※本当にパラレルです。王国物ファンタジーです。色々覚悟はよろしいですか。※
















 深い深い、闇い闇い鎖された地の底、在りし日の帝国を想いながら守護者(ガーディアン)は眠っている。
 滅ぼされた愛すべき国と民―――― そして、主君たる皇帝を、守れなかった屈辱と後悔と共に。



++++



「……って……」
 擦り剥けて血の滲む肘を見つめて、悟空は溜息を吐いた。こんなことは今月何度目だろう。
 滅びた旧帝国の皇帝の血を継ぐ悟空は、生まれてこの方この敷地内から出たことがなかった。従者から聞いたことがある。諸々の事情で、皇帝の血を絶やすことは出来ないのだと。もしそれが可能なら、自分などとっくに殺されているはずだと。絶やすことが出来ないのなら飼い殺すしかない。そうして血を継ぐ悟空は、新帝国を築いた者たちによって生まれた時から軟禁状態だった。常に手荒に扱われるわけではない。じっと、大人しくしていれば何も手出しをされることはない。しかしほんの少しでも、子供なら幼い頃にしてしまうような小さな悪戯でも悟空には許されない。そんなことをすればすぐに、今のように牢に押し込められるのだ。そして夜が更けるまで出してもらえない。それがずっと続いて、もう十五年になる。本来、皇族の男児は十五となれば成人の儀を行わねばならない。次期皇帝への第一歩として。しかし悟空はそんなことには一生至らないのだ。一生、この整って不自由なこの箱庭の中で飼われて死んでいく。それは、旧帝国から付き従う従者たちも同じだった。
「ケン兄ちゃん、迎えに来てくれるかな……」
 彼は名を捲簾と言い、自分よりも十以上年上の従者である。旧帝国が滅ぼされる際の戦火で軍人だった父を失い、それからも新帝国に寝返ることもせずに悟空に付き従っている。そう、帝国崩壊後、新帝国軍に寝返ったものも多かった。武器を捨てて屈服すれば命までは奪わない、との通達が出たからだ。それに屈した者たちは次々に姿を消した。その中には捲簾の産みの母も含まれていた。しかし、今一体彼等がどれほどの生活をしているかなんて分からない。奴隷同然の扱いをされている可能性の方が高いはずだ。
(最低だ)
 新帝国軍も、それをどうすることも出来ない自分も。捲簾は自分を“良き時代の帝国の血を引くただ一人の人間だ”といつも自分に言い聞かす。なのに、どうして自分は何も出来ないのだろう。大人になる歳だというのに、未だに捲簾に助けられてばかりだなんて。
 悟空は、土が剥き出しの地面に大の字に寝転んで牢の鉄格子から空を見上げた。夕焼けが綺麗だ。真っ赤で。橙色のそれが美しい街の中へと落ちていくのを眺めた。美しい帝国。旧帝国最後の皇帝が、命を懸けて守ろうとした国とその民。それは今も変わらず美しいのだろうか。最後の皇帝の愛した、そのままの姿でいるのだろうか。民は笑顔を絶やさずに暮らしているのだろうか。
 横を見て夕日を眺めていた悟空は、後頭部に地面から突き出した何かが当たって痛いのに気付き、むくりと起き上がった。頭を押さえながら何が突き出しているのだろうと振り返って見ようとした。その時、牢の奥にある小さな扉が目に入った。いつもこの牢に入れられるのにその扉は初めて目にした気がする。
(何の扉?)
 抜け道なんて態々牢に作るはずがない。としたらただの戸棚か何か? しかしここは土が剥き出しになっているだけの牢だ。戸棚など作る意図が見つからない。
(じゃあ……どこかに繋がってる?)
