太陽の匂いがする真新しいシーツをメイドから貰い、悟空は廊下を歩いていた。あの人はずっと土の上で大の字になることも出来ずに過ごしていたのだ。今日からはこの綺麗なシーツとふかふかのベッドの上で寝られる。喜んでくれるだろうか。抱き締めたシーツの太陽の匂いを嗅いで、少しだけ微笑んだ。
 階段を軽い足取りで駆け上がっていく。捲簾の部屋の隣と言っていたから、三階だ。一段飛ばしに跳ねるように階段を昇っていく。すると上から速い足音が聞こえてくるのに気付いて、悟空は歩調を緩めた。そして上を見上げると、見慣れた姿が階段を駆け降りてくるのが見えて目を瞬かせる。
「ケン兄ちゃん、どうしたの?」
 悟空が声を掛けると、少し俯き加減だった彼はハッと顔を上げた。その顔がどこか、焦ったようなそれで悟空は目を見開く。
「シーツ……貰ってきたけど」
「あ、ああ、届けてやってくれ。あいつは部屋だ」
「うん……ケン兄ちゃんは」
「俺は夕飯の手伝いに行く。あいつの面倒を見てやってくれ」
 そう口早に言い捨て、捲簾はそのまま足早に階段を降りていった。それをゆっくりと見送っていた悟空は、苦虫を噛み潰したような彼の表情に一瞬訝しく思ったものの、すぐに忘れて鼻歌混じりに階段を昇っていった。三階へと辿り着いて、少し早足になりながら奥の部屋を目指す。
「てーんちゃ……ん」
 踏み込んだ部屋は僅かに埃っぽかった。小さく咳き込みながら部屋の中へと入っていく。間取りは殆ど隣の捲簾の部屋と同じだ。窓際にベッドが置かれていて、そこには細い身体がくったりと横たえられていた。一瞬、先程の捲簾の様子を思い、まさか彼が何かを、と早合点しかけた。しかし近付いてみると微かに穏やかな寝息が耳に届いて、ほっと息を吐いた。
(寝ちゃったんだ)
 音を立てないように、調度品に体をぶつけないように気を付けながら、シーツをソファに置いてからベッドへと近付く。聞こえるのは彼の小さな寝息だけ。そしてその寝顔を、窓からの微かな月明かりがぼんやりと照らしているのが、少しだけ妖しい雰囲気を出していた。白い横顔が月明かりの下で青白く見える。伏せられた瞼から流れる睫毛は思ったよりも長い。何故か自然と胸が高鳴っているのが分かった。これは、あの地下牢で初めて彼を目にした瞬間の緊張と同じだった。やはり彼は人間ではないのだろう。よく物語にも人間を魅了してやまない美しい妖が出てくる。彼がそんな、人間に害を及ぼす魔物だとは思っていない。しかし、捲簾はきっと彼をはっきり自分の敵と認識してしまっただろう。二人にも仲良くして欲しかったのだが、出会いが少々拙かったか。
 立ち上がって、眠る彼を起こさないようにしながらベッドの向こうの出窓を押し開ける。するとさらりとした夜風が優しく吹き込んできて頬を撫でた。ベッドに横向きに伏せた彼の黒髪を風が吹き上げていく。暫くをそれを眺めていたが、ベッドに座ったまま横に倒れたように眠っている彼が少し苦しそうに見えて、悟空はベッドの下に降りている彼の両脚を持ち上げ、ベッドの上に乗せてやった。細い身体だった。

 あの夜から三日が過ぎた、あれ以来奴とは顔を合わせていない。
 天蓬の横で、飼い主の足元にじゃれるように嬉しそうに話をしている悟空を度々見た。その度、自分は近寄れずに遠巻きに見詰めるだけ。あれだけ突っぱねた手前、今更フレンドリーになどなれはしない。悟空も自分の前では天蓬の話題を一切出さないし、自分が悟空と一緒にいれば天蓬は決して近寄ってこない。隣の部屋にいるものの、夜になっても物音一つすることはない。完全に避けられていた。そして自分もそれを望んでいたはず。しかし、何だか釈然としないのだった。勝手な話だと自分自身よく自覚している。そして今日も昼食時、配膳の手伝いをする自分と、そこから少し離れたテラスで並んで何か楽しそうに話をしている二人。縮められない距離がそこにあった。
 彼は細身のパンツに、緩いローブのような服を重ねていた。襟ぐりが大きく取られており、胸元は緩く紐で編まれている。悟空とて丈夫で強靭な身体を持っているもののそう逞しい身体つきではない。なのにも関わらず、彼は悟空と並んでいるだけで何だか頼りないほどの細さを感じさせた。いつも何も口にしないせいだろうか。彼自身が食事を特に必要としないと言うのだ。しかしこんな、細い身体で何も食べずにいてはそのまま倒れてしまいそうにも見える。気分がいいものではない。
 そういえばあの日、彼に貸した軍服はまだ返してもらっていない。
 そうして暫く手を止め、二人を見つめていると、横から唐突に声を掛けられた。
「捲簾」
「お、何だ……鈴寧か」
 声を掛けてきたのはメイドの一人だった。黒のドレスに白いエプロンをつけた活発そうなショートカットの女性である。そしてそれと同時に、生まれた時から共にこの宮殿に軟禁されている七歳年下の幼馴染でもあった。彼女は捲簾の見つめている方向を探すように視線を探っている。
「なあに、もしかして気になるの、天蓬さんのこと。本当にぞっとするくらい綺麗な人よね」
 流石女性はそういうことに目敏い。内心少し驚きつつ、それを表情には出さぬようにしながら彼女へ曖昧に笑い返した。
「……や、別に。楽しそうだなーと思って」
「嫌ねそんな言い方。やっかんでるみたいよ」
 そう言って笑い、鈴寧は豪快に捲簾の背中を張った。その衝撃に一瞬咽そうになりながらも恨みがましい目で彼女を見下ろす。
