「ふーんだお兄ちゃんたち、オイラばっかり置いてけぼりにしてー」
プリンスの妹は非常にご立腹だった。
それというのも、彼女の身辺に異変を感じたプリンスが八百鼡を見張りに置いて、独角と二人で出掛けることが多くなってしまったため。元々じっとしている事が苦手な彼女にとってはストレスの溜まる日々である訳で。
という訳で、得意の脱走である。
三蔵一行のいると思われる町の裏手の林に飛竜を置き、ちょろちょろと町の中を歩き回る。城では見られないようなものや美味しそうな物に目を輝かせながら、目当ての四人組(主に金髪坊主)を探してきょろきょろと回りを見渡した。一行は非常に目立つなりをしているため、少しでも視界に入ればすぐに解る筈。それにこんな小さな町だ。
「ハーゲ、ハーゲ、ハゲボーズ」
しかし一向に目当ての金の頭は見当たらない。この町にいる筈だ、という確信が薄れていく中、李厘の目の端にふと何か赤いものが過ぎる。
「う?」
くるり、と先程過ぎったものの軌跡を追うと、その目に映ったのは。
「はっかーい!」
にこにことトテトテ駆けて来た悟空は、手に持っていた銀のボウルを八戒の目の前に誇らしげに掲げてみせた。ボウルの中には白くふわふわしたものが入っている。硬めに泡立てられた生クリームが角を立てている。
「ありがとうございます、丁度いい硬さですね。悟空にやってもらうとすぐに出来て楽ですねー」
「あと、後何したらいい?」
「うーん……生地が出来てクリームを挟むだけなので……じゃあ出来るまで買い出しに行って来てもらっていいですか? メモ作りますから」
「うん!」
まるで母と子の会話を繰り広げた後、八戒は三蔵から預かっていたカードとあらかじめ作っておいた買い物メモを落とさないようにとしっかり持たせて、ドアまで見送りに行った。
そして悟空が部屋を出ていくのを見送った後、八戒は小さく息を吐きながら布巾で手を拭いて台所に戻っていった。甘い香りが辺りに漂っている。台所の一番奥に置いてあるオーブンが少しだけ熱っぽい。小さな窓から中を少し覗きながら満足げに笑むと、汚れた皿を洗うべくシンクに向かい合った。
三蔵はこの生地の焼ける甘い匂いを嫌ってベランダで煙草を吸っている。悟浄は煙草が切れ、八戒の買出しまで待てないということで自分で買いに出ている。悟空は八戒のお願いで先ほど買い物に出たため、この空間にいるのは八戒だけ。
なかなか一人きりになる事の少ない度の中では貴重な静かな時間であるが、少し淋しい気もするのは、自分が孤独に弱くなったという事なのだろうか。皆でいると煩いと感じる事もあるのに、一人になると寂しいというのも我儘な話だ。
皿が水の中でカチャカチャぶつかり合う音を聴きながら、八戒はそっと口角を上げた。
ガチャ、とドアの開く音がする。悪意や殺意は感じない。悟空だろうか。しかし悟空にしては早すぎる。悟浄かもしれない。
「悟浄ですか?」
きゅ、と蛇口を閉めながら呼びかけると、ドアの方から聞き慣れた足音が響いた。そしてまた見慣れた頭がひょっこりと台所の入り口から覗く。
「お?すげー何か甘い匂い」
「すみません、悟浄甘いの嫌いですよね。悟空がシュークリーム食べたいって言うものですから……」
「シュークリーム? うわすげー久しぶり」
「悟浄と三蔵の為にあんまり甘くないクリームも用意してますからね」
「さんきゅー。そういや小猿ちゃんは?」
「悟空はお買い物に行ってくれてるんですよ。三蔵はベランダに避難してます」
「あー、甘い匂い嫌いだもんなー」
にやりと悪戯を思いついた子どものように笑った悟浄は、そのままベランダの方に歩いていく。どうせ部屋の中の甘い匂いを三蔵の方に扇いでやって嫌がらせるつもりなのだろう。殆ど子どもと変わらないな、と八戒はそっと微笑んだ。