 ぴくり、と悟空の好奇心が刺激された。どうせまだ牢から出してはもらえないだろうし、誰も見回りになど来ない。少しここから消えても……誰も気付かないだろう。色んな可能性を考えながら俯いた悟空は、目に入ったものに目を見開く。さっき寝転んでいて頭に当たっていた、大きな石。土に埋もれてはいるが掘り出すのは難しくなさそうだ。そしてもう一度、鉄で作られたその扉を見つめる。それからすぐに悟空は、その地面に埋まった石を掘り出し始めた。爪の間に土が入ることにも構わず一生懸命その固くなった土を掘り、石を取り出す。それは大人の拳よりも一回り大きいくらいの石だった。少しだけ鉄格子にぶつけてみる。しかし結構丈夫そうだった。これなら大丈夫かもしれない。
 頭もあまりよくない悟空だが、他に誇れる唯一のもの、それがこの馬鹿力だった。鍵穴のような部分にまず軽くその石をぶつけてみる。周りが土であるせいか音はあまり響かない。次は少し強めにぶつけてみる。それでもまだ平気そうだ。今度は更に渾身の力を込めて何度もその扉に石をぶつけた。指に傷が付くのも忘れたように、何度も何度もそれを続ける。――それは、ギイ、と小さな音を立てて扉が小さく開き、中の鍵の金具が地面に落ちるまで続いた。
 扉が開いたのを見つめて、悟空は石を地面に落とした。石には少しだけ自分の血が付いている。その段になってやっと、自分の手から血が出ていることに気付いた。しかしそれにもあまり興味が出なかった。それより何より、その扉の中が気になって仕方がなかったから。手の傷を適当に舐め、扉に手をかける。大人が屈んでやっと入れるような高さのそれは、悟空には悠々と入ることが出来そうだった。扉を開いて中を覗いてみる。冷たい風が、頬を撫でた。ごくりと唾を呑む。しかし悟空の顔に恐怖はなかった。それは、楽しいおもちゃを見つけた子供のような歓喜に湧いていた。
 中は広かった。天井は大の大人でも屈まずにいられるくらいの高さがあり、幅は二メートル弱。目の前には延々と、長い長い階段が続いていた。普通なら怯んでしまうそれにも屈せず、悟空は意気揚々とその階段を降りてゆく。

 もうどれだけ降りただろう。悟空は少々辟易していた。何せ、周りには何もないのだ。風景なんてあるはずがない。土の壁が視界を覆っていては気分も滅入るというものだ。しかしその変わり映えのない風景に、音に、変化が訪れ始めた。歩く音が反響する音が段々変わって来たのだ。狭い場所に反響するのではなく、もっと広い場所で響くような。
(もしかしたら、ゴールかも)
 目的を忘れ始めていた悟空は、そのことに思い至って目を輝かせた。歩く速度も自然に速くなる。足取りも軽くなる。一段飛ばしで階段を降りながら、今まですることの出来なかった初めての冒険に胸を躍らせていた。

 綺麗だ。
 一瞬、今までの胸の高鳴りや冒険心を全て忘れた。そしてただ目の前のそれに見惚れる。目の前に広がるのは、それまた大きく厳重な鉄格子の牢だった。中にいるのは、何だろう。人の形をしている。しかし、人であって人でない。人がこんなに綺麗なはずがない、と悟空は瞬時に思った。だって、こんな。
 中にいるそれは、土の壁に寄り掛かっていた。細い両の脚には枷が嵌められ、鎖に繋がれている。両腕にも手錠が嵌められ、だらんと身体の前に置かれている。その細くしなやかそうな身体は、軍服のような服に包まれていた。しかしいつも見るような軍服とはデザインが違った。それには見覚えがあった。いつか、写真で見せられたことがあった。儀式の時、皇帝の周りにいる人たちが着ているものに似ている。よくよく見れば、その服もあちこち破れたり引き千切られたりとボロボロだ。その服の肩には、長く伸びた黒髪が緩く紐で括られ、前に垂らされている。頬は青白い。その段になって、悟空はその広い場所に明かりが灯されていることに気付いた。どうして、こんな地下深くに火の灯りが。そう訝しげに思っていると、“それ”は小さく首を動かした。思わず悟空の肩が跳ねる。やはり人形などではなかったのだ、と思いながら精一杯に気配を消そうとする。しかしその顔は、ゆるりと悟空のいる方向へ向けられた。目は、白い布に覆われているというのに。そして白い顔の中、何故か艶やかな薄紅の唇が灯りの下で弧を描く。息を呑んだ。
