少年は目を覚ました。微かに耳を突く耳障りな金属音に顔を顰め、少年は裸足の足でカーペットの上を探る。そしてスリッパを探り当てて両足に引っかけ、ぼんやりとする目を擦りながら、寝室のドアを開けた。ドアを開けると細く光の線が部屋に伸び、少年はゆっくりと目を瞬かせながら、ドアの外へと一歩踏み出す。カーペットの張られた廊下にはぼんやりと明かりが点っている。家の明かりではない。まるで、懐中電灯のような。近付いてくる足音に再び目を擦る。歩幅が大きい。足音が重い。母親でも、使用人でもない。父が帰ってきたのだろうか、と思った。しかし、その割に音はやけに重く硬質だった。ミリタリーブーツのような音だった。少年は目を凝らした。曲がり角から、影が伸びてくる。逃げようかと思った。しかし足が動かない。大きな足音が響く度、進退窮まり、動けない。
 少年は男と目が合った。男が咄嗟に持ち上げた腕には鈍く光るアーミーナイフ。少年は短く声を上げた。その踏みつけられた小動物のような声に、男の口元がゆっくりと持ち上がる。その楽しげな眸には、大きく目を瞠った少年の姿が映っていた。


「……辞める、今度こそ辞めてやる」
 まだ火を着けたばかりの煙草をぐりぐりと灰皿に押し付けながら男は呟いた。その後頭部を厚いファイルで張り飛ばされて真顔のままつんのめり、それからゆっくり身体を起こしながら恨みがましげな目で背後に立つ美女を見上げた。彼女の綺麗なネイルに彩られた指には、大きなファイルが持たれている。それを見て、自分の後頭部を擦りながら男はげんなりと溜息を吐いた。
「……クラウディア」
「マダムに怒られるワヨー。キンシンが開けたばかりなのにー、うらうらしてばかりでー」
 何だうらうらって、と怪訝な顔をしつつ、男は音を立てて椅子の背凭れに体重を掛けた。そして自分を見下ろす彼女を見上げて唇を曲げた。美女なら誰でもいいというわけではないと、彼女といるとつくづく思う。光に透ける金糸に薄いグレーの眸の美女で、特に刺や毒があるわけではない。しかし何処か抜けていて、その特異な彼女のペースについつい巻き込まれてしまうのだった。ある意味苦手なタイプかもしれない。間延びした口調もそれを増幅させる。がっくりしつつ俯く男を、彼女は不思議そうに覗き込んだ。
「……ケン、きいてる? 耳穴かっぽじってよくきいて?」
「誰からそういう言葉を習ってくるんだ……」
 バラエティ番組で日本語を習うなと何度も言っているのだが、毎週欠かさず笑点を見る女だ。しかし日々神経を擦り減らす任務に就く中、彼女のリラックス法がそれだと言うなら否定は出来なかった。
「マダムが言ってた、ケンにはトクメイが下るって」
「……何、トクメイって。……匿名……特命?」
「special mission〜」
 そう言って楽しそうに去って行こうとする彼女の腕を掴む。咄嗟に自分の手を掴んだ男の腕を捻じ曲げようとする彼女から器用に逃れ、立ち上がった。彼女はきょとんとその薄い色の眸を瞬かせる。そんな彼女へ向かって矢継早に問い掛けた。
「局長が、本当に?」
「エ? ホントウホントウ。ワタシウソツカナイ」
 口調があまりにも胡散臭いので信じがたいが、その胡散臭さは元々だ、と思い直してその“特命”とやらに思いを馳せた。
 彼女の言う“マダム”とは二人の上司のことだ。普段は安楽椅子に座っている、すっかり丸くなってしまった老女のような風体をしている。しかし最も敵に回すのが恐ろしい女でもあった。若い頃にはやんちゃばかりしていたというが、正直若き日の想像がし難い。彼女の指令は半端でなく容赦がない。数週間前の任務中のスタンドプレーで怪我をした男へ、彼女は療養がてら謹慎処分を与えたのだった。勿論その間の給与はカットである。何だか妙な空虚感を感じるのは何故だろう。
