油蝉が鳴いている。その鳴き声が耳から無理矢理注ぎ込まれて頭の中を掻き回されるようだ。酷く耳障りで、それでも夏を感じさせて止まないその響きに、あの暑い日の記憶が蘇ってくる。黒い服を着た大人が大勢やってきて、腫れ物に触れるように自分たちに接して来たあの日の事。慣れない黒い服を着せられ、熱い日差しの真下で汗に湿った幼い弟の手をじっと握り締めていた。眩暈の中で見たのは黒く縁取られた幼い妹の満面の笑顔だった。それが眩暈だったのか陽炎だったのかは分からない、しかし、視界の中でゆらりと歪んで見えたその笑顔が酷く哀しくて、ただただ泣いていた事だけがリアルに思い出された。
 黒髪がじりじりと直射日光に炙られる。土が熱される噎せ返るような匂いと線香の匂いに、まるで過去に逆行したような錯覚すら覚えた。じっと、墓石の前でしゃがみ込んで手を合わせていた天蓬はそっと目を開く。そして隣に同じようにしゃがみ込んだ少年の横顔を見つめた。掌を合わせてじっと俯いている姿はまるで祈るようだ。彼は一体今何を祈るのだろう。十年も前の彼ならばきっと願う事は一つである。しかし成長した今、彼が一体何を思うのか知りたかった。しかしどれもこれも、彼の心の中に沈めておくのがいいだろう。無理に聞き出すつもりもなかった。耳元に擦り寄せられる控えめな感触にふと我に返って顔を上げた。自分の肩に留まり、顔を天蓬の頬に擦り寄せていた白い仔竜に微笑み掛けて、その背を優しく撫でた。その紅い目は心配そうに天蓬を見つめている。安心させるようにその顎の下を指先で擽る。そして視線を元に戻し、そっと彼の左肩に掌を乗せると、ぴくりと強張ったような反応を返した。ゆるりと上げられた瞼の下から夢見るような眸が覗く。その目はゆっくりと周囲を見渡し、最後に天蓬を捉えて一度大きく瞬きした。
「平気ですか」
「大丈夫です」
 そっと微笑む弟の顔を見て、もう一度その肩を叩いてから立ち上がった。くらりと眩暈のようなものを感じたが一時的なものだろう。緩く首を振って溜息を吐いた。背中に汗を感じて少し不愉快に思いながら再び息を吐いた。それに遅れて弟の八戒もまたゆらりと少し危なげな様子で立ち上がった。そして辺りに散らばった新聞紙や袋類を拾い集め始める。それに倣って天蓬も水桶と柄杓を持ち上げた。そしてどちらからともなく墓を後にした。真新しい花が供えられ、ゆるゆると線香から煙が立ち昇っていくのを名残惜しげに見つめていた八戒は少し遅れて天蓬の後ろをついてくる。
「今年もいい天気でしたね」
「……はい」
 その沈んだ声に一瞬戸惑ったが、振り返るのは止めた。そのまま前を向いたまま歩き続ける。これは十一年前から毎年続けられている事だった。十一年前の夏の日、強い夕立ちの中。歩道に突っ込んできた一台の乗用車に妹が轢かれて亡くなった。隣にいた弟の八戒を突き飛ばして、死んだのである。命に別状はなかったもののタイヤに足を轢かれ押し潰された八戒は今でも後遺症があり、歩く時に少しばかり右足を引き摺る。その動きの鈍い足の重みはきっと絶える事なく妹の最期の顔を思い出させるのだろう。妹の事で動転してしまい弟を気遣う余裕もなく、血塗れになった妹を抱き上げて狂ったようにその名前を呼んでいた自分には分からないような痛みだ。強い雨で妹が出した血は流されてゆき、自分たちの周りに大きな血溜まりを作った。アスファルトに転がって雨に打たれた妹のピンク色の傘。青白くなっていく妹の顔。薄く開かれた瞼から覗いた眸。妙にカラフルで鮮やかなその記憶は、十一年経った今でも褪せる事なくあの強い雨の音と共に二人の心の中にあった。
 八戒は自分の比ではないはずだ。双子の姉が自分を庇って目の前で轢き殺されたのだ。当時彼らはまだ七つだったというのに、それから今まで、彼が涙を零すところを見た事がなかった。泣け、とは簡単に言えなかった。泣かない事で、彼が何かを堪えているはずだから、そうして幼い心に刻み込まれた大きな傷を一人で庇っているからだ。成長した今でもきっとその傷は塞がることはない。彼の心から流れ続ける血を止める術を自分は持たなかった。ならば不用意に触れて酷くするような真似だけはしてはならない。
「八戒は先に帰ってなさい。僕は本堂に行って挨拶して来ますから」
「え……でも、僕も一緒に行き」
「駄目です。あなたはただでもおかしなものに好かれやすいんだから早く帰りなさい」
 ただでさえ精神的に弱っている時には漬け込まれやすいのだ。墓場など、特にあまり長く置いておきたい場所ではない。でも、とまだ食い下がり横に歩いてくる弟を見つめて困ったように眉根を寄せると、彼は自分の我儘を恥じるように瞼を伏せた。立ち止まり、落ち込んだように俯いてしまったその頭をそっと撫でた。
「あなたが心配だから言うんです。去年のような事にはしたくないから」
「……はい」
 渋々という様子で口を開いた八戒は、それでもしっかりと頷いた。それを確認してまた歩き出す。墓場を出て本堂の前の駐車場へ出る。するとがらんとした駐車場にでんと鎮座したブラックに近いバイオレットの外車に思わず目が留まる。物珍しかったからではない。それが見知った人間の乗る物と同じだったからだ。しかし珍しい外車とはいえ他に乗っている者がいないわけではないだろう。だがその迷いは一瞬にして断ち切られる事になる。運転席のドアが開き、運転手が姿を現したからだ。後ろを歩いていた八戒が呟くようにその名前を呼ぶ。
「三蔵さん」
 車から出てきた男は玄奘三蔵と言った。眩いほどの金糸の髪を持ち、射抜かれるような鋭い光を持つ紫電の眸を持つ。その鋭い眸が天蓬と八戒を捉えて、ついと細められた。黒いシャツにグレーのジーンズというラフな格好で彼はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。自然、二人は足を止めてその男がやってくるのを待った。ともすれば柄の悪い不良にも見えかねないと言うのに、不思議な品を持った男だった。やってきた男はゆっくりと天蓬と八戒とを見遣ってから、天蓬に向き直った。
「……終わったのか」
 何を、とは男は言わなかった。天蓬もまた聞き返す事なくその問いに静かに頷く。何かを探るようにじっと天蓬を見つめていた彼は、納得したように暫く経ってから小さく頷いた。彼の無表情はいつも一体何を考えているのか分からない。だから自分には彼がいつも少しだけ怖くて、苦手だった。そんな戸惑いが顔に現れたのか、少し目を眇めて天蓬を見つめていた彼はそれでもすぐに追求の視線を止めて、口を開いた。
「八戒は連れていくぞ」
「ええ、お願いします」