「……珍しい、来客ですね」
 特に低くも高くもない不思議な声が、その空間に響いた。その声にどうしてか、緊張で竦んでいた身体が弛緩した。ゆっくりと、布で覆われたそれの顔を見つめ返す。
「誰、なんだ」
 思わず口から漏れた言葉に、それはまた小さく微笑んだ。
「あなたはご存知ないでしょう」
「だから教えて欲しいんだ」
「どうして」
 そう問い返されて、悟空は言葉に詰まる。暫く困っていた悟空は、すぐに気を取り直して口を開く。
「どうしても! 知りたいんだ。……教えて、欲しい」
 そう勢いよく切り出したはいいものの、もしかしたら迷惑だろうかという思いが過ぎり、尻すぼみになる。しかしそれは、穏やかな表情で悟空を見つめていた。それが少し壁から身を起こそうと身動ぎをすると、手足につけられた枷がちゃら、と音を立てた。
「淋しいですね」
「何で」
「知ってしまったらあなたは逃げてしまうから。……久しぶりなんです、ヒトと話をするのは」
 そう言ったそれは、微笑んでいたけれどやはりどこか淋しげだった。悟空はその牢へとゆっくり歩み寄る。そして、それの目の前の鉄格子を掴んで、しゃがみ込んだ。
「あのな、俺悟空」
「……ゴクウ」
「そう、お前の名前は」
「……」
 一瞬それは口を開きかけ、一度閉じた。しかしまたゆっくりと口を開いた。
「教えてもいいですが、あなたは私の名前を呼んではいけません」
「何で。折角教えてもらえるのに」
「約束が出来ないのなら、教えられません」
 悟空にはその意図が分からなかった。だが折角教えてもらえそうなチャンスを逃すのは嫌だ。必死で鉄格子に掴まって顔を近づける。
「約束する! だから、教えて」
 そう言うと、少しだけ俯いていたそれは、少し溜息を吐くように肩を落とし、舌で唇を湿らせた。その舌と唇の紅さにぞくりとする。
「……天蓬、です」
 聴かされた名前に、思わず復唱してしまいそうになって慌てて口を押さえる。するとそれは、小さく笑って「よく出来ました」と言った。まるで子供扱いだ。目が見えていないはずなのに、自分が見えているかのようだ。
「どうして目隠しされてるの」
「……さあ。目を見ると、私に心を持って行かれるという噂があるそうで」
 心を持って行かれるって、どういうことだろう。思ったが、あまりそれについて語りたくはなさそうだったので悟空は口を噤んだ。
「それで、お前は誰なんだ」
「何だと思いますか。……ところで、私もあなたのことが知りたいですね」
 それはさらりと話題をすり変えた。よっぽど話したくないのだろう、と一旦引き下がることにして、悟空は頷いた。
「俺? 俺は……ただの子供。もう十五にもなるのにさ、守られてばっかりで何にも出来ない。情けないよな」
 思わず愚痴るような口調になってしまったにもかかわらず、それは穏やかに悟空を見つめていた。見つめている、のかどうかは分からなかったが。それでも悟空は、その眸は自分を見守ってくれている気がした。
「すごいな、お前」
「何がですか」
「よく、分かんないけど。傍にいると何か違う。すごい安心する」
 そう言うと、それは少し驚いたようだった。目が見えないから分からないけれど、そんな気がした。確信だった。
「どうしたんだ?」
「……いえ。ずっと、ずっと昔にそんなことを言われたことがあったなぁと、思って」