「でも、何で知ってんだ。奴のこと」
「昨日初めて話したの。昨日の夜、気に入ってたカップを割っちゃったら、その時に音に驚いて出てきてね。そしてすぐ直して下さったのよ、魔法みたいに……っていうか、魔法なのよね、あれ」
「え」
「今朝、次郎神さんに聞いたわ。私何か恥ずかしくなっちゃって」
 思いがけないことを口にする彼女に、捲簾は目を見開いて彼女に続きを促す。少し困ったような顔をして口篭もっていた彼女は、言い辛そうに口を開いた。
「ずっとずっと帝国を守り続けて下さってた方のこと、何にも知らなかったなんて。そりゃあ私の生まれる前のことだから仕方ないのかもしれないけど」
「……仕方ねえよ、俺すら生まれてなかった時の話だ」
「天蓬さんもそう言ったわ、だけどちょっと淋しそうだった」
 もう一度顔を上げて、テラスに立つ二人の姿を見つめる。盛んに話しかける悟空に、彼は穏やかに笑って二、三返事をするだけ。その目はいとし子を見つめるような優しいものだった。
「三十年以上の間、地下に監禁されたままで絶望のままいるなんてぞっとするじゃない。……死ぬことだって出来ないんでしょう、彼は」
「……」
 その頃生まれていなかったから関係ない、と突っぱねてしまいたかった。しかしそんなことが出来ないのも分かっている。
「大丈夫だろ」
「え」
「悟空がいる限り、あいつは……平気だよ」
 思った以上に確信に満ちた声が出たことに、自分でも少し驚く。鈴寧も少し驚いたように目を瞠った。そして何か吹っ切れたように笑う。そしてまた捲簾の背中を二度強く叩いた。
「……なんだ、あんたたち仲が悪いのかと思ってたわ」
「え、あ」
「だってあんたあからさまに天蓬さんのこと避けてるし……ばればれよ」
「や、それはあっち」
「責任転嫁」
「違」
 何度も反論しようとするものの、鈴寧は全く取り合わずに笑っている。
「なによぉわざと仲悪い振りしちゃって、心配したじゃない。でも逆に怪しいわよ」
 その頃には反撃する気も失せていて、がっくりと肩を落とす。その肩をも強く叩かれて、ひたすら力を落とすのだった。その時、大部屋に何か探すようにきょろきょろしながら入ってきたのが、次郎神だった。そしてその目が捲簾に留まる。
「捲簾、天蓬様を知りませんか」
「え、ああ……そこにいる、悟空と一緒に」
 そう言うと、彼はそのままテラスへと歩いていった。それを目で追っていると彼は二人に声を掛け、何か話をしている。そんな捲簾をじっと見ていた鈴寧は、呆れたような声を出した。
「……気になるなら行ってくればいいのに」
「だから、マジで関係ないんだって」
「意地っ張りね」
「あのね……」

 捲簾と鈴寧がそんな会話をしている中、次郎神はテラスで話をしている二人の元へと足を運んでいた。
「天蓬様」
 悟空はその声で話を止めた。そして正面にいた青年も目を見開く。顔を上げるとそこには次郎神が立っていた。
「次郎神、何か……」
「あの、昼食後何か御用は」
「え、いいえ、何も」
「では、少しご案内したい場所があるのですが……あなたと、陛下の私室です」
 それを聞いた瞬間、ぴくりと天蓬の肩が揺れた。そしてその目が戸惑ったように次郎神を見上げる。
「残っているんですか」
「はい、新帝国軍の略奪が相次ぐ中、何とか守っておりました。……もっと早くご案内したかったのですが、時間が取れなくて申し訳ありません」
 頭を下げる次郎神に、天蓬は少し戸惑いの表情を浮かべている。少し緊張の窺える横顔に、悟空も少し空気がぴりりとするのを感じた。
「部屋、って……昔の、天ちゃんと皇帝の部屋?」
「ええ、昔のまま……残しております。私物も全て、あの頃のままです」
 天蓬の喉が少し震えるのが見えた。細い右手の指が、左腕を強く掴んでいる。その手も微かに震えていた。
 天蓬は食事中、いつも大部屋の戸口に立っている。食事は特に必要としないらしい。最初の夜、用意された食事を断ってからは捲簾が彼の席を用意しなくなったのだ。食事をしながらも時折悟空は戸口の天蓬の様子を窺った。彼はじっと俯いている。目には暗い影が浮かんでいて、その目は三十年前の旧帝国を映しているような気がした。その時の食事の味は、あまり思い出せない。ただ、少し風が強かったことを覚えている。

「あら、お揃いでお出掛けですか」
 次郎神の後について天蓬と悟空が歩いていくのに、鈴寧が声を掛ける。その声に横で食器の片付けをしていた捲簾が一瞬手を止め、耳を欹てていた。そんな様子に鈴寧は小さく笑うのに、少し睨み付けることで反抗する。
「……ええ、少し。部屋の片付けをしようかと思いまして」
「あら、でしたら力仕事になるんでしょう。お掃除とか」
「え、まあ多分少しは掃除をしなければならないと思いますが……」
 戸惑うように声を上げる天蓬に、考える暇を与えないように矢継ぎ早に話しかける。何をしようとしているんだと手を止めないまでも彼女の動きを探る。
「だったら捲簾を使うといいですよ、力だけが取り得ですし」
 その言葉に天蓬は一瞬目を見張り、その後少し困ったような顔で捲簾に目を向ける。捲簾は食器を片付ける手を止めずにいたものの、内心かなり焦っていた。何てことを言うんだと心の中で目一杯鈴寧を詰りつつ、鼓動が速くなるのが止められない。
「でも、彼も忙しいでしょうし」
「酒呑むか銃撃つかしかしてないですよ」
(ほっとけ!)