 八戒は少し不安げに天蓬を見上げただけで何も言わなかった。すぐに俯き、三蔵から差し出される手を素直に取って歩き出す。三蔵に手を引かれるがままに連れて行かれるその姿があまりにも淋しげだったので、天蓬は思わず苦笑いしてその後ろを小走りに追い掛けた。そしてその頭をもう一度撫でて、自分の肩に抱き寄せて宥めるように軽くその頭を叩く。何も言わない。自分から彼に伝えられる言葉はなかった。しかし、こうしているだけで何か伝わるものがあると信じたかった。少し驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせた八戒は至近距離からじっと天蓬を見つめてくる。それから目を逸らす事もなく見つめ返して、数秒。彼は力が抜けたように小さく笑った。それを見て天蓬も漸く笑う。
「連絡するまで、三蔵さんのうちでお世話になっていなさい。……三蔵さん、八戒をお願いします」
「ああ。お前も」
 気を付けろ、とは言わない。それが彼だった。その分かりにくい気遣いを受けて天蓬は微笑み、彼に向かって頭を下げ、名残を惜しむようにそっと八戒から離れる。そして淋しげな目をする彼に微笑みかけてから、二人に背を向けて本堂に向かって歩き出す。八戒は、三蔵と一緒ならきっと平気だ。一人でいると鬱々と沈み込んでしまう彼だが、誰か傍にいてやれれば大丈夫だろう。しかしその立場にあるのは自分では駄目なのである。一緒に落ち込んでしまっては意味がないからだ。今日は八戒の傍にはいられない。彼を追い返したのも、寧ろその理由が大きかったのかもしれない。彼の顔を見ていられなかったから、一人でいたかったからだ。弟のために、と口先ばかり立って、なんというざまだ。
 様子のおかしい天蓬を見つめて、主人想いの仔竜はきゅう、と肩の上で心配そうに鳴いた。顔を上げ、その顔を暫く見つめていた天蓬は仔竜を肩から自分の腕に乗り移らせて、八戒のところに行っておやり、と小さく囁いた。その言葉に仔竜は天蓬の顔と、車の方へと歩いていく八戒とをその長い首で忙しなくきょろきょろと見つめていたが、八戒が車のドアを開けて乗り込んでしまいそうなところを見て慌てて天蓬の腕を飛び立っていった。ぱたぱた飛んでいった仔竜が無事に車の中に入れてもらえたのを見届けた後、天蓬は小さく頭を振って再び歩き出した。
 角を曲がり、彼らの視界から消えたところで漸く深く息を吐いた。ネクタイを少し緩めて再び頭を振る。そして、玄関の脇にある水場で水桶と柄杓を片付けてから本堂へ上がった。しんとした空気と畳の匂いに少しだけ安心した。そして住職に会うべく歩き出す。一歩踏み出す度に柔らかく畳が沈んで、キシと音を立てた。


『花喃、花喃!! 目を開けて、花喃!!』


 昔から世話になっている住職に挨拶を終えて本堂を後にする。それだけの事で天蓬はすっかりへとへとになってしまっていた。このところ碌に眠っていないせいだ。それに加えて元から天蓬も八戒も食が細い。きっと今頃八戒は三蔵からこれでもかと言うほどの持て成しを受けているに違いない。そして久しぶりにゆっくりと眠ってくれればいい。彼が束の間の休息を得られる場所が、自分の隣でない事は少し哀しいとも思えたが、それも仕方がない事だ。靴を引っ掛けて玄関を出ると、眩しい日差しが容赦なく差し込んでくる。つい自然と俯き加減になる自分が何だか情けなかった。どうしてなのか、彼女の命日は毎年こうして苦しいほどの快晴になる。あんなに強い雨の日に亡くなったというのに。まだ七つの女の子だった。少し体の弱いところはあったけれど外に出るのが大好きで、夏には花火大会に出掛けるのを楽しみにしていたのに。
 夏は哀しい季節だ。ゆらゆら揺れる陽炎の向こうに、あの子が笑って立っているような気がするから。

 日差しの中、陽炎を見たくなくて俯きながら一人ふらふらと歩く。俯いていたせいで直前まで気が付かなかった。俯いた視界に黒く短い影が広がっているのに気が付いて漸く天蓬は顔を上げた。そして目の前にいたそれを視界に捉えて安堵の息を吐く。グレイのワイシャツにブラックのパンツ姿で黒のセダンに凭れるようにして立っていた男は、天蓬を見てサングラスを少し下げ、ひらりと手を振ってみせた。その少し凶悪な笑みと彼を中心に広がる空気に、すっと胸の苦悶が和らいだ。
「はァ〜い、そこのお兄さん、ヒマ?」
 そう、気の抜けるような挨拶をくれた男はそのままつかつかと天蓬の方へと歩み寄ってきて、不躾にもずいっと無遠慮に顔を覗き込んできた。先程の三蔵の気遣いとは天と地との差がある対応だ。しかしその明るさと少しばかりの強引さが、今の天蓬には有り難かった。至近距離からじっと見つめてくる黒い眸に思わず笑みが漏れる。
「大丈夫?」
「……ええ、大丈夫です。迎えに来てくれたんですか」
「いんや、ちょっとナンパに。お兄さん、これから一緒に食事でもどう? ……とね」
 茶化した言葉に思わず噴き出すと、彼は満更嘘でもないのに、と少し拗ねたように唇を尖らせた。それも彼の格好だ。ふざけた振りをしてこちらの緊張を簡単に解いてくれる。寺でナンパですか、と笑えば、彼はにやりと笑って天蓬の頭をかいぐり撫でた。そして助手席に回り、ドアを開けてくれる。ここまで気が回るのに、その気遣いを男にまでするところがおかしい。そう思いながらも有り難くその助手席に収まると、その武骨な手に似つかわしくない優しい動作でドアが閉められた。シートベルトを締めていると、ぐるりと車の前を回った彼が運転席に戻ってくる。どさりと腰を下ろし、先程とはうって変わってバタンと大きな音を立ててドアを閉めた。車の中は外の音が遮断されてしんとしている。外ではあんなに油蝉が鳴いていたのにそれもまるで嘘のようだ。静かな車内では自分が足を動かして膝が擦れ合う衣擦れすら耳に付いた。彼は前を向いたままステアリングに腕を凭せ掛けている。待ってくれているのだ、と思った。掌を、膝の上で手持ち無沙汰に擦り合わせる。
 彼が言葉を躊躇って漏らす吐息に少し身を硬くした。
「……何年目だっけ」
「十一年。……早いものですよね」
「早かねえよ」
 少なくとも。そう言って彼はゆっくりとした仕草でサングラスを外した。そしてその黒の眸で真っ直ぐに天蓬を見つめてくる。
「お前たちにとったら決して早くなかったはずだ」
 サングラスをケースに仕舞うその手を目で追いながら、確かにそうだと納得した。それに、たとえ自分にとって短かったとしても八戒にとっては長い長い年月だったに違いない。自分を庇って亡くなった姉を思いながら、本当なら彼女が歩むはずだった人生を一人歩んでいるのだから。あの日終えられるはずの彼の人生は、彼女の腕の一押しで捻じ曲げられた。その事がどれほどの人に大きな痛みを残した事か。あの子の事は責められない。しかし、口惜しく思ってしまうのである。どうして、自分が庇ってあげられなかったのか。未来のある双子をどうして助けられなかったのか。生きていれば、彼女も八戒と同じ、十八歳の少女になっているはずだった。仲の良い双子が、揃って高校を卒業するところを見られるはずだったのに。
