ルームシェア、というものをしている。相手は男だ。歳は同い年。性格は、お節介。 会社の転勤で訪れた町は地価が高く、アパート一つ借りるにも家賃が高かった。それなりの稼ぎはあったのだが、家賃などのために本に掛ける費用を減らしたくはなかったのである。とりあえず条件のいいアパートの一室を借りてから、不動産屋にお願いをしてシェアメイトの募集を始めた。自分と同じ状況の人は多くいたのだろう。お願いをしてその日に一人応募者が訪れた。男だった。ただ、その男の目がこちらを見た途端色を変えたのを見て玄関の時点でお引取り願った。いくら家賃を半分払ってくれるとしても毎晩身の危険を感じたくはない。そんな危険など感じ慣れているのだが、やはり嫌なものは嫌である。 その男を押し返した次の日、また一人応募者が訪れた。女だった。一般的に言えば美人なのではないかと思った。しかし、彼女もまたこちらを見た途端何か心の変化があったようだった。彼女もまた家にあげる直前で丁重にお断りした。男女の面倒なかかわりは遠慮したい。こちらは家賃を半分払ってくれる他人を探しているだけで、同棲だなんてとんでもない話である。人との付き合いは広く浅くが一番楽だった。今までもずっとそうしてきた。そして利益が伴わなければ意味がない。プラスがないだけなら兎も角、マイナスになるようなパートナーなら荷物にしかならない。 そしてまた次の日、三人目の応募者が現れた。男だった。それが今のシェアメイトである。 名前は捲簾と名乗った。有名な商社に勤めているらしい。その男は僕に興味があるようではあったが、一人目の男のような不快な舐めるような視線ではなく、動物園でパンダをまじまじと眺めるのと同じような視線だった。 そして何故か三十分後には部屋の肩付けを手伝わせられている自分がいた。いや、厳密に言えば手伝わせられるのはあちら側なのだけれど、僕自身は片付けるつもりがなかったのだから手伝わせられているのはこっちの方だ。ほぼ夜中まで片付けをさせられ、そしていつの間にやら彼が買って来たビールを呑んで、そのままその日は眠りに就いてしまった。 そしていつの間にか、彼が家に住んでいた。書類をいつどうやって取り交わしたかなども覚えていないが生活は続いている。別に不満はない。煙草に関しては彼もよく吸うタイプらしいので匂いについてどうこう言われることもないし、止めろと諭されることもない。ただ一つ、どうしようもなく不満なのは彼の几帳面さだった。以前など彼が勝手に片付けをしたせいで持ち帰り仕事のディスクが部屋の中で行方不明になったこともあった。その日は二人で夜中までかけて部屋をひっくり返して探す羽目になり、見つかった時には片付けをする前よりも酷い有様になっていた。あのごちゃごちゃの部屋にあったら余計に分からないだろう、と彼は言うのだが、僕自身は自分の置いたものの場所くらいは把握しているのである。余計に手出ししないで欲しいものだ。そう言ったら、部屋の汚い奴は大概そう言う、と一蹴された。ああ言えばこう言う。部屋の汚い人はそのぐらい皆分かっているのだ。あなたのような人間には一生分からない。 その以後、勝手に片付けをしようとするのを止めたのは良かったのか良くなかったのか。今度は片付けに僕をも引っ張り出すようになったのだった。ああ本当に勘弁して欲しい。 お節介な男なのだ。自分では家庭的の間違いだろ、と言うのだが、度が過ぎる。ただの同居人の生活に口を出すなというのだ。 僕は研究所に勤めている。そのせいで休日は不定期だし出勤時間もまちまちで忙しい時期になれば寝る時間もない。 構わないで下さい、と告げてみた。取り合ってもらえなかった。それどころか毎朝しっかり朝食を摂らされ、何故か弁当まで持たされる。それがまた美味しいので何とも文句も言えずに毎朝それを受け取るのだ。しかしそのせいで彼女が出来たらしいと職場で噂になった。どんな子だと聞かれるのは面倒だが、言い寄る人間が減って少し楽になった。 しかし、僕に作る余裕があるのだから、ひょっとしたら自分の分と彼女の分でも作って余ったのを分けてくれているのかも、と思い、こっそりと朝早起きして台所を覗いてみた。だけど並んでいるのは弁当箱二つ。