 確実に彼は困っている。当たり前だというのになんだかそれが苦しかった。拒絶されているということが。
「片付けは私がするから、手伝ってきなさいよ」
 捲簾に向き直った鈴寧は、笑顔で肩をぽんと叩く。唾を飲み込み、立ち止まってこちらを見ている次郎神と悟空、そして少し視線を逸らした天蓬を見た。その瞬間、苛立ちが襲った。ああそうかそこまで嫌がるか、と思えば、わざとついていって困らせてやれ、という気分にもなってくる。
「……俺でよければ」
 結局天蓬は捲簾を見ないまま、小さく「行きましょうか」と言うに留まった。

 前を行く次郎神に続いて天蓬と悟空、その後ろに捲簾が続く。四人は言葉を交わさぬまま、ゆっくりと宮殿の西棟へと向かっていた。西棟は離れのようになっていて、基本的に立ち入りは許されていない。それに厳重に鍵が掛けられているのだ。その鍵を持つのが、次郎神だった。前を歩く次郎神から、時折金属の擦れるような音がした。
 美しい造詣の回廊を過ぎると西棟への入り口へ辿り着く。初めて足を踏み入れた西棟は特別豪華な作りとなっていた。ずらりと伸びた絨毯張りの廊下に、思わず靴の裏の汚れを気にしてしまう。しかし前の三人が何も気にしていないような顔をして進んでいくのを見て、その気持ちを振り切って彼らに続いていった。
 中はいつも開放されていないだけに、少し饐えた匂いがした。配置してある全てが物珍しくてつい辺りを見渡してしまう。それはどうやら悟空も同じだったらしく、きょろきょろして隣の天蓬にぶつかりそうになっている。
「珍しいですか、ゴクウ」
「うん……すっげー綺麗だな、これ、昔のまんまなんだろ?」
「ええ……何一つ、変わっていません、ね……」
 そう言った天蓬が、最後に何か言いかけて止めた気がした。何一つ変わらないはずなどないと彼が一番知っているのだ。何より、彼の守れなかった皇帝がいない。それが彼にとって一番大きいということなど、言わずもがなだ。
 長い廊下を抜け、まるで物語に出てくるような階段を昇ってゆく。その三階に、部屋はあった。
「まず、天蓬様の御部屋から」
 そう言って次郎神は先程西棟に入る時にも使った鍵の束を取り出した。そしてその中から一本を選び出し、目の前の大きな扉の鍵穴に入れる。そして少し重い金属音がして、鍵が開いたのを知らせた。そうして鍵穴から鍵を抜いて、次郎神はドアの前から身を引く。そして天蓬を見上げた。
「……どうぞ」
 そう言われた天蓬は少し顔を強張らせて、また戸惑いの表情を浮かべた。しかしすぐに気を取り直したように顔を引き締めて、一歩足を踏み出し、細やかな細工の施されたドアノブに手を掛けた。ゆっくりと捻られると同時にドアの奥でカチン、と音がした。そして彼がゆっくりドアを引くと、中から明るい光が差し込んでくるのが見えた。
「ここが天ちゃんの部屋?」
「……はい」
 悟空の頭越しに見た部屋の中は広かった。時を重ねたことによってセピア色に近付いた淡い色の壁に、繊細なデザインの灯り。凝ったディテールの執務机に椅子、ガラスのローテーブルに柔らかそうなソファ、そして部屋の隅には書庫のような本棚が幾つも並んでいる。部屋は外へ続くテラスへ面していて、差し込む日光はそこから入ってきたもののようだった。どれもこれも、今の時代に揃えようとすれば相当金が掛かるに違いない豪勢なものばかりだ。
 何を思っているのか、暫くじっと戸口から中を見つめていた彼は、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。その足取りは夢を見ているように何だかふわふわとしている。それを悟空と共に呆然と見送っていた。しかし彼は途中で立ち止まり振り返って、笑った。
「入っても、いいんですよ」
「え……でも、いいの?」
「ええ、どうぞ」
 そう言われて少し戸惑うような顔をした悟空だが、やはり興味には逆らえないのかとことこと部屋の中へと入っていった。それを捲簾は何だか歯痒い思いで見送る。悲しいことに自分は踏み込む権利を持たないのだった。何だか面白くない気分になりながら開いたドアに寄りかかる。
「あなたもよければ、どうぞ」
 不意にかけられた言葉に、寄りかかったままそっぽを向いていた捲簾は反応が遅れた。一拍遅れて顔を上げた捲簾は、こちらを穏やかに見つめている彼と目が合う。優しい視線に何だか居心地が悪くなって目を逸らしたかった。しかし、どうしてもその瞳から目を逸らせなかった。
 ああ、何だか酷くイライラする。

「ねえ天ちゃん、これ何?」
「それは天空計です、未来の天気を予測するのに使うんですよ」
 部屋の端には様々な珍しい器具の置かれた棚があった。悟空が指したのは、白い気体が詰まった丸く薄い硝子玉のようなものが、銀の台の上に浮かんでいるものだ。並んだ小瓶には目の覚めるような鮮やかな青や赤、そして重力に逆らって上に下に流れて動く白い液体、チラチラと光る光の欠片などが詰まっている。
