たった一人、幸せを見つけるため生きていく勇気をくれた四つ葉を、今も憶えている。震える小さな自分の手にそれをそっと握らせてくれたその人の顔は残念なことに全く覚えていないのだが、その人の指先が爪までとても綺麗だったことと、幼い胸の奥にすとんと降りて来るような低く落ち着いた声の持ち主だったことだけははっきりと思い出せる。しかし、あんなにも懸命に自分の幸せを願ってくれた彼を落胆させないだけ今の自分は幸せになれているのだろうか、と思えば、少しだけ苦かった。 男の長い指先はまるで魔法のステッキのようだと称賛された。次々と披露されていく美しい魔術に観客は驚きの声を上げる間さえ許されない。男の精悍で自信に満ちた横顔を誰もが食い入るように見つめていた。テーブルに並べられた折角の料理は食されることもなく冷えていく。すっと伸ばされた腕の先、ホールに響き渡る指を弾く音に全ての観客が息を止めた。宴席の中で一際地味な装いだった女性を指名し、指を一つ鳴らして鮮やかに着飾らせる。そして物々しく呪文を唱えてみせては、全てのテーブルの蝋燭の炎を七色に変えてみせた。瞬きをする間もないほどのマジックも終わりを迎え、最後に男が恭しく腰を折ると割れんばかりの拍手がホールを包み込んだ。その響に男はその笑みを一層深くして身体を起こした。その自信に満ち溢れた笑みに女は誰もが目を奪われ魅了された。様々な感情の篭った視線を一身に受けた男は、しかし何の未練もないように颯爽とステージを後にした。翻るスーツの裾や僅かに解れた前髪を掻き上げる仕草にすら女たちはうっとりと溜息を吐き、連れの男たちはそのことに気付かないほどに目の前で繰り広げられた奇術にまるで少年に戻ったように目を輝かせていた。 月に一度このホテルで男とその兄弟弟子たち数名で行われるショーは、毎回満席で大盛況に終わっていた。今日は一番手の弟弟子の助手を務め、二番手としてショーを披露した男は、未だ拍手の鳴り止まないホールを後にした。重厚なドアを抜け、それをぴたりと閉めてしまえばあの喧騒と熱狂は嘘のように消える。静まり返った控え室に流石に疲れを隠し切れずに、ドアに凭れて溜息を一つ吐いた男は、目の前に突き出された白いものに目を瞬かせた。 「お疲れ様です、捲簾」 「ああ、お疲れ」 一つのことに集中すると他が疎かになる彼らに代わってスケジュールの調整や身の周りの世話を行っている八戒がタオルを差し出していた。突然のことに驚きつつもそれを受け取ると、彼の肩越しに眩いほどの金糸の髪を持つ男が見えた。控え室に置かれた三人掛けのソファにどっかりと腰掛けたそれは兄弟子の三蔵だ。ステージ衣装で豪快に足を組み、煙草を吹かしている。こんな堅気の人間には見えない姿はとても観客には見せられない。タオルでごしごしと顔を拭きながら悪態を吐きたくなるのを堪えた。幾ら態度がああであっても同じ術者に師事している兄弟子であることには違いないし、テクニックもまだ遠く及ばないのも現実だ。 「三蔵、すぐ出番なんですから準備して下さい」 「準備ならとうに出来てる」 そう言って三蔵は、ローテーブルの上で吸殻がてんこ盛りになった灰皿にまるで差し込むように今まで吸っていた煙草を押し付けた。とても火が消えたようには思えない。それを見咎めた八戒が視線を鋭くするのにも構わず、三蔵は立ち上がった。パンツの膝を払い、タイの結び目を正して首を振るう。そうして再び顔を上げた時の彼の表情はもう既にステージに上がった時のそれだ。この変わり身の早さには何十年も前から本当に驚かされている。八戒もそれを呆れたように見つめ、諦めたように溜息を吐いた。何か一言言ってやりたかっただろうが、そのすっかり完璧になってしまった姿を見ては何を言っていいか分からなくなってしまっただろう。 「三蔵さん、袖に準備をお願いします」 ドアから顔を出したホテルの従業員には八戒だけ会釈をして返した。三蔵は目を伏せたまま微動だにしない。 「三蔵、今日もしっかりお願いしますよ」 「当然だ」 その自信過剰にも思える不遜な態度もまた、幾許かの才能と積み重ねられた何十年間もの努力に裏付けられたものだ。それを知っているからこの時ばかりは文句のつけようがない。普段のあの態度は単に、性格の問題であろうが。