 そう言ってそれは少しだけ唇を噛む。噛んだところが白くなって、周りが鮮やかな赤になる。それを見つめて悟空は不思議な気分を味わっていた。
「お前は、どうしてこんなところにいるんだ」
「囚われているから」
「出られないのか」
「それもあるし、出ても意味がないから」
 何だか煮え切らない返事をするそれに、悟空は唇を尖らせて首を傾げた。
「意味がないって」
「出たところで、私のいるべき、守るべき国も、主もいない」
 その言葉には、何だか色んな感情が混じっているようで、悟空は何だか苦しくなった。悲しんでいるような、懐かしんでいるような、何かを憎んでいるような、何だか叫びたくなるような沢山の感情。しかし悟空にその理由が分かるはずがなかった。
「出たくない?」
「出てみたい気持ちもあります。だけど出る方法も既にない」
 出てみたい、という感情をやっと出したそれに、悟空はぱっと顔を輝かせた。そして膝立ちになって彼の顔に近付く。
「どうすれば出れんの、協力するよ!」
「契約をするんです。そうすれば、私の元の力を使うことが出来るようになる。つまり、ここから出られるんです」
「え、契約って」
「ええ。そして相手は、良き時代の旧帝国の皇帝の血を継ぐ者でなければならない」
 その言葉に、悟空の脳裏には黒い短髪の男が過ぎった。その男のいつも口にしていた言葉。
『お前は、良き時代の旧帝国の血を継ぐ、唯一の人間なんだ。分かるか。それを何があっても守らなければならない』
 その言葉を思い出しながら、再び目の前のそれに目を向ける。
「……契約って、どうするの」
 そう言うと、それは悟空が単なる興味で訊いていると思ったのだろう、口元に笑みを浮かべて、笑いながら言った。
「名前を呼び、口付けるだけです」
「くちッ……」
 思わず悟空が絶句すると、それは面白そうに笑った。しかしすぐにその笑いを収め、ポツリと呟いた。――――静かな声だった。
「もう二度と、私が契約することはないでしょう。あの、気高い血は、絶えてしまった。私のせいで」
「……」
 悟空は、血に汚れた自分の右手を見つめた。この血。これを求めているのだろうか。本当に、自分なんかでいいのだろうか。一瞬迷いが生じた。歴代の皇帝のような、目覚ましい能力なんて持っていないし努力なんてしていない。それでも、必要としてくれる相手がいるのなら。その、既に乾き始めた血の付いた手を握り締めた。
 悟空は鉄格子の間から手を伸ばした。一瞬怯んだように身体を固くしたそれの、目隠しに使われている布を掴む。そして少し乱暴かと思ったが端を掴み、強めに引っ張ってみた。すると殊の外布は簡単に解け、ぱさりとそれの膝へと落ちた。自然と、自分の喉が上下したのが分かった。心を持って行かれると言った、それを捕らえた者たちの気持ちが少しだけ分かった。
 持って行かれてしまう。澄んだ碧い眸に灯りが映り込んで、まるで燃えているようだ。
 持って行かれそうな意識を必死に捕らえて、悟空は唾を呑んだ。そしてそっと口を開くのをそれは、両の眸で、信じられないものでも見るかのような目で見つめていた。
「てんぽう」
 どんな字を書くのかも分からなかった。ただ、聴いた音をそのまま発音する。その音は鈍く反響して自分の耳へと戻ってくる。
 両の腕を格子の間から伸ばして、それの頭を捕らえる。そして少々乱暴に引き寄せて、その紅く濡れた唇に自分のそれを寄せた。初めての、柔らかい感触に眩暈がしそうだった。少し冷たいそれに、触れるだけで悟空は手を放す。それ以上触れていたら何か、おかしくなってしまいそうだったから。何がどう、というのは分からないけれど。
 ごし、と手の甲で自分の唇を拭い、それの顔を見つめる。それは、目を見開き悟空を見つめていた。自分の身体の異変に気付き始めていたのだ。身体に満ちる、覚えのある力に。