洗いものが終わって、もう一度そっとオーブンの窓から中を覗くと、大分シュー生地が膨らんできている。オーブンの窓は汚れているしメッシュが掛かっていて中が見え辛いのだが決して開けてはならない。開けた途端に生地はぷしゅ、と潰れてしまうのだ。八戒としても出来栄えが非常に気になるところではあるが、ここは我慢である。
カスタードクリームは作った。生クリームは底無しの腕力の悟空に泡立ててもらった(八戒がやるのの半分の時間で出来た)。後は三蔵の為に抹茶クリームを作っておけばいい。焼きあがるまであと5分ほど。悪戯でオーブンを開けようとするような悪戯っ子はいない。
「順調ですねー……ん?」
何だか妙に風通しが良い気がする。気になって台所から出ると、部屋のドアが開けっぱなしになっているのが見えた。
「……悟浄、ドアくらい閉めてくださいよ……」
開きっぱなしで揺れているドアに向かって呟きながら、八戒はドアに歩み寄って静かにそれを閉めた。そして溜息を吐いて、もう一度台所に向かう……。
(……何でしょう、アレ)
台所に何かいる。
忙しなくちょろちょろ動き回っている。
……と言っても、ご家庭の主婦に忌み嫌われるあのテラテラした虫でも、チューチュー言う小動物でもない。もうちょっと大きい。
そして、それが動く度に、小さく「チリンチリン」と、音がした。
「……李厘、さん?」
あのサイズで動く度に鈴の音がする知り合いなんてそうそういない。しかし、何で彼女がここにいる?
不思議に思いながらも、下手に挑発しないように八戒はそっと物陰で気配を消して彼女の動向を探っていた。しかし彼女の手が今まさに膨らんでいるシュー生地の入っているオーブンに掛かった瞬間、いてもたってもいられなくなってしまった。
「あ――――――っ!」
急にあたふたしたせいで気配を消す事を忘れた八戒に、感覚の鋭い李厘は目敏く振り返りビシッと人差し指を向けた。
出来れば今争いは避けたい。何でってシュー生地が焦げたらショックだから。刺客よりも料理の方が大事な八戒は、彼女に敵意がない事を示すようにホールドアップの姿勢をとって見せた。
「一人はっけーん!」
「あ、あのですね、だから今はちょっと……」
「で、ところでコレ何?すごいいい匂いする〜」
戦いたいのかそうでないのかさっぱり解らない彼女に少し戸惑いながら、八戒はにこぉっと人好きのする笑顔を見せた。
「それはですね、シュークリームっていうんですよ。食べた事ありませんか?」
「ううん、ない。……うち、あんまりお金ないし。けーひがないんだって」
「……………………・」
けーひ。経費だろうか。ああ黒幕が資金を少しは出しているということなのだろうか。だけど毎度毎度戦いを挑んで怪我を負っているのだからその治療や普段の食事でお金は殆ど消えるのだろう。自分の金ではないからと湯水の如く金を使う三蔵一行とは正反対である。
しかし、これは同情を買うための新手の戦法だろうか。いやでもあの敵なのにこちら以上に正義派の紅孩児がそんなあざとい方法を選ぶだろうか。彼ならば正面から戦いを挑むほうを選ぶだろう。
「そんなことよりっ、きょーもんを渡せっ!」
「いやそれは三蔵に言って頂かないと僕は持ってませんし……」
「、そういえばさんぞーは?」
「…………今はお出かけ中です」
流石に今ベランダにいると言うほど冷たくはない。だが、早いところ撤収していただかないと、シュー生地が焼きあがってしまう。
「だから、ね? また今度……」
「――――――……うそ。さんぞーこのちかくにいる」
フンフン、と鼻を動かした李厘が、目をスッと細めて言う。匂いか。三蔵の匂いなのか。ますます女版悟空である。というか、野生である。
「さんぞーを出せっ」
「あの、ですからそのー」
「……じゃ、このしゅーくりーむと引き換えにさんぞーを出せっ」
「うっ…………」
野生の勘か、はたまた八戒の行動の端々から八戒のシュークリームへの執着に気付いたのか、李厘の出した提案に思わず八戒は詰まってしまう。
