賑やかで華やかな街の喧騒から僅かに離れたビル街。思いつめた表情をした女は一人、小さな名刺と古びたビルを見比べて大きく息を吐いた。ビル風にふわりと揺れるベビーピンクのフレアスカートが、その場所にどこか不釣合いだった。
今日こそ糸口を見つけるのだ。二年前に突然姿を消した姉の行方。姉は両親との折り合いが悪く、家出をする心当たりがありすぎた。しかも当時付き合っていた彼氏もまた、同時期に姿を消していた。そのせいで、どこの探偵事務所を辿っても真面目に探してくれる人はいなかった。いるとすれば、手っ取り早く姉の死亡確認をして料金をもぎ取ろうとする男ばかりだった。
死んでなんかいない。絶対姉は生きている。そう思いつつも、その日もやはり事務所から煙たがられて追い出された彼女は、自分の背後に一人の女が立ちはだかったのに気付いた。とても派手だが、綺麗な女だった。人を食ったような笑みを浮かべた女は、唐突に名刺を突き出した。思わず受け取ってしまった彼女に、女は笑いながら、そこへ行って俺の紹介だと言え、と言い、すぐに身を翻した。ビル街のアスファルトをピンヒールで闊歩して行く姿を呆然と見ていた彼女は、その姿が米粒ほどになってから名刺に視線を落とした。表には先程の女の名前や役職(肩書きが多く、難しかった)、そして裏には、整った字である住所が書かれていた。
女はその古びたビルに足を踏み入れた。外観は古びて蔦が巻きついているようなビルだが、中はなかなかレトロで綺麗な内装が施されている。一定間隔で設置されたライトも洒落たデザインになっている。まるでタイムスリップしたようだ、と思った。図らずも今向かっているのは探偵事務所。まるで小説の中のようだ、と外のネオンに満ちた街のことなどを忘れてそう思った。
同じく洒落たデザインのドアのエレベーターも設置されていたが、古さのことも考えると不安で、女は隣の階段を選んだ。
カツン、カツン、と彼女のパンプスの音が階段に響く。名刺によれば、住所はこのビルの四階。しかし階下の二、三階には何の事務所も入っていないようだった。一階には可愛らしい喫茶店が入っていたが、惜しいことにこの外観だ。客は馴染みの者ばかりだったようだ。
もうすぐ四階。緊張を隠すように、彼女は拳を握った。ここでももし断られてしまったらどうしよう。もう調べられるだけの事務所は回った。もう頼る場所がないのだ。藁にも縋る思いで、彼女は四階のフロアに足を踏み出した。
大正を舞台にした探偵小説なんてこんな感じかしら、と彼女は一瞬ドアの前で立ち止まった。濃いチョコレート色のドアに磨り硝子が嵌め込まれている。掲げられたプレートには“探偵事務所”と、それだけ書かれていた。今までに行った探偵事務所とは全く違う。今まで行った探偵事務所は、どこも綺麗で普通の事務所のようで、もっと客が入りやすい雰囲気で。
ちゃんと誰かいらっしゃるのかしら、と彼女は少し不審に思ったが、覚悟を決めて一度深呼吸をした後、拳を二度、ドアにぶつけた。
返事はなかった。やはり留守なのか定休日なのか。諦めの気持ちを感じつつも、もう一度ノックをする。すると、ドアの向こうで何かがごそりと動くような気配に気付いた。もしかしたら手が空いていないのかも。
そう思って彼女は、少し古ぼけた金のドアノブを回した。
ドアを開けると、そこは想像した通りの落ち着いたオフィスが広がっていた。正面には接客スペースのような重厚感のあるソファとローテーブル。観葉植物なども置かれている。白かったはずの壁は時間の流れのお陰か僅かにキャメルに染まっている。少し煙草の香りもする。ここまで想像通りだと、このまま想像通りの探偵まで登場しそうだ。
音のない空間に、女が部屋中を見渡していると、部屋の脇からガタリ、と何かが動く音がした。それに咄嗟に視線を巡らせると、部屋の横には、窓を背にして大きなデスクが置かれていた。その後ろには黒い革張りの椅子が後ろ向きになっている。背凭れの上からは黒い髪が僅かに覗いていた。思わず身体を強張らせていると、その椅子はゆっくりと回転し、……椅子の主はゆっくりと彼女の方を向いた。
