ルームシェア、というものをしている。相手は男だ。歳は同い年。性格は、ズボラ。

 会社の転勤で越してきた町は、酷く地価が高かった。雑誌を見ても不動産屋に行ってもどこも前にいた町よりもずっと高かった。それは別に払えない額ではなかったけれど俺だってまだ若い。他に使いたい用途もある。それを家賃にとられてしまうのは少し惜しい。
 そんな時にふらりと立ち寄った不動産屋で店の親父に勧められたのはルームシェアだった。
 丁度同じ年頃の綺麗な人が同居人を探しているんです、男性ですけどね。そう言って店の親父は笑った。
 俺は別に人付き合いが苦手なわけでも、人見知りするわけでもない。ただ、実は人と深いところまで付き合うのは好まなかった。それはごくごく親しい友人も知らないことだ。話していないから。
 もしもその男が人のパーソナル・スペースまでずかずかと入り込んでくるような男だったらとてもじゃないが無理だ。それでも、とりあえず会って話をしてみないかと彼に言われ、地図を渡された。そのアパートは一度候補に入れたものの家賃の高さにやめた物件だった。もし二人で折半するとすれば以前住んでいたところよりも安く上がる。
 教えられた名前を口の中で唱えるように呟きながら、その地図をなぞった。話を聞けばその男、今までに俺の前に二人と会っているらしいがいずれも断ったという。お眼鏡にかなうのは難しいみたいですがね、と店の親父が言っていた。
 どんな男だろう。その気難しい変人は。

 変人、というのは言葉の綾だったのだけれど、本当に変人だったらしい。ただ、店の親父の言う通り本当に綺麗な男だった。
 チャイムを鳴らすと、家の中からトタトタと足音がした。そして中からドアが押し開けられる。眼鏡越しの鳶色の目が俺をじっと見つめた。射竦められたように動きがとれなくなる。別にその目が鋭かったわけじゃない。ただ、綺麗だと思ったから。綺麗な男、と聞いてナルシシストの可能性も考えていたが、一見してその可能性は消えた。もしナルシシストならばもう少しまともな格好をするだろう。伸びるに任せたといった感じの半端な黒の長髪に、くたびれたワイシャツ、皺の残ったままのスラックス。眼鏡は少し野暮ったい黒ぶちだ。同じ男の俺でも、これは勿体ないと思えてしまう。
 俺がまじまじと自分の姿を見ているのに気付いてか、仕事から帰ったばかりなんです、と彼は一言言った。気を悪くした様子はない。ただ、酷く疲れた様子だった。溜息を吐きながら迎え入れられた家は……酷かった。俺も男だ。友人に部屋の汚い男なんてザラにいる。しかし彼の顔とのギャップで余計に酷く思える。本当に勿体ない。と、思ったものだから。
 彼が仕事で疲れているであろうことも忘れて、部屋の片付けに駆り出した。洗濯機はフルで回して散らばった本は本棚に戻し、雑誌はマガジンラックに放り込む。もう使わないタオルを裂いて雑巾にして廊下を雑巾掛けする。脱水の終わった洗濯物をベランダに干すように言い置いて、近くのコンビニへと出掛けた。外はもう暗い。冬から春へと移り変わりつつある今は、夜もまだ少し寒い。そういえば、まだ彼も自分も、シェアリングの同意などしていないのだった。
 しかし、まあ後で言えばいいか、と思い、酒類を買い込んで家路に着く。まだ一日も共にしていないのにこんなに気軽に決めて良いのか分からないままだったが。

 そしていつの間にか俺はその家に住んでいた。ほぼ仕事や本以外には無頓着な彼に代わって書類などの方は全て俺が片付けた。
 天蓬と名乗ったその男は、有名な製薬会社の研究所に勤めているという。如何にも、という風体ではある。一週間で一体何時間寝ているのだろう。一週間で何食口にしているだろう。そんな普通の人なら当たり前だろうと言うようなことまで疑ってしまうほどに浮世離れしていた。とりあえず朝はコーヒーの生活らしい。俺からすればとんでもない話だ。朝食は一日の糧だぞ。
 食事を摂らない、睡眠を摂らない、煙草は一日五箱、酒は底なし。これだけ揃えばどんな廃人が出来上がるだろうか。若くしてシワシワ、ビールっ腹、歯はスカスカの爺さんのようになってしまっても可笑しくない生活ぶりだ。なのに肌は女が羨むほどに無駄にぷりぷりつやつや、髪の毛もさらりとした漆黒が美しい。あれだけ煙草を吸っても虫歯はゼロ、歯肉炎もない。神に愛された、というよりは、天に贔屓されたような存在だと思った。だからもう少しまともな生活をしろ。そう言ったら物凄く怪訝な顔をされた。

 きっちり片付けをしても三日放置すればジャングルになるこの家は、俺の世話焼き根性をこれ以上なく刺激した。どうしても勝てない敵を目の前にするようなもの。基本的に彼は出した本は元に戻さない。脱いだ服はその場に置く。まあゴミを真面目に出しているだけましか。それも“本を快適に読める環境を作るため”、らしい。どこまでも仕事と本中心の生活なのだ。ていうか快適に本を読みたいなら部屋を片付けるのがまず先ではあるまいか。バカと何かが紙一重、というのはこういうことなのだと思う。何と言うか、どうも彼は生活の感覚がバカなのだ。
 しかし俺が反省すべき点もある。彼が、物の置いてある場所は大体把握してあるから動かすな、と言ったにもかかわらず俺が勝手に部屋を片付けたところ、彼が職場から持ち帰った仕事のディスクが部屋の中で行方不明になったのだ。夜通し部屋を探したところ、結局見つかったものの、その後の部屋の有様といったら、片付ける前よりも酷くなっていた。そしてただでさえ仕事疲れが溜まっていそうだった彼は、その後失神するように眠ってしまった。
 パーソナル・スペースを侵すような人間に近付きたくないなんて思いながら、そうしていたのは俺じゃないのか。

 そして後日、想像していた通り彼が言った。構わないで下さい。俺も出来るならもう構わないであげたい。しかし、気になるものは気になるのだ。というわけでお詫びと言ってはなんだが、食事は一手に引き受けることにした。放っておけば何も食べずに生きていそうな男のことだ。俺は顔に似合わないとよく言われるが毎朝弁当を作ってから出掛ける。自分の口に入るものを作るわけだから苦ではない。その作る量が倍になることも、特に気にしない。
 最初の頃こそ少し訝しげな、少し迷惑そうな顔をしたこともあったが、そのうち彼は黙っていても自分に宛がわれた弁当箱を持って出掛けるようになった。そしてちゃんと空にして帰ってくる。確証はないけれど、そこらに捨てるタイプには見えなかったからきっと食べてはいるのだろう。これでも料理の腕には少し自信があるのだ。不味いとは言わせない。朝食や夕食の際の彼の様子を窺いながら味付けを調整していくと、段々彼の好みも把握出来るようになってきた。とりあえず、目玉焼きに何かをかけると怒られるというのは学習した。
 ある日の朝、背後から微妙な視線を感じた。奴だ。細々と弁当のおかずを作る後ろ姿を何故かじっと見つめているようだ。何かあったのだろうか。しかし声をかけないということは、気付かれていないと思っているのだろう。何の意図があるのだ。とりあえず声をかけてみるとやっぱり気付かれていないと思っていたのか、ぴくりと彼の体が揺れた。とりあえずコーヒーを淹れさせた。滅茶苦茶濃くて舌が焼けた。しかしやっぱり彼は平気でブラックのまま飲んでいた。どんな胃だ。

 何が面白くないのか、彼は殆ど笑わない。いや、笑わないといえば語弊がある。どこか冷たいのだ。笑いたくて笑っている顔じゃない。それは人間関係を円滑にするための潤滑剤なのだ。それが分からないままならきっと“綺麗な笑顔だな”で終わっていただろう。だけどその裏にあるものに気付いて、気になってしまったら。
 ある日彼に、彼女はいないのかと訊かれた。訊かれた内容よりも彼が俺に興味を示したということに驚く。そして一瞬返事が遅れた。それを誤魔化すように今はいねぇよ、と答えた。そのせいで少しぶっきらぼうに聞こえたかも知れない。
 作る暇もあったものじゃない。自分でも世話女房のような生活をしていると思う。女は好きだが、それらが高級な花のようにとてもとても手が掛かるというのは否定出来ない。今はそんな手の掛かる女など作る余裕はない。虚しいことだ。しかし彼は、その女たちのようにポイッと捨てられないような存在だったから。
 唇を尖らせて、ふうん、と呟いた彼は、意外とモテないんですね、と続けて呟いた。モテなくねぇよ。アンタのせいだ。
 作る予定だったけど、やめたんだよ。そう言うと彼は何だか少し微妙な顔をして、シェアメイトがいる状態じゃ女も連れ込めないでしょうしね、と少し皮肉混じりの口調で言った。自分が責められたと思ったらしい。察しのいいところは褒めてやるよ。
 しかし、少しその言葉は俺の気持ちとはずれていて、何だか微妙な気分を隠しきれずに目を逸らした。それをどう思ったのか、彼はコーヒーを啜りながら、早く金を溜めて一人で暮らしたらどうですか、と言った。ぼんやりとしたまま、うん、と返す。彼は、よく分からないような表情で俺をじっと見つめていた。

 彼が死ぬとしたら死因は肺癌か、もしくは過労死だろう。
 俺の勤める会社は終業時間が割としっかり決まっている。真面目に仕事をこなせば、書き入れ時以外はそんなに残業することもない。終業後は同僚と飲みに行ったりすることも度々あったが最近はあまりそんな気分にならず、ほぼ毎日そのまま家に帰っていた。
 その日も俺は家に帰ってゆっくり夕飯の準備をしていた。しかし彼の帰りが遅い。いつも帰りの遅い彼だが、大概夕飯の準備をしているうちには帰って来るのだ。しかし今日はもう準備が終わりそうだ。どこをほっつき歩いているのだろう。大方本屋か。しかし、こんな時間に開いてんのか?彼から借りている小説に目を落としながら、くらくらと小さく煮立つ鍋を前に、彼を待った。
 そして何十分経っただろう。カチリ、とドアノブが回される音がして、革靴の足音が響いた。やっと帰ってきたらしい。小説本に栞を挟んで閉じながら、随分煮込まれたスープ鍋を掻き回した。……その瞬間、背後から何か大きな荷物が落ちるような音が聞こえた。
 慌てて鍋に蓋をして玄関へ向かう。そこにあったのは、無造作に落ちた鞄に、床に散らばる黒い絹糸、……脱ぎかけの靴を引っ掛けたまま玄関マットの上に倒れている男。
 ……おいおい、勘弁してくれよ。
 慌ててその身体を抱き起こして片膝に彼の頭を乗せた。軽くて、ほぼ脂肪のない身体は、よくぞこれで生きていると思ってしまうようなものだった。名前を耳元で叫んで、頬を何度か叩く。薄らと開かれた、皮膚の薄い青白い瞼から綺麗な鳶色が覗く。しかしそれはすぐに閉ざされてしまった。そしてその薄い身体からくたりと力が抜ける。ちょっと待て。ドラマとかでこういうシーンないか。しかもそれって、絶対そいつ死ぬよな。相当動転していたその時の俺は、脈を取ればすぐに寝ているだけで普通に生きていると分かるのに、数分間その場で膝枕状態のまま固まっていたのだった。今考えると相当な阿呆がそこにいた。情けない話だ。
 とりあえず次の日、目覚めた彼を開口一番叱った。彼は熱を出していたのだ。道理で、と他人事のように言う彼に、つい俺も口調が荒くなる。もう少し自分の身体を労われないものか、このバカ。俺の説教を聞きながらびく、と身体を竦ませる姿は子どものようだ。
 非常に心配だったものの、同居人が熱を出したので休みます、なんてこと聞いたこともない。何か自分の外出中にやらかしそうだ、とは思ったものの、欠勤するわけにもいかずに俺はいつも通りに出勤した。
 嫌な予感はしていたのだ。否、それは予感というよりも学習に基づく結論。
 いつもよりペースを上げて今日のノルマを達成する。キーボードの打ち続けで腕と肩と目が痛い。最早職業病のそれを半ば諦め混じりに揉み解しながら、スーパーの袋を片手に家に向かった。そして、やっぱりリビングでぶっ倒れている彼を発見する。
 リビングのローテーブルには、大分前から触れられていないのだろう、スタンバイ状態になった彼のノートパソコンがある。彼も大概病気だ。リビングの、それでも絨毯の上で良かった。冷たい床の上で長時間転がっていたらそれこそ事だ。やっぱり熱の上がったその身体を横抱きにして彼の部屋に戻る。床に散らかった本を蹴散らしながらベッドに向かって突き進み、丁寧にシーツの上に降ろした。静かに寝息を立ててはいるが、まるで死んだように眠っている。
 粥を炊きながら濡れタオルを交換したりして過ごしていると、彼は八時頃に目を覚ました。またつい説教してしまった。叱っても叱っても学習しないのは何故だ。詰めが甘い、と俺がつい零すと、彼は熱で少しぼんやりとした視線を揺らした。
 薬を飲ませてから台所に戻る。しまった、物を食べさせてから飲ませるべきだった。そんなことにも気が回らないほど動転していたらしい。とりあえず冷めた粥を温め直して、それを部屋に運んだ。彼は“マメだな”とでも言いたげな顔で溜息を吐いていたが、それでも少しずつ食べ始めたのでやっと一息ついた。
 あなた、小学校の先生とか向いてますよ。彼が俺を見上げてそう呟く。どういう意味だそりゃ。そんな気持ちが顔に表れていたのか、彼はますます面白がるような顔をして、もしくは保育士さんとか、と付け足す。……ああそう、それならアンタは幼児レベルってこった。ぺちん、とデコピンをすると、一瞬彼は肩を竦めて、クスリと笑った。
 やっぱり、美人は美人だ。本当に、男にしておくのは勿体ない。

 で、風邪を引いた。本当に詰めが甘いのは俺じゃないのか。にゃろう。
 どうせ、勝手に移されやがってあの馬鹿、とか思われているに違いない。情けない話だ。ベッドの住人になりつつ、少しは気にかけてくれているのか、ちょこちょこと部屋を覗きに来る彼を無理矢理仕事に追い出した。同情されるのが何となく嫌だったからだ。
 よろよろと水枕を用意してベッドに埋もれる。顔や頭は熱でぼんやりするのに背筋や足は酷く冷たい。ここまで酷い風邪になったのは小学生の頃以来だ。その頃は母親が看病してくれて、友人は学校のプリントや見舞いを持ってきてくれて。ただその全てはこの歳にもなって望めるものではなかった。友人は今自分がメールしたりすれば何人も来てくれるだろう。だが来てくれたとしてもそれにまともに対応出来る自信はなかった。だけど、具合が悪くなると心細くなるのである。それが何とも自分の情けなさを助長させた。
 腹が減った。何も作る力は出ない。汗で背中が気持ち悪い。喉が渇いた。飲み物は切らしていたはずだ。あの同居人が買い物をして帰ってくるだろうか。や、まさかな。
 起きることは出来ない。食べる物も飲む物も勝手に出てくるはずはない。布団を頭の上まで引き上げて、背中を丸める。湿った咳が止まらない。薬を飲む時に水道水を飲んだが、逆に戻してしまいそうだった。頭の中がボーっとして息が苦しい。そして、そのまま布団の中で気を失うようにして眠ってしまったようだった。
 その後、ひり付くような喉の痛みで目が覚めた。頭が熱い。喉が痛い。鼻が詰まっている。息苦しい。こんなことで死ぬはずがないのに、病気で心も弱っている状態では嫌なことを考えてしまうものだった。このまま風邪で死ぬなど一生の恥。
 畜生、このまま死んで堪るか。そんな風に妙な意地が生まれ、布団の中に埋もれて荒い息を繰り返していた。だから気付かなかったのだろうか。玄関のドアが開けられ、誰かが家に入ってきたことに。

 けんれん、と声がした。その声を一瞬誰のものだろう、と頭の中で考える。そんなもの、考える間もなく、彼以外にあり得なかった。
 驚いてベッドから跳ね起きようとすると、ドアのところで部屋の中を覗き込んでいた彼は目を何度も瞬かせた後、起きようとする俺を手で制して、部屋へ入ってきた。寝ていて下さい、と穏やかな声が耳に優しかった。
 彼は床に落ちていたタオルを拾い上げた。寝る前に額に載せていたものだがいつの間にかベッドから落ちていたようだ。それを片手に暫く黙っていた彼は、それからゆっくりと手を俺の額に伸ばした。彼の手は酷く冷たくて気持ちよかった。その冷たさに息を吐きながら、ちらりと視線をずらす。時計の指し示す時間は、この男がいるはずのないとても早い時間。まだ日が沈んだばかりだろう。
 こんなに早く帰ってくると思わなかった、と呟く。彼は一瞬目を瞠り、そして早めに切り上げてきたんです、感謝して下さい、と落ち着いた声で返してきた。ああ、認める。認めるよ。淋しかったんだよ俺は。風邪でヒイヒイ言わされている時に家には誰の気配もなく、誰にも助けを求められない状況で、その素気ない言葉が酷く嬉しかったのだ。そんなこと有り得ないだろうと思っていたから、尚更。
 一旦リビングに行った彼は、水色の長方形のプルプルした物体Xを持って現れた。思わず嫌そうな顔をすると、彼は少し怪訝な顔をした。それがとても便利だということは知っている。だが、それをつけた姿というのはとてもとても不恰好というか、間抜けなのだ。そう告げてみると、風邪引きが何を言ってるんだと言わんばかりの目で見下ろされたので、黙って彼がそれを俺の額に貼るのを黙って見ていた。
 その後暫く横になっていると、彼が再び戻ってきた。手にしているのはマグカップひとつ。さっきスポーツドリンクをもらったばかりなのに。そう思いながら何、と訊く。痰が絡んで酷く掠れた声になった。彼は玉子酒です、と一言言って、カップを俺の方に突き出した。思わず目を瞠る。こいつ、料理出来んのか。仕事で毎日試験管を振っているであろう(主観)彼が、人の口に入るものを作れるのだろうか。
 恐る恐る一口飲みこんでみる。甘くてとろりとした液体がひり付いていた喉を降りていく。美味かった。
 料理が出来たとしても玉子酒とか作れるように見えなかった、と白状すると、腕組みしながら俺を見ていた彼は、少しだけ笑って、姉が体の弱い人でしたから、と言った。拙いことを訊いた、と思った。その後暫く、カップの中身がなくなるまで二人、何も言わずにいた。

 カップが空になると、彼はそれを持って台所に戻っていった。酷いことをしてしまった。何をしても傷付かなさそうな男だと無意識のうちに思っていたけれど、そんなはずはない。もしかして生い立ちはあまり幸せなものではないのかもしれない。姉の体が弱くて、その看病をするのが年下の弟しかいないということは、その姉よりも年長の者がいない……つまり、親がいなかったという可能性もある。見上げた彼の顔は無表情で冷たかった。
 そんな風にぼんやりしていると、台所からドタバタと足音が響いてきて、彼が慌てて水と薬を持ってきて枕元に置いた。そして再び引き返して、昨日俺が彼に出すために使った土鍋を持って現れた。食べてて下さい、と言い残して、慌てて彼は部屋を出て行く。そして少しすると、リビングから彼の声がするようになった。電話だろう。部下であろう電話相手を穏やかに宥めるようにしながら指示を出している。ああ、きっと職場ではいい上司なんだろう。少しそれを微笑ましく思いながら、彼に渡された土鍋を引き寄せた。中身はとろとろの卵粥だ。蓮華でそれを少し掬って口に入れる。
 何だよ。料理出来るんじゃねーか。や、もしかしたら買ってきた物かも。そう思うくらいに美味かった。電話の声が途切れて、彼が再び部屋に戻ってきた。開口一番に誰が作った?と訊いてみると、彼は一瞬驚いたような顔をして、僕ですけど、と答えた。何だよ、やっぱり料理出来るんだ。拗ねたような口調で言うと、ふふ、と小さく笑った彼は、姉が死んでからずっとひとりですから、と言った。やってしまった。見上げた彼の顔は、昔を懐かしむようでもあって、淋しそうでもあった。ごめん、と呟くと、彼は少し驚いたような顔をしていた。
 美味しいですか、と彼が訊いてきた。まだまだだ、と答えてみた。彼は、本当に可笑しそうに笑っていた。

 その場繋ぎのシェアリングのつもりだったのに、いつしか終わりがないようにと願ってしまっている。

 友人の建設会社に勤める男から、今二人の住むアパートの一帯がニュータウン計画のために区画整理の対象になるという話を聞いた。そういえば、近所の小さな店が最近閉じることが多くなった気がする。それもこれも、そろそろ立ち退くようにと話が来ているのだろう。
 この生活の終わりが見えてきた頃だった。
 久しぶりに賃貸物件の情報誌を買った。あの頃、この町にきたての頃もこの雑誌を買った。ベージを捲りながら対象になりそうな物件にポストイットを貼り付けていく。キッチンは他の男よりはよく使うし、狭い場所では料理がしづらい。出来ればLDK。じゃあ、2LDK。
 そう思いながら、2LDKの目ぼしい物件に印をつけていく。一通り目を通し終えてぱたり、と雑誌を閉じる。横に置いていたコーヒーを啜った。あれ。何かおかしい。2?また転勤になるかも知れないのだから、一生そこに住むわけではない。だから別に、1LDKでもいいのだが。ずず、とコーヒーを啜る。もう一度雑誌を捲ってみた。先ほどまで自分が印をつけていた部分に一通り目を通す。
 何だこれ。それじゃまるで端からアイツを連れてくつもりだったみたいじゃないか。

 突然ある日の夜、彼が酒盛りをしようと言って酒を大量に買ってきた。珍しいことだ。しかしそんなことを深く考えるほどにその日の俺には余裕がなかった。いつ打ち明けたものか、と考えていたからだ。いや、普通に出て行くだけなら話すのは難しくない。だが、一緒に来いと伝えるのは容易ではないだろう。しかしそれには酒はとてもいい道具だった。彼は酔いにくい。だから酔いに任せて話してしまえばいい。彼は酔うことはないから、明日には忘れているということはないだろう。……冗談にされる可能性もあったが。
 始めて三十分で、二人の周りにはごろごろと空き缶が転がった。彼は既に焼酎に手を伸ばしている。喉が焼けそうな濃度だ。彼が殆ど見ずにリモコンでテレビを切った。すると殆ど部屋から音がなくなる。外から虫の声がした。車が通り過ぎて行く音もする。唇を舐めた。舐めても舐めても乾く気がするのは焦っている時特有のものだ。こんな感じ、久しぶりだ。
 ちょっといいか、と声をかけた。あたりめを咥えてぼうっとしていた彼が、その声に何ですか、と返事をした。そして酷く優しい顔をしていた。なんだろう。どうしてそんな風に笑う?しかし今更引き下がるなんて出来なくて、少し目を逸らしながらも口を開いた。
 来週、ここを出ていくからな、と言った。分かりました、とすぐに返事が来る。
 あれ。もう少し驚いてもいいんじゃないのか。最近の俺の様子で予見していたのか、それとも俺がいてもいなくても、同じなのか。そんな風にぐるぐる考えていると、苦笑した彼は、お世話になりました、と呟いた。思ってもないことを、と思ってしまう。世話なんて。別に彼に望まれてしていたわけじゃない。ただ俺がやりたかっただけで。
 そんな風に考えていたら、苛々としてきた。腹の底からふつふつとよく分からない感情が湧き出す。少しでも近付いたと思っていたのは自分だけだったのだろうか、という裏切られたような感情に、愕然とした。
 ガタン、と椅子の音を立てて立ち上がる。そしてテーブルに両手を突いて彼の顔を覗き込んだ。彼はその鳶色の大きな目を瞬かせながら戸惑ったように俺を見ている。そうだ、そうしてずっと俺だけ見てればいいんだよ。
 アンタも来るんだよ。そう言ったら、その大きな目が瞠られた。

 今までにないほど緊張している、テーブルに突いた腕が震えそうだった。なのに彼ときたら何でまた、と気が抜けるような返事をした。何にも伝わっていないらしい。頭を垂れた俺は、どうにかして説明するのを諦めて、部屋に戻り雑誌を取ってリビングに戻った。そして彼が何か口にする前にその雑誌の一ページを彼の目の前に突き出す。赤い丸がつけられた部分を指で指し示して、来週ここに移るから準備しとけ、と言い、その雑誌をテーブルに放り出して椅子に座り直した。よし、ではもう酔っ払ってしまおう。そう思いながら、手当たり次第のアルコールを口に運んだ。
 どうしてですか。そう彼は一言だけ呟いた。それはとても静かな問いだった。何と答えたらいいのか一瞬逡巡したのち、アンタを置いてったらそのうち餓死しそうだから、と言った。嘘だ。彼は料理が出来るし、世話をしたがる奴なんて男でも女でも沢山いるだろう。だけどそんな嘘以外で、誤魔化せそうになかった。
 借りた直後に一緒に住む予定だった彼女に振られたとか、と彼が窺うように俺を見上げてくる。何馬鹿なこと言ってるんだ、チューすんぞ。そんなんだったらすぐに取り消してる、と言ってみると、彼は目を瞠って、ゆっくりと手の中の缶ビールに視線を落とした。
 今だってアンタに断られたら、これから店のオッサンに“フラれました”っつって取り消してもらうさ。
 友人から聞かされた区画整理の話をすると彼は目をぱちぱちと瞬かせて、だったらそう言ってくれれば僕もゆっくりと他の物件を探したのに、と不思議そうに言った。だろうな。多分、それが嫌だったから、言えなかったんだ。ククッと喉で笑いながら、アンタの世話が出来んのは俺くらいだろ、と言うと、彼は子どものように目を瞠って俺を見上げる。腕を伸ばしてぐりぐりと頭を撫でてやると、一瞬嫌そうな顔をしたものの少しも抗わなかった。

 そのうち、酔いが回って頭がふわふわしてきた。寝てしまおう。お断りの言葉なら明日聞いてやる、と思いながら、テーブルに伏せた。目の前の彼はまだ少しも酔った様子はなかった。困っているだろう。どうやって断ろうかと。
 暫く静かな空気が流れた。外から車の音がするくらいだ。その中、彼が雑誌へ手を伸ばした気配がした。一枚ずつページが捲られる音がする。そして、ふわりと頭が撫でられる感触がした。髪が撫でられ、地肌に微かに彼の冷たい指先が触れる。何なんだ。
 まずい、と彼が急に口にした。何が不味いって?それでもひたすらに彼の手は俺の頭を撫でている。俺は犬か。

 ねぇけんれん、と名前を呼ばれて、つい返事をしそうになった。彼が俺を呼ぶ時平仮名発音な気がするのは何故だろう。とりあえず寝た振りをして彼の動向を窺う。彼は返事がないことを特に気に掛けた様子はなく、どうやら独り言のつもりらしかった。
 いつまで続くか、試してみましょうか。そう呟く声が聞こえる。

 それは、どうなのよ。オッケーってことなワケ?
 明日の朝にははっきりしろよ。なあ?










こちら捲簾サイド。補完になっていればいいのですが。        title by ロデオ * 2006/5/3