「すごいな……」
「僕が昔作ったんですけど、今じゃもう天気を予測する技術も進んでいるでしょう」
「ううん、全然……一応予報はあるんだけど、いつも外れるんだ。だから洗濯が出来ないってケン兄ちゃんが怒る」
 唐突に名前を出されて、咄嗟に小さな声で悟空を叱る。
「ホントのことじゃん」
「しかしなぁ」
 こういう少し微妙な空気の流れている時に自分の名前を出さないで欲しい、というのが本音だが、そんなことを悟空に言ったところで分かるはずがない。どう言ったらいいものか、と頭を使っていると、後ろからくす、と笑う声が聞こえた。静かにそっと振り返ってみると、執務机の前に立っていた天蓬が口元を緩めて微笑んでいるのが分かった。思わずその笑顔に目を奪われていると、捲簾に見られていることに気付いた彼はすぐにそれを引っ込めてしまった。
「ケン兄ちゃん」
「あ、いや……」
 彼はそのまま、テラスの方へと近付いていく。そして窓の鍵を開けて窓を押し開けた。緑の多い中庭に面したそのテラスはとても景色がいい。それを見た悟空もまた、テラスの方へと駆け寄っていった。
「すげー! きれーだな!」
「ええ……陛下が昔、わざわざ僕のために誂えて下さったテラスなんです。放っておくと日光に当たらないからって」
「どういうこと?」
「僕は暇があればいつも本ばかり読んでいたんです。だけどのめり込んでしまうとそのまま三日くらい読み続けちゃったりして」
「へえ……だからかぁ」
 見るもの全てが珍しい悟空はその大きな金の瞳できょろきょろと部屋を見渡している。そしてふと、その目が部屋の隅に止まった。
「天ちゃん、あの大きい瓶は?」
「え?」
 悟空の指差す方へと目を向けた天蓬は懐かしそうに目を細めた。そしてゆっくりとその瓶へ向かって歩いてゆく。三つ並んでいるその瓶の中では、青白く小さな光が幾つもくるくると回り続けている。その瓶の前にしゃがみ込んだ彼は、中を覗き込みながら呟いた。
「これは星の光です」
「星の!?」
「ええ、少し光を楽しむために採取して、すぐに空に帰してやるつもりでした。……ですが、あの反乱のせいで、それも出来ないままになっていたんです」
 その目は瓶を通して遠く、ずっと昔の帝国を見つめている。その横顔が、とても遠いもののように思えて捲簾は思わず手を伸ばしたくなってしまい、それを堪えるようにに右の拳を強く握り締めた。
「……今晩、帰してあげましょうか」
「え? どうやって? 見たい!」
 無邪気にそう言う悟空に、彼は少し目を細めて頷いた。それに喜んだ悟空はくるりと振り返って捲簾に言う。それはもう、少しの邪気すら感じられなくて逆に怪しいくらいに。
「ケン兄ちゃんも来るよなっ!」
 ……本当にこの子供は、天然なのかわざとなのか分からなくなる時がある。

 次に向かったのは、皇帝の私室だった。当時ならば、孫に当たる悟空や近い従者であった天蓬や次郎神はともかく、自分など決して立ち入ることなど出来なかっただろう。少し緊張しつつ、その両開きの豪奢な扉の前に立つ。次郎神が鍵を開けているのを、天蓬は緊張した面持ちで見つめていた。そして錠の下りた低い音がして、次郎神が静かにドアの前から退く。暫く俯いたままでいた天蓬はやがて決心したように扉の前へ足を踏み出し立ち尽くした。そして扉に両腕を掛けて、引き開けた。
 中に広がる、先程の天蓬の部屋以上の豪華さに目を瞠る。次郎神は部屋の中に踏み込もうとせずに扉の前で俯いていた。無邪気に部屋に入っていくかと思われた悟空も、圧されたようにその場に立ち尽くしている。そんな周囲には気付きもせずに、天蓬はそのままゆっくりと部屋へと歩いていく。その後ろ姿をじっと見つめていた捲簾は、その背中が不意に揺れ、膝から崩れ落ちていくのに息を呑んだ。
「……おい」
 咄嗟に声を掛けようとした捲簾を、悟空が急に制した。そして悟空はぱたぱたと天蓬の元へ駆けていき、しゃがみ込んでゆっくりと優しく背中を撫でている。その後何言かを話しかけてから、悟空は静かに立ち上がって扉へと戻ってきた。そして捲簾と次郎神を押し退けて、重厚な両の扉を自力で閉めてしまった。
「おい、悟空……」
「一人にしてあげようよ。きっと、思い出してるんだ。俺の……じいちゃんのこと」
 そう言って自分の背中を押しやった悟空の顔は、どこか大人びていた。


++++