八戒が重いドアを引き開けると、ホールの中のざわついた雰囲気が伝わってきて否応なしに心が浮き立つ。毛足の長い絨毯に一歩足を踏み出した三蔵は、そのままホールへと足を止めることなく踏み込んでいく。その堂々とした後ろ姿を見送るのもそこそこに、八戒はそのドアを閉めた。そしてドアを背にして振り返り、先程の捲簾のように深く溜息を吐く。 「幾つになってもあれじゃあ、幾ら素晴らしい術者でも尊敬のしようがありませんよ」 まるで子供のことでも話すようにそう言う八戒に笑い、タイを緩めながら捲簾は先程まで三蔵が占拠していたソファに腰を下ろした。座る瞬間につい声が漏れてしまうのは年のせいだろうか、と一瞬嫌なことを考えてしまい、眉間に深い皺を刻む。これでは三蔵のことばかり年寄り扱いしていられないと気を引き締める。俯いて両のこめかみを揉み解している捲簾を不思議そうに眺めていた八戒は、くすりと笑って備え付けのサイドボードを指差した。 「インスタントしかありませんけど、コーヒー淹れましょうか。それともお茶?」 「コーヒーで」 手持ち無沙汰にタオルで両手を拭きつつ、背凭れにぐったりと背中を預けた。ステージに立っている間は疲れの欠片も感じないというのに、ホールを出た途端立っていることも億劫なほどのだるさを感じるのだ。先程振り払ったばかりの嫌な考えが頭を占領してやまない。 「俺も年かねえ……」 わざとそうして口に出してみると、ポットの前で湯を入れていた八戒は不思議そうに振り返って目を瞬かせた。 「随分と弱気な……最近スケジュールを詰め込み過ぎましたか?」 「いや、そういうわけじゃない」 スケジュール管理をしているのは確かに八戒だが、それを拒否する権利を捲簾は持っている。だからこうして疲れが蓄積しているのも八戒のせいではなく自己管理の甘さの問題だ。それこそ年を考えずに頑張りすぎたせいか。 「昔は一日に五ステージとかも軽かったんだけどなあ」 「昔っていつ頃です?」 「十代か二十代だな」 湯気を立てたカップを持って捲簾の方へと歩いてきた八戒は目を丸くして口を開いた。テーブルにそのカップを置いて、向かい側のソファに腰を下ろす。 「捲簾って、いつからこの世界にいるんですか? そういえば聞いたことありませんでしたけど」 「弟子入りしたのが十九だったかな。まともに一人でショーが出来るようになったのが二十三ってところ」 「その間何をしてたんですか?」 そう問われて、懐かしく思い出す数十年前の記憶。色々な技術を覚えるのが楽しくて仕方がなくて、周囲が喜んでくれるのが嬉しくて仕方がなかった無邪気な頃だ。今思えば今までで最も純粋にマジックのことだけを考えていた時期でもある。今ともなれば考えたくもない裏の都合も加味しなければならないし人付き合いも面倒になった。そして何より金のことが気に掛かる。あの頃はそんなものなど存在することも知らずに真っ直ぐに理想だけを追い駆けていたというのに。 「修行とか、まあ、色々な。大きい挫折もしたし、勇気付けられもした。もう二十年も前の話だけど、大事な思い出だよ」 今まであまり話したことのなかったその話をつい話してみたくなったのは、そのことが自分の中だけで風化してしまわないようにしたかったからかもしれない。あの日の出来事が、どんなにか大きく自分の心を揺さ振ったか、話してみるつもりになったのは、やはり年のせいかも知れない。 「その頃、修行がてら週に一度、でけえ病院の小児科病棟に通ってたんだ」 先生が話を通してくれたそこは、小さかったけれどまだ二十代に踏み込んだばかりの捲簾にとっては初めての大きな舞台だった。長い入院生活で力を失っていた子供たちが自分のマジックで目をきらきら輝かせていくのは何よりの励みになったし、彼らが喜んでくれるのが純粋に嬉しかったのである。技術もまだ拙いなりに毎週目新しいネタを考えてはせっせと通い詰めた。一ヶ月も通うようになると子供たちも顔を覚えてくれるようになり、奇術師として初めてのやりがいを感じ始めていた。 しかし、成功に終始するかと思われたその慰問にふっと影が差したのは、車椅子に乗っていつも一人でぽつんとしている少年の存在に気付いてからだった。