 皇帝の血を引くものでなければ、同じことをしたとしてもただの真似事に過ぎず、何も起こらないはずなのに。
「どうして……旧帝国の血は途絶えたはず!」
 信じられない、というように悟空を見上げるそれに、悟空は唾を嚥下し、居住まいを正した。そして片膝をつき、捲簾から教えられた正式な礼の姿勢を取る。
「俺は、最後の皇帝の血を継ぐ、唯一の男児なんだ。今は捕らわれていて、外の世界がどんな風になってるかさえ分からない」
「……」
「だけど、絶えてはいない。……――――俺が、生きてる限りは」
 碧の眸から、ぽたぽたと雫が零れるのを、何だか苦しいような思いで見つめた。それをとても見ていられなくて、思わず格子の隙間から手を伸ばして、その濡れた頬を指で拭う。それは温かかった。体温が、あった。
 それから悟空は勢いをつけて立ち上がった。座り込んだままのそれは、戸惑ったように悟空を見上げている。それに向かって、悟空はニッと笑って手を伸ばした。
「行こう、こんなとこからさっさと出ようぜ」
 ぱたり、と雫が一粒だけ、頬を伝って地面の土に染み込んだ。

 果てのないような階段を駆け昇った。体力は無限にあると自負している悟空でも息が切れるのに、天蓬は全く息を切らす様子はなかった。両手両足に枷が付いたままだというのに、だ。あれから、枷を外すのは時間がかかるということで鎖部分を切ることになったのだ。それはもう、綿の糸を引き千切るように切るものだから、流石の悟空も目を瞠ってしまった。あっさりと捻じ曲げられた鎖がカシャン、と地面に落ちるのを見た時は、別の意味で唾を呑んだ。
「あの、ゴクウ」
「ん?」
「ここを出ると、一体どこへ出るんですか」
「んー……と、俺がよく悪戯して押し込められてる牢屋。すぐ外に面してるんだけど……場所は、旧帝国の宮殿のまんまだよ」
 そう言うと、天蓬は僅かに切なげな、悲しそうな顔をした。これから外に出れば、否が応でも現実を見せつけられるのだから、仕方のない話かもしれない。少し先を昇っていた悟空は、数段降りて戻り、ほっそりした彼の右手を両手で握った。
「大丈夫だよ、……うん、よく分かんないけど、きっとどうにかなる!」
 全く根拠のない励ましで、自分自身情けなくなってしまったのだけれど、それを見上げていた天蓬は小さく笑って、「ありがとうございます」と言った。……そして、何かに気付いたように悟空の両手を取った。
「ゴクウ、怪我してるんですか」
 そう言われて思い出し、自分の両手を開いてみた。地は殆ど乾いている。しかし天蓬はそれを見て顔を顰めた。
「あの、俺の入ってた牢からこの階段に入るところに、鉄の扉がついてて……それを開けようとして、ちょっと」
 そう途切れ途切れに言うと、天蓬は少し悲しそうに眉を顰めて、悟空の両手を見つめて指先で傷をなぞった。そこからピリッとした痛みが走り少しだけ顔を顰める。それを黙って見つめていた天蓬は、徐にその手の平へ顔を伏せた。……次第に、温かくて濡れた感触が伝わってくる。
「お……おわー!?」
「動かないで」
 静かな声で制されて、悟空はピタリと動きを止める。そして、与えられるがままにその感触に耐えた。それが右手から左手に移り、やっと顔が離れていくのを見ながら、ほっとため息をついた。そして無意識に自分の手の平を見る。ぱちぱちと目を瞬かせ、再び天蓬を見た。
「傷が、ない」
 思わず手の平と天蓬の顔を見比べる。微笑む笑顔は優しい。
「それが、僕の役目です」

 悟空は一足先に階段から、元いた牢の中へと出た。追って天蓬も、その狭い入り口から出てくる。
「狭い牢ですね」
「うん、悪戯する度にここに入れられるんだ。狭いし、暇」