「……で、そのマダームは何処行ったわけ」
「ンー、何か、カワイイ男の子に会いに行くって」
「は」
 とうとう淋しくなって少年に手を出したのだろうか、と呆然としつつ、男はここにいない女上司へと思いを馳せた。椅子の背凭れに凭れかかり、天井を見上げながらあらぬ想像へ走りかけた男の思考をぶった切ったのは、勢い良く開かれたドアの音だった。
「あ、マダムお帰りなさいー」
 呑気にクラウディアが挨拶する横で、こそこそと男は顔をドアの方から隠していた。しかしすぐにシャツの襟首を引っ張り上げられ、捕まった猫のように目の前に吊し上げられる。迫力のある老女の微笑みに、男もまた引き攣った笑いで微笑み返した。彼女は篠江、名前はその年代には珍しく洒落て“まりや”と言った。
「お帰り、捲簾。病院では大人しくして――――……いなかったようね」
「……よくご存知で……」
 病院内にも敵がいたらしい。きっと彼女は全て見通しているのだろうと観念して男、捲簾は大人しく頭を垂れた。そんな彼を暫く眺めて満足げに彼女は息を吐いた。そして襟首を掴んでいた手を離し、コートを脱ぎながら自分のデスクへ向かって歩いていく。
「クラウディアからもう聞いていると思うけれど」
「特命のことですか」
 乱れたシャツの襟を正しながら訊ねる捲簾に、彼女はゆっくりと頷いた。そして脱いだコートをハンガーに掛けながら、デスクの上の封筒を指差した。それは彼女が帰ってきた際、バッグとは別に持っていたものだった。
「今、そのクライアントに会って来たのよ。その封筒の中を見て」
 訝りながらも大人しく彼女のデスクに歩み寄り、その大きめの封筒を手に取った。そしていつもの癖で、封筒の口を遠ざけつつ広げて様子を見る。そして何もないのを確認して封筒を逆さにし、中身をデスクに出した。出てきたのは英字の並ぶ新聞の切り抜きだ。
「アメリカの新聞ね」
 その中の一つを手に取り、クラウディアが呟く。それに倣って捲簾も別の切り抜きを手にした。それらは全て同じ事件の内容を扱った記事だった。どれもこれも同じ、大きく豪華な邸宅の写真が掲載されている。
「二週間前、その家の使用人が一人殺害された。丁度私くらいのお婆さんよ。そしてその家の一人息子が侵入者の顔を見てる」
「大方、その子供の身辺警護とか?」
「そういうことね。あなた以外は皆本件の方に回ってもらうけれど、あなたには罰として大人しくしていてもらうわ」
「は?! ……というか、本件って……?」
 そう訊ねると、彼女は視線で、デスクに散った記事の一つを指して見せた。それは他の記事よりも大きめの切り抜きだ。その記事をすぐに手に取り、本文に目を通した。概略はこうだ。仏人起業家の邸宅へ強盗が侵入、それに気付いた使用人が一人殺害されている。その家の主人と、日本人の妻との間の息子がその侵入者を目撃、しかしすぐに警備会社が駆け付け、少年は頬に軽傷を負っただけで済んだ。しかし、高級な品や金を物色した後が少ないことと、主人の書斎のパソコンのデータがすべて破壊されていることもあり、単なる物取りの犯行ではない可能性も視野に入れて捜査中――――。
「……つまり、調査からは外されて、俺は子供のお守りだと」
「お守りだなんて言わないで。顔を見られて侵入者がその子を放っておくものですか。彼は今母親と一緒に来日していて、ホテルにいるわ。……殺された使用人は彼が一番懐いていた乳母だったの。メンタルケアも勿論要るし、それに……」
 そこまで言って、彼女は歯切れ悪く口を閉ざした。そんな彼女を訝しげに見る捲簾を、クラウディアは呑気に突付いてくる。
「ねぇケン、その男の子っていくつかしら? カワイイ? ワタシカワイイ弟欲しイー」