他のどんな子供も喜んでくれるマジックを、その少年だけは淋しげに遠くから見つめているだけだった。その子がどうにも気に掛かって、ある日看護婦にその子について尋ねたのである。 (実は……彼、二週間前のバスの転落事故でご両親と妹さんを亡くしているんです。ニュースでご覧になったでしょう、乗客の中でたった一人生還したのが、彼) 何という残酷な偶然か、他の乗客は事故後一週間で死亡してしまったというのに、彼は両足を骨折しただけだったのである。最初は同情だった。妙な使命感を持って、相手を可哀想だと決めてかかって、上から物を考えていた。彼をどうにか出来るのは自分だけだという歪んだ正義感につき動かされて、それから毎週、病棟の皆の前でやるショーとは別に、彼一人だけを観客とした二度目のショーを始めたのである。多少天狗になっていたのかも知れない。その鼻っ柱を圧し折られるのに、それから然程時間は掛からなかった。何をしても、彼は笑ってくれなかったのである。幾ら道化に徹しても、目を瞠るような大掛かりなマジックを見せても、少年はその濁ったような眸をぼんやりと捲簾に向けるばかりで何も言おうとはしなかった。思えばそれが、今までで最大の挫折だった。若かったのである。何も分かってはいないのに自分は全て知ったものだと思い込んで上せあがっていたのだから、今考えれば良い薬であった。 毎週毎週、精一杯の技を磨いて彼の元へ通っては、その冷たい表情に打ちのめされて病院を出る日々が続いた。そんな中でスランプに陥りそうになった捲簾に、いつも飄々とした様子で微笑んで見つめている師は一言だけ静かな口調で言った。 (今の彼が本当に欲しいものは何か、ようく考えて御覧なさい。捲簾。ただおかしなものが欲しいのか、物珍しいものが欲しいのか) 冷静に考えればそうだった。家族を失い、突然一人ぼっちで放り出された少年にただおかしなものを見せたとしてもおかしがるはずがないのだった。きっと彼の目から見える世界はぼんやりと霞がかって、愉快という感情などない世界なのだ。突然掌のハンカチーフを花に変えてみたとしても、彼の目にはハンカチーフが花になった、ただそれだけのことで、それに伴う感情などなかったのである。笑わないはずである。彼にとってはおかしくも何ともなかったのだから。 その日から次の訪問日まで、せっせと新しいネタを考えた。今までとは趣向の全く違うそれに四苦八苦しながらも、精一杯のそのマジックを携えて、挑戦者のような気持ちで訪院したのだった。 「それで、その日漸く笑ってくれたっていうわけですか」 「いいや。……泣いちゃった」 自分のカップに息を吹き掛けてコーヒーを冷ましていた八戒は、その予期せぬ言葉に顔を上げて目を瞬かせた。言葉の真意を問うようにじっとこちらを見つめてくる翠の眸に捲簾は苦笑してコーヒーを啜った。ゆっくりとカップの中に視線を落とせば、あの日自分を見つめていたあの子供の円らな眸を思い出した。真っ直ぐに自分を見つめていたその目が歪み、じわりと温く優しい雫に濡れていったのを、これ以上ない奇跡を目の当たりにしているような気分で見つめていた。ぼろぼろ零れた雫が重ねて握った二人の手の上に降って、四つ葉の上にも落ちた。雫を弾いた四つ葉は瑞々しく揺れていた。 「結局俺は一度もあの子を笑わせられなかった。その次の日、退院してどこかの家に引き取られていっちまったからな」 次の週に再び訪問した時にその話を聞かされた時には愕然として、心底口惜しく思った。漸く、あの少年から笑顔を引き出せると思っていたから、というのもある。しかしまず、少年ともう一度話をしてみたかったのである。しかしそのチャンスは実に呆気なく絶たれてしまった。一度も微笑むことのなかった、綺麗な顔をした少年。どんな風に成長しただろうか。今、彼は笑っているだろうか。あの小さな掌に、幸せを掴むことが出来ただろうか。 「今、笑っていてくれさえすれば、それでいいんだけどさ」 そう少し照れ臭そうに笑ってテーブルに置かれていた煙草に火をつける捲簾の前で、その話を聞いていた八戒は珍しく相槌を打つでもなくじっとコーヒーカップに両手を添えたまま押し黙っていた。その眸は確かに捲簾を捉えていたが、いつもとは異なる多少濁った色を含んでいた。 