 そう愚痴る悟空をよそに、格子に両手を掛けた天蓬は特に力を入れた様子もなく、鉄の格子をぐにゃりと左右に引っ張り開いた。まるで熱された飴か硝子でも見ているようだ。しかし、悟空がその曲がった格子を突付いてみても、やっぱり硬い。開いた部分からよいしょ、と外に出ながら、(俺もこんだけの力、欲しいなぁ)と内心思った。そして、まだ牢の中で外に出るのを躊躇う天蓬に向かって手を差し伸べる。すると彼は、少し困ったように笑いながらその手を取り、ゆっくりと外へ一歩、踏み出した。

「――――悟空!」
 突然響いた声に、悟空は勿論、天蓬も目を見開く。きょろきょろと辺りを見渡すと、遠くから重いブーツの音が聴こえるのに気付いた。きっとあれは、自分を迎えに来てくれた捲簾のもの。
「ケン兄ちゃんだ」
「ケン……?」
 天蓬にも紹介しよう、と口を開き掛けた瞬間、木の上からザッと音がして黒い姿が現れた。捲簾だ。悟空と天蓬の間に、猫のようにしなやかに着地した彼は少し驚いた顔をして、次の瞬間素早い動作で銃を向けた。……銃口は天蓬に向かっている。天蓬は、ただただ好戦的に微笑んでいた。その笑みには、ゆったりとした余裕すら窺えた。
「ケン兄ちゃん!」
「退いてろ悟空。……何者だ」
 鋭い目で天蓬を睨みつけながら、構えた銃を下ろすことはない。悟空も、彼の銃の腕が随一のものであることは知っていた。
「迎えに行ったらお前は牢の中にいねぇし、奥の妙な扉は開いてる。……散々探し回ってみればいなかったはずの牢から出てきて、しかも妙なモノと一緒だ。……疑わない方がおかしいと思わねぇか」
「妥当な判断ですね。ただ、考えと行動が浅過ぎる」
 初めて言葉を口にした天蓬に、銃を構えていた捲簾はぴくりと眉を動かし、次第に表情を挑発的なそれへと変えていった。
「言うな、あんた」
「ありがとうございます」
 挑発的に笑う捲簾と、嫣然とした笑みを崩さない天蓬の間に挟まれて悟空はきょろきょろと二人を見比べた。兎に角、誤解を解かなければならない。そう思い、捲簾に向かって声を掛けようとした。
「ケン兄ちゃん、違うんだ、この人は……」
「ゴクウ」
 急に静かな声で制されて、悟空は天蓬を見上げる。見上げた先には優しい微笑み。
「あなたは静かにして、離れていなさい」
 その言葉には有無を言わせぬ強さがあり、悟空は唇を噛んで引き下がる。捲簾もまた、戦う気満々の様子だ。しかし天蓬は構えることもなくゆったりと立ち、微笑みながら捲簾を見つめている。
「そんな鉛玉で、私に勝てると思うんですか……」
 天蓬がそう楽しそうに呟くのを聴き、悟空は思った。この人に捲簾が勝てるはずがない。捲簾の強さは十分に承知している。ただ、それは人間相手では、という話だ。しかし、天蓬には絶対に勝てない。はっきり聞いたわけではないけれど……これは、人間ではない。銃の弾くらい、素手で掴んで指で圧し折るくらいのことは簡単にやってのけるはずだ。勝ち目なんて、ない。
 怒られても止めよう、悟空が決心して顔を上げる。その瞬間、捲簾の銃が火を吹いた。
「……ッ!」
 天蓬が撃たれているはずがない、と思いつつも息を呑んで振り返る。その悟空の目の前で、彼の肩から黒い絹糸がはらはらと滑り落ち、地面に散っていった。それと共に、彼の髪を括っていた麻紐が足元に落ちる。……彼の長かった髪は、肩の長さで焼き切れていた。
 はらはら風に煽られる自分の髪を見つめ、天蓬は微笑みを崩さぬまま髪に指を通す。
「……丁度、邪魔だと思っていたところでした」
「上等じゃん」
 天蓬が緩く頭を振ると、肩についていた髪がさらさらと地面に散る。髪に紛れて落ちている麻紐を拾い上げ、それだけを懐に仕舞い、再び天蓬は視線を捲簾に戻した。
「応戦した方が、燃えますか」
「そうだねぇ、黙って立ってられるよかいいかな」
「では遠慮なく。……いつでもいいですよ、どうぞ」
 軽く手を広げ、薄く微笑む天蓬に、捲簾は僅かに表情を厳しくして再び銃を構えた。天蓬は全く逃げるような素振りを見せない。そもそも避ける気すら全く“ない”のだ。それは、避ける必要がないからだ。ピリ、と空気が固まる。
