夕闇が迫る。背後から差し込む濃く赤い夕日に、長い影が伸びるのを見ながら一生懸命走った。
 もう、二十分遅刻だ。
(やべーやべー! いくらなんでも待たせ過ぎだ!)
 懸命に走りながら悟空は、ポケットから携帯電話を取り出してサブディスプレイで時間を確認する。待ち合わせは六時半。今はもう七時十分前だ。ポケットに携帯電話を仕舞って、肩から斜めに下げたスポーツバッグを走る足に当たらないように後ろに流す。
 きっと彼のことだから店にも入らずに待ち合わせの場所で腕時計を眺めながらぼんやり空を見上げているだろう。彼が強いのは十分知っているけれどもし性質の悪い手合いに絡まれていたらどうしよう。その時危ないのは彼ではなく彼に絡んだ手合いだが、悟空にそんな奴等を気遣う心の余裕はない。ネオンが輝き始める街並みを、人を避けながら走る。目指すは街の中央にある広場の時計台の下。
 待ち合わせの相手は幼馴染だった。それも五つ年上の。今高校二年生の悟空にとっては、物心付く前から傍にあった存在だった。引取られ同居している従兄の三蔵はそれよりも一つ年上で、いつも悟空は二人が何か話をしているとその間に突っ込んでいったものだ。怒って手を上げる三蔵とは反対に、抱き寄せて庇ってくれる彼の存在は当時からとても温かいもので。
 三蔵の親もまた仕事が忙しく、暇があればふらりと海外へ旅行、しかも家事をするような人ではなかったため、三蔵と悟空の家の家事はほとんど彼が全てこなしていた。だから二人分の洗濯も彼がしてくれていたし、昼の弁当も朝晩の食事も彼の手製だった。そのせいで少々食にはうるさくなってしまったくらいだ(三蔵には絶対違うと言われるが)。
 昔から優しい人で。温かい人で。それでも彼に重く暗い過去があるのを知っている。三蔵も彼も自分には隠そうとしているようだったが、知っている。両親に捨てられて、その後姉に事故で先立たれたこと。それで、過去に繋がりのあった三蔵の父が彼に経済的な援助をして、一人で暮らせるようにしたこと。そして、それに追い目を感じたのだろう、彼が三蔵の家の家事を全てこなすようになったこと。三蔵の父は最初、気を回さなくてもいいと言おうとしたらしいが、それで彼の心の負担が少しでも減るのならとあえて黙っていること。
 三蔵と彼は大学を卒業し、自立をした。彼は大学に通うために受け取っていた奨学金と、これまでに三蔵の父から援助して貰った金を少しずつ返すために目指した職業を追っている。三蔵も父親の跡を継ぐためにそれなりに勉強中らしいが悟空にはさっぱりだ。
 そして悟空はといえば、ぼんやりと流されるまま高校に入学し、バスケット部でそれなりの成績を残している。将来何かの役に立つかと言われれば多分全然役に立たないけどまあ今が楽しければ良いという感覚だ。

 息を切らして、街中の広場に駆け込む。今の時間帯、待ち合わせをする人など沢山いて探すのは大変なのだが、彼はいつも人一倍目を惹くからすぐに見つかる。
 特に派手な感じでもないのだ。装いも極々上品で華美でないものを好み、髪の色も何も弄っていない。だけど一旦顔を見てしまうと目を離すのが惜しくなるような整った造作の持ち主だった。彼本人を探すよりも彼を見ている周りの人を探した方がすぐに見つかるだろう。
 そして、通り過ぎて行く人々の視線を少しずつ奪いながら、時計台に寄り掛かって一番星の見え始めた空を見上げている長身を見つけた。白いワイシャツに、極々深い緑のコーデュロイのジャケットを着た彼は、ブリーフケースを小脇に抱えて、腕時計をぼんやりと眺めている。並べ立てると少々野暮ったいが、稀な長身と整った容姿とで逆にお洒落な印象を受けるから不思議だ。

