八戒は女性らしいわけではないが、特に男らしくはない(性格のことは置いておいて)。三蔵と初めて出会った時も確かにきらきらしていて綺麗だと思った記憶はあるが、彼の綺麗さとは逆方向を向いていた。時折無性に懐かしいような気分に駆られてこうして甘えたくなる。甘やかして欲しいわけではなくじゃれ付きたいだけだった、きっと甘やかされたら情けなくなってしまうから。それを汲み取ったように彼は本に視線を落としたまま動かない。しかし時折思い出したようにその白い指先が悟空の髪を梳いて、地肌を撫でる。ベッドの上に座って本を読んでいる彼の腿に頭を預けて寝転んでいた悟空は、大きな目を瞬かせて仰向けになった。文庫本越しに穏やかな翠を湛えた眸と視線がぶつかる。あのさ、と話を切り出してみると、彼はその眸を二度瞬かせて小さく首を傾げた。時々彼がするその仕草に何だか少し不思議な心地を覚えた。しかしその違和感を振り切るようにして口を開いた。
「八戒って、悟浄のこと好き?」
「好きですよ」
 即答出来るほどに彼らの関係は濃い。これだけ付き合っていれば嫌でも分かることだった。悟浄が何を言わなくても八戒は悟浄の心が透けて見えているようだし、自分や三蔵には分からない八戒の変化も悟浄だけは直ぐに分かってしまう。二人にとって、お互いが一番心地の良い存在であるようだった。割って入る隙など見当らない。あの二人に割って入ろうとする物好きは、そういないだろうが。
「じゃあ、三蔵のことは?」
「……さあ、どうでしょう」
 即答出来ないほどに彼らの関係は難しい。三蔵は(多分)八戒が好きだ。それを八戒はのらりくらりと躱してばかりいる。受け入れてしまってそういう関係になるのが嫌なのか、否か。悟空には彼の考えることが分からない。微妙な表情をしている悟空を見て、八戒は小さく笑い声を漏らした。そしてその少し冷たい指先で悟空の鼻先を突付く。彼の手はいつも冷たい。
「じゃあ悟空は、悟浄や三蔵のこと、好きですか?」
「んん……まぁ……好き、かな。別に嫌いじゃないよ」
「あの人たちにも聞かせてあげたいですねぇ」
「ちょっ、止めてくれよもー……」
 そんなことをばらされたら三蔵は渋い顔をしそうだし(いつものことだが)、悟浄に至ってはいつまでもからかうネタにされそうだ。本当に嫌そうな顔をする悟空を見て彼はおかしそうに笑う。そしてますます顔を顰める悟空に、少しやりすぎたと思ったのか「ごめんなさい」と笑い混じりに言った。彼の指先が額を掠めてくすぐったかった。もぞもぞと身動ぎをして、頬を彼の腿に摺り寄せる。少し甘いような彼の匂いがした。何だか落ち着かない気分になって緩く息を吐く。
「悟空のことも好きですよ」
 ちろり、と顔を上げた。彼の穏やかな眸が静かに見下ろしている。その目に宿るのが真実なのか建前なのか。彼の仮面は完全すぎて、簡単には見通すことが出来ない。じっとその底の見えない翠を暫く見つめていた。しかし全く真実は見えて来ず、逆に居た堪れなくなって顔を逸らした。彼の笑顔は、周りを必要以上に寄せ付けないための壁だ。悟浄の前では簡単に崩れ去るその壁がまだ自分の前ではあるというのが何だか苦しい。何だか心がもやもやして、どうしようもなく苦しくなったものだから、深く呼吸をしてぎゅっと顔を顰めた。
「……わっかんないなぁ」
「何がですか?」
「んー……どうしたら八戒がさ、俺のこと、三蔵とか悟浄みたく見てくれるのかなあって」
 そう、とりあえず頭の中でもしっかり纏まらぬままに口にしてみると、八戒は驚いたように目を見開いた。そしておかしそうにころころと笑い出した。何故笑われたのか原因に咄嗟に思い至らなくて、悟空は目を瞬かせる。彼が笑うのに合わせて少しだけ腿が揺れ、頭がずり落ちそうになって慌てて腕で身体を支えた。
「どうしたんですか? そんなこと……僕に手のつけられない悪ガキだと見て欲しいんですか?」