昼時のカフェはスーツ姿の集団でごった返している。事務所で八戒のコーヒーばかり飲んでいても飽きるので、たまに近くのカフェに足を伸ばしてみたのだがオフィス街に程近いということもあり、中は会社員と思しき人間ばかりだ。その中にラフなジャケット姿で踏み込んだ捲簾は僅かに浮いていたが本人は全く意に介さない。主に女性からの色めき立った視線を向けられてもいたが、元々見られることが職業であることもあり、その辺りの感覚は慣れで麻痺してしまっている。紅茶とブランチ代わりにクラブハウスサンドを注文して、カウンター席の片隅でこっそり欠伸をした。主に仕事は夜間に集中しているため否応なしに昼夜が微妙に逆転する。なるべく日の出ている間は活動しているようにしたいのだが、仕事の後につい飲んでしまうとそうもいかなくなってしまう。この歳で一人身であることも祟っているのだろうが、今更燃えるような恋も愛もないだろうと半ば諦めていた。女性は平等に愛するつもりでいる。今更、一人に決めるつもりもなかった。しかしまあ、自分に、たった一人を愛せる自信がないというのも本音ではある。 運ばれてきた紅茶を少しだけ啜って、まだぼそぼそとする目を擦り擦りカウンターに頬杖をついた。同じカウンターに座っていた女性がその少し疲労の滲み出た男の物憂げな色気に頬を染める。その様子は勿論、職業柄鍛えられた周辺視力で捉えていたが、今はナンパをするほどの気力もなかった。なかなかの美人なのに惜しい、とは思いつつもうとうとするのを止められず、頬杖をついたまま欲望に逆らうことなく瞼を伏せた。 「あれ……先輩のネクタイピン可愛いですね! どうしたんですかそれ、何気にクローバー柄だ」 ふ、と後ろから聞こえた可愛らしい声に、ぼんやりと目を瞑ったまま耳だけを傾ける。クローバーというキーワードに耳が反応したせいだ。 「ああ……友人からプレゼントしてもらったんです。僕がクローバーが好きなのを知っているので」 次いで聞こえてきた(“先輩”であろう)男の声は如何にも穏やかそうで優しく響く声だった。その柔らかな声色に、余計にうとうとしそうになるのを何とか堪えてその話に耳を欹てる。悪いとは思ったのだが、彼らの会話は何となく興味深かったのである。いい大人の男がクローバーを好きになるきっかけというものに。その期待を裏切らず、最初の女性とは違う男の声が捲簾の気持ちを代弁してくれた。 「え、クローバー模様好きなんですか? どうしてまた」 「ええまあ……つまらない話なんですよ」 「ええ、聞きたいです! 先輩って滅多に自分の話してくれないですし。ねえ!」 そう言って後輩の彼女は別の仲間に同意を求めたらしい。すると弾かれるように周囲から同意の声が上がり、“先輩”は笑い混じりの困ったような唸り声を漏らした。彼は目下からの求めには弱いらしい。折れるのも直だろう、と捲簾は心の中で彼らを急かした。 「うーん……まあ……いいでしょう。ええと、僕が小学生一年生、かな、その頃、ちょっと怪我をして入院してまして。その時に週に一度、小児科病棟に来てくれる若いマジシャンの方がいたんです」 その言葉にぱちりと目を開いた。咄嗟に振り返ってしまいそうなのを何とか堪えて、ゆっくり身体を動かす。不自然に思われないようにゆっくりとカップを持ち上げてみたりする。舐めた紅茶の味もいまいちよく分からないながらも、じっとしていることも出来ずに手持ち無沙汰にカップを持っている他なかった。 「すごく落ち込んでた僕をすごく気に掛けて下さって、わざわざ皆とは別に色々なマジックを見せてくれたりしたんです。それでもすごく無愛想な子供だったので、僕全然笑わなくてね。それでも毎週毎週、僕のところに来てくれたんです。で……僕の退院前日、いつもは色々なマジックを見せてくれてたんですけど、その日は三つ葉のクローバーを一本だけ持って来たんです」 「三つ葉?」 「ええ、普通にその辺に生えてるやつ。何だろうって思って見てたら、それをぎゅっと手で握り潰したんですよ。だけどその手を広げると」 「ひょっとして四つ葉になってたとか?」 照れたように、ええ、と頷く背後の男の顔が見たくて仕方がなかった。つい最近、八戒にあんな話をしたばかりだというこのタイミングで何てことだろう、とらしくもなく少し焦っている。