 それから夜までの間は何をしても手に付かなかった。夕食の仕込みの手伝いをしようとしてもぼうっとするばかりで鈴寧に厨房から蹴り出された。部屋に戻って本に手を付けても頭に内容が入らない、音楽を掛けても雑音にしか感じられなかった。惹かれているのは最早否定出来ない。多分悟空も、完全に分かってはいないだろうが捲簾が天蓬に対して何らかの感情を持っていることには気付いているのだろう。自分だって完全に形が把握出来ていないその感情の全貌が、見えてしまうのが怖い気がした。ベッドにごろりとひっくり返り、窓から沈んでゆく夕日を眺める。その間でも、彼の顔が頭を過ぎるのが憎らしかった。笑顔、怖い顔、沈んだ顔。彼の口から漏れた父の名前。旧帝国の空気をそのまま残したあの部屋の中に佇む彼が、酷く遠く見えたこと。彼の目が、無意識に最後の皇帝を探していたであろうこと。何もかも考えたくなかったけれど、それしか頭に思い浮かばなかった。
 そして夜が更けた頃、珍しく簡単に夕食を済ませた悟空はいそいそと上着を着込んでいた。これから例の“星の光”を帰しに行くのだ。荷物持ちがてら、結局付いていくことになった捲簾は、三つのうち二つを両腕に抱えている。あと一つは悟空が抱えていた。
「じゃあ行こうぜ! ……で、どこに?」
「そうですね……広いところがいいかな」
「じゃあ中庭に行こうよ、広いし、誰も入ってこないし」
 そして三人は、言葉少なに宮殿から中庭へと歩き始めた。三日月の綺麗に輝く夜だった。
 辿り着いた中庭は生き物の気配すらしない。元は、皇帝以外立ち入ることが出来なかったと言われている庭だ。大きな桜の木と沢山の蒲公英が常に美しく咲き誇っている。そんな庭に無遠慮に足を踏み入れた三人は、その上に三つの硝子瓶を置いた。すると辺りが、その星の光で俄かに昼のような明るさを取り戻す。その青白い光に照らされた天蓬の白い面差しは、いっそ不健康なほどだった。……と、そこまで来て結局彼ばかりしか見ていないことに気付いて視線を彼から引き剥がした。
「開かねーよー?」
 芝の上に並べて置かれている硝子瓶の一つを、芝に座り込んだ悟空が力任せに開けようとしている。中では変わらず、白い光がくるくると回りながら輝いている。
「待って下さいね、今開けますから」
 悟空の抱える瓶の前にしゃがみ込んだ天蓬は、その瓶を人差し指で撫でるようにして小さく何かを呟いた。
「……これで開くはずです。蓋は回して開けるんですよ」
「うん」
 大きな瓶に苦戦している様子の悟空を見兼ねて、捲簾も歩み寄ってその瓶を支える手伝いをしてやる。そして何とかその渋い蓋を回した悟空は、一瞬天蓬に目配せした後、ぱっとその蓋を外した。途端、少しだけ甘い香りが鼻先を擽ったような気がした。そしてそれに気を取られている内に目の前を白いものがふっと通り過ぎていく。
「な」
 自然にその白いものを追うように空を見上げる。それと同じく、天蓬と悟空も空を仰いだ。光の筋が、空へと繋がってゆく。その非日常な光景に息を呑む。
「……すげ」
 正直に感動している自分の横で、何故かじっと黙っている悟空に気付く。何かあったのだろうかと見下ろしてみると、妙に目をキラキラさせて期待に満ちた顔で空を見上げている悟空がいた。
「ねぇケン兄ちゃん、これ流れ星かな!? じゃあ願い事しなきゃだよな!」
「え、いやちょっと悟空」
「三回だよな三回、アンパンジャムパンメロンパン!」
「おまっ……」
 真剣な声でそれを三度繰り返す悟空に、思わずガクッと力が抜ける。お前の願いはそれしかないのか、と思い、同時に何だか教育者の一人として一瞬恥ずかしくなった。何だか天蓬に失笑されそうな気がしたからだ。しかし彼は、少し不意を突かれたように目を見開いていたものの、次第に笑顔を取り戻して悟空の元にしゃがみ込んだ。
「ゴクウは、食べることが好きなんですね」
「うん! 美味しいもの食べるの好き、天ちゃんも食べればいいのに」
「うーん……別に、食べる必要がないのに食べるのは、食べ物が勿体ないでしょう」
 そう天蓬が言うと、悟空は何だか納得のいかなさそうな顔をした。それを横から、捲簾も内心応援する。そうだ、まともに食べろ。もっと言え悟空。
「だって、美味しいもの食べると幸せになるよ」
「幸せ……ですか」
 “幸せ”という言葉に、天蓬の表情が少し微妙な色合いになる。一瞬、悟空は拙いことを言ってしまったのだろうかと捲簾は緊張に頬を強張らせる。しかし彼はすぐに力が抜けたように笑ってゆるゆると首を振った。
「僕が生きるのに、必要なものじゃないですから」
「何か、淋しいよ、それじゃあ」
 悟空の呟く声が、きらきらと光る星空の下で何だかミスマッチだった。

 しかし子供というのは切り替えが早いもので、悟空は芝の上に座り込んで他の二つの瓶を開けようと踏ん張っている。天蓬もまた、先程の会話をすっかり忘れたように庭に置かれた白い椅子へと腰掛けて悟空の様子を眺めている。その姿は座っているだけの人形のようにも見えた。捲簾は相変わらず、彼に近づけぬまま少し離れてそれを見ている。その瞬間、昼の鈴寧の声が頭を過ぎって顔を顰めた。
(ほっとけよ……)