「……っ、はっかーい!」
 思った通りのその姿を見たら何だか嬉しくなって、そしてその目に早く自分を映して欲しくて、悟空は遠くで、まだ自分に気付いていない彼に向かって声を掛けて手を振った。
 すると、ゆっくりと首を廻らせた彼は、人込みの中に悟空を見つけて口元を綻ばせて肩の辺りで小さく手を振った。眼鏡の奥の柔らかい新緑の色の瞳がそっと緩められた。
 周りに人が沢山居る中で、自分だけを見てくれているのが嬉しくて、すぐさまその彼の元へ走り出した。
「ごめんっ! 二十分も遅れて……」
「いいですよ、悟空も部活が忙しいでしょう?」
 彼がふるふると首を振ると、さらさらした濃茶の髪が白い額の上で揺れる。穏やかに自分を見下ろす瞳は、暗闇の中でもぼんやり奥のある翠色だ。暫く会えなかったけれど、やっぱり八戒は八戒だ、と悟空は嬉しくなって満面の笑顔で彼を見上げる。
「何か良いことがあったんですか?」
「え? 解る?」
「ええ、すごく嬉しそうですから」
 くすりと笑った八戒は、その白い手で悟空の頭をそっと撫でる。確かに良いことはあったけれど、今嬉しいのはそのせいじゃなく彼が目の前にいてくれるからだ。だけどそんなことを言うのは流石に恥ずかしいので悟空はぶるぶる頭を振った後もう一度彼を見上げた。
「あのさっ、バスケ部でキャプテンに選ばれた!」
 そうとだけ言って胸を張ると、一瞬目を瞠った八戒は、次の瞬間花が綻ぶように笑って、悟空以上に嬉しそうに両手で頭を撫でてくれた。きっと言っても三蔵は褒めてくれない。昔からムチは三蔵でアメは八戒だった。たまに怒るとものすごく怖いのだけれど。
「おめでとうございます、きっと三蔵も褒めて……くれはしないかもしれないけど、喜んでくれますよ」
「えー? そうかなー」
 三蔵が今の八戒のように褒めてくれる想像をして、ただでも寒いのに鳥肌が立つ思いがした。
「うわっ、キモッ!」
「あはは、そんな風に言ったら三蔵が可哀想ですよ」
「……もーいい。ね、もう帰ろうよ、ハラ減ったー」
「そうですね、久しぶりに三人で食事しましょうか。三蔵がもう家に着いたってメールを寄越して来たんですよ」
「あれっ、でも材料は?」
「お昼の内に買って冷蔵庫に詰めてきちゃいました。ハンバーグですよ」
「やったっ!」
「悟空にはおめでたいから目玉焼きもつけましょうか」
 そう言って悪戯っぽく笑った青年を見上げる。
 八戒は、昔は自分より少し大きくて三蔵より小さいくらいだったのに、今では三蔵よりも大きくなってしまっていた。確か百八十あると言っていただろうか。それを知った時は悟空も軽くショックだったが、追い越された三蔵はもっとショックだったのではないだろうかと思う。三蔵の年齢でまだ背が伸びるかどうか解らないが、彼が毎日の牛乳の摂取に努めているのを知っているのだった。
 こうして並ぶと大人と子ども、という感じでちょっと嫌になることもあるのだが、自分が見上げると穏やかな目で見下ろしてくれる、その位置は今では結構気に入っている。斜め下から見上げると、白い頸から頬のラインが酷く細いことに気付いて、少し心許なくなる。