おかずは勿論冷凍食品なんかではなく細々と手作りだ。暇だな。そんな時間があるのならもう少し睡眠時間がとれるのに、と思えてしまう。 そして、こっそり覗いているのがばれてコーヒーを淹れさせられた。屈辱だ。 一体何が楽しいのか、彼はよく笑う。それが、悪戯を成功させたガキ大将のような笑顔なのでついつい毒気を抜かれてしまう。 容姿は悪くない。そして家庭的(本人談)。野性味もあって、割と優しい。女性から見れば高得点間違いないだろう。 しかし、彼の裏には女が見えなかった。僕がいない間に女を連れてきているのだろうと最初のうちは思っていたけれど、その割に香水の匂いだとか化粧品の匂いだとか、香ったことがないのだ。別に僕はただの同居人なのだから気を使って匂いを消したりする必要はないはずなのに。会社から帰って寝るまでの時間はほぼリビングでだらだらしている男だ。夜に遊びに出ることもない。それに、殆どの日に僕よりも先に帰宅している。いつ女と会っているのだろう。会うとしたら会社にいる間だけれど、だとしたら余計にいちゃつきづらいだろう。だったら、会うのは休日のみ、ということだろうか。我慢強い女もいたものだ。 まさか、彼女いないのだろうか。それとも、特定の恋人を作らない主義なのか。 どっちでもいいと思いつつ、それでも段々と彼の人となりが知れるにつれて気になってくることが多いのも否定出来ない。つまるところ。 ―――――何なんだこの男は。 ……ということだったのだけれど。 思い悩むのは嫌いだ。しかもそれが誰か他の人間のことであれば尚のこと。というわけで、思い切って聞いてみた。 彼女はいないんですか。 今はいねぇよ、と一蹴された。意外とモテないんですね、と言ったら、がっくりと項垂れて恨めしげな目を僕に向けた。何ですかその目。モテないのは僕のせいじゃないでしょうに。彼は、ここに越して来る時に別れて来たのだと言った。元いた地名を訊くと、結構遠方だった。遠距離は続かないと分かっていたのだそうだ。まあ確かに。しかし、別れてきたならこっちで新しい彼女を作ればいいのでは、と言うと、彼はゆっくりと首を横に振った。 作る予定だったけど、やめたと言うのだ。何だかその話し方が妙に恨めしげで、何だか責められている気分になった。そしてシェアメイトがいる状態じゃ女も連れ込めないでしょうしね、と嫌味たらしく告げると、彼は一瞬目を泳がせて、まあな、と言った。図星か。まあ、早く金を溜めて一人で暮らしたらどうですか、と言ったら、彼は抑揚なくうん、と言って、頷いた。 この人もいつか出ていくんだ。彼女が出来たり、結婚したりして。そしたら、この家も今よりずっと広く思えるんだろう。 過密スケジュールなんていつものことだ。過労で死んで労災でお金がおりなくても、残す家族がいるわけでもあるまいしどうでもいい。誰か優しい人が焼いてうちの墓に入れてくれれば嬉しいなぁなんて漠然とした思いはあるけれど、そうならなくて共同墓地に入れられても死後のことだし気にはしない。死んだ後のことなんか知るか。 疲れてふらふら家に帰って玄関で力尽き、玄関マットの上で寝る生活なんて珍しくもなかったのだけれど、初めてそれを見た彼はうっかり僕が行き倒れたのかと思ったらしい。いつも余裕に満ちた顔つきをしているくせにその時ばかりはどこか焦った顔をしていた。僕も寝惚けた目で見ただけだから見間違いかもしれないけれど。眠たいから寝せておいて欲しいのに無理矢理抱き起こされて頬を叩かれて、耳元で大声で名前を呼ばれて。寝させて下さいお願いします。そしてそのまま、彼の呼びかけに応えることもなく僕は寝てしまったらしかった。 次の日の朝、目覚めと同時に怒られて、布団の中で寝ぼけた目を擦りながら縮こまった。何だこいつは。 説教を聞くともなく聞きながら、怒るほどのことじゃないじゃないですか、と言ったら余計に怒られた。どうやら熱も出ていたらしい。頭に濡れタオルを押し当てられて再びベッドへ戻らされる。今日は休んで寝ていろと命令して、彼は心配そうにしながら出勤していった。 そうは言うもののそういうわけにもいかなくて、しかし出勤する元気も出ない。というわけで痛む頭とだるい身体とむかむかする胃を押さえながら、ノートパソコンをローテーブルに置いて仕事を始めた。