そして八戒は考えた。
(……別に、三蔵に彼女をけしかけても負けやしませんよね……それにベランダには悟浄もいるはずですし……いいや)
八戒の次の一手を見守りながら、オーブンの取っ手に手を掛けていた李厘に、八戒はにこりと微笑みかけた。
「三蔵はベランダです。あまり施設を壊さないように言っておいてくださいね」
「はーいっ」
屈んで人差し指を立てながら話す八戒に、反射的に行儀よく返事を返した李厘は、そのまま元気よくベランダへ向かった。……数秒後にすぐ乱闘の声や銃声が響いてくる。それに重なって、オーブンが焼きあがりを知らせる音を立てた。
「ふう……間に合いました。さ、それじゃあ邪魔されない内に作っちゃいましょうね」
腕まくりをしながらそう呟くと、オーブンから鉄板を取り出し、ふわっと膨らんだ生地を網の上に載せて冷ましていく。冷ましている間に、三蔵の分取り分けておいた生クリームに抹茶を加えて混ぜていく。綺麗な色に染まっていくクリームを見ながら微笑んでいると、未だ騒がしいベランダの方からすい、とジープが台所へ入ってきた。
「おやジープ、出掛けてたんですか?」
「きゅ〜」
ふわり、と八戒の肩に降り立ったジープは嬉しそうに八戒の頬に顔を擦り寄せる。擦り込みか何かか解らないが、ジープは八戒に対してはとても甘えんぼうだ。
「ジープにも作ってあげますからね。あ、ジープは甘い方がいいですよね?」
目をキラキラさせて頷く白竜のペットに、八戒は微笑みかけて軽く鬣を撫でた。
冷めた生地全てに横半分の切れ目を入れ、八割に甘い生クリームを詰め、一割に抹茶クリーム、残りの一割に甘さ控えめの生クリームを詰める。
甘い生クリーム用を作り終えた頃、ドアが大きな音を立てて開いた。ドタドタと大きなこの足音は悟空のものだ。
「悟空ですか? おかえりなさい」
「ただいま〜っ! 出来たっ?!」
買ってきたものを八戒に手渡しながら言う悟空に感謝の言葉を告げて、微笑みかける。
「待ってくださいね、あと十分くらいで出来そうです」
「はーい。……あ、これさ、昨日の晩飯食った店の兄ちゃんが八戒にって。ぜってー下心丸出しだぜあのオトコ!」
悟空から、買ってきてもらったものの袋とは別に差し出された箱を受け取る。なんだろう、と箱を開くと、それはその店の人気メニューのシュウマイの冷凍版だった。
「わあ……よかったですね悟空、悟空あの店のシュウマイ気に入ってたでしょう?」
「え? わ、マジで?! やった〜!」
さっきまでぶちぶち文句を言っていた悟空は、ぱあっと顔を輝かせてその箱を覗き込む。割と八戒はにこにこしながら買いものをしているとオマケを付けてもらえることが多いので、毎回得をしているのだった。
それに加えて自分へ向かう好意に鈍感な八戒は、悟空ですら気付いた、昨日の晩のレストランの店員の熱い視線にまったくもって気付いていない様子だった。それには悟空でも溜息が出るというものである。
「晩御飯にみんなで食べましょうね。じゃあもうすぐシュークリーム出来ますから、ジープと遊んで待っててください」
「はーいっ」
「きゅ〜」
行儀よく返事をした悟空にジープが飛び乗ったのを見て、くす、と笑ってもう一度シンクに向かう。……が、暫くすると何やら熱っぽい視線が背後から向けられているのに嫌でも気付く。なんだろう、と振り返って見ると、二匹の熱い視線が向かっているのは、厳密に言うと八戒、ではなく、八戒の手元にある、先程まで生クリームの入っていたボウルと、生クリームの絞り出し袋。
「……欲しい、ですか?」
「ほしいっ!」
「きゅっ!」
「しょうがないですね〜……あんまりお行儀は良くないですけど……でも、食べ物を粗末にするよりいいですよね。じゃあ回りを汚さないようにしてくださいね?」