 そんな風に思っていたのかと呆れ、しかしそれも事実だ、と悟空は溜息を吐いた。以前彼等が二人きりになった時にも大変だったという。しかし、手をつけられないとは言ったものの、唯一あの二人の諍いを一睨みで止められるのはこの男に他ならない。それはまるで教師の前に立たされた不良二人のようなものだ。
「だけど、二人みたいに大人扱いはしてくれないだろ? それは、俺にも原因があるんだろうけど、分かってるんだけどさ」
「今はもう、子供扱いをしているつもりはありませんよ?」
「んん……でもやっぱり何か違う」
 子供扱いをされているのとは少し違う。踏み込ませて貰えていないのだ。悟浄の入っていける範囲と、自分の入っていける範囲の差が何だか面白くない。ふくれっ面をしていると、八戒はくすくす笑いながら悟空の膨れた頬を指先で徒に突付いた。空気のぱんぱんに入っていた頬を押され、ぷすんと息が漏れる。思わずそんな悪戯を甘受してしまったが、こういうことだ。こういう行為が何となく子供扱いされている気分にする。踏み込ませて貰えない。
 彼は子供だからと、悟空に対する時に特別の顔を用意している。物分かりの良い温厚な大人の顔。悟浄の前で見せる若者らしいひねたような態度やくすぐったそうな表情、三蔵の前で見せる悟空には踏み込めない過去を回想する顔。どれも自分のものにはならないのだ。これを無理に強請ってしまえばますます自分が幼く見られるだけだと分かっている。だから黙っていた。けれどそれを完璧に続けられるほど自分は大人ではなかった。本音と建前を使い分けるだなんて高度なことは出来そうにない。しかし、本音を包み隠さず伝えられるほどには幼くはなかった。

 結局何も言えずに黙りこくった悟空をそっと見下ろして、八戒は小さく笑った。そして掌でそっと少し硬質な明るい髪を撫でる。悟空は軽く目を細めて、そのままその目を八戒へと向けた。それを彼は穏やかに受け止めた。その目は優しいのに、やっぱりどうしても勝てる気がしなくて悟空は先に目を逸らした。
「確かに、大人扱いはしていないかもしれませんね。だけど、いつもあなたには勝てないような気がしてしまいます」
「え?」
 八戒の言うことはいつも難解だ。悟空は咄嗟にその言葉の意味を考えてしまい、言葉に詰まる。それを静かに見つめる八戒の目が、思った以上に真剣で息を呑む。
「……どういうこと」
 素直に答えてみた。
「そのままですよ」
 はぐらかされた、ようにも思えた。しかしそうではないことは、その目を見ればすぐに分かった。
「あなたにかかれば、僕なんて塵のようなものの気がするんです」
「八戒は塵じゃないだろ」
「え?」
「塵がそんなに綺麗だったらさ、誰も掃除なんてしないじゃん」
 そう言えば彼はきょとんと目を瞬かせて、次の瞬間おかしそうに笑い出した。何故笑われるのか分からずにそのまま居心地悪く寝転んでいた悟空は、唇を尖らせて軽く八戒を睨み上げた。するとその視線に気付いたのか彼はゆっくりとその笑いを収めて、再び幼子にするように頭を撫でた。
「悟浄も、三蔵も、あなたにはきっと勝てませんよ」
「何が?」
「内緒です。……気付かない方が、あなたらしいですよ」
「? ……わっかんねえの」
「少しくらい分からないことがあった方が人生楽しいですよ」
 更に唇を尖らせる悟空に、八戒はそう食えない笑みを浮かべて言う。悟空にしてみれば、自分こそ八戒には勝てない気がするのに。知識も経験も、差がありすぎて悔しくも思えない。おまけに彼は綺麗だ。その綺麗な顔で微笑まれるだけで、白旗を上げてしまうことだってあるのに、一体何で自分が彼に勝っているのだろうか。それくらい教えてくれてもいいのに、今日の彼は何だか子供染みて意地悪だ。
 身体を起こして彼に顔を近づける。静かに微笑んでいた彼が、僅かに怯んだように表情を変えた。
(いつもだけど……何でそんな顔)
 自分が知っていることなんてこのくらい。こうして顔を近づけて、じっと目を見つめれば八戒は動けなくなること。
「教えてよ、知りたい」
 知りたいことはまだまだたくさん。子供の興味には際限がない。







2007/06/18