える、家主という立場だが、それを言うことによってこの笑顔が曇ってしまうのならきっとそんなこと一生言うことは出来ないだろう。
「あーあ、また晩飯はマヨネーズだらけかー」
「っ! そ、そんなこと……ありませんっ!」
「俺、さっぱりしたものも食いたいなー」
「……何がいいんですか?」
「うーんと温野菜サラダに胡麻ドレッシング、あとジャガイモのポタージュ。どうよ?」
「……わかりました。…………悟空には黙っててくださいよ!」
 まだ三蔵が訪れる日には食卓にマヨネーズ系のおかずが多く並ぶことに気がついていない幸せな小猿のことに思い至ったのか、八戒は少しだけ顔を赤くして人差し指を立ててみせた。
「はいはい、教育上良くないからなー保父さん。もといお母さん?」
「ごじょお!」
 悟浄の意図する所……つまり、悟空の母、イコール三蔵の伴侶ということに即座に思い至った八戒がテーブルに乗っていた箱ティッシュを掴んで振り上げるのを見て、悟浄が大袈裟に逃げ回ってみせた。

 穏やかすぎて、不思議な毎日。



 雨の日になっても、八戒は平気になった。
 だけど、そうなる前までは自分が傍にいて夜越しをしていたため、雨の日は早い時間に賭場から家に帰るのが癖になっていた。
 そして今日も。八戒はきっと笑顔で迎えてくれるだろうと分かっていて、早く家に帰ってしまった。
 八戒は、いなかった。
(……三蔵のところか?)
 八戒にもだんだんとこの町に友達が出来てきたものの、わざわざこんな雨の日に……特にあの八戒が……出掛けるとは考えられない。きっと三蔵に急に呼ばれて喜びを押し隠しながら出掛けて行ったに違いない。
(あーあ、損だったなー……まあ自分で帰ってきたんだけどさ……)
 何となく淋しくなりながら、ダイニングの椅子に腰掛けてすっかり湿気た咥え煙草を灰皿に押し付ける。

 ……コンコン

 控えめな強さでドアがノックされる。この程度の音なら悟空ということはないだろう。三蔵はノックすらしない。今日家に来る予定のある知り合いも女もいない。ということは……。
 八戒がこの雨の中わざわざ帰ってこようとする理由はない。第一三蔵が帰しはしないだろう。では、この家にやってくるのは……。
「……ジープか?」
 ジープが遊んでいて雨に降られたのだろうか。いや、しかし八戒が出ているのならジープも一緒に寺にいるはずだ。
 おかしいと思いつつも、悟浄はドアに向かう。怪しい気配や殺気などは感じられない。じゃあ?
 恐る恐る、ドアノブに手を掛けてそっと外に押し開ける。

「はっかい、ちゃん……?」
 そこにいたのは、今朝自分を送り出してくれた八戒ではなかった。これは、血塗れで、眼球がちゃんと両目あるのになにも目に映さずに、ずぶ濡れで雨の中一人立っていた、あの……猪、悟能……?
 死んだような目をしたその青年と、あの日の、雨の中の青年がオーバーラップした。

「……何、してんだよ、早く家入れって! 風邪引くぞ馬鹿!」
 慌てて悟浄は家に飛び込み、自分では出したこともないバスタオルを棚から引き摺り出して玄関に舞い戻る。しかし八戒はぼんやりとそこに立ったままだった。
(……何だよ、まだ姉ちゃんのこと思い出すのか……?)
 ぼうっと雨の中に溶けてしまいそうなその存在を確かめるように頭からタオルを掛けて少し乱暴に頭を拭いてやる。確かにそこに存在する筈の彼の存在はどうしようもないほどに希薄で、ゾッとした。
「……どうしちゃったんだよ」
「いらないんです」
「は?」

 掠れるでもなく、妙にリアルに響いた八戒の通る声に、思わず目を見張る。
「……?」
「もう、いらないって言われました」
「……」
 誰に、なんて、訊くまでもない。
「あの人が必要としなくなったら、僕に生きる意味なんてありません」

 そう、ぽつんと呟いた彼の口元は、少しだけ微笑んでいるようにも見えた。

 そうして、ぼうっとしている八戒を家に引き入れた。言っても風呂になんて入らないだろうと思い、タオルで全身を拭かせて、ベッドに押し込んだ。そして、悟能が八戒として家に来た辺りに三蔵からこっそり渡された睡眠薬を温めた牛乳に溶かして飲ませた。割とすぐ効くものだったのか、すぐに八戒はベッドに沈んだ。顔色は可哀想になる程の青さだった。
「何が、あったんだよ……」
 半ば無意識に出た言葉だった。だって理由は分かっていたから。三蔵と喧嘩したに決まっている。