 腕を組み直して大きく溜息を吐く。そして星空を見上げた。これが三十年前の空なのだと思うと不思議な気分だ。自分の両親も、こんな星空の下を歩いたりしたのだろうか。そして彼は、その頃の二人を知っている。そもそも彼は自分の両親とどういった関わりがあるのか。訊けばすぐだというのに、彼に話しかけることがどうしても躊躇われた。自分が作った微妙な空気だというのに解決策が全く思い浮かばない。見つめた彼の横顔は微笑みを浮かべたまま動かない。
 春の陽気とはいえ、夜は多少冷え込む。頬を撫でていく空気が冷たいことに、目の前の彼の姿を重ねた。あんな格好では寒いだろうに。それとも、寒さなど感じない身体だとでも言うのだろうか。そういう、自分たちから態と少しだけ距離を取るような言動が憎らしいのだ。
「……」
 一度顔を顰めた捲簾は、ぎゅっと目を瞑って少し思案し、すぐに早足で踵を返した。そして宮殿へと向かって歩き始めた。その後ろ姿を追う視線があることには全く気付いていなかった。

 嫌われていることが分かっていても、何だか少し淋しい気がしなくもない。自分と悟空が話をするのが面白くないのだろう、二人でいるとどこからか強い視線を常に感じていた。強すぎるそれに屈しそうになってしまって、時折悟空に不審がられた。その目の強さが父親に良く似ている。しかし彼のような優しさは感じ取れなかった。それは、自分に対してだけのことのようだったが。
 瓶を抱えて二つ目の蓋を開けている悟空を見守りながら小さく笑った。新しい皇帝を守っていくとて、旧帝国を復活させたいと願っている人が一体どれだけ残っているのだろう。自分一人、躍起になってどうなるというのだろう。この優しい箱庭の外には、もう新帝国が築かれている。最後の皇帝が愛した民はもう新帝国の民へ変わっている。もう新帝国に満足しているかも知れない。三十年は長い。あの頃丁度若者だった彼らにはもう子供がおり、孫がいるだろう。その子供や孫はあの爾燕の息子や悟空のように旧帝国のことを全く知らない。そんな子供たちが今帝国を動かす大人になっている。そんな彼らが旧帝国を蘇らすことを望むとは思えない。保守的な人間は革命を望まない。落ち着いてしまった新帝国を揺るがすことを望まないはずだ。自分がこの箱庭から出て新帝国を一気に滅ぼすことは、可能だ。しかしそれが国民を危険に晒すことになるのは間違いなかった。それだけは許されてはならない。
 今の自分は全くの非力だ。どうしていいのか分からない。このままずっと、ゴクウを守る、それだけで終わってしまう。
 星空を見上げた。泣きたかった。三十年前の星空がそこにはある、なのに隣に彼はいない。愛した皇帝(ひと)と帝国はもうここにないのに、その空だけは同じだった。

 驚かせるつもりはなかった。しかし面と向かって話しかけるのは何となく躊躇われて、静かに背後から忍び寄り、後ろからブランケットを彼の肩から羽織らせた。するとその瞬間、驚いたような顔をした彼が勢い良く振り返り、後ろにいるのが捲簾だと分かると表情を少し緩めた。そして少し気まずそうな顔をして視線を落とした。自分が蒔いた種だというのに何だかその顔に腹が立って片眉を上げた。
「そんな薄着でいられると見てるだけで寒いんだよ」
「……すみません」
 見るからにしゅんとしたように謝られて、自分が悪者のような気分になる。困ってしまって視線をさ迷わせていると、遠くで座り込んだまま瓶を抱えている悟空に睨まれた。彼が天蓬のことで怒っているであろうことは間違いない。そして、態と無邪気な振りをして自分と彼との不仲をどうにかしようとしているということも。悟空の視線も、何処か遠慮したような天蓬の態度も気に入らなくて腹が立った。髪を掻き毟る。
「……あのなぁ、何考えてんだか知らねぇけどそういう遠慮がちな態度が逆に苛々すんだよ」
 そう少し強い口調で言うと、彼の目に少し強い色が宿った。それは初めて対峙した時の強さにも似て、何だか少しほっとした気がした。少しむっとしたような顔をした彼は椅子に座ったまま捲簾を批難するような目で見上げてくる。
「なら、関わらないで頂ければこちらとしても幸いです」
「一緒の宮殿で過ごしててそれはねえだろ、……天蓬さん」
 如何にも慣れない“さん”付けで名を呼ばれて、少し彼は訝しげな顔をした。そういう風に彼が表情を崩すのが楽しかった。その顔を眺めつつ、彼の隣の椅子を引っ張り出してどっかりと腰掛ける。すると拍子抜けしたような顔をして彼は目を瞬かせている。思わず吹き出してしまった。
「思う以上に普通の顔もするんだ」
 よく分からないというような顔をする彼を前に笑いが止まらない。その時、不意にその後ろで小さく悟空の声がして捲簾は咄嗟に顔を上げた。そこには、悟空の持つ瓶からまた一つの星の川が出来上がっていた。それは真っ直ぐに空へと向かって、光は空へ溯っていく。そして空にはまたちらちらと光る星の光が増えていった。
 視線をずらせば、天蓬もまた空を見上げている。そして捲簾の視線に気付いて小さく俯いた。