 じっと間合いを取っていた捲簾の指がトリガーに掛かり、引かれると同時に銃口が火を吹く。慌てて天蓬の方を見るが、彼には掠った気配すらない。ただ、身体の前で右手が下向きに握られていた。その手が開かれると、カシン、と金属音がして小さな欠片が地面に落ちた。くの字に曲げられた銃弾。天蓬は変わらず微笑んでいる。捲簾の顔色は、流石に悪くなっていた。
「聞いたことがあるな」
「え」
「旧帝国の中央宮殿の地下深くには、魔物が捕らえられてるってな。―――大したバケモノだぜ」
 そう毒づく捲簾に、天蓬は初めて笑みを消した。すっと碧の眸が細められ、凍て付くような視線が真っ直ぐ捲簾に向けられる。
「減らず口を」
「悪いな。……負け犬はよく吠えるんだよ」
 その言葉にハッと悟空は顔を上げる。捲簾は笑っているが、その顔には緊張が走っている。彼も軍人で、敵と対峙することも稀ではない。勝てる相手ではないことが分かってしまったのだ。
「その達者な口を塞いで差し上げますよ。それとも、喉を潰した方がいいですか」
 彼なら右手一つでそのくらい容易に可能だろう。未だ、虚勢の見える笑みを浮かべながら銃を下ろさずにいた捲簾は、返事をすることもなく発砲した。しかしそれにも動じることなく、天蓬は顔に迫り来る銃弾を手の平で包み込むように掴み、地面に放り投げた。
「躾のなっていない犬ですね」
「ほざけ」
 続けざまに放たれる銃弾も全て天蓬は片手で叩き落としていく。
「狙いは悪くないが――――相手がよくない。……そろそろ応戦しても?」
「お手柔らかに」
「約束出来ませんね、残念ながら」
 悟空は足が地に根を張ったように動けなかった。捲簾が劣勢なのは目に見えている。天蓬が黙っていたとしても、そのうち捲簾の銃の弾が切れたらそこで終わりなのに、そこへ応戦されてしまったら。
 天蓬が右手を胸に、何か小さく呟いている。手には碧色をした光が集まり始めている。対して捲簾は、銃を右手に構えたまま、左手を軍服の胸に伸ばして短刀を出し、鞘を口で取って投げ捨てた。碧色の光が天蓬の青白い顔に映り、その妖しさを増した。どちらも本気だ。しかし、本気を出したとて捲簾の劣勢には変わりない。大きくなり始めた光を手に、天蓬が薄く笑い、捲簾は銃を投げ捨て、短刀を片手に地を蹴った。分が悪いのに加え、間も悪い。
 悟空は唇を噛み、最後の賭けに、叫んだ。
「……――――やめろ、天蓬!」
 その言葉に天蓬の身体は機能が停止したかのように固まり、手の平の光は霧散して行く。その異変に途中で気付いたが、そのままの勢いを止められなかった捲簾はそのまま無抵抗の天蓬の身体を押し倒す。その時短刀の切先が頬を掠り血の珠が頬を伝っていった。そしてそのまま仰向けに倒れた天蓬の上に馬乗りになり、首元へ短刀を突き付けた。一瞬屈辱に満ちた表情で捲簾を睨み付けた天蓬だったが、そのまま諦めたようにふっと目を瞑った。
「……どういうことだ?」
 急に勢いを失った天蓬と、様子のおかしな悟空に、捲簾は後ろに立ち尽くす悟空を振り返った。悟空は慌てて二人の元へと走り寄り、天蓬の上から捲簾を退かせた。そして天蓬を抱き起こした。
「天蓬、ごめん、俺……」
「……いいんです。僕も少々、冷静さを欠きました」
 しゅんとして謝る悟空に、小さく笑って天蓬は手を伸ばし、その頭を撫でた。
「血、出てる」
「ああ……平気です。すぐに治りますよ」
 笑う天蓬の頬に手を伸ばし、指先でそっと血を拭う。それでもまだ血は流れてきた。それを見て痛ましげに顔を顰める悟空に、ますます天蓬は困ったように微笑んだ。
「おいおい、俺置き去りかよ」
「あ、ごめんケン兄ちゃん!」
「で、これは一体、誰なわけ?」