「父ちゃんと母ちゃんに頼め」
「もうムリ、ダディはもうダメなのー」
 態とではない、天然なのだから逆に質が悪い。もう何かが無理らしい彼女の父親に思いを馳せつつ、捲簾は痛む頭を押さえた。そんな二人を見ていた篠江は、笑って言った。
「可愛らしい子よ。それに頭も良いの、確か何かの博士号を持っているらしいから」
 生まれたその時からそういう人間とは種類が違うのだろう。エリートの子供はエリートということか。その子供の父親の名前は捲簾もどこかで見たことがあった。若くして起業に成功した若き獅子、と称えられていた。この事件記事の片隅にも、隠し切れないゴシップ魂が顔を覗かせている。必要のない主人や息子の経歴までもが具に書かれていた。そんな記事を全て読む気にもなれずに捲簾はその記事を、散らばったそれらの中に混ぜてしまった。その時ちらりと目の端を掠めた「200」という数字は、大方IQか。その数字の信憑性を疑ったが、頭が良いのは確かなのだろう。
「……で、その教育課程をスキップしまくった天才少年は、幾つなんです?」
「十三よ。平凡に日本に生まれ育っていたら、今頃中学一年生ね」
「じゅうさん……thirteen? アラ、ワタシやケンの、半分よりすくないノネ」
「ほっとけ……」
 最近僅かずつ年齢のことを考え始めた身には辛い言葉である。捲簾は今年で三十一、クラウディアも三十である。自分は兎も角、彼女は身を固めることなど全く考えていないらしい。出会いも恋愛も偶然任せと胸を張る女だ。いつかは何処かの男が現れるだろうが……。というか、問題はそこではない。
「……十三で博士号ねぇ……世の中なんて達観しちまってんだろうな」
「タッカン?」
「……悟りを開いちまったってこと」
「ボーさん?」
「……ま、そんな感じ……。で、その子供、滞在はどこに? ずっとホテルですか」
 指先で散らばった新聞記事を突付きながら何気なく訊ねる捲簾に、記事の一つに目を通していた篠江は、肩を竦めた。
「ここか、あなたの家に決まってるでしょう」
「はあ」
「事件が解決するまで、女は控えて」
「ケンは、三度のメシよりオンナだからー」
 歌うように言いながらも、彼女の目は期待に輝いている。もし現れたその子供が物凄く生意気で、しかも不細工だったりしたら彼女はどうするのだろうと少し意地の悪いことを思った。一種の陰湿な意趣返しである。
「二十四時間、付きっ切り警護ってこと……?」
「そういうこと。つまり女と睦み合ってる時間はないっていうことよ」
「俺だって溜まるものは溜まる……」
「何のために右手がついてるの」
 この職場は女のセクハラが酷すぎる、と肩を震わせながら捲簾は思った。しかも訴えたところでこの女に勝てるわけがない。俯いた捲簾の肩を叩きながら、相変わらず呑気にクラウディアは言った。
「そんなこと出来るうちが花ヨ、ダディみたいになったらおしまいだからー」
 どうでもいいが、その子供が生意気で可愛くなかった場合、一番害を被るのは自分なのだった。そんな風に思い、憮然とした顔をしている捲簾に向かって、篠江は少しだけ視線を鋭くした。
「彼の母親はすぐにアメリカに戻らなければならないの。だから、今から二人でここへ来るはずよ。……いいこと、あの子は今酷く混乱しているの、何があっても手酷い扱いはしちゃいけない。どうしても扱い切れなくなったら手を上げたり暴言を吐く前に他の誰かに相談なさい」
 幾らなんでも子供に手を上げたりしない、と文句を言いたかったが、彼女の表情があまりに真剣で、言い返すことも躊躇われた捲簾は言いかけた言葉を飲み込んで、頭を掻きながらお座成りに頷いた。そんな捲簾を暫くじっと見つめていた彼女は、漸くゆるりと息を吐き、デスクに散った新聞記事をかき集めて封筒に戻し始めた。ライターを取ろう、と彼女に背を向け、自分のデスクに向かおうとした捲簾はふと彼女に呼び止められた。
