赤い光を感じて目を覚ました。見上げた先には薄汚れたモスグリーンの天幕。その片側が外の光を透かして仄赤く揺らめいていた。シュラフから身を起こせばびりびりと右足に走る激痛に夢見心地の穏やかさは奪われた。暫く黙って蹲りその痛みを堪えていると、外からカシャ、と音がした。誰かが起きていて火に薪をくべているのだ。この凍て付く夜に寝ずの番をするは誰か。労いの言葉でもと思い、寒さと痛みでぎしぎしと軋む体を宥め賺し、天蓬は天幕の一部を捲って一歩外へと踏み出した。きりりと痛いほど冷えた空気が頬に当たって弾ける。あの質素な天幕でも幾らか保温性はあったようだ。コートの立てた襟に顔を埋めながら、赤い光を辿ってゆっくりを歩を進める。草の上に伸びる黒い影。それが動く度、かしゃ、かしゃ、と火が揺れる。
「……寝てろって言わなかったか」
 火の前で此方に背を向けて、黒い背中がそう低く呟いた。黒ずんだ軍手を嵌め、投げ付けるように薪を火に放り込んでいく。ぱちぱちと爆ぜる火花が辺りに舞う。寒いな、火に当たりたい。そう思って天蓬はそのまま彼の背中に近付いた。返答がないどころかますます近付いてくる気配に気付いたか、彼は思い切り怪訝そうな顔をして此方を振り返った。目を眇め、咥えた煙草は噛み潰さんばかりである。暫し、時が止まったかのように彼と見詰め合った。赤い炎を背に、彼の短髪が赤く染まってまるで燃え盛っているようだ。綺麗だなあとぼんやり思っているうち、終わりの見えない睨めっこに早々に音を上げた彼は顔の横で両手をひらひらさせて“降参”した。そして彼が足で適当に用意してくれた木箱に、ゆっくりと傷が響かぬように腰を下ろした。暖かい。
「大将御自ら一人寝ずの番ですか」
「悔しい事に、俺だけまともに動けちまうもんだからな」
 いつも率直で、湾曲な表現を好まない彼にしては珍しい皮肉だった。それも致し方無い。何せ彼だけが今回、“無傷”であるのだから。本来ならば誇れる事だ。司令官が傷を負う事など何も自慢にはならない。しかし彼はそうして共に戦えなかった事を悔やむ。
「僕みたいに惨めな状態になるよりましでしょう」
 何せこのキャンプまで彼の背に負ぶわれてやってきたのだ。部下に囲まれ笑われながら、非常に居たたまれない思いをさせられた。そういえば、傷だらけで笑う部下たちの顔は見えていたが、自分の眼下にいた彼の表情は窺い知れなかった。力強い背に負われ、振り返らない彼の旋毛を見下ろしながら、きまり悪く部下の好奇の視線を避けていたその時。
 隣に座った彼の横顔を眺める。分かりやすいようで分かりにくい男だ。不自然に分かり易すぎる“軽薄な男”というミスリードは如何にもといった感じで、それに気付いた今では片腹痛い。炎の色をその浅黒い顔に写し取ってその漆黒の眸の奥に火を燃やす彼の秘められた激情は、常に理性に、更に彼自ら造り上げた「捲簾大将」の偶像によって二重に覆い隠されている。それがふとした瞬間に揺らいで、眸の奥にちらりと覗く。それを引き出すのは後悔であったり怒りであったり、彼の心の安寧を乱すものだ。傷つけられたのは体ではない。彼にとっては自らの体が傷付くよりも、矜持を保てない事の方が余程問題なのだ。彼は怪我をした天蓬以上に“惨め”だったのである。
 あまり見詰めていては怒らせてしまいそうで、すいと目を逸らした。火をぼんやり眺めながら両手に息を吐く。辺りがぼんやりと白く染まった。
「あなたがいてよかったです」
「……慰めてるつもりか」
 剣呑な、暗い底知れない眸に一瞥されて少しだけぞくりとする。しかし案外と悪い気分でもない。
「まさか。何で僕が。ただあなたの存在に感謝しているだけです」
 そう言いながら、足元に積まれた薪を炎の中に放り投げる。カシャ、と音がして火花が散る。彼の顔を見れば、面食らったように天蓬を見詰めている。いつもの眸の色に戻った事が寂しいようで、しかし安堵もする。いつもの彼とて偽りではないのだ。彼の優しさも強さも何一つ嘘では有り得ない。それ故、自分だけが無傷であるという何でもないような事に傷付いているのである。
 しかし慰める気などは欠片もなかった。慰める程の事でもない。
「この際言っておきましょう。僕の頭の中は常にあなたありきです。自分に何があってもあなたがいるという事を大前提にして行動しています、無意識に、意識的に。今日もあなたがいなければ隊は立ち行かなかったわけですから」
「……ものすげ自己中」
「今気付いたわけじゃあるまいに。この僕が他人を当てにしてるって事ですよ、喜んでいいのに」
 傲慢な言葉に唖然としたように彼はこちらを凝視している。ふんと鼻から息を吐けば、次に吸い込んだ時ツンと鼻の奥が痛んだ。鼻と口を両手で覆って深く息を吐く。一瞬で生まれた結露で掌が湿った。
「僕は、僕一人の犠牲で全ては片付くのだという慢心は捨てました。僕は人にこうして凭れ掛かった事がなかったから初めは少し怖かった。あなたは僕の無茶をする癖は何も変わっちゃいないと言いますが本質が違うんですよ。昔は誰も頼れなかったから一人で必死に走り続けていました。今は後ろにあなたがいると思うから何も恐れずに走れます」
 唖然としていたその眸は次第に冷静さを帯び、静かに此方を見詰めている。それを横目に見て、再び天蓬は薪を手に取った。手が冷え切ってあまり感覚がない。がしゃ、と火の中に落ちていく木片を眺め、炎に手を翳す。
「それとも、フォローする側では不満ですか」
 そう言って初めて、彼の眸を真正面から見詰め返した。たじろいだように一瞬揺らいだそれはすぐに力を取り戻す。暫し瞬きも忘れたように視線を交差させていた二人はどちらからともなく目を逸らして息を吐いた。張り詰めた空気が少しだけ和らぐ。
「本当、頼もしいバディだよ。お前は」
「はあ。褒められてるんでしょうか」
「そうやって、自分の本質を冷静に見詰められるのはお前の強みだろうな」
「恥知らずとも言いますね。僕が如何に惨めで、小さくて、弱い男か、一番よく知っているのは僕ですから」
 捲簾は微かに笑い、少しだけ目を細めて組んだ自分の手を見下ろした。その伏せられた瞼が何だか悲しくて、見なければよかったと思いながら天蓬は夜天を仰いだ。吐き出した息が澄み切った星空を滲ませる。
「僕が走り出した時、あなただって直ぐにでも駆け出したかった事、ちゃんと分かってますよ」







ネタ帳より。      2009/10/30