 全く予期せぬ形で悪役となってしまった捲簾は、ムッとしたように顔を顰めて口を尖らせる。顎で天蓬をしゃくってみせながら腕組みをして悟空を睨む。それは決して言い逃れを許さないものだった。一瞬言葉に詰まりつつも、もう一度ごめんと謝ってから悟空は恐る恐る口を開いた。
「よ……よくわかんない」
「ああ?」
「だ、だから本当によく……だけど、最後の皇帝に関係のある人なんだ! きっと……いや、絶対!」
 訝るように凄んでくる捲簾に、慌てて悟空は言い募る。そして助けを求めるように、地面に座りこんだままの天蓬を見下ろした。
「ねっ!」
「私がそうだと言っても、あなたは信じないでしょう」
「まあな」
「……滅んでしまったこの国に、私の存在を覚えている人は、残っていないでしょうから」
 もう既に解り合うことを諦めてしまったかのような天蓬の口調に悟空は困り果て、捲簾もまた少し困ったように眉根を寄せた。そして何かを考えるように視線を四方に巡らせ、そして暫くして何かに思い至ったかのように目を見開いた。
「次郎神のじいさんはどうだ」
 捲簾の呟いた名前に、天蓬がはっとしたように顔を上げた。
「彼はまだ、ご存命なんですか」
「え、知り合いなのか? あのじいちゃんと。今も元気だよ! ピンピンしてる!」
 やっと解決の糸口を掴んだ、と悟空は表情を明るくして天蓬に向かって言い募る。その後ろで、腕組みしていた捲簾は二人を見下ろしながら言った。
「あんたを信じるのは、あのじいさんに話を聞いてからだ。……行くぞ悟空、それはその辺に繋いでおけ」
「そんなの駄目だよ! 連れてく!」
「どこに置くんだどこに!」
「俺の部屋に連れてくもーん」
 まるで拾ってきた捨て犬をどうするか考えているかのような会話に、呆れたように上の二人を見ていた天蓬は、小さく溜息を吐いた。

 それから、連れて行くと言って聞かない悟空に折れた捲簾が、あまりにも怪しいボロボロの軍服姿の天蓬に自分の替えの軍服に着替えさせてから宮殿の中へと連れ込んだのだった。
「軟禁状態という割に、まともな生活をなさっているようで」
 言葉通り監禁状態にあった天蓬の、僅かに棘の含まれた感想に悟空は少しばかり居心地悪げに肩を竦めた。確かにあんな地下牢に入れられっぱなしの生活に比べたら天国だろう。行動は少し制限されるものの、食事は自由に出来るし、敷地内なら自由に動き回れるのだから。
 少し前を歩く捲簾の後ろで、ちらりと悟空は横を歩く天蓬を見つめた。捲簾の、少し大きめの軍服に身を包んだ彼は、さっきのボロボロの軍服姿よりもずっとリアルな実体を伴って見えた。肩上で切れてしまった髪の毛は、再び麻紐で後ろに括られている。
「でも、残念だな」
「何がですか?」
 天蓬が目だけをこちらに向けるのを見て、悟空は口を尖らせる。
「だって、名前を呼ぶ度にそれが命令になっちゃうんじゃ、話も出来ないじゃん」
「……そう、ですね」
 命令口調にしなければいいのだ、といえばそれまでだが、悟空はまだ子供で言葉もまだ大人に比べると拙い。言葉遊びのような感覚で命令口調になってしまうことも少なくはないのだ。しかし、その度天蓬が本気に捉えてしまったら、大変だ。
「でも、お前とか、あんたとか、嫌だし……」
 そう一人呟きながら天蓬を見上げる。
「あだ名とか」
「あだ名……ですか」
「それなら呼んでも大丈夫だよなっ、じゃあさ、天ちゃんっていうのは?」
「はあ」
 捲簾をケン兄ちゃんと呼ぶ子供だ。天蓬の性別が正確に把握出来ていないため、“兄”や“姉”の呼称を抜いてそのまま“天ちゃん”。そのままだな、と思いながらも天蓬は曖昧に頷いた。しかし子供はそれでも確かな返事を求めるように顔を覗き込んでくる。
「構わない、ですが」
「やったっ!」
 そもそも主君につけられた名前を拒否することなど出来るはずもなく、天蓬は嬉しそうに前を歩く捲簾へ報告しに