そう言って八戒はボウルと袋を悟空に手渡す。ボウルには取り切れなかったクリームが少し付いたままになっていて、袋にも絞り出てこなかった分のクリームが残っている。小動物たちの狙いはそれのようだ。
「はーい!」
ボウルを持ってリビングに向かう悟空を、すい、とジープが追って飛んでいく。
それに微笑みかけながら、八戒は残る三蔵と悟浄の分を作るべくもう一度台所に向かったのだった。
「よし、完成です」
そう満足げに八戒が呟くと、つい今まで残った生クリームに夢中だったであろう悟空とジープがパタパタと駆け寄ってくる。
「出来たの? うわ、すっげーうまそー!」
「それじゃあおやつにしましょうね。あ……悟空、三蔵と悟浄を呼んできてくれますか?あと李厘さんも」
「え、りりん? りりん、りりん……って、あの?! 何で?! いるの?!」
当然ながら訊き返してくる悟空に曖昧に笑いかけて、八戒はその背中を押した。納得がいかない顔をしながらも悟空はぱたぱたとベランダに駆けていった。ジープは巻き込まれたくないのか、八戒の肩にふわりと降り立った。
悟空の後ろ姿を見ながら、八戒はうず高く積まれた大量のシュークリームを大皿にピラミッド上に積み上げてダイニングに運んだ。ジープがきらきら目を輝かせるのを微笑ましく眺めていると、ドタドタとご一行がベランダの方からぞろぞろと歩いてくる。悟空はやはり巻き添えを食らったようで、頬に掠り傷を付けている。後ろに続く悟浄もげんなりと触角も元気なく垂れ下がっている。そして最後に李厘を肩に乗せて三蔵が憮然とした表情で歩いてくる。李厘が思いっきり三蔵の髪の毛を掴んでいるが、あれが何かの勢いで抜けてしまわないかと本気で心配してしまう。
(十円ハゲとか……シャレになりませんってば、唯でさえ三蔵の髪の毛って細くて……少ないのに……)
「はっかーい! ひでーんだよ悟浄がアイツと間違って俺の事殴った!」
「バーカその分俺の後頭部に蹴り食らわしたのどこのどいつだ!」
「俺!」
「自慢すんな!」
「あはは、仲良しさんですね。さあ悟空、食事の前には?」
「うがいと手洗い!」
「はい、よく出来ました。じゃあ手を洗ってきたらおやつにしましょうね。……悟浄、その辺のおねえさんにぺたぺた触った手でシュークリームなんて掴ませませんからね?」
「……ハーイ」
我関せずとハイライトを取り出そうとしていた悟浄は、八戒のにこにこ笑顔に押されて、火を着けたばかりの煙草を一本無駄にして、大人しく洗面所へ歩いていった。
悪ガキ二人を手洗いに向かわせた八戒は、今度は三蔵の方に振り返る。
「三蔵も、ですよ」
「……解ってる」
三蔵の場合、別に八戒に指図される事は苦痛ではないのだが、悟浄や悟空と同じように扱われている、という事が何となく素直に対応するという事を出来なくさせていた。
それが八戒にも何となく解るのか、仕方がない子どもを見るように苦笑した後、少し首を傾げた。
「子ども扱いなんてしてませんよ?」
「……解ってるって言ってるだろうが」
そう言って顔を上げると、酷く穏やかな表情で三蔵を見つめている一対の翡翠がある。互いの視線がゆっくりと絡み、三蔵が真っ直ぐな視線を向けると、少し照れたように八戒は頬を染めて、伏せ目がちになった。それが何ともいじらしくて、思わず三蔵は手を伸ばしかけ……た。
「さんぞーがはっかいに触ろーとしてるー」
「っ……」
そういえば重さに慣れて、自分の上に奴がいる事を忘れていた。八戒が何を恥ずかしがっていたかって、三蔵の頭のすぐ上から物凄く興味津々な視線を向けられ続けていた事だったのだ。
「テメェ……」
唯でさえ悟空や悟浄のせいで二人きりでいられる時間が少ないというのにこんな時に限って邪魔が入るとは。
「はっかーい、洗ってきた〜」
三蔵がこめかみに青筋を立てている間に、早々に悟空と悟浄は帰ってきてしまう。先ほどまでほんのり頬を染めたりしていた八戒は悟空の姿を目の端に捉えるとすぐに保父さんの顔に戻ってしまう。