「この間は、すみませんでした」
「や……いや、別に」
 何だかこの空気自体が照れ臭くて、思わず言葉に詰まる。しかし何だか今も背後から悟空に睨まれている気がして、気合いを入れ直して小さく咳払いした。そして椅子に座り直す。
「いや、こちらこそ」
 しかしそこまで言って、それ以上何を言っていいのか分からなくなって口を噤む。目の前の彼も目を瞬かせるばかりで何も言わない。(何か言え)と心の中で念じたものの、彼もまた何を言っていいのか分からなくなっているのか、そのまま視線を落としてしまった。まるでお見合い状態だ。いい年をした(彼は年齢不詳だが)男二人が膝を突き合わせて何をしているのだろう。とにかくこの状態は脱したくて、また髪を掻き毟る。気の利いた言葉など全く思い浮かばなかった。
「……本当、悪かったから、普通にしてくれ」
 そうすると本当に困り果てたような声が出てしまって、内心(しまった)と顔を顰める。すると彼もやはりそれに気付いたのか、小さく吹き出したのが分かった。それに恨みがましげな顔をすると、彼はますます笑った。それは初めて、自分に向けられた笑顔だった。

 遠くで悟空が三つ目の瓶を開けようと奮闘している。その姿を穏やかに眺める天蓬の隣で捲簾もじっとしていた。しかし、今の沈黙は苦ではない。
「……これ、ありがとうございました」
 突然掛けられた声に、一瞬反応が遅れる。顔を上げると、天蓬が自分の肩に掛けられたブランケットを軽く摘んでみせていた。それでブランケットに対しての感謝だと気付いて軽く首を振る。
「いいよ、別に」
「それと、初日にお借りしてた軍服も後でお返しします。つい話し掛けられずにいたので」
 それは自分のせいでもあるため、強くは出られない。そもそも何着か持っている内の一着なので何ということもなかったりする。
「あー、うん。いつでもいい」
 今考えると、隣同士の部屋にいるのに三日間全く関わりを持たずにいたのが不思議だ。しかしそこまで考えて、ひょっとしたら彼は今日から元の自室に移るのだろうかということに思い至った。慣れない部屋より、想い出の詰まった元の部屋の方が居心地がいいに違いない。守護者とはいえ、彼の最後の皇帝に対しての想いは普通の強さではないようだった。皇帝の部屋に足を踏み入れただけで泣き崩れてしまったその姿を見ればすぐに分かる。只の主従とは、思えないと。
 写真を嫌ったという最後の皇帝の姿は、たった一枚の写真でしか残っていない。そこに写る不機嫌な男の姿を思い出した。彼の心を掴んだまま、逝ってしまった男。無性に何だか、憎かった。自分が母の腹の中にもいなかった頃の話だというのに。
「あのさ」
「はい」
 一瞬訊いていいことなのか迷ったが、すぐに興味がそれに勝り、言葉が口を突いた。
「……親父って、どんな人だった」
 天蓬は一瞬目を見開き、そしてすぐにゆっくりと目を細めて小さく笑った。懐かしむようなその視線が、何だか遠い。それはこのところ、幾度となく感じた距離だった。
「そうですね……優しくて、強い人でしたよ。彼とは友人で、戦友でもありました」
「戦友」
「彼は帝国軍の大将で、私はその更に上の、数人の大将を纏める立場にいたんです。……やはり、あなたも軍人に」
「え、あ、ああ……」
「やはり、血は争えませんね」
 彼の目は自分の子供を見守るような優しいもので、何だか居心地が悪くなってしまう。姿形は自分と同じような年代に見えるのに、まるでもっと年長の相手と話をしているようだ。実際年上どころの話ではないのだろうが。
「誰にでも優しくて、一本気な人で……結構モテたんじゃないでしょうか」
 それから、何だか少し面白くない気分を抑えつつ、彼が語る父の話に耳を傾けた。剣術に長けていていつも生傷の絶えない人だったこと、優しさゆえに貧乏籤を進んで引くような人だったこと。父と母の出会った頃の話、親に祝福してもらえなかった結婚式、結婚後何年も経ってからやっと身篭った子供を彼らがとても喜んだこと。それを彼は一つ一つ懐かしむようにゆっくりと話していった。捲簾もそれに黙って耳を傾ける。
 しかし、それまで饒舌だった彼が、ふと言葉を途切れさせた。そしてその視線がゆるりと周囲を巡る。
「……あなたのお母様の話ですが、彼女が苦境に屈して簡単に新帝国へ寝返るとは思えません」
「それは……あんたがそう思いたくないだけだろう」
「そうかも知れません。だけど、あなたをお腹の中に宿したまま爾燕を殺された彼女は、確かに新帝国軍を恨んでいました。彼女が旧帝国を捨てて新帝国へと移った理由として思い当たることは一つ」
「何」
「内側に乗り込んで復讐を、と考えているのかも知れません」
「馬鹿な。一人でそんなことをしようとするなんて、有り得ない」
「ええ。これは私の推測に過ぎません。でもだとしたら幼いあなたを次郎神に託して一人ここを出ていった彼女の気持ちも分かります」