「後悔は尽きないですよ。今でも、あの子の代わりに僕が死ぬべきだったと思う事があります……けど、八戒は僕の比ではないでしょう」
 事実、彼は彼女に庇われてその命を永らえたのだ。彼女が命をかけて救った自らの命を断つ事も出来ず、自家中毒を起こして、ああして少しだけ屈折した子供に成長してしまった。泣く事も出来ず、我儘を言う事も出来ず、全てを内に溜め込むようになってしまった。それを天蓬はどうにも出来ないのだ。その心に触れる事すら出来ない。似たような状況にありながら、自分たちは決して同じ痛みを共有出来ないのだから、仕方のない話である。
「八戒は三蔵のところに預けたのか」
「こういう気分の時は質の悪いものが近付きやすいので。三蔵さんのお宅ならお寺さんですから強固な結界が張られていますし、何かがあってもいつでも対応出来る術者が傍にいれば安心でしょう」
「あっちを一としたらお前はその一億倍は危険なのを分かってるのか、いや」
 一億じゃ足らねえかもな、と呟き、彼は自分の顎を指でなぞった。
「お前を一人にしておくのは本当に気が気じゃない」
「すみません」
 彼、捲簾は、高校時代からの友人だった。霊媒体質であり、男としては珍しい強大な巫力を持つ天蓬に対して、彼は強力な破魔の炎の力を持つ少年だった。彼の傍にいるだけでちょっとした悪いものは近付いて来られないのである。彼の傍に近付いて胸の苦しさが取れたのはそのおかげだった。何かある度彼に迷惑を掛けてしまう事を心苦しく思わないわけではない。しかしその彼が、天蓬が気を遣うと何を馬鹿な事を、と怒るのだから仕方のない話だ。そうしてずるずると、もう九年になる。これは依存と言えるのだろうかと数え切れぬほど思案したが、その思考は何故か悉く彼に読み取られてしまい、その度に怒られた。心を読む能力でも備わっているのではないかと思うくらいに、彼は天蓬の目を見るだけで簡単に考えている事を言い当てる。それはもう都合の悪い事のあった後には彼の目を正面から見つめられなくなるくらいに。
「迎えに来てくれたって事は、これからまた出張ですか」
「いいや、今日は本当に食事に誘いに来ただけ。そして今日までの分十分に眠らせろ、とボスからのお達しだ」
「おばさまが」
 彼の言うボスとは彼自身の母親であり、二人の所属する組織のトップである。誰も勝てぬその強烈な迫力ある笑みを思い出して苦く笑った。彼の能力は母譲りなのである。その幾らか強引な優しさもそっくりだった。小さく笑って頭を掻く。
「ありがとうございます。でも僕、今本当にお腹空いてなくて……」
「何日だ?」
「え?」
「何日まともな食事を摂ってないんだ」
 車のエンジンが掛かる。僅かな振動を感じて顔を上げれば、こちらをじっと見つめている彼と視線がかち合った。その意志の強そうな眉がひくひくと動いている。限界も近そうだ、と早々に諦めて天蓬は口を開いた。
「ほんの三日ですよ、三日前にちゃんと定食を食べました」
「偉そうに言えた事か! ったく、俺が少し目を離すとすぐこれだ……」
 彼は四日前から出張で日本を離れていた。四日前は彼が作り置きしていった食事を摂り、三日前も言い付けを守って馴染みの定食屋で食事を取ったが、それ以降はとても食べられる状態ではなかった。どうせ食べても戻すのなら食費も無駄だし食べなくて構わないと思ったのだ。それでも八戒は無理をして何とか少しだけは食べていたようである。しかし天蓬はこの暑さも食欲減退に拍車を掛けて、一切の食事を三日間断っていたのだ。
「美味い梅粥を出す店がある。そこでいいな」
 それでも気を遣ってくれているようである。天蓬は返事をしなかったが、彼はそのまま車を発進させた。走り出した車は段々墓場から遠ざかっていき、捲簾が傍にいる事で幾分楽になっているとはいえあまり長居したい場所ではなかったので、ほっと安堵の溜息を漏らした。真正面を見つめたままの彼がそれをどう思ったかは分からないが、少し不機嫌そうに歪められた口元が彼の心情をそのまま表していると取ってまず間違いないようだ。
 そんなに怒らなくても、と思うのも致し方なかろう。とはいえ、彼が本気で自分を心配してくれているというのもまた事実であり、感謝もしている。彼とて香港出張から帰ったばかりでそう楽ではないはずなのである。
「あなたもお疲れなんじゃないですか」
「まあな……流石に今回はお前抜きだと骨が折れた。飯は美味かったけどな」
「すみません、僕の体調が良ければよかったんですけど」
「誰もこの時期のお前に期待しちゃいねえよ」
 他者が聞けば素気無いとも皮肉とも取れる発言だったが、重ねた年月のある二人の間ではそんな事も言葉遊びの一種だった。捲簾の本音はその言葉の中ではなく、その柔らかで気遣わしげな語調の中に宿ってしっかりと伝わっていたし、天蓬もまたそれを確かに受け止めていた。寧ろそれが優しすぎて擽ったいと思っている。自分が受けるにはあまりにも温かくて優しい感情に、居心地の悪さすら感じるのである。
「そのうちまたちゃんと働けるようになりますから」
「そのためにもちゃんと食って寝ろ。八戒はどうせ心配ねえから当分三蔵に預けとけ。お前はマンションだ」
 彼の言うマンションとは、彼の実家である屋敷とは別に彼が借りているマンションの事だ。実家にも勿論部屋があり、仕事で詰めている時などはそちらに泊まる事も多いのだが、一人の時間を過ごすときには専らそのマンションを使っていた。天蓬がよく出入りするのもどちらかといえばそちらである。殆どの大きな荷物は実家にあるため、あまり乱雑な印象は受けないその広いマンションは大きなベッドがあった。使う比率はというと捲簾より寧ろ天蓬の方が多そうだ。隙間なく結界が張り巡らされ、最も落ち着ける捲簾の気配に満ちたその空間はそれ以上なくリラックス出来る空間だった。
「でも、あなたも眠りたいでしょうに」
「一緒に寝ればいいだろ。……心配しなくたってちょっかいなんて出さねえよ」
 喉を鳴らして笑う彼を見て、その顔色があまり良くない事に気が付く。目の下に浮き出た隈にその疲労の濃さを窺い知る。普段あまり掛けないサングラスの理由に思い当たって、俯いて自分の膝頭を見つめた。自分より彼の方が余程辛そうに思えるのだが、とは思ったがそれは口に出さない事にした。昔から彼は自分が優位に立っていなければ気が済まないのだ。そう言ってしまえば、彼がどこか子供染みた、我儘な男と思われてしまうかも知れない。しかし実際はそうではない。彼はいつも自分は守る立場にあると刷り込まれてしまっていた。だから、いつでも自分は天蓬よりもコンディションがいい状態でいなくてはならないと思っているのだ。その覚悟が痛ましいほどだった。