「これ、その子の調査書。本人に許可は取ってないし、あまりよくないことだけどね。あなたは見ておいた方がいいでしょう」
「ワタシも見たイー」
「クラウディアは後でね」
 火を点けていない煙草を銜えたまま、捲簾は手渡されたもう一つの封筒を見つめた。そしてすぐに自分のデスクの上からライターを攫い、奥にあるソファに陣取って煙草に火を点けてから封筒を開いた。中に入っていたのは三枚綴りの厚手の紙だった。まずずらずらと並んだ経歴に目を奪われた。どうやら写真は入っていない。容姿は本人が来るまで待て、ということか。
 少年の名前は、漢字を当てて『天蓬』。若き仏人青年実業家と日本人の妻との間の優秀な一人息子。人見知りをするきらいがある、とのこと。夫婦仲は悪くない。拡大しつつある会社の運営も順風満帆。しかしその分敵も多く、幾度となく息子である彼も標的にされている。
 そんな風に真剣に書類に見入る捲簾を暫く羨ましげに見つめていたクラウディアは、ふと篠江のバッグの中で彼女の携帯電話が光っているのに気付いて、篠江の肩を叩いた。
「マダム、電話ですよ」
 そう言われて、彼女はぱっとバッグから電話を取り出し、耳に当てた。そして一瞬何かを聞き入るように目を伏せ、すぐに通話を切った。その電話を畳んで片付けてから、彼女は捲簾を呼ぶ。その声に捲簾はやっと書面から顔を上げた。そしてその書類を封筒に収めてから彼女の顔が見えるようにソファから身体をずらした。彼女は暫くメモに向かって何かを書いていたが、すぐに顔を上げてその紙を引き千切った。そしてその紙を差し出す。立ち上がり、それを受け取りに行った捲簾はその紙に数秒目を通すと、手にしていたライターでそれに火を点け、灰皿に捨てた。
「迎えに行ってあげて頂戴」
 ホテルの名前、そして部屋番号の書かれた紙がすっかり灰となって燃え尽きてしまうのを見届けてから、捲簾は唇を一度舐めて、銜えていた煙草を灰皿に押し付けた。拉げた吸いさしが、灰に塗れて汚れた。
「……行って来ます」
 自分のデスクの上に封筒を置いた。そしてライターと車のキーだけを持って入り口へ向かい、ドアを開けた。


「……やっぱり、もう行って下さい。飛行機に間に合いません」
 自分をベッドに座らせじっと腕時計を見つめている女性に、少年は言った。彼女は不安げな目をして、しかし少年を力付けるように微笑んで見せた。そして並んで少年の隣に腰掛け、少年の頭を優しく撫でる。
「大丈夫よ……篠江さんから、ここから出ないように言われているし」
 ホテルの従業員が訪れても対応するなと言われている。彼女がいなくなったと見たら、誰かがこの部屋に無理矢理押し入るかもしれないということが、彼女が部屋から出ていくことを躊躇わせていた。しかし、彼女がアメリカに帰るための飛行機の離陸時間、そして空港へ向かうまでの時間を見てももうそろそろここを出なければ間に合わなかった。
「大丈夫、別に明日に遅らせてもいいんだから……」
「でも、父さんが心配です。母さんが行ってあげないと……」
 アメリカに残っている父を心配する息子に、妻であり母でもある彼女の心は揺らいだ。残してきた夫が不安な気持ちもあるが、今後何者かに狙われる可能性があり、しかも精神的に酷く傷付いている息子を一人残すのはもっと不安だった。本当は自分がいつも一緒にいてあげられればいい。しかし、アメリカに置いておくのはあまりに不安だった。そこで夫の友人から、ある機密機関に依頼することを提案されたのだった。世界に幾つもの支局を持つ機関で、自分の母国である日本にも数箇所の支局があると聞き、彼女は息子を日本の支局に預けることにしたのだ。