気付けば先程から飲むでもなくカップを持ったままだった。思う以上に緊張していたらしい自分を落ち着けるようにとりあえず一口紅茶を飲み、カップをカウンターに下ろす。そしてさり気なく靴紐を直す振りをして僅かに身体を横に向けた。その足元に屈むまでの瞬間、背後のテーブルに視線を走らせた。男が二人に女が二人。男が二人では咄嗟に判断が出来ないだろうと思っていた。しかし、四人に滑らせた視線は迷うことなく一人の男をしっかりと捉えていた。明らかに周りとは違う色を持つ男。それは、昔と変わらぬ愛想の欠片もない黒縁眼鏡をかけていた。半端に伸びた黒髪が肩に落ち、細い頬を縁取っている。随分と、様変わりした。しかしその榛色の眸だけは何も変わらないようにきらきらと輝いていた。 「救われた気がしたんです」 捲簾が俯く瞬間、はにかむように微笑んだ男はそう言った。俯き、適当に靴紐を結び直して再びカウンターへと身体を向ける。何てことはない。昔、まだ技術が拙い頃にマジックを披露した相手が今もそれを覚えていてくれて、しかも好意的に思ってくれていたということが分かっただけだ。嬉しいと思う。しかし、それ以上の何があるというのだ。何があって、こんなにも胸が酷く鳴っているのだろう。 「今でも恩人だと思ってます」 「へえぇ……ロマンチックじゃないですかぁ、素敵ですよね……マジシャンって格好良い人も多いですし、ねえ」 「はは、まあ、僕が女の子だったらロマンチックな思い出にでもなったんでしょうが」 「ロマンチックって言うより、気障ですよ、気障」 評価には大きな男女差があるようだった。昔の自分のやったことに対する評価は何だか無性に恥ずかしくて、口元を手で覆いながらもその場から逃げ出したような気分になった。しかしその当人である彼が好意的に捉えてくれていることには深く安堵した。 「まあ……今思い返せば多少、クサい気もしますけど」 追加された言葉にがくっと肩を落とす。そんなことは自分でも分かっているのだ。あんな言葉、臆面もなく言えた昔の自分は相当に図太かったのか、もしくは、それほどまでに彼に対して真剣だったのか。恐らくどちらも正解だろう。あの頃は本当に何も怖くなかったし、本当に彼のことしか考えていなかったのだった。そう悶々と考え込んでいるうち、背後で何人かが席を立つ音がして捲簾は慌ててこっそりと彼らの様子を窺った。先に女性二人が歩いていき、その後を後輩の男が、そして最後にあの男が伝票を持って歩いていく。背も随分すらりと高くなった。去っていくその姿を遠くから眺めながら目を細める。もう二十年の年月が経ったのだ。変わっているに決まっている。覚えているとはいえ、彼もきっと自分の顔までは覚えていないだろう。 「あ、ここは俺が払いますよ、天蓬さん!」 (そうだ、確かそんな名前だった) 後輩の申し出を断ってさっさと会計を済ませた彼は、後輩たちを伴って店を出ていく。それを暫しぼんやりと眺めていた捲簾は、それを名残惜しく思っている自分にはたと気が付いた。また会ってみたいと、話をしてみたいと思っている。しかし名前と顔しか分からないこの段階ではどうしようもない話である。またこの時間、この店に来れば会えるだろうか、なんて恋をした少女のようなことまで考えてしまう。ドキドキと、ここ数年味わうことのなかった緊張と期待が胸を高鳴らせていた。 目を伏せれば今にもあの少年の顔を思い出せた。今まで顔を合わせて来た客は数え切れない。そのどれもを捲簾はしっかりと覚えていたが、その一番初めが彼だった。全ての原点であり、自分を今の地位にまで押し上げてくれた人。彼が自分を恩人と称するように、自分にとっての彼もまた、恩人であった。 「天蓬君、こんにちは」 「……こんにちは」 無表情で無感情で、それでも少年が礼儀正しくぺこりと頭を下げて挨拶をするのに、男は微笑んで少年の頭を撫でた。少年は実は男のその大きな手が好きだったのだけれど、告げたことはない。くしゃくしゃと髪を撫でられてくすぐったくて気持ちがいい。しかしそれが表情に表れることはなかった。まるで笑い方を忘れたように、少年は笑えなかったのである。しかしそんな少年の状態にも慣れた男は然して気にした風もなく少年の車椅子の前にしゃがみ込んだ。