「さぁ、三蔵も手を洗ってきて下さい。李厘さんも」
「へっ? オイラも?」
「ええ、食べた事ないでしょう? 安心して下さい、怪しいものは入ってないですから」
そう言う背後で悟空が恐ろしい勢いで口にシュークリームを突っ込んでいくのだから間違いない。まあ悟空ならうっかり毒を口にしても胃で無効化出来そうな気がするが。
そして、子ども殺しの笑顔で言われた李厘は欲望に屈するべきか、使命感を捨てずにこのままがっつり経文を掴んで帰るかの間で揺れ動いた(その間一秒)。が、結局いい笑顔で、
「はーい」
とそれはもう悟空のようにいい返事をして三蔵の肩から飛び降り、洗面所に向かっていった。
肩の負荷が突然消えた三蔵は少し妙な顔をしながらも、八戒を軽く睨みつけた。
「敵だって自覚あんのかお前」
「仲良く肩車してたあなたに言われたくありませんよ。さ、手洗いして来て下さい」
ふい、と八戒は顔を背けて言い放った。その顔はいつも通りだが、言葉の端々がどことなく素っ気無い。眉根を寄せて一歩近付くと、少し都合悪そうに八戒は一歩後退さった。
「……何拗ねてんだ」
「拗ねてなんてないです」
いつもならそれも軽くあしらうくせにすぐに返答してくるところがますます怪しい。訝しげな顔でずんずん近付き、その細い手首を掴むと軽く抵抗される。
「……じゃあ、妬いてんのか」
「……っ……自意識、過剰、です……」
と、いつもの如く口から漏れ出るのは可愛くない言葉ばかりだ。が、瞬間、一瞬八戒が唇を噛んだのを見逃さなかった。
「……可愛い事ばっかりしやがって」
「うるさい……」
からかった訳ではないのだが、別の解釈をしたのだろう八戒は少し上気した頬をそのままにきつく睨み付けてくる。それすらちっとも勢いはなく、却って幼く見えて煽られてしまう。
「八戒」
「……」
その声に含まれる昼間のものとは違う艶に気付いた八戒が、ぴくりと肩を震わせる。そしてちらりと上げられた潤んだ目に、三蔵が一歩踏み出した。
「はっかーい! 洗ってきた〜!」
「あ、は、はいっ、ちょっと待ってくださいねっ!」
瞬間八戒に突き飛ばされた三蔵はうっかり転びそうになったが、幸運なことにその空間にいる全てがシュークリームに意識を奪われていたので気付くものはいなかった。
「……今夜覚悟しろよ……」
と、目に暗い明かりを揺らめかせながら恨み言を三蔵が呟いた事も、八戒は気付く事はなかった。
結局甘いクリームのものは悟空と李厘が半々にして完食と相成った。料理する専門の八戒としてもこうも綺麗に食べてもらえると気持ち良いと言うものである。
「八戒ごちそーさまっ」
満足げな溜息を漏らした悟空は、思い出したように八戒にそう言った。こういうところは八戒の教育の賜物である。
「はい、お粗末さまでした」
髭や口の周りにクリームを付けているジープを拭いてやりながらそう返すと、悟空は自分の口の周りもべたついていることに気付いたようで、顔を洗ってくる、と部屋を出ていった。
お腹も一杯になって満足したジープが、ソファで小さく寝息を立て始めた頃、三蔵と悟浄も食べ終えたようだった。そう言うと二人の食事が遅いようだが、実際はこれが普通で悟空が早いだけである。
「ごっつぉさん」
「はい、お粗末さまです」
悟浄と三蔵の皿を回収した後、満足げに食後の水を飲んでいる李厘に視線をやった。そしてベランダの方にも視線を送る。
「李厘さん、もう夕暮れみたいです。紅孩児さん心配しませんか?」
「えっ?お兄ちゃ……うわッホントだ、怒られる! 八百鼡ちゃん騙してきたんだった!」
騙して……と少し違和感を感じないでもなかったが、三蔵と悟浄は下手に関わりたくないため口を噤み、茶に手を伸ばした。
ガタン、と椅子から立ち上がってすぐにドアに向かおうとした李厘を見て、八戒はちょっと、と呼びとめた。