 申し訳なくて、哀しくて、しかし既に諦めてもいた。その過保護を跳ね除けるため、強くなりたいと願ってから九年が経つ。しかし彼は自分を守るのを止めようとしない。一体彼はいつまで親鳥でいるつもりなのだろうか。
 彼の隣に並びたい。いつまでも背後に隠れていたいわけではない。





 それは、高校の入学式から数ヶ月が経ち、浮ついていた新入生たちも落ち着き始めた頃だった。様々な中学から集まってきた生徒たちがそれぞれ友人を見つけて固まり始める、その時期になっても一人でいる生徒というのは大概、周りから浮いていて暗い奴だと影口を叩かれるものだった。しかし隣のクラスに在籍している男子生徒はそういった地味な連中とはまた違った一種異様な雰囲気を纏っていた。中間考査では当然のように満点で首位を取り、かと言えば授業中はぼんやりと窓の方ばかりを眺めているという。休み時間は一人静かに席に座って本を読んでいるか眠っているかのどちらか。昼は碌に食事も取らずに図書館に入り浸っている。孤立している、というよりも一人でいる事の方が自然な男だった。話掛けられればそれなり、温厚に受け答えもすれば微笑みもするし、親切な面もある。しかしそれ以上の深入りをする事はなく、特別深く付き合っている友人もいないようだった。友人たちとの会話の中で変わり者だと聞けばその男に多少の興味も感じたが、結局はそこまでだった。同じクラスであるわけでもなし、部活や委員会などで付き合いがあるわけでもない。その会話が終わればすぐに、そんな地味で付き合い辛そうな男の事など、すっかり意識の外に追い遣られてしまっていた。
 一度、隣の教室の前を通った時に、その男の姿を見た事があった。半端に長い黒髪に、黒縁の眼鏡を掛けた如何にも優等生然とした容姿の男だった。噂に違わず彼はぼんやりと窓の外を眺めており、しかし、その目は確かに虚空ではなく何かを捉えているように思えた。
 後に自分たち二人の事を、“惹き合わされた”と評したのは誰だっただろうか。全く、寝言を言うんじゃない。

 嫌な巡り合わせである。今思えば不自然なまでに友人とのスケジュールが合わなかった放課後の事だった。その日、自分にしては珍しい、早い時刻に帰路に就いていた。通学路の川沿いの道を進むと、遊具の並ぶ児童公園の前にすぐ目に入る大きな桜の木がある。樹齢の長いそれは昔から嫌な気を放つ木ではあったが、その道が学校から帰るのには最も近道なのだった。このところ学校から直接家に帰るという事はなかなかなかったため、久々に感じるその圧迫感にも似た気に憂鬱な気分になった。自然足取りも重くなる。その木は誘蛾灯のようなもの、行き場を失った魂や雑魚霊などを勝手に惹き付けてしまう。それ故、昔からその木の周辺で子供が神隠しに遭う事が多々あった。その度自分の家に出入りしている大人たちが尽力していたのを知っている。一旦立ち止まり、何かあった時のためにと嫌々普段から制服のポケットに捻じ込んでいる呪符の存在を掌で確かめてから再び歩き出す。雑魚程度ならば捲簾にとっては腕慣らしにもならないが、捲簾はそんな自分の能力が疎ましくて仕方がなかった。
 母から継いだこの力があるせいで、否応なしに幼い頃から修行を強いられ、今はアルバイトという名目で実際の仕事を任されていた。いい加減、家の呪縛から逃れて普通の男子学生として生活したかったのだ。学校を休んでまで出張をしなければならない事もある。仕事があればデートや遊ぶ約束もキャンセルせざるを得ない。そんな生活には我慢の限界だった。しかし目の前で誰かが霊に取り憑かれていればそれは気になるし、今にも害を与えられようとしていればそれを阻止しなければと思ってしまう。それは普通の思考であろう。しかしそんな捲簾の良心に母親はつけ込んでいたのである。家の事は友人たちにはひた隠しにしていた。学校にいる間だけでも、普通の一人の少年でいたかったからだ。きっと学校を出る歳になれば、家に出入りしている大人たちと同じように齷齪働く事になるのだろう。一生、家とこの能力に縛られたまま。
 だからなるべく、おかしなものとは関わり合いになりたくないのだ。心霊スポットと言われるような場所にはなるべく近付かないようにしたし、同情に引き摺られないように自らを常に戒めていた。その辺りをふらふらしている浮遊霊を見れば、可哀想だ、成仏させてやらなくてはと思ってしまう。しかしこれ一つを成仏させたとしてどうなるのだと考える。この国で一日に何件事故が起きていて、一体何人が死んでいると思っている。そのうち一つだけを救って自己満足に浸る事は寧ろ傲慢ではないのか。そう思えば、交差点の真ん中でぼんやりと立ち尽くしている透けたサラリーマンの姿を見て見ぬ振りする事が出来た。良心の呵責などない。一度きりの人生を、誰かのために捧げる気にはなれなかった。

 そういうわけでなるべくならば避けたいと思っていたその桜の木の前を、何故かその日に限って、よりによって逢魔が刻に通過する事になった。その時点で何かおかしいと感じなければならなかったのである。しかしその日の自分は何も思う事なく、たださっさと通り過ぎてしまえばいいと思いながら早足で歩いていた。ざわりと全身を逆撫でするような強烈な霊気を感じるまでは。
 咄嗟に自分の身を守るように両腕で自らを掻き抱いた。制服の中でざわざわと鳥肌が立っているのを掌で押し隠す。そして辺りに視線を巡らせてその霊気の源を探った。それは間違いなくその桜の木の元。近付くか、逃げるか。一瞬の問答を頭の中で繰り広げた。逃げたい、しかし逃げたところで逃げ切れるだろうか。この妖しげな気を纏わり付かせたまま家に帰れば、母に一瞬で何があったか見抜かれるだろう。そして何故逃げたと詰られるのは確実だ。逃げる事に意味はない。公園に食い込むようにして聳え立つ大木を見上げ、捲簾は身震いをした。確かに以前から霊気の宿る、怪奇の頻発する木だった。しかしここまで強大な気を放っていただろうか。腕から鳥肌は消えない。膝が震えているような気がするのも否定出来ない。虫や鳥の一つも鳴かない。まるでこの町にいるのは自分一人きりになったかのような錯覚に襲われて少しだけ怖くなった。
 しかし、それでも一歩一歩木に向かって歩を進めていく。そこで足を止めなかったのは、ここで逃げ帰った時の母の嘲笑う顔が目に浮かんだからからだった。寧ろ、それを想像する事で何とか自分を奮い立たせていたのかも知れない。かくんと今にも折れそうな膝を叱咤しながら踏み出す一歩は重かった。次第に濃密になる気に屈しそうになりながらも、その源を探るため目を凝らす。その目に映ったものは予想を裏切るものだった。
(――――あいつ!)