「僕は一人でも平気です、だから母さんは父さんのところに」
 そう少年が言った瞬間、部屋のチャイムが鳴り響いた。弾かれたように彼女は顔を上げた。一瞬やっと来た、と思ったが、もしそれと偽った別人だったら、という不安が頭を過ぎる。息子を安心させるように頭を撫で、彼女は立ち上がった。そして少年を残した部屋のドアを閉め、恐る恐るドアへと向かい、そして覗き窓からドアの外を覗き込んだ。立っているのはスーツを着込んだ短い黒髪の男だ。確かに、先程話をした篠江は男が迎えに来ると言っていた。しかし覗き窓から見た男の眼光の鋭さに一瞬彼女は躊躇った。このまますぐに開けてしまっていいのだろうか。チェーンロックをしたとしても、何か武器のようなものを手にしていたら。
 躊躇ったままドアに手を掛けられずにいると、ふとその男の目が覗き窓に合わされる。目が合ったようで、びくりと肩を揺らした。男は徐にその手をスーツの懐に突っ込んだ。咄嗟にピストルを想定した彼女はドアを離れて壁に身を寄せる。そのまま目をきつく瞑っていたが、何の衝撃も訪れない。彼女はそろそろと壁から離れ、再びドアの覗き窓に目を寄せた。その向こうでは、覗き窓に向かってカードを掲げている男の姿があった。そのカードは、先程会った篠江と同じ物だった。

「すみません、もしかしたらって思ってしまって」
 そう言って彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。それに向かって男は人の良さそうな笑顔で手を振った。
「構いません、きっとそうだろうと思って……どうやって信頼してもらおうか考えてしまいましたが」
 男はそう言ってから、何かに気付いたように口を噤んだ。
「そういえば……飛行機の時間が近いとか?」
「あっ」
 彼女は慌てて腕時計を見た。今出なければもう間に合わないだろう。男はその様子を見て取ったように、小さく頷いた。
「部屋の外に同僚を待たせてありますから。彼が本国まで警護します。……あ、英語なら通じますから」
 その時点で、彼女はまだこの男を信頼していいのかどうか、迷っていた。しかし彼には相手に有無を言わせぬ迫力と、信じてしまいそうになる雰囲気があった。彼女は小さく頷いて、奥の部屋へと戻った。ドアの開いた音にきょとんと目を瞬かせた息子へと歩み寄り、一度強く抱きしめた。
「じゃあ、お母さんは行きますね。……平気?」
 少年は大きく頷いて、その澄んだ目に彼女を真っ直ぐに映した。彼女自身、実体の見えない事件に巻き込まれ戸惑っていた。しかし子供である彼は、きっともっと心の中で苦しんでいるだろう。何も出来ないことが、もどかしくて歯痒かった。
「ごめんね……本当にごめんなさい」
 強く彼女に抱きしめられながら、少年はその澄んだ眸を虚空へと向けていた。その眸は、何も見てはいなかった。
 名残を惜しんだ後、ほんの僅かな荷物しか入っていないボストンバッグを片手にドアへと向かった彼女は、戸口で腕を組み、壁に凭れ掛かっていた男に目配せをした。そして深く深く頭を下げる。
「それでは息子のこと、よろしくお願いします。……それと、お名前を伺っていなかったのですが……」
 そうおずおずと問うと、男は目を瞠り、笑って、すみませんと頭を下げた。そして再び懐に手を入れ、取り出した小さな紙を彼女に差し出した。彼女がそれを受け取り、視線を落とすのと同時に彼は言った。
「捲簾、と申します」


+++