黒い短髪に強い光を宿した意志の強そうな切れ長の目。浅黒い肌に薄い唇。スーツを着ているのだが、僅かに着崩している。想像とは違ったが、間違いなく美形の部類に入るだろう。……彼がここの所長なのだろうか?しばし時が止まったように彼女は男を見つめていた。男も表情を変えることはない。しばしの沈黙の後、ゆっくりと彼はその薄い唇と開いた。
「依頼人の方ですか?」
その声は、椅子の主のものではなかった。後ろでドアが開き、別の男が入ってきたのだ。咄嗟に彼女は振り返る。そこにいたのはぴしりとスーツを着込んだ一人の男だった。肩ほどまでの黒く艶やかな髪に、柔らかな色の濃茶の眸。それを細身のフレームの眼鏡が覆っている。それに白い肌と薄桃の唇と揃えば女顔と言えるかもしれないが、背は高く、女々しいというよりかなりの男前だ。こちらも相当な美形である。
思わず見惚れて返事が遅れた。そのことに恥ずかしくなって僅かに俯き、はい、と答える。
「ほら、所長。ちゃんと対応して下さいね」
「ワリ……寝てた」
所長、と呼ばれたその男は、ぼうっとした顔でボリボリと頭を掻いた。コツコツと革靴を鳴らして彼のデスクに歩み寄った男は、持っていたコピー用紙を彼に突き付けた。その後、彼女を接客スペースのソファへ案内した。
「コーヒーと紅茶、どちらが宜しいですか」
「あ……じゃあ紅茶で……」
そう答えると、穏やかな笑みを浮かべた彼は先程出てきたドアへ向かって歩いて行った。それと入れ違いに、所長と呼ばれた青年が彼女の向かい側のソファへ腰掛けた。擦れ違いざまに「俺、コーヒーね」と告げながら。
「すみません、少し転寝をしてました」
野生味溢れる男性でありながら、少し恥ずかしそうにそう言う顔は子供のようで何だか可愛い。思わず彼女もつられて微笑んでしまった。
「あ……私、観世音さんという方からご紹介頂いて、こちらに来たんです」
そう言うと、彼は少し驚いたように目を見開いた。そして少し複雑そうな顔をする。しかしすぐに表情を戻して、ポケットから名刺ケースを取り出し、一枚の名刺を差し出してきた。
「あ……観世音から私のことは」
「いえ、こちらの住所を伺っただけで」
彼から手渡された名刺には、所長“沙 捲簾”と書かれていた。
「お待たせしました」
かちゃり、と奥のドアが開く。出てきた先程の青年は銀の盆を手にしていて、二つのカップから湯気が立ち上っていた。彼はティーカップを彼女の前に置き、コーヒーカップを所長の前に置いた。しかし、彼は言った通りのコーヒーが出てきたというのに少し気に入らないというように顔を顰めた。
「おい天蓬」
「はい、何ですか所長」
彼女は黙ってその二人の遣り取りを見つめていた。そして思ったのは、どうしてこの眼鏡の青年が所長を呼ぶ“所長”という言葉がどうしてこんなに白々しく聞こえるのだろうということだった。
「インスタントだろ」
「インスタントです嫌でしたか」
「知ってるくせに……」
「すみませんねぇ、紅茶を淹れていたらコーヒーのことを忘れてまして」
「正直に言え」
「豆が切れました」
そんな漫才のような遣り取りに思わず吹き出すと、所長は少し罰が悪そうに、眼鏡の青年は肩を少し竦めて、すみませんねぇと笑って言った。そして所長の隣へ腰掛ける。
「申し遅れました、所長の沙です。こちら、助手兼秘書兼事務の猪」
「本当に困っちゃいますよねえ、この過重労働」
猪、と呼ばれたその青年はにっこりと微笑んで、同じくポケットから名刺ケースを取り出し、一枚名刺を彼女に差し出した。小さな紙を差し出すその指は細くて白かった。
「猪 天蓬と申します。所員……というか、僕しかいないんですが」
「じゃあ、早速お話を伺っても宜しいですか」
所長がそう切り出すと、眼鏡の青年は一旦立ち上がり、手帳とペンを持って戻ってきた。そしてそれを所長に手渡す。その二人の真剣な目が自分に向かうのを感じながら、今度こそ、信じてもらえますように、と願い、話を切り出した。
***
「観世音の紹介だったんですね」
依頼人の女性が帰った後、ティーカップを片付けながら天蓬はそう漏らした。すると捲簾はまた嫌そうに顔を顰める。
「また借りがどうとか言われるんだろ……」