「なに?」
不思議そうに首を傾げる李厘に笑いかけて、八戒は一度台所に戻って何やら小さな白い箱を持って再び現れた。
「これ、紅孩児さんたちにお土産です。きっと八百鼡さんにも心配掛けてるでしょう?」
渡された箱を受け取り、ちらりと蓋を開けて中を覗いた李厘は、きらきらと目を輝かせた。
「いいのっ?! ありがとうっ!」
「いいですよ。だけどちゃんとみんなと分けるんですよ?あ、あと帰ったらちゃんと皆さんに謝るんですよ〜」
「はーいっ!」
嬉しそうに返事をした李厘は、スキップするようにドアから出ていった。それを見送っていった八戒がダイニングに戻った頃には、三蔵と悟浄は疲れ切った顔をしていた。
「……大丈夫ですか?」
「お前ね……あいつに俺らがどれだけ手ェ焼いたと思ってんの」
「さあ……」
「さあ……じゃねえよ!」
「三蔵手懐けるの上手だったじゃないですか」
「食いモンがなきゃ無理だろうが!」
「あ、そっか」
三蔵の手懐け方は主に食べ物を用いた餌付けだ。食べ物がなければ勝ち目無しらしい。
ムスッとコーヒーに手を伸ばした三蔵に目で謝って笑い掛けると、結局八戒には甘い三蔵の事、フンと鼻を鳴らして照れたように目を逸らしただけだった。
その後の吠登城では。
「紅孩児様! 李厘様が帰って来られました!」
「何?! 全くどこに行っていたんだあいつは……!」
ご立腹のプリンスの元へ駆け寄ってきた八百鼡は、戸惑ったように自分の後ろを振り返った。そこにはえらくご機嫌の自分の妹の姿がある。散々心配を掛けておきながらその満面の笑顔は何なんだ、と流石のシスコン王子も一度叱ってやろうと大きく息を吐いた。が。
「お兄ちゃんたっだいま〜!」
笑顔でそう言われるだけで叱る気を削がれるのだからシスコンと言われても仕方がない。独角ジも殆ど何に対しての感情なのか迷うほどに紅孩児に入れ込んでいる一人だが、ここだけはちょっと認めかねるところである。
「……何処に行っていたんだ」
「うんとね〜さんぞーたちのとこっ!」
「だからいつも一人で行動するなと言っているだろうが!」
「ごめんなさい!」
「「「……」」」
思いの外素直に謝った李厘に、他三人も沈黙してしまう。が、それにも構わず李厘はご機嫌な様子で、手にしていた白い箱をずいっと紅孩児の方へ差し出した。
「……何だ?」
「おみやげっ」
こんな事過去に一度もなかったため三人とも目を見張ったものの、興味に惹かれて箱の中を覗き込む。
「……シュークリームか?」
「うんっ!」
訝しげに言う独角ジに、李厘はこくりと頷いた。
李厘には一人で出歩く時には金を持たせていない。……ということは、窃盗か何かやらかしたのだろうか……。
そんな保護者ならではの葛藤を遮ったのは、やはり李厘だった。
「あんねっ、さんぞーのとこに行ったらはっかいがこれ作っててね、ごちそうしてもらってきたっ!」
八戒は李厘の話を聞いた後、少し迷ったものの(沢山作りましたし……)という事で、四つばかりシュークリームを箱に詰めて冷蔵庫に仕舞っていたのだった。
そんでこれはお土産にくれた! と満足げに鼻から息を吐く妹を、肩を少し震わせながら紅孩児が見下ろしている。何となくその意味を汲み取って、独角ジは彼の肩をぽんと叩いた。いや、独角ジにも嫌と言うほど解る。羨ましい。だけど極度のシスコンであるが故にやつあたりも出来ない。悪循環を起こしているのだ。
そんな事も露知らず、李厘はえっへんと胸を張って八百鼡と話をしている。
「あら、今度会ったらお礼を言わなくっちゃ……李厘様、ちゃんとお礼を言ってきましたか?」
「もっちろん!」
結局、八戒の作ったシュークリームは、大人しく吠登城の一家族の胃の腑に収まったという。
2005/8/14
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