 少年は、母親が出て行ってから小さく溜息を吐いた。何も映さない澄んだ眸が揺れて、きつく瞼に閉ざされる。少年はあれから殆ど眠っていなかった。赤ん坊の頃から自分を大切に育ててくれた乳母の死と、初めて直面した命を狙われる恐怖に、安心して意識を沈ませることなど出来ようか。呑気に寝ている間に死んでしまうなんて、絶対に嫌だった。この部屋も、誰かが見張っているのだろうかと思うと、その格好のまま動くことが出来ない。ドアの向こうからは母の声と、低い男の声がくぐもって聞こえてきた。その声がやみ、静かにどあの閉まる音がする。とうとう、母は帰ってしまった。カーペットの上を硬質な靴が歩く音がして、少年は体を僅かに竦ませる。しかしそんな風に怯える自分を認めたくなくて、ぎゅっと唇を噛んで震えそうになる身体を食い止めた。ドアノブがそっと回される音に、拳を強く握り締めた。
 ドアがゆっくりと押し開けられ、黒い革靴が見えた。見上げることが出来なくて、ひたすら足元ばかり見つめていた。彼はそのまま、ドアの前から動かない。自分が顔を上げるのを待っているのだろうか。ならば睨んでやる、と考えた少年は、かなりの負けず嫌いだった。
 少年は顔を上げた。そしてドアの前に立つ、黒の男を見上げる。細く長身の身体はバランス良く、日本人離れしている。自分には決して望めないであろう雄々しい体格。そして整った、男らしい顔立ちに切れ長の目。その強い黒の眸に囚われて、気付いた時には動けなくなっていた。その薄い唇が、ゆっくりと動き出すのを目を逸らすことも出来ずに見つめていた。それでも男はひたすらに優しく、そんな少年を見下ろしていた。
「……お前、名前は?」

 名前は知っていた。しかしそれ以外に、会話を切り出す方法が見付からなくてそう訊ねた。
 ドアを開けてすぐ、ベッドの縁にちょこんと腰掛けた少年が見えた。髪の毛は肩に付くか付かないか程度で、黒縁の眼鏡を掛けている。そして頬には大きなガーゼが付けられていた。恐らくそれが侵入者によって付けられた傷だ。俯いた顔は青白く、見るからに怯えていて、他に緊張も混じっているだろうか。幼い頃から世話になっていた乳母の死と己の命を狙われたことによるショックに加え、初めての来日によるストレスも重なって、普通の状態ではないことは確かだ。少年の視線は、自分の足元へと向かっていた。入って来ていることには気付いているだろうに、顔を上げようとしない。余程緊張しているのだろうとは分かるし、だから迂闊に踏み込めない。自分の何も考えない行為が彼を簡単に壊してしまうことは明らかである。と、その瞬間、少年の瞼が小さく震え、白くなるほど噛み締められていた唇が解放される。そして、徐にその顔が勢いよく上げられた。
 まずその視線の強さに惹き付けられた。榛色の大きな双眸が捲簾を捉える。白い肌に、噛み締められて赤みを増した唇。その唇は一瞬震え、その後ゆっくりと言葉を形取った。
「……天蓬」
 まだ変声期前の澄んだ少年の声が、捲簾のデータ通りの言葉を紡いだ。その眸はまだお前を信頼などしていないと言わんばかりに強気に光り、威嚇を続けていた。よく出来た造作の、本当に綺麗な子供だった。先程顔を合わせた彼の母親は、どちらかと言えば可愛らしいタイプで、寧ろこの子供の方が美しいという言葉が似つかわしいようにすら思える。それだけに、白い頬に当てられた大きなガーゼが無粋で、惜しいと思えてしまうのだった。
 顔を上げてくれたことと一応返事をしてくれたことを許可と受け取り、捲簾は開いたドアをそのままに、天蓬へと一歩近付いた。それでも、まだ酷く怯えるような様子は見せないのを確認してもう一歩近づく。それを休憩を挟んで何度か繰り返し、やっと天蓬から一メートルほどまで近付くことが出来た。彼はそれでも強気の視線を止めようとはしない。その気丈さが何だか逆に気に入った。元々気の強い人間は嫌いじゃない。それはあくまで今までは女に限っていたが。