家でやってデータは同僚に送ればいい。彼にばれたらまた怒るだろうから彼が帰ってくる前に終わらせてベッドに戻っていればいい。 なんて思っていたら、パソコンを打っている途中に落ちて、リビングでぶっ倒れていたらしく結局また怒られた。 再びベッドの住人となった僕に薬を手渡しながら、彼は、詰めが甘い、と一言だけ言った。 そうですね。もっとばれないようにやればよかった。だけどあなたがそんなに心配すると思わなかったんですよ。 ベッドサイドの時計を見れば、まだそう遅い時間ではない。もしかして仕事を早く切り上げて帰ってきたのだろうか、この男。ただの同居人が寝込んでいるというだけで。……それとも僕が何かやらかすのを見越していたとか。それはそれで憎たらしい。 薬の効き目でうとうととしながら布団に包まっていると、そっと音を立てないようにドアが開けられて男が入ってきた。手には小さな土鍋。あれ、うちに土鍋なんてあっただろうか。いや、大方この男の私物だろう。 少しでも食べられるか、なんて言って差し出された土鍋には卵粥が入っていて、そのまま放っておけば“あーん”なんてやらかしそうな彼に腹の底から溜息が出た。世話好きとか、面倒見がいいというレベルじゃない、これは。差し出される蓮華を奪って少しずつでも食べ始める僕に彼はほっとしたような顔をして腕組みをして見ていた。美味しかったです。 あなた、小学校の先生とか向いてますよ、と言ってみた。彼が怪訝そうな顔をするので、少しおかしかった。もしくは保育士さんとか、と言うと、彼が僕の意図するところに気付いたのか、むっすりと不満そうな顔をして僕にデコピンをした。痛いです。 そして予想していなかったといえば嘘になるが、彼がやっぱり風邪を引いた。移った。やっぱりな。 勝手に移されやがって、という気持ちがないわけではないが、あれだけ献身的に看病をしてもらってその相手に移した、となれば良心が痛まないはずもない。しかし完全に治ってしまった自分が仕事を休むわけにもいかない。 僕のことはあれだけ心配したくせに、自分がそうなると彼は僕を邪魔者のように扱い、さっさと仕事に行け、と家から追い払った。仕事に向かう電車に揺られながら、一つの可能性に気付く。風邪を引く→女友達などが看病に来る→いいムード。これではなかろうか。だから僕がいるとまずいのだ。なるほど、それならそう言え。 何となく説明のついた彼の行動に、一先ず人込みの中で溜息を吐いた。だったら早く帰る必要もあるまい、それどころか今夜は少し遠慮して帰るのをやめようか。昨晩の看病のお返しに。 しかし気にし出せばずっと気になるものである。だって、今の時間なら彼女たちだって仕事ではないか。それに平日の夜だから来られるかどうかも分からない。あんな人だから僕のように日中無茶をするということはないだろうけど。 結局、止せばいいのに仕事を早めに切り上げて僕は家路についた。買い物は普段彼に任せているのだけれど今日は自分でスーパーに寄った。アパートに着いてから、少しだけ考えた。 そして、鉢合わせは面倒なので、静かにドアを開けて、とりあえず靴があるかどうか確認することにした。女物の靴はない。あるのは彼のスニーカーと革靴だけだ。態々隠す理由はないから、来ていないのだろうか。それとも隠したくなるような女なのか。 そろりと靴を脱いで家に上がる。しかし誰かが居そうな気配はなかった。 スーパーの袋をリビングに下ろして、背広を脱ぎながら彼の部屋のドアの前に立った。中から声はしない。ゆっくりとノブを回して、少しだけ中を覗いてみる。ベッドの上の布団は膨らんでいて、彼が大人しく寝ていることが分かった。時折布団の中から、篭ったような、湿った咳の音が聞こえて、布団が揺れる。 けんれん、と名前を呼んでみた。するとその膨らみはびくりと動き、布団が跳ね除けられた。そして起き上がろうとする彼を手で制して部屋の中に踏み込む。そういえば彼の部屋に入るのは初めてだった。寝ていて下さい、と言うと、少し驚いた顔をしたままで、それでも彼は大人しくまたベッドに横になった。 こんなに早く帰ってくると思わなかった、とぽつりと呟く彼に、早めに切り上げてきたんです、感謝して下さい、と返す。