「今日は、僕もちょっと良いことがあったので」
「え? 何なに!?」
 少し得意げに言ったその口調が何だか珍しくて、悟空は歩きながら八戒を見上げた。すると彼はふふ、と小さく笑った。
「まだ秘密です」
「えー気になるっ!」
 そう言って、何か面白い悪戯でも考えているような顔で唇にほっそりした人差し指を当てた。悟空はころころと主人に纏わりつく犬のように、八戒の腕を掴んで強請るように見上げ続ける。こんな風な攻撃が通用するのも子どもである今だけの特権だ。結局のところ子どもに弱い彼は暫くそれを続けていると、絆されたように笑って、ゆっくり口を開いた。
「教員採用試験に合格したんです」
 そう、少し恥ずかしそうに言ったその顔を見上げて、悟空は目を瞠った。
 教育実習だとか色んなことをやって大学を卒業して、教員免許を取って。そして今年の夏から秋も試験で忙しそうにしていた。
「……ええええー?! マジで?! やったじゃん!」
 我が事以上に喜ぶ悟空に、八戒はまた、少し照れくさそうに笑った。
 八戒は高校教師を目指していた。しかし、経済的援助を受けている立場で学費の高い私立大に行かせて貰うのは憚られる、と言って国立大に入学したのだった。三蔵の父は家から近い私立大でも構わないと言ったのだが、外見に反して、一度言い出すと聞かない頑固な性格をしている八戒は自分の意思を押し通して超難関といわれる大学にストレートで合格した。八戒は昔から頭がよかったから当然なのだろう、と思っていたが、三蔵たちがえらく驚いていたから多分かなり難しい大学だったのだろう。
 他の教科の免許も持っているが、本人は音楽教師になりたいらしかった。楽器の腕前は一流で、それでもちょっと歌は苦手で。時折自信をなくしかける八戒を慰めるのはいつも悟空だった。彼は三蔵たちの前では弱みを見せたがらない。心配を余計にかけたくないと思っていたのかもしれなかった。
 でもそれも昔の話なのだ。
「うわーうわーすげー! どうしよ、自分のことじゃないのにすっげー嬉しい!」
 顔を紅潮させてはしゃぐ悟空の頬に、あははと笑って八戒は手を伸ばした。
「うお、つめて」
「あ、冷たかったですか? すみません」
 慌てて手を引っ込めようとするその手を両手で掴む。細くて長い指はきんと冷えていた。それもこれも、長く待たせた自分のせいだ。
 自分の手の熱を移すように両手でその手を包み込む。
「……悟空の手はあったかいですね」
「おう!」
 優しい声でそう言われたのが何だか照れくさくて、ニッと笑ってもう一度その手をぎゅっと握り込んだ。そんな悟空の姿を見下ろしながら、八戒はぽつりと呟いた。
「もう手袋がいる季節ですかねぇ……」
 見れば悟空はマフラーをしているが、自分は何もつけていない、ということに気付いたのだろう。きょろきょろと身体を見下ろしながら何か思案しているようだった。その顔を見上げながら、悟空は独り言のように呟いた。
「……それにしてもさ、ホントに八戒が先生になっちゃうんだな」
「あはは、まだどこにとってもらえるかは解りませんけどね」
 八戒のような綺麗な先生が担当ならきっと嫌いな教科でもやる気が出るだろう、と思う。実際悟空も音楽の時間は殆ど睡眠時間になっているが、八戒が担当だったら真面目に受ける自信がある。
「うちの学校に来ねーかなー」
「おまけはしませんよ?」
「そういうんじゃないって!」
 単純に、八戒の授業だったら楽しいだろうなというのと、どんな風に先生をするんだろうという興味。
「な、もう三蔵に教えた?」
「いえ、悟空にしか教えてませんよ。……大学の頃も試験前も、悟空にいっぱい励ましてもらったから、悟空に一番に教えたかったんです」
 そう言われて、思わず顔を赤くする。すぐに顔を伏せたが、頭上で少し彼が笑った気配がして、余計に顔を上げられなくなってしまった。

 街を抜けて、ゆっくりと住宅街への道を辿って行く。それなりに落ち着いていて静かな、立地条件のいい場所だ。ここにある家は、三蔵の父が所有する持ち家のうちの一つでしかない。悟空もあっちこっちに連れられていっているが、まだ全ての家に行ったことがあるわけではない。何せ家は日本だけに限らないのだ。今八戒が住んでいる、悟空の家から歩いて二分ほどの二階建てのメゾネットも、全て三蔵の父の所有しているもののため、実質居候状態と言ってもおかしくない。大家を雇って賃貸にしているらしいのだがそれもかなりの良心価格らしい。彼にはきっともう儲ける必要はないのだろうと悟空は思っている。というか、もう働かなくても遊んで暮らせるだけの金があるに違いない。
 八戒は、大学を出ると同時にその家も出る、と言っていたのだが、三蔵と悟空の猛反対で今でもその家で暮らしている。どうせ父はあの家はお前にあげたものと思っている、という三蔵の弁に八戒はぽかんとした顔をしていたが、恐らく誇張などではなく事実なのだ。