『あの人が必要としなくなったら、僕に生きる意味なんてありません』

 八戒、もとい悟能には、生への執着が少なすぎた。
 その八戒を今、現世に繋ぎ止めるのは、きっと三蔵だけだった。生きるように告げ、名前を与えた彼。八戒にとっては、それは生きる意味を与えられたも同然だった。

 生きる理由なんて、俺にも分かんねぇよ。
 だけど、生きてる。執着するものもないし、絶対に死にたくないとも思わない。だけど一日過ごせば自然と腹が減って、一食喰っちまえば一週間は生きられる。そしてそれを繰り返して生きていた。
 八戒にはきっとそれすらない。
 腹が減ったとしても、食事を摂りもしないに違いない。
「……あーあ」
 たいせつなひとがいて。
 そしてその人を、この世に引き止める術がないとは何と不甲斐のないことか。



「……すみません、悟浄」
 そろそろ起きただろうか、と悟浄が八戒の部屋のドアを開けると、その物音で、ベッドに横になっていた八戒が上体を起こした。
「あー馬鹿、横になってろって。……ハラ減ってないか?」
「いえ……それより悟浄の方が減ってるんじゃないですか?今……」
「もう食った。寝てろよ、起きんな」
「……そ、ですね……」

 自分が何と声を掛けても、八戒がどうにもならないことは分かっていたから、悟浄は余計なことは何一つ言わなかった。
 でしゃばる必要はない。どうせそのうち三蔵の禍々しいほどの不機嫌に恐れをなした悟空が逃げ込んでくるか、ノイローゼ寸前の三蔵が謝りに来るか何かのアクションがあるはずだ。機を待つしかない。



 元の鞘に戻るのは、すぐのことだった。三蔵の忍耐力も大したことはない。……まあ八戒限定であろうが。
 珍しく取り乱した様子の三蔵は、最後に悟浄が顔を合わせた時と比べてかなり肉が落ちていた。後ろから心配そうに付いて来た悟空が言うには、此処に来る時間を作るためにかなり無理をしたらしい。あれで大事な仕事は簡単に放り出せない生真面目な人間だ。
 八戒の為にそこまでした三蔵に免じて、今回ばかりは三蔵に加担して、悟空を引き連れて悟浄は家を出た。
 だから、その後のことは何ひとつ知らない。
 知っているのは、悟浄と悟空が家に帰ってくると、まだ少し白い顔をしているものの幸せそうに微笑む美人の同居人と、疲れを押し隠そうともせずに、八戒の膝に頭を預けてソファで眠っている最高僧の姿があったこと。そしてダイニングテーブルに、最近出されることのなかった三蔵用のコーヒーカップが出ていたこと。それだけ。

 悟浄が大きくため息をつくと、視線の下辺りにある小猿の頭が揺れた。顔を覗き込むと、悟空は如何にも面白そうに笑っていた。
「……なーにがそんなに面白いのよお前」
「おもしれーんじゃねぇよ、うれしいの!」
「へ?」
 不意を突かれて悟浄が変な声を出すと、悟空はむっと頬を膨らませた。
「悟浄は三蔵と八戒が幸せでうれしくないのかよ!」
「……」
「俺うれしいけどなっ。三蔵っていっつもつかめっ面でさ、時々笑ってくれたりするけど、すぐ殴るし……。だけど三蔵、八戒がいると違うんだ。よくわかんねーけど、多分三蔵、八戒といるのがうれしんだ。で、多分八戒も三蔵といるのうれしんだと思うし、俺は三蔵と八戒が幸せそうなのがうれしんだ。だから、……アレ? よくわかんなくなってきた……」
 ボキャブラリーが豊富とは言えない悟空は、言っている内に訳が分からなくなって来たらしく、頭の中で一人、文を考え直しているらしい。だけど彼の言いたいことは、痛いほどに悟浄に伝わった。

『三蔵と八戒が幸せそうなのがうれしんだ。』

 その一言で十分だった。

(猿に言われちゃおしまいね俺も、)
 悟空にせがまれて、専用のオレンジジュースをコップに注いでやりながらため息をついた。
 悟空は三蔵と八戒が幸せなのが嬉しいと言う。悟浄だってそうだ。ただ、別に三蔵のことはどうでもいいのだけれど三蔵の機嫌が悪いとそれと同調して八戒も落ち込んでしまう。八戒の幸せは三蔵と共にあったから。
 三蔵の幸せを望む訳ではないけれど、三蔵が幸せになって八戒が嬉しいなら幾らでもそれを望んでやろうではないか。
(……俺ってもしかして損な体質?)
 もしかしなくても。



 悟空の為に入れたはずのオレンジジュースを自分の口に少し含んでみる。

「……甘酸っぺーよ、バーカ」

 ひょっとして、初恋の味?なんて。











2005/8/4