 噂の変わり者の優等生が、そこにはいた。桜の木から与えられる暖かい毒に身を任せるように目を伏せ、今にも倒れそうな虚ろな目をしてそれでも何とか立っている。言葉を失う捲簾の前で、ざわりと侵入者を拒むように桜の木が鳴いた。一斉に花弁が散り、目の前を塞ぐ。突然の事に両手で空を掻き、必死に男の姿を探す。辺りを包み込む桜色の幻惑に目が慣れる頃、濃密な霊気に鋭い頭痛すら感じ始めていた。ガンガンと痛みの響く頭を抱えながら、細めた目に映った姿は、今まさに桜から溢れ出す気に呑み込まれようとしている少年の姿だった。辛うじて開かれていた瞼がゆっくりと下りていく。スローモーションのように思えるようなそれを目にした瞬間、かっと頭が熱くなり、咄嗟に捲簾は両手の指で印を結んだ。
 幼い砌から叩き込まれたタントラは頭に思い浮かべるより先に舌先が紡ぎ出す。朗々と響いた詠唱は苛烈な紅蓮の炎を呼び醒まし、それは一瞬にして桜色の幻惑を切り裂いた。激しい炎が辺りを覆った花弁を焼き尽くすと、薄靄の掛かったような幻影は一瞬にして消え去った。
 辺りはいつも通りの街並みに変わり、遠くからキジバトの鳴く声が聞こえてくる。その少し間の抜けた音に、途端に一気に日常に引き戻されて全身が脱力感に襲われた。組んでいた指を解いた瞬間、木の前に立ち尽くしていた細い身体が糸が切れたように頽れていくのが見え、頭の血がさっと降りたのが分かった。慌てて木の根元に駆け寄り、制服が汚れるのにも構わず地面に膝をついてその身体を抱え起こした。辛うじて開かれていた瞼から覗いた濁った枯れ木の色をした眸が一瞬捲簾を捉え、堪え切れなくなったように伏せられた。それと同時に全身の力が抜け、一気にずしりと抱え上げた両腕に重みが掛かる。顔はまるで生気がなく、紙のように真白だ。嫌な可能性が一気に頭を駆け巡り、それを振り払うように捲簾は顔を横に振った。身体が震えるのを止められない。
(遅かった……? 俺が、あそこで躊躇ったから……)
 手の震えを押し留めるようにぎゅっと彼の制服の肩を掴んで、頸筋に手を添えた。鼓動は確かに刻まれている。その身体を何とか背中に担ぎ、土の付いた服を払うのもそこそこに走り出した。背中に感じる重みの冷たさに恐ろしさを感じながらも懸命に走り続けた。

 家の門を潜り抜け、砂利の中に埋もれた飛び石の上を駆け抜ける。引き戸を乱暴に開くと思いのほか大きな音が響いてしまい、家の奥から慌てたような足音が近付いて来た。スニーカーを脱ぎ捨てて少年を担いだまま家へと上がり込む。そして音に驚いてやってきた母親の秘書が何か口を開く前に声を上げた。
「二郎神、すぐに俺の部屋にタオルと救急箱を頼む!」
「は、え? 捲簾様!?」
 何か言おうとしたのに出鼻を挫かれた彼は目を白黒させていた。それにも構わず捲簾はそのまま廊下を進み、奥の階段を駆け昇った。背後の彼は確かに息をしているだろうか。だらんと自分の肩から前に垂らされた彼の蒼白い手は力なくぶらんと揺れている。それを見つめながらもどうする事も出来ず、焦りだけを募らせながら自室のドアを開けた。
 ベッドの上にそっとその身体を下ろすと、そのまま彼はぱたんと横になった。瞼は伏せられたまま、顔色は悪いまま変わらない。心臓がばくばく鳴っている。こういう時どうしていいのか分からない。とりあえず学生服の襟元のホックを外し、ボタンを外していって上着を何とか脱がせた。優等生らしく、中に着込まれたワイシャツも一番上までボタンが留められている。とりあえず一番上のボタンを外し、身体を真っ直ぐにベッドに横たわらせた。死人のように静かに横になった彼の傍に立ち尽くし、自分の胸が激しく鳴る音だけを聞いていた。タオルと救急箱を持って越させたところでどうするのだ。どこか怪我をしているわけではない。汗を掻いているわけでもない。ただ、何かをしなければと思っただけだった。今の今まで考えもしなかったが、もしも既に魂そのものを抜き取られてしまっていたとしたら、自分にはもう打つ手がないのではないだろうか。だったら、今すぐにでも誰かに縋らなければ。そう思い、再びドアに向かおうとした瞬間、向こう側からドアが開かれた。そこから覗いた、今最も見たくない、しかし最も頼りになる人間の姿に、捲簾は安堵とも落胆ともつかない溜息を吐いた。
「何で、今家にいるんだよ……」
「あれだけ景気良く霊気を撒き散らされちゃ否が応でも気になる。慌てて確認しに行ったさ、児童公園の傍の桜の大木だな」
 予想通り、捲簾から何一つ聞き出す事なく全てを把握している事を知らしめてくれた女は、何もかも見通したような笑みで腕組みをして捲簾を見下ろしている。無駄に露出度の高いスーツを纏い、紅いルージュの引かれた唇が蟲惑的に三日月を形取る。しかし捲簾にとってはそれは恐怖の対象でしかなく、他の誰が絶世の美女だと讃えようともただの年増の性悪女としか思えなかった。
「そこの坊やが何かやらかしたのか? お前の友達か」
「……ちげえよ、ババア」
「誰がババアだ、手前のお母様だろうが」
 いつもなら拳骨一つでも降って来るところだが、今日に限ってはもっと興味深い対象がその場にあったためかその被害を免れた。女は捲簾の横を通り過ぎ、ベッドの横に立って腰を屈めた。流れる髪を掻き上げながら目を細めて少年の顔をしげしげと観察する。
「随分と綺麗な顔してやがる……にしても、随分と吸われたな。よく無事だった」
「助かるのか?」
 咄嗟にそう訊ねた捲簾の顔があまりにも深刻だったせいか、彼女は少し驚いたように目を見開いて目を瞬かせた。そして何を思ったかにやりと笑って、ベッドに横たわる少年の胸の上を立派なネイルアートの施された指先で突付いた。その鋭利な爪で彼の身体に傷を付けてしまうのではないかとひやひやしてしまう。
「魂でも抜かれたと思ったか、修行不足め。放って置いても休めば元気になる」
 そう言われてしまえば、自覚があるだけに捲簾は閉口せざるを得ない。むっと口篭った息子を物珍しげに眺めていた彼女は、何か楽しい事でも思い付いたかのようににやりと笑った。
「俺が口移しで生気をやれば、すぐにでも元気になるがな」