すると彼は、零れんばかりの子どものような笑顔を見せた。何なんですか、それ。ひょっとして、さびしかったんですか。 一旦リビングに戻って、買い物袋の中から冷却シートを取り出す。濡れタオルよりは効率がいいだろう。それを彼の額に貼り付けてやると、少し彼は憮然とした顔をした。格好悪いから嫌、らしい。風邪っ引きが何を言うんですか。 文句を言う彼を置いて、台所へと入った。そして昨日の土鍋を勝手に拝借する。そして米から粥を炊きながら、隣のコンロに鍋を置き、日本酒を入れて温め始めた。 ぜえぜえと息を吐きながら横になっている彼の部屋へ入る。そして視線をこちらに向けた彼にマグカップを突き出した。 何、と掠れた声で言う彼に玉子酒です、と言うと、ものすごく訝しげな顔をされた。きっと料理など何も出来ないと思われていたに違いない。そんな風に驚いた顔をするのがおかしくて、思わず笑ってしまった。料理が出来ても、玉子酒まで出来ると思わなかった、というのが本音らしかった。姉が体の弱い人でしたから、と言うと、彼はそれ以上何も聞かなかった。 聞かれなくてよかった。姉はもう死んでいる。大人しくて清楚で、いかにもか弱い容姿の彼女は味にはうるさかった。一度玉子酒に生姜を入れたら微笑みながら怒られたこともあったような。そんな経緯で作れるようになったものだから、彼は割と心の中で気にしているのではないかと思う。別に僕は話すことに抵抗もないのだけれど、こういうことをやけに気にする人がいるものなのだ。 台所に戻って鍋を覗いてみれば丁度良い硬さの粥が出来ていた。とき卵を入れ、固まり始めたそれを程好く散らして、味をつける。そして完成、と思った瞬間、リビングに置いてきた上着のポケットが、メールの受信で震え始めていた。 先に鍋を部屋に運び、薬と水を置いてからリビングに戻ってメールを確認した。部下からだ。僕が早く帰るとこういうことになるから、だからいつもなかなか早く帰れないのだ。部下に電話を掛け、訊かれた内容を指示すると大変良い返事が返ってきた。ただ、また一時間後くらいには電話で泣きついてくるんだろうな、と思い、携帯電話をソファに投げた。 そして再び彼の部屋に戻ってみると、やけに真剣な顔で誰が作った?と訊かれた。そういえば味見をしていない。だけどそこまで不味かったかなぁと思いながら、僕ですけど、と答える。すると、少し拗ねたような顔で、料理出来るんじゃねえか、と言われた。何で料理が出来るくらいで怒られるんだ、と思いながら姉が死んでからずっとひとりですから、とつい答えてしまった。そうしてから、言ってしまった、と気付いた。彼も少し顔を顰めていた。気にしなくて良いですよ、というのも何だかおこがましいようで、しばらく口を噤んでいた。しかしそれが彼には傷ついているように見えたようで、ぽつりとごめん、という言葉が聞こえてきた。 くすり、と笑って、美味しいですか、と聞いたら、まだまだだ、と返ってくる。その小気味良さがおかしかった。 その割に彼は、今度お前が晩飯作れよ、と言い出した。嫌です、とにっこり笑って返しておいた。 長く続かないのは分かっていた。だけどあまりに急で、少し戸惑ってしまう。 それから数週間後、彼の部屋に賃貸住宅の情報誌が置いてあるのを見た。最新号で、いくつかポストイットがついていた。少し見てみればその物件はどれも一人で暮らすには大きいものだ。とうとう彼女か、結婚したい人が出来たのだろう。 それはおめでたいことだ。彼なら少々生活のだらしない女の子でも大丈夫だろう。 それにしても……いつ、僕に言い出すつもりなのか。それが気になった。彼がいなくなれば新しいシェアメイトを探さなくてはいけない。いなくなる直前に言われたのでは困る。 その雑誌を閉じ、瞼を閉じた。 その日の夜は酒宴となった。酔ったら彼が少しでも話しやすくなるのではないかと思ったのだ。 明るい表情をしながらも時折何か考えるような仕草をするのは、いつ僕に言い出そうか考えているのだろう。早く言ってくれればいいのに、と思う。うるさく鳴っていたテレビを切る。すると、部屋の中は外から聞こえる虫や鳥の声、車の音しかしなくなった。