 彼の膝の上で組まれた両手を見下ろす。顔を見たこともない母のことだ、話をしても現実味を帯びない。俄かに静まり返った二人の後ろで、悟空が勢いを付け過ぎたのか豪快に転ぶ音が聞こえ、その後三つ目の星の川が空へと流れていった。
「だからどうか、自分が見捨てられたという認識は、持たないで下さい」
 嫌だ、などと駄々を捏ねることなど出来ようか。姿も声も知らない母をどこまで信用出来るか分からなかったけれど、何故か彼がそう言うのなら良いのだろうか、という気分になっていた。視線を僅かに落としたままの天蓬に正面から向き合って、捲簾はゆっくり頷いた。
「分かった」
 空に散った昔の星屑が、眩しく草原のような庭を照らしていた。その下で悟空が仔犬の様に駆け回っている。

「あんたは、いつからこうしてるんだ」
「……そう言われても……覚えていません。この宮殿が築かれるよりもずっと前から、初代の皇帝から仕えているわけですし」
 それは頭が下がる話だ。死ぬことも出来ずにずっとずっと歴代の皇帝に仕え続けるなんて目眩がする。自分だったらそんな役目から逃れたくて帝国から逃げたくもなりそうだ。
「で、結局あんたは最後の皇帝とどんな関係だったわけ」
 もう最初の頃の遠慮がなくなり、いつもの調子を取り戻した捲簾は思わず不躾にもそう訊ねてしまった。しかしすぐに返事が来なくて訝しげに顔を上げる。すると驚いたように大きく目を瞠っている彼と目が合った。そして少し呆れたような声が耳に届いた。
「……びっくりするほどデリカシーのない人ですね」
「そりゃどうも」
「まあいいですけど、そんなところまで爾燕に似られちゃ困ります」
 その言葉に彼と父の関係性が窺えたようで、少々脱力しつつ彼の続ける言葉に耳を傾ける。
「そうですね、愛していました。勿論親愛ではありません。だからあの日、……本当はあの人の腕の中で一緒に死んでしまいたかった」
 そう言って彼は煩わしい空気を払うように首を振って、空を仰いだ。その顔を黙って見つめていると、最近幾度となく味わったあの距離感が生まれて苛立ちが増す。
「あんたはそうして歴代の皇帝を身の裡に抱き込んで守ってきたんだな」
「……そういう意味にも取れますか」
「まあな」
「確かに、そういう意味でも間違ってはいませんね。そういう関係になって、昼も夜も一緒にいられるようになれば護衛する身としては楽ですから」
 そう言って天蓬は笑った。しかしその語調は“そういう意味ではない”ということを暗に示していた。成程、本当の本当に、そういう関係だったということか。
「私に、何一つとして懸けて惜しいものなんてありませんでした。皇帝に全てを捧げることが、私の生きる意味でしたから」
「献身的だねえ」
「気持ち悪いでしょう」
「そりゃまぁよ」
「爾燕もそう言いました。信じられないって」
「誰だってそう思う」
 ふん、と鼻で息を吐いて椅子の背凭れに体重を預ける。こういう異常なまでの忠誠心を持つ者の気持ちはさっぱり理解出来ない。そこまで考えて、自分は一応悟空に仕えているものの彼のために命を懸けようなどと考えたことは一度もなかったことに気付いた。こういった軟禁状態にあっても、元々そういう切羽詰まった状況下に置かれたことはないのだ。この箱庭は、一定の範囲内ならば本当に不自由がなく綺麗な場所だ。何も危険はない。例えば今、悟空が命の危険に晒されたとして自分は一体どこまで彼を守れるだろうか。
「愛した人がいて、それが自分の守るべき人だった。だから、何を懸けても惜しくはなかった。……それだけです」
「……」
「結局守れなかった私の言うことではありませんが」
 彼は全てを懸けたのに守れなかったのだ。
「……あんたは何度、愛した相手の最期を看取ってきたんだ」
 そう、いけないと分かっていて訊ねる。すると彼は思った以上に軽く笑って、緩く頭を振った。
「そんなのいちいち覚えていませんよ。忘れなければ、先へは進めないんです。いつ誰を愛しても、私は相手が老いて死んでいくのを看取ることになるんですから」
 そんなの淋しすぎる、と先程悟空が言ったことと同じことを思った。今この瞬間も、彼にとっては一瞬ですらないのだ。自分の生まれて死ぬまでの間すら瞬きをする間に収まってしまうのかもしれない。
「……それじゃいつか、最後の皇帝のことも忘れちまうのか」
 その瞬間、一層強い風が吹いて、天蓬のまだ不揃いなままの黒髪を撫でて攫っていく。それを手で押さえながら、その手の向こうで彼は口元だけで微笑んだ。泣くのを堪えた笑顔なんて見たくない。空には昔のままの星空が光る。
「忘れるんでしょうね。だから私に幸せは必要ないんです」










仲直りさせたよ!>いつかの拍手の方 しかし基本は金天なんだなぁ……。         2006/10/15