そしてすい、と少年の目の前に何かを差し出した。それは三つの緑の葉のついた、三つ葉のクローバーだった。瑞々しいところを見ると、まだ摘み立てなのだろう。しかしどうして、と少年はクローバーと男の顔とを交互に見つめた。今日は何をしてくれるのだろうと期待もある。男は分かっていなかったが、少年は彼のマジックを楽しみにしていないわけではなかった。しかしすごい、と思ったとしても結局はそこまでで、笑うことも驚くこともない。特に今は、たった一人生き残ってしまった自分が笑うことは罪のように思われたのだ。 「見ててな」 男は、少年の目の前でそのクローバーを掌の中に握り込んでいくようにぐしゃぐしゃに潰し始めた。じっと見つめる少年の前で、男はニッと自信に満ちた笑みを浮かべてみせる。そして、今頃ぐしゃぐしゃになった三つ葉のクローバーが詰まっているであろうその握り拳を少年の前でぱっと開いてみせたのだ。 奇跡は起こっていた。開かれた男の掌の上にはまだ瑞々しいクローバーが一本。その茎の先に付いている葉は、四枚。 それを手に持ち、男は少年の目の前で軽く振ってみせる。そして茶化すようにウィンクを一つ。驚いて差し出されたそれを受け取ろうとしない少年に、男は優しく笑って、子供の小さな両手にそのか弱い茎を握らせた。そして四つ葉のクローバーを握った少年の両手を更に自らの両手で包み込む。 「四つの葉っぱはシアワセのしるしだ。知ってるだろう?」 こくん、と頷く少年に笑みを深くして、男は言い募るように言葉をゆっくりと重ねていった。 「このマジックは、他の誰のためでもない。今日初めてやったし、これから先やることもない」 少年は自分の胸の高鳴りが不思議で、その言葉の真意も図れなくて、混乱していた。その意味を問うように首を傾げると、男は切れ長の目を細めて優しく微笑んだ。 「これから幸せを見つけに生きていく、君のためだけの魔法だ」 少年の円らな眸が大きく見開かれた。その深い珈琲色の眸一杯に捲簾を映して、少年は何も言うこともなく小さな唇を震わせていた。途端、少年の顔がくしゃりと歪み、眸がじわりじわりと液体で満たされていく。それを見ても、捲簾は慌てることはなかった。慌てるより前に、既にその涙に心を奪われていたからだ。目を逸らすことも出来ず、零れていく雫を止める術も持たず、捲簾は少年の前に跪いていた。少年の手に重ねるようにしていた手に、ぱたぱたと温い雫が降ってくる。 「君がいつか笑顔になれることを祈ってる」 (笑顔に……) 喫茶店からオフィスに戻り、またパソコンと向かい合う。過去を思い返しながらうっかり親指の爪に歯を立てていたことに気付いて咄嗟に誤魔化すように人差し指の腹でぎざついた親指の爪を撫でた。爪を噛む行為は精神的に満たされていない証拠なのだとか、そういう講釈を先輩から聞かされてから少しは気にするようになった。ぎざぎざの爪を眺めながら、あの優しい青年の言葉を思い出す。確かに、笑顔には、なれた。いや、慣れたのかもしれない。自分が笑えば周りも笑う。人付き合いが円滑になる。笑顔は、わたしはあなたをうけいれます、てきとはおもっていません、の証だ。これほど便利なものはない。なので笑い方を覚えてからはいつもこうして笑っている。しかし果たしてこれが、あの青年の願ってくれた未来だろうか。これが、今この状態は『シアワセ』だろうか。 十四、五歳くらいは年上だったろうか。そうしたら今はもう四十近い。今もマジックを続けているのだろうか。 (見てみたいな) あれだけ無理矢理自分の胸をこじ開けたのだから、責任を取ってもう一度くらい背中を押して欲しい。そんな自分勝手なことを思いつつ、あの快活な笑顔を思い出す。今まで生きてきて数え切れないほどの人間と出会っているのに、あれほど記憶の中ではっきりと主張する人間もいない。彼にとっては今までに相手してきた客のうちの一人に過ぎないのに、自分の中の彼はこんなにも大きい。名前すら知らないのに。奇術師なんてその時限りの幻を見せるだけ。ずっと、傍でシアワセを見せ続けてくれるわけでもないのに、自分勝手だ。 それでもまた会いたいと思ってしまうのは、彼のマジックに未だかかったままだからなのだろうか。 |