目の前の彼が舌で唇を湿らせている。それを横目に、つまみのあたりめを咥えてぼんやりとした振りをすることにした。 ちょっといいか、と彼が切り出した。その瞬間、諦めのような安堵のような感情が湧いて、思わず口元を緩めてしまう。 何ですか、と笑って彼を見つめる。少しでも彼が話しやすいように。 来週、ここを出ていくからな、と言った。分かりました、と答える。来週。それはまた随分と早い準備だ。元々彼はここに入ってくる時にそんなに荷物を持ってこなかった。一週間かけてゆっくり準備すれば十分だろう。 彼はあまりにも驚かない僕に逆に驚いたようだった。それはもう、数週間前から考えていた返答だったから、思わずするりと口から出たのだ。もう少し、惜しむようなことを口にするべきだったか。それとも、彼女のことをもう少し詮索する振りをすれば良かっただろうか。結局、そのどれも口に出せずに僕は曖昧に笑った。そしてお世話になりました、と口に出してみる。普通なら、世話になったのは彼の方なのだろう。だけどこの数ヶ月、世話になってばかりだったのは僕の方だった。 彼もまた、僕のその言葉に少し戸惑ったような顔を見せた。そして顔を少しむっとしたようなそれにさせて、ダイニングテーブルの向かい側から、顔をずい、と近づけてくる。酒臭い。そして動いた、彼の唇は。 アンタも来るんだよ、と動いた。 暫く目を瞬かせながら彼を見つめた。彼は珍しく緊張しているようだった。そして何でまた、と気の抜けた返事をしてしまった僕に、がくりと頭を垂れた彼は、そのままばたばたと部屋へ舞い戻っていった。そして再び戻ってきた彼の手にはこの前僕が見た情報誌がある。彼はその中の一ページを示して、赤いペンで丸がつけられた物件をトントンと指差した。 来週ここに移るから準備しとけ、とそれだけ言ってその雑誌を放り出し、再び酒を呑み始めた。 その雑誌を見てみる。場所はこの家から最寄駅を挟んで反対側だ。僕の出勤先には少し遠くなる。間取りはこの家とほぼ同じだが部屋が少し大きめにとられている。家賃はここよりは高めだが、二人で折半してこの間取りなら安い方だ。しかし。 何で僕も一緒なんですか。出勤先まで遠くなるんですけど。荷物の準備が面倒です。 そうしてどう悪態を吐こうか、と考えはするものの、嫌です、という言葉が思い浮かばなくて苛立った。 結局何と言っていいか分からなかったので、一言だけ、どうしてですか、と聞いた。 正面で缶ビールを口にしていた彼は都合悪そうに目を逸らして、アンタを置いてったらそのうち餓死しそうだから、と言った。嘘だ。だってこの人は僕が料理を出来ることをもう知っている。それに今までずっと一人だったことも知っている。何でまたそんな嘘を。 借りた直後に一緒に住む予定だった彼女に振られたとか。そう訊いたら彼は顔を顰めて、そんなんだったらすぐに取り消してる、と言う。 そんな。それじゃあ端から僕を連れていくつもりだったみたいじゃないですか。 彼の話によると、この辺一体はそのうち区画整理のために引き払いや何かでごたごたになるらしい。このそう新しくないアパートもその対象になるに違いない。しかしだったらそう言ってくれれば僕もゆっくりと他の物件を探したのに。そう言ったら、段々酔っ払い始めた様子の彼は、ぐりぐりと僕の頭を撫でて、アンタの世話が出来んのは俺くらいだろ、と笑って言った。 そのうち彼は一人で酔い潰れてしまった。珍しい。大概彼は後片付けをしてからきちんとベッドで寝るのに。酔い潰れて眠っている彼の横顔と、雑誌を見比べる。これはもう、拒否権はないのだろう。むしろ、拒否権を与えられないくらいが心地好いのかも知れない。 ぺらり、と雑誌のページを捲る。見るともなく広告を眺めながら、雑誌を閉じた。そして彼の脇に置かれた缶ビールを奪って残りを飲み干す。温く炭酸は抜けていて酷く不快なのにどこかすっきりする気もした。まずい、と呟くと、眠っている彼が小さく唸った。 この生活は、一体いつまで続くであろうか。 夏に近付いた夜風が、ベランダからふわりと流れ込んでくる。 書いた私が一番楽しい。補完は逆サイドバージョンで。 title by ロデオ * 2006/4/30 ![]() |