「でしょうね。って言っても、お金もぎ取られるわけでもあるまいし」
「生気を搾り取られるんだよ」
「精……?」
「変な想像すんな」
きつく己の助手を睨みつけて、捲簾は一気に疲れたように椅子に身体を埋めた。あまり調度品に高価なものを揃えない捲簾だったが、毎日使うものだからと椅子と机は少し奮発したのだった。
此処は元は捲簾一人の事務所だった。一人で出来る限りの仕事しか出来なかったので勿論赤字続きだった。こんな風にビジネスとして軌道に乗り始めたのはあるきっかけで天蓬と出会ってからだ。観世音というのは昔からの腐れ縁で、今も時折依頼人を斡旋してくれる女だ。ただ彼女の持ってくる仕事は厄介なものが多く、しかもそれなりの代価を求められる。と言っても、金品を要求されるわけではない。彼女の要求に応じて夜通し遊びに付き合うくらいのものなのだが、それが金を取られるよりも面倒なのだ。椅子の柔らかい背凭れに身体を預けて、首をこきりと鳴らす。ここ一週間くらいは暇だったが、これからまた忙しくなりそうだ。
くすくすと笑う声が耳に心地いい。捲簾はそれを聞きながらゆっくりと目を閉じた。そしてしばらくぼうっとしていると、自分に近付いてくる馴染みの足音が近づいて来るのを感じた。そしてゆっくり目を開くと、目の前の机にコトリ、とマグカップが置かれた。
「あ」
「ちゃんとあなたのお望み通りドリップしましたよ」
見上げれば唯一の同僚の穏やかな笑顔。何だかじわじわと温かいものが広がってくる。どうも歳を取って小さなことでも感動するようになってしまったらしい。悪戯っぽく捲簾の顔を覗き込んで来る天蓬の頭を撫でて、マグカップに口をつけた。彼の好みでブレンドされた豆は程好い酸味が舌に心地いい。
「美味い」
「当然じゃないですか」
「まあね」
そういえば今日あの依頼人と話していて思い出したことだが、確かに少し彼は仕事をし過ぎかもしれない。というより、自分がさせ過ぎているということになるのか。助手兼秘書兼事務とは大して名誉でもない割に重い肩書きである。それでも毎日、何でもなさそうな顔をして普通なら二、三人で片付けるような事務や電話応対、手が空けば捲簾の調査の助手などをこなしているのだ。それなりに高給を出しているつもりではいるが、時間は金で買えるものではない。今も彼は何ということもない顔をしてコーヒーを啜っている。
「……なーあ、天蓬ー」
「何ですか所ー長」
「お前、休みとか欲しくねえの」
「そんな余裕はありませーん」
からかうような口調でそう言って、笑って天蓬はカップを傾けた。そうなのだ。休みを取っている余裕などない。この場合、新しいスタッフを雇うのが一番いいのだが、それはあまり気が進まなかった、自分の我儘なのだが。しかし彼も本当に必要になったらそう言うだろうと思って、結局二人のままだ。
『最初は少し赤字が出ますよ。そしてそれを回復するためにも暫くは寝る間も惜しんで身を粉にして働いて頂かなければなりませんが。その覚悟は』
そう言ったのは出会った頃の彼だったが。
「所長、何ぼうっとしてるんです。先程の彼女の依頼もなかなか厄介です。どうやらお金持ちの方のようですから必要経費として色々請求出来ますが、出張も増えますね」
もう既に彼は今日以降の予定を頭の中で構築しているのだろう。一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せとも言うが、まさしくそうだ。頭のいい秘書は幾ら出しても構わないくらいだ。しかも本当に彼は自分より一つ年上だったりする。
「そうだな」
「まずは彼女の実家の方へと行ってみましょう。と言っても、僕は最初の内はついて行けませんからね」
「ん、了解。実家は……宮城か」
「ええ、お土産は笹かまでいいですよ」
「はーい」
「経費で落ちませんからね」
年上女房に勝てた例はない。
「はあい」
「素直で大変よろしいです。はい、いいこいいこ」
「……あのなぁ! 俺所長様なんだけど」
「権力を振りかざす人は、嫌いです」