 ベッドの縁に腰掛けた天蓬の元に片膝をついて、彼を見上げる。突然の行動に彼は少し戸惑ったように捲簾を見下ろす。
「俺が、これから全捜査が終了するまでお前を警護する。捲簾だ」
 そう言って、握り返してもらえないのを覚悟で右手を差し出す。それを見て目を瞬かせた彼は、暫し逡巡した後に恐ず恐ずと自分の白い右手を差し出して来た。そして小さな力で、そっと捲簾の手を握り返す。その手は冷たく、やはり少し緊張しているのだということが分かった。その手を少し強い力で握り返してやると、彼は少し驚いたように手を引いた。それに笑って捲簾はその手を解放し、すぐに立ち上がった。天蓬の目が立ち上がった捲簾を追う。そんな子供を見下ろして、捲簾は自分のスーツのボタンを外した。そして彼の肩からそれを掛けてやる。彼は薄手のカットソーを着ていたが外は少し冷える。
「ホテルは何かと危ない。まず本局に戻ろう」
「本局……?」
「この国の中での、な。世界中で数えればきりがない」
 そう言ってから、彼の腕を引いてベッドから立たせる。荷物は何もないようだ。ならばもうこの部屋には用はない。自分よりかなり位置の低い肩を抱いて足早にドアへと向かった。そしてドアを薄く開け、外の様子を窺う。そんな捲簾を子供の興味深げな視線が追いかけてくる。爛々とした眸を見下ろして苦笑いをする。
「……珍しいか」
「……それはそうでしょう」
「言えてら」
 こんな非日常的な出来事、遭遇するのは人生に一度切りで良い。しかし悲しいことにそれを職業としてしまった捲簾は、そんな非日常を日常とすることを強いられ実際そうしてきた。だからついついこれが普通なのだと思ってしまうことが日常生活でも度々あり、そのギャップに時折悩むのである。普通の人間はふと届いた封筒から何かが飛び出してくるとか、毒が塗られているとか考えはしないだろうし、生活において自分の指紋を神経質に拭き取ったりはしないだろう。ましてや、ホテルの部屋から出た途端に誰かから銃撃されるなんてことは、映画の中だけのはずだ。
「まあ、この日本でドンパチやらかすわけねぇか……」
 そう呟いてしまってから、腕の中の子供がふと表情を曇らせたのが分かった。そしてここへ向かう前に篠江から忠告を受けた言葉を思い出す。今の彼は普通なら何でもない言葉でも簡単に傷付いてしまうのだった。罪悪感に苛まれながら、俄かに俯いてしまった少年の薄い肩を少し力を込めて抱き寄せる。驚いて弾かれたように顔を上げた少年に力強く笑い、その額を指先で突付いた。
「見縊んなよ、俺は銃の腕にも自信あんの」
「……」
「不安がるより、まず俺を信じることからだな」
 そう言うや否や、捲簾は彼の腕を少し乱暴に引いて部屋を出る。そしてすぐ近くにあったエレベーターに乗り込み、閉のボタンを連打してエレベーターのドアを閉めた。ゆっくりと下へ向かって動き出すエレベーターの中、微かなモーター音だけが耳に届く中で、天蓬は小さく捲簾のシャツの袖を引いた。それに気付いて振り返ると、僅かに不安げな色を浮かべた目が自分を見上げていた。
「……誰かいたんですか?」
「……、んー、ボーイがな」
「ボーイ?」
「従業員だからって無条件で信じることは出来ねぇってこった。金で買収されてる場合もあれば、盗まれたボーイの制服で忍び込んできた全くの偽者の場合もある。……どっちにしても、まずは何か疑うことからっていうのが、悲しいけどな」
 最後に呟くようにそう付け足した捲簾に、天蓬は掴んでいた袖からゆっくりと手を離し、小さく俯いた。照明の光がその白い肌を滑って赤味を帯びた唇を濡れたように光らせる。頭が少しくらりとした。乾いてしまった唇を舌で湿らせてから、ゆっくりと彼へ手を伸ばす。そして、少し明るさを帯びた濃茶の髪の毛を撫でてやった。