「止めとけ。そいつだって見知らぬババアにキスなんてされたかねえだろうよ」
 今度こそ降って来た頭蓋骨を直撃する拳骨に思わずしゃがみ込んでいるうちに、ドアがノックされて二郎神が部屋に入ってきた。
「お水とタオルを持って参りましたが……」
「ああ、そこに置いておけ。あと今夜の晩飯は一人前多くするように頼んでおいてくれ」
 命令ばかりの言葉にも慣れたもので、畏まりました、と彼は大人しく出ていった。ベッドサイドのテーブルには水差しとグラス、タオルの載ったトレイが置かれている。捲簾の頼んだ物と持ってきた物が違うという事は彼女が言って変更させたのだろう。しかしそんな事を訊ねたら、何故救急箱などを頼んだのだと散々弄られるに決まっているから捲簾は黙っておく事にした。
「珍しいじゃねえか。お前が散々嫌っているその力を自ら仕事外で使うなんて」
 来るだろうと予想はしていた質問だったが、いざ問われると肩がぴくりと揺れた。僅かな動きだったが彼女が見逃すはずはない。ついと視線を逸らせた息子を見ても彼女は強引に口を割らせるような真似はしなかった。ただその、力の些か強過ぎる眸をこちらに固定したまま動かない。じわりと掌に汗が滲み出した。その視線の強さに唇を噛む。彼女はこのまま何十分でもこうしたままでいられるだろう。対して、こちらが折れるのは時間の問題だった。
「……目の前で、人が死にそうになったんだ。仕方ねえだろ」
「ふうん? まあいいが……随分数奇な巡り合わせだな」
「何?」
 彼女は捲簾の机から椅子を引き摺って来てベッドの脇に置いた。それに腰を下ろし、ベッドに横たわった少年の顔をじっと眺めている。それはまるで初対面の子供の顔を見る目ではない。自分ですら向けられた事があるか怪しいような、愛し子を見つめる目だった。不気味に思いこそすれ羨ましいとは天地が引っ繰り返っても思わないが、その相手があの変わり者の同級生であるというだけで何だか妙な気分になる。ひょっとして知り合いだったのだろうかという可能性が頭の中で首を擡げる。しかしそれを今問う勇気はなくて、そんな自分自身に歯噛みしつつ捲簾はその場で立ち尽くしていた。
「こりゃあ立派な霊媒体質だぜ。お前にも分からねえか」
「だから、何が……」
「この坊やがここにいるだけで、屋敷の周りが亡霊ご一行様で大騒ぎだぜ。お前が抱えていたんじゃなけりゃその辺の雑魚に取り憑かれてただろうよ。こいつは見鬼だろう」
 人ならぬもの、形のないものを見通す力を持つ見鬼、と彼女は少年を指した。
「待てよ、ただこいつは桜の木に吸収されそうになってただけだろ。それがどうしてそんなに一気に飛躍するんだ」
「だから手前は修行不足だって言ってんだろうが。今は多少弱くなってるが、この立ち昇るような巫力が感じられねえのか」
 そう言われて、捲簾は弾かれるように顔を上げた。そして食い入るように少年の身の回りを観察する。しかし捲簾の視界には何も変わったものを見出す事は出来なかった。昔から視る力は弱いと言われ続けていた。しかし、基の力はあるのだから修行をして鍛えればそこそこの力はついたはずだった。それなのにそこで諦めて、修行を怠ったのは自分だ。まさかこんなところにつけが回ってくるとは思わず、母の前であるにもかかわらず大きく舌打ちをした。それを特別咎める事もせず、彼女は再び少年に視線を戻す。彼女の目には、彼の身体を守るように包み込む淡く柔らかい蒼白い光りが薄らと視えていたのである。それが自分の息子には視えていないという事に僅かな失望はあったが、それ以上の収穫を感じていた。
「お前の特訓は追々考えるとして、とにかくこの坊やが目覚めるまで見ていてやれ。起きたらすぐに報せろよ」
 そう言いながら彼女は椅子から立ち上がった。その瞬間、意味ありげな視線を眠り続ける少年に向けた事に捲簾は気付かなかった。さっさと出てけと毒づく息子にも取り合わず、彼女はひょいと肩を竦めてそのまま部屋を出ていこうとした。それまで静かに仰向けで眠っていた少年がぴくりと瞼を動かすまでは。
 ぴく、と動いた瞼に続いて眉が不快げに顰められ、その少しかさ付いた唇から小さな呻き声が聞こえた。慌ててベッドの脇に駆け寄り、その顔を覗き込む。見守る二対の眸の前で、少年の瞼はゆっくりと持ち上げられ、ゆるゆると二、三度ゆっくりと瞬いた。そしてその起き抜けの潤んだ榛色の眸はきょとんとして、至近距離にある捲簾の顔をたっぷり十数秒間見つめた。そしてかさ付いた唇は緩慢な動きで言葉を紡ぎ出す。
「……ケンレン、君、でした、っけ」
 起き抜けで発された予想外の言葉に捲簾は目を瞠った。彼とは会話はおろか顔を合わせた事もなかったはずだ。しかし今はそんな事を気にしている場合ではない。不思議そうに部屋を見渡していた彼はそのまま無意識に身体を起こそうとしたのか腕に力を込めたようだった。しかしその腕には全く力が入らなかったようで僅か数センチほどに枕から浮き上がった頭はそのまま枕に落ちた。きょとんと驚いたように目を見開き、その全てを問うように榛色の双眸はじっと捲簾を見上げてきた。こんな時に限って母は手を貸してくれない。にやにやしながらこちらの動きを眺めている女に舌打ちをしそうになりながらも、とりあえずベッドの上から少しも動けない自分に戸惑っている少年の枕元にしゃがみ込んだ。
「お前、児童公園の桜の木の前に行ったのを覚えてるか?」
「……どう、だったかな」
「お前はそこで倒れてたんだよ。だから連れてきた」
 歯切れの悪い返答をする彼に、それ以上何を問う事も出来ず手短に現在の状況を伝えた……つもりだったが、その簡潔さが背後に控えた女帝のお気に召さなかったようで、先程よりは軽いもののやはり頭を抱えてしまうような拳骨が天から振り下ろされた。
「……ッつうぅ……!!」
「端折り過ぎだ、馬鹿者」
 強烈な拳骨に加え、そのいっそ凶器と言えるような爪で額を突かれて更に頭を抱えて蹲った。そんな息子を欠片ほども可哀想とも思わない様子の彼女は捲簾を押し退けて、今度は自分が少年の枕元に立った。そして戸惑いの満ちた目をする少年にそっと手を伸ばし、その額をそっと壊れ物に触れるような手付きで撫でた。少年の目には次第に光が宿り始め、何かに気付いたようにぱちんと見開かれた。それを見て彼女は更に頬を緩めた。彼女のそんな顔を今まで見た事があったろうかと息子の自分が驚いてしまう。