そう言って、子どものような仕草でぷい、と顔を背けられてしまえば勝ち目はなく、捲簾はがっくりと肩を落として謝ることしか出来なくなる。自分でもがっかりのへたれっぷりである。自分とて御年三十三歳。落ち着きが出てもおかしくない年。しかし精神的にも身体的(基本下半身)にも昂ぶる一方だった。しかしあっちの女、こっちの女と渡り歩いていた頃からすれば落ち着いたのだろうか。
沙 捲簾。三十三歳。職業・探偵業。恋人は、我が美人秘書。
そう考えると、肩書きがもう一個増えるなぁ、などと考えながら、不思議そうな顔をして自分を見ている天蓬を見つめた。
「何だか今日はいつもに増して呆けてますね。どうかしたんですか」
「調査が始まったら、また当分会えなくなるなぁ」
そう漏らすと、彼は目を見開いて暫く固まった。そして段々と頬を緩め、くすくすと笑い始めた。
「嫌ですね、もう五年位、嫌と言うほど一緒にいるでしょうに」
そう言って彼は笑い、捲簾の額を指で突付いた。全く、いつまで経っても食えない相手だ。猪 天蓬。三十四歳。職業・探偵助手兼秘書兼事務。兼恋人、というのは省略。彼と出会った時まだ二十代だった自分は、赤字が出ることも厭わずに小ぢんまりと事務所を経営していた。そんな捲簾に、その美人は言ったのだ。
『お金儲けを考えないのは結構なことです。だけどそれで経営の根を腐らせてしまえば元も子もありませんよね』
初対面の人間になんてずけずけと物を言う奴だ、と不快に思うより前に驚いたのを覚えている。それに彼の言うことは至極尤もなことばかりだったからだ。勿論反発もした。図星を突かれると思わず興奮してしまうのは若さ故だ。しかし腹立たしくしかも正しいことばかり言うものだから尚更気になってしまっていつの間にか陥落していた自分がいた。情けない話ではあるがとりあえず今幸せなのでいいか、と思っている。公私共に理解のあるパートナーの存在はそれだけで心強いものだ。
「あ、でも覚えておいて下さいね」
「あ」
「浮気したら即お別れ、っていう約束です」
そう、それが条件だった。何度無碍にされても食い下がる捲簾にとうとう諦めを見せて、最後の条件として彼が提示したのがそれだった。そしてずっと自分はそれを忠実に守ってきている。だからこそ恋人同士としての自分たちが今ここにあるわけで。
「分かってるよ、右手が恋人、ってか」
「左手も許可しますよ」
「……」
本当に口の減らない恋人だ。
「では日取りは仙台に二泊三日で、そのまま大阪へ飛んで頂きます。そこで一泊二日……」
「天蓬」
「はい」
「明日の朝に支障を来したら、ごめんな」
手帳を見ながら捲簾の言葉を聞いていた天蓬は、目をぱちぱちと瞬かせた後、手帳に視線を落としたままゆるりと微笑んだ。
「覚悟してますよ、所長」
その横顔はやはり憎らしいほどに整っていて、しかし憎いと思う以上に愛しかった。まだ職務時間内だというのに気が緩むと彼に手が伸びてしまいそうになる。明日から丸四日は彼に触れられない。普段もう夫婦同然に傍にいるから、少し離れるのが何だか心許ないのだ。しかしそれも一つのイベントだと思えば何とかなるか。
「……ぜってー、抱き潰してやる」
「えっち」
「は!?」
「言ってみたかっただけです」
「……ああ、早く夜が来ねぇかなあ!」
「何子供みたいなこと言ってるんです」
彼の腰を抱き寄せると、珍しく反撃することもなく彼は捲簾の短い髪をよしよしと撫でた。子供扱いというより、珍獣扱いだ。しかしそれすら心地よくて、彼のスーツに顔を擦り寄せて目を閉じた。
「幾つになっても、子供みたいな人ですね」
彼の細い指が髪を撫で、地肌を撫でるのを感じながら、静かに幸せを噛み締めていた。
「あ、そういえばさっき観世音からメールが来てましたよ」
……幸せ、なはず、だ。
こんな夢を見たのです。いっそ舞台を大正〜昭和にしようかと思ったのですが、解らないことはやめようと断念。
しかし奴等は名字に困る……。二人とも名字との並びがとても悪いです。しかしオッサンハァハァ!(やめよう)
実は裏設定がもりもりあります。捲簾と天蓬はいずれも元警官とか、天蓬と八戒は兄弟ですが捲簾と悟浄は赤の他人とか。
三蔵もおります。天蓬の元同僚で因縁の関係です。 2006/7/16
|