 ゆったりとした歩調で歩いていく八戒に、リーチの差でちまちま追いかけざるを得ない悟空もゆっくり歩くことが出来た。
「ん。」
「? どうしました?」
「いー匂いがする」
 ふんふんと鼻を動かす悟空に、八戒も鼻を利かせたものの、よく解らないようだった。
「お夕飯の時間ですからね、色んなお家のご飯の匂いじゃないですか?」
「ううん、なんか甘くてちょっと焦げた感じの……」
 街灯の下に差しかかると濃い影が二人の下に落ちる。見上げると、八戒の口元から白い息が出ているのに気付いた。ああ、もうこんな季節なんだと思いつく。そういえば八戒はジャケットしか着ていない。手も冷える一方だろう。
 悟空は、自分のバッグを後ろに流しながら、自分の首に巻きついているマフラーを取った。
「八戒、はい」
「え?」
 きょとん、と目を見開いてこちらを向いた彼の首に、ふわりと自分のマフラーをかけた。
「え、でも悟空は……」
「いーよ、俺は大丈夫!」
 そう言って学生服のスタンドカラーを立てて首を縮めてみせた。それに八戒は口元を緩めて、ありがとうございます、とそのマフラーを大事そうに首に巻きつけた。そしてふと顔を上げた。
「……本当だ、甘い匂い」
「だろ! 何の匂いだろ……」
 そう悟空が言うと、八戒は何かにつられるように悟空から離れて、少し先の公園の方へと足を進めた。悟空もその後ろを追う。
「ああ……石焼きいもですか」
「やきいもっ?」
 期待に目をきらきらさせた悟空は、そういえば八戒は家族じゃないんだった、とその表情を引っ込める。幼い頃から本当にべったりだったせいか、幼馴染と言うよりももっと近しい存在のように思えてしまうのだ。幼馴染はものを強請っていい関係ではない。
 そうして両頬をペタペタと叩く悟空を、八戒は少し笑って見ていた。
「……悟空、少し待っていてくださいね」
「え?」
 笑ってそう言い置き、その場を離れた八戒は、そのまま公園内のトラックに向かって歩いていった。
 トラックの後ろでは、小さな子どもと母親が男の人から紙の袋を受け取っている。にこにこしながら去っていく二人の後に、八戒が男の人を呼びとめ、何か話をしている。愛想良く笑った男の人は、手際良く芋を何本か袋に放り込んで八戒に手渡した。
 そしてお金を払っているのをぽかんと見つめていると、白い息を吐きながら八戒は、紙の袋を大事に抱えて悟空の元に戻ってきた。
「お待たせしました」
「え……?」
 にこにことそう言った八戒は、財布をバッグにしまってから、その紙袋をごそごそと開け始めた。そして一本芋を取り出して、それを二つに割った。ほかほかと湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。
 その匂いに、思ったよりずっとお腹が減っていた事に気付いて、お腹に手を当てていると、八戒の手が悟空に差し出された。
「はい。熱いですから気を付けてくださいね」
 差し出されるままに受け取ってしまってから、悟空は戸惑ったように八戒を見上げた。その彼は視線に構わず、あったかいですねぇなどと言いながら腕に紙袋を抱えた。
 もらってしまっていいのだろうか、自分が物欲しそうにしたからわざわざ買ってきてくれたのだろうか。でも今つき返したら、わざわざ買ってきてくれた行為を無駄にすることになるだろう。
 芋を持ったまま悶々として口をつけようとしない悟空に、八戒は不思議そうに問いかけた。
「悟空? お腹空いてなかったです?」
「え、あ、ううん! ……でも、奢ってもらっちゃって……」
 すると八戒は、やっと悟空の変わった様子の原因に気付いたようで、くすくすと笑って自分の首に巻きついたマフラーを少し持ち上げて見せた。
「マフラーのお礼です」
「でも……」
「それから、悟空のキャプテン就任のお祝い、ということで」
 そう言って目を細めて笑った八戒にまた、ぼんやりと頬を赤くしてしまって、俯くことになる。そしてそれを誤魔化すように、ほかほかと湯気を立てるそれに歯を立てた。
「ぅあちっ……」
「気を付けてくださいね、火傷しちゃいますよ」
「ん、でもうまい」
 満足そうな笑顔を浮かべる悟空を見て、八戒も自分の分の芋を口に運んだ。そして何かを思い出したようにくすりと笑う。
「さっきのお兄さんね、一本おまけしてくれたんですよ。優しいですよねぇ、思わぬところで三蔵へお土産が出来ちゃいました」
「……」
 それはみんなにやってるサービスじゃないような気がする……というのは心の中に留めて、悟空ははぐはぐと芋に噛り付いた。
 結局二本目は三分の二ほどを悟空が、三分の一を八戒が食べた。おまけしてもらった残りの一本は三蔵へのお土産になるらしい。それを大事そうに腕に抱える彼を見上げて、少しだけ切ないような気分になった。