「でかくなったな、天蓬」
 ぱちん、とその大きな眸が瞬いた。じっと彼女の人となりを観察するように食い入るように見つめていた彼は、ややあって困ったように視線を捲簾に向けてきた。しかしフォローを期待されても困る。自分は母に少年の名前を教えた覚えはない。それどころか自分も彼の名前を彼女の口から聴いて漸く 思い出したのだ。何を知っていても不思議ではないと思える女であるとはいえ、偶然連れてきた少年の名前をあっさり言い当てられては敵わない。大体、まるで小さな頃の姿を知っているかのようなその発言の意図はどこにあるのか、捲簾の方こそ彼女に問いたかった。
「おいババア、困らせてんじゃねえよ。つうか……」
「飯の時間まで横になっていればいい。七時には降りて来いよ」
 とりあえず彼女を制止してから話を詳しく訊こうとしていた捲簾は、あまりに速い切り替えについ取り残される。すたすたと部屋を出ていった彼女は、ドアを閉める直前にぞくっとするような嫌な笑みを残して去っていった。パタパタとスリッパで階段を降りていく音が遠ざかってゆく。口も利いた事のない同級生と二人きり、物音一つしない室内に取り残された捲簾は、どうしていいのか分からなくなってとりあえずベッドに背を向けた。どんな顔をして彼に詫びたらいいか分からない。へらへら笑いかけるのもどうか、しかしかといって無愛想にしてこの空間の空気を悪くしたくもない。特別人見知りする質ではなかったが、状況が状況だ。
 何と話を切り出していいか、頭を掻きながら考えていると、不意にギシ、とベッドの軋む音が背後から聞こえた。無意識にふと振り返ると、少年が力の入らないはずの腕に懸命に力を込めて身体を起こそうとしていた。咄嗟にベッドサイドに戻り、その背を支える。すると触れた瞬間、彼の身体はぴくりと震えた。
「無理すんなよ、もう少し休んどけ」
「いえ……これ以上厄介になるわけにもいきませんので」
 少し掠れた声で言い訳するようにぼそぼそ言う彼は、まるで捲簾と目を合わせまいとするように顔を逸らした。別に全ての人間から好かれたいとは思わないが、そうもあからさまに嫌がられるのも不愉快だ。むっと眉根を寄せた捲簾の不機嫌を、見えていないはずの彼は実に繊細にその空気を感じ取ったようだった。悪い事をした子供が親の顔色を窺うように、恐る恐るといった様子で上目で見上げてくる。ぴくりと片眉を上げてみせれば恐縮したように縮こまり、身体に掛けられていたタオルケットを両手でぎゅっと握り締めた。
「お前の分の夕飯ももう準備されてるみたいだし、もう少し寝てたら。無理に帰ろうとしても階段から転げ落ちるぜ」
 素っ気なく言う捲簾に、彼は頷きも首を振りもしなかった。ただそのままじっと俯き、ぎゅっと掌を握り締めている。
「……すみません、でも、帰らなきゃ」
「何。親が厳しいとでも言うのかよ」
 軽いからかいの響きが篭った声音に彼は少しだけ視線を上げ、すぐに疲れたように視線を落としてしまった。低く弱い溜息が漏れる。
「うち、親がいないので弟を迎えに行かなければならなくて。ですからすぐお暇します」
 途端顔から血の気が引いたのが自分でも分かった。その瞬間ちらりと顔を上げた彼は、そんな捲簾の顔色を見上げてぼんやりと暫く瞬きしていたが、そのうち苦く笑ってゆるゆると首を振った。長い前髪が乱れて白い額に掛かり、ますますその顔色を悪く見せている。
「気にしないで下さい。祖母の家で暮らしているんですが、祖母の足がよくないので僕が迎えに行っているだけです」
「……ワリ」
「いえ。本当にありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げた彼は、静かな動きで布団を足元まで下げ、足を床に下ろした。夢見るような仕草でふわりと立ち上がった彼は、足音を殆ど立てずにゆっくりと床に置かれたバッグを持ち上げてドアの方へと歩いていく。そしてドアノブに手をかけ、ふと思い出したように振り返り、気の抜けるような柔らかい笑みを浮かべて言った。
「あの桜の木に力を与えている大元は、木の根元に埋まっているものの仕業です。今度掘り返してみて下さい」
 初めて見たその微笑みと思い掛けないその言葉に呆気に取られている捲簾の目の前で、そのドアは躊躇いもなく音を立てて閉じる。その音で漸く我に返った捲簾はその後を追って慌てて部屋を駆け出した。
 長い廊下を歩く後ろ姿を走って追うと、容易にその横に追い付く事が出来た。彼は一度、不思議そうにこちらを向いて首を傾げて見せ、その眼鏡の奥の眸をぱちぱちと瞬かせる。ここまで彼と近付いたのは初めてである。背は自分と同じかほんの僅かに小さい位だ。深い珈琲色を湛えた眸は理知的に落ち着いた光を秘めている。そのあまりに真っ直ぐな視線の前に置かれて、つい口篭ってしまう。そのせいで捲簾の口を突いたのは要領を得ない、実に手短な言葉だった。
「どういう事」
「さあ、僕にもよく……あの木の下に何かある気がしたもので。でも、何の防備もせず近付いたのは迂闊でした」
 ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。そう礼儀正しく言い、腰を折る。そして此方に背を向けようとする彼の腕を咄嗟に掴んだ。振り返った彼の視線を真正面から受け止めて、その瞬間、少しだけ彼の持つ力が感じ取れた気がした。深い珈琲色をした眸の奥に揺らめく青の炎を見たからだ。
「送っていく」
 唐突でおかしな申し出を快諾こそしなかったものの、それでも拒否もしなかった。それは、送っていく事が真の目的ではないと彼にも伝わっていたからだ。その不思議な色を持つ眸を瞼が二度閉ざし、艶やかな唇が弧を描いた。
「ありがとうございます」