 八戒が大人になって、教師になるのは悟空だって望んだ未来だった。だけど、もし彼がここから遠く離れた場所の高校に赴任することになったら、勿論ここには住んでいられなくなるだろう。夏休み、冬休みに帰ってくる程度になるだろうか。教師は思うよりずっとハードな仕事だというから、もしかしたら一人で赴任していった先で体調を崩すかもしれない。そんなことを色々考えると、彼が遠くに行ってしまうのを心許なく感じてしまうのだった。
 日はすっかり落ちて、道路を照らすのはぽつぽつ設置されている街灯と道なりにある家の灯りだけだ。伸びる影の長さは、背の高い八戒と背の低い自分とでもそう変わりない。
「……早く大きくなりてーなー……」
「あはは、すぐに大きくなれますよきっと」
「……背のこともそうだけど」
 きっと八戒だって、教員試験に受かったからといって今後に不安がない筈はない。きっとまた、笑顔の裏に不安も何もかも隠しているに違いなかった。自分はそういうことに鋭いから偶然気付いたけれど、折角気付いても、何かしてあげられるわけではない。大きくなったら、彼を癒してあげられるような、大きな存在になれるだろうか。
「悟空?どうしました?」
「……八戒がさ、もしまた何か、不安になったりしたら、すぐに相談してくれなっ」
「え……?」
 きらきら街灯の光を弾く翠の目が、きょとんとしたように悟空を見下ろしてくる。それに少しだけ得意な気持ちになりながら、頬を指で掻いて、笑ってその長身を見上げた。
「三蔵ほど頼れねーかも、だけど、もし三蔵に言えないこととかあったら俺何でも聞くし、……あーでもまともなアドバイスなんて出来ないけど……」
 言葉を募れば募るほどボロが出ていくようで、ますます決まり悪い気持ちになりながら段々と顔を下げていった。すると八戒が自分の頭上で少し笑ったような気がして、ばっと顔を上げた。
 やっぱり彼は笑っていて。そう、珍しいほどに笑っていて、目尻に涙すら浮かべるほど。
 もしかしなくても間抜けだったか……と落ち込んで肩を落とすと、八戒は焦ったように悟空の肩に手を乗せた。
「ああ……違うんです、悟空を笑ったんじゃなくって」
 また彼は笑った。ふわりと、夜闇に溶けてしまいそうなほど儚かった。
 そして、その長くて細い指がすらりと伸びた手で悟空の頭を、髪を梳くようにしながらそっと撫でてくれた。
「いつだってあなたは僕の支えです」
 そう言って、目を細めて笑う。その、作りものじゃない笑顔が好きだった。
 何かあるごとに八戒は作り笑顔をした。姉の命日、苦手な雨の降る日、誰も一緒にいてあげられない一人ぼっちの夜、そしてほんの稀に三蔵と喧嘩した日。三蔵と向き合っている間は強気の笑顔を崩さない彼が、三蔵がいなくなった途端後悔の念や孤独で押しつぶされそうになる。それでも心配そうに伺っている悟空を心配させまいと浮かべる笑顔がとても痛かった。その目に薄く涙が浮かんでいたりした日にはもうどうしていいのか解らなくなってしまうのだった。
 三蔵と同じにはなれないと解っている。自分では八戒の中の三蔵のポジションを埋めることは叶わないのだ。だけど三蔵よりも八戒の力になれる瞬間が少しでも多くなるのを望んでいる。……いや、そんなに大層なものではない。ただ彼の本当の笑顔を少しでも沢山見たかった。
 たとえ、次の瞬間彼は三蔵の腕の中にいるのだとしても。

「八戒、すき」
「え?」
「好きだよ」
「……はい、僕も好きですよ」
 こんな風に簡単に好きだと返してもらえる程度の間柄でしかないけれど。
「だいすき」
「僕もです」
 三蔵と八戒がずっと一緒なら、三蔵の従弟の自分もいつまでも八戒といられるだろう。それだけが唯一の救いで。何だかそんなことを考えたら、ただでも寒いのに余計に淋しく、寒く思えた。ぶるり、と身震いをすると、八戒が心配そうに問いかけてくる。その優しい視線が何だか悲しいような気がして、でもすごく嬉しいような気もして、少しだけ泣きたくなった。
 三蔵も大好きで、八戒も大好きだから、ふたりが寄り添って幸せになってくれるならそれ以上の幸せはないはずなのに。どうしてもこの自分の手で幸せにしたかったと思ってしまう。
 それは初めて八戒を見た日からずっとの想いだ。三蔵の父に連れられてきたのは自分よりちょっと大きいくらいの、折れそうなくらい細い少年。顔は幼心にもどきどきするほどに整っていた。光に当たればきらきらと輝くはずの甘い色をした瞳は、伏せ目がちになった瞼から流れる長い睫毛の影が掛かってぼんやりと暗かった。さらさらと揺れる前髪越しの目は、もう何も映す気がないというように下向きで、いつも足元ばかり見ていた。
 あのきれいなひとの笑顔が見たい。ただそう思って。笑顔は得られたけれど、結局本人は三蔵に取られた形。
 それでも笑っていてくれるのならそれでいい。自分が我侭を言って彼の笑顔を曇らせることより、ずっと。

「……やっぱり、八戒うちの学校に来ないかなぁ〜」
「え?どうしてです?」
 クスクス笑いながら返事をする八戒に、何だかよく解らない笑みが浮かんでくるのを感じながら、笑って隣を歩く、ずっとずっと欲しかったそれを見上げた。
 ずっと欲しかった笑顔だ。
「八戒がどんな風に先生するのか見たいー」
 三蔵だってきっと見られない教師としての彼が見られる。三蔵に譲る形になっても、三蔵は知らない八戒の姿を少しでも知りたい。
「あはは、悟空が生徒の中にいたら緊張しちゃいますねぇ。授業中笑っちゃいそう」
「なんで?」
「何でだろう、よく解らないですけど、悟空を見ると何だか嬉しくなっちゃうんです。不思議ですね」
 その言葉に、かっと頬が火照る。街灯の下じゃないから彼には見えていないはずだけど、多分気付かれてしまっているのだろう。その証拠に隣でまだ八戒はクスクス笑っていた。
「…………早く大人になりてー」
「えー、悟空にはまだ子どもでいて欲しいなぁ」
「え、なんで?」
「悟空は大人になったら、どこへでも行っちゃいそうですもん。暫く子どものままでいて欲しいです」
 そう言った後、大人の我侭ですね、と付け足して、クスリと笑みを漏らした。
「……そんならもうちょっとだけ子どもでいるー」
 そう言って、細い八戒の左腕に抱きついてみる。ちょっと怒られるかもなんて思ったけれど、彼はちっとも怒ることなく悟空の頭をふわりと撫でた。
「悟空がいなくなったら淋しいですもん」
 そう、まるで嘘には聞こえない口調で言われて、頬が熱くなる。ノリでしがみ付いたはずのその腕から離れるのが惜しくなって、一層強く抱きついて、腕に頭をぐりぐりと寄せた。
「おや、今日は一段と甘えんぼうですね。何かあったんですか?」
 そう言われたってどう返していいんだか解らない。
 傍にいられるなら子どものままだっていい。傍にいられなくてもいいから、“三蔵の従弟”じゃなく“一人の男”として見て欲しい。どちらの決断をするのもまだ怖いから、結局子どものままでいることしか出来ない。実際まだ子どもなのだろうけど。
「……んーん、なんでもない。」
 何もない。そう、何もないのが辛い。

「八戒、好きだよ」
「……ありがとうございます」
 これだけ何回も言ったら流石に八戒も変に思うだろうか、と一瞬不安に思ったが、一気に色んなことを考える余裕のない悟空の頭は余計なことを考えるのを止めた。
 好きなのは事実で、そして悪いことじゃないはずだ。きっと三蔵だってそれは気付いていて何も言わずにいる。許されているのだ。

 あともう少しだけ、子どもでいていいだろうか。
 きれいな夜空の下で見る、ずっと望んでいた笑顔に、目の奥が少しだけツンとした。









2005/10/13