 歩き始めて数分で捲簾は音を上げそうになった。愛想の良さそうな笑顔を見せながら、彼は何一つ言葉を発さなかったのである。しかも早足であるため追いつく為にも精一杯だ。先程まで失神していたとは思えぬほどに颯爽と歩いて行くその横顔から目を離さず、懸命についていきながら思いつくままに疑問を並べ立てた。それを彼は黙って微笑んだまま聞いていた。取り留めのない質問の連続に、返答がなかったのも致し方ない。様々な疑問の終着点は、結局一つだった。
「お前は一体、何なんだ」
 その言葉に初めて、彼は顔を捲簾の方へと向けて立ち止まり、微笑んだ。
「何なんでしょうね、一体」
 その瞬間、ざわりと冷たい風が肌を撫ぜた。この真夏だというのに何故か不思議とそれは不快な冷たさではなかった。木々がざわめき、今木の葉を攫った風が彼の少し長い髪の先を舞い上げていく。乱れた髪が頬に唇に掛かって、少年の面差に息を呑むような妖艶さを与える。見慣れた風景の中、切り貼りされたように彼の存在が、纏う気配が空気に馴染まない。背後にある川の水が風に煽られて複雑な波紋を描いてゆく。そう、先程覚えた冷たさは氷のような不快な冷たさではなく、水に包み込まれたような冷たさだった。彼を包み込むという光はきっと、澄んだ湖水のような透き通る蒼をしているのではないかと思った。
「――あなたが教えて下さいよ。きっとあなたの目に映ったままが、真実です」
 ならばお前は人間ではないという事になるじゃあないか、とは言えなかった。
 捲簾の目には確かに目の前の少年が、只の人間とは思われないような艶を帯びて見えていた。妖に化かされているのではないか、もし母親と彼を合わせていなかったらそう考えたかも知れない。しかし彼女が人間と妖を見紛うはずがない。本当に彼は実体を伴ってそこに立っているのか不意に不安に駆られ、思わず手を伸ばそうとした。その瞬間、完成されていた空気が、風船が弾け飛んだように打ち割られ、いつもと同じ、近所の風景と空気が戻ってくる。
 驚いたような、怯えたようなその眸が自分を映している。
 逃げないでくれと願いながら伸ばした手は、空を掻く事もなく確かに学生服に包まれた、少し華奢なその腕を掴んだ。





 もう食べられないと眉を垂れる彼を宥めすかして何とか一人前の粥を食べさせ、マンションに向かって車を発進させた。助手席ですっかり眠りこけた男の顔を、信号待ちの間暫し眺めていた。少し前まで僅かなまろみを帯びていた頬は幾分、シャープなラインを描いているように思える。元から不摂生な男だから、少し食べなければすぐに見た目に表れる。弟共々不安定な彼の変化は、この夏特に顕著だ。ここまできては栄養がどうのと言ってはいられない。何でもいいからカロリーを摂取させなければ体が持たない。途中、よく母親の言いつけで立ち寄る和菓子屋に止まり、目に付いた涼しげな水羊羹とクリーム餡蜜を購入した。甘党である彼がどちらを選ぶかなど聞くまでもなく明らかだったが、選択肢があればあるほど彼が喜ぶ事も知っていた。昔からそれほど量も食べられないくせに色々な種類を食べたがるものだから厄介だった。残りはいつも自分や職員達が胸焼けを起こしながらも何とか食べる羽目になって。だけど彼があんまり幸せそうに笑うものだから、誰も止めなかった。
 家に着き、駐車場に車を停めてから助手席の天蓬を負ぶう。幾ら多少自分の方が大きいとはいえ、成人男性一人を手助けもなく担ぐのは容易な事ではない。しかし事ある毎にこうして担いでいたため、なるべく相手に振動を与えずに背負う事にも慣れていた。体を担ぎ直すために一度体を揺らすと、コテンと彼の頭が肩に凭れて穏やかな寝息が耳に届いた。閉じられた瞼が蒼白い。
 エレベーターに乗り込んで、自宅のある七階のボタンを押す。ドアが完全に閉ざされたと同時に、天蓬の体をぶつけないように気を付けながら壁に凭れて瞼を伏せた。彼を気遣いたい気持ちもあったが、自分自身も相当に消耗していた。荷物の片付けも、風呂も着替えも全て休んだ後にしよう。先程買ってきた生菓子だけは冷蔵庫に、と考えていると静かな音を立ててドアが開く。見慣れた廊下を見て、漸く返ってきた事を実感しながらエレベーターを降りた。そろそろ体のふらつきが誤魔化せなくなってきた。これまで幾度となく自分の力の限界を、現実を見せ付けられてきた。それでも力を振り絞って立っていられたのは、いつも傍に彼がいたからだった。
 心のどこかで彼を庇護下に置く事で安心している自分がいるのを自覚していた。彼を守るという使命を自分自身に課して、膝を折りそうな瞬間、頽れそうな瞬間に自分を奮い立たせるための材料にしていたのだ。そんな扱いを彼が疎んでいる事を知りながら。
 家に上がり込んでまずすぐに寝室へ向かった。担いだ天蓬の体をベッドに転がし、靴を脱がす。一番上まで留められたワイシャツのボタンを二、三個外してやり、体を転がして上着を脱がせて眼鏡を外した。後は皺にならないように上着をハンガーに掛け、脱がせた靴を玄関に置いて生菓子の箱を冷蔵庫に入れた。その時覗いた冷蔵庫には、碌に腹に入れられそうなものは入っていなかった。起きたら買出しに行くか、実家に戻るかしなければならない。無意識に溜息を漏らしながら冷蔵庫の扉を閉めて、寝室に向かう。一瞬顔を洗おうかどうか考えたが、それすら面倒でそのまま寝室のドアを開けた。
 先程の格好のまま、ぐったりとベッドに横たわったまま天蓬は静かな消え入りそうな寝息を立てている。いつも彼は死んだように静かに眠るのだった。口元に耳を寄せて、微かな寝息を確かめてから彼の横に体を横たえる。静かだ。意識が吸い込まれるようにフェイドアウトしていく。落ちていく瞼に逆らえぬまま、閉ざされそうな視界に何とか天蓬の姿を映した。
 あの日掴んだ腕を離せずにいるのは、ひょっとしたら自分の方なのではないだろうか。認めてしまうのが怖くて、それでも離すのが嫌で、鉛のように重い腕を伸ばして、縋り付くように横たわる彼のシャツを掴んだ。
 薄れゆく意識の中で、ひや、と涼しげな風が髪を撫でたような気がした。









巫覡(男巫)な天蓬と陰陽師の家系の捲簾。知識が不足なので似非ですが・・・!宗教ごった煮なのはこの手の話のお約束です。
中には全然出せませんでしたが天蓬は竜神の巫女の家系という設定。そう、あの方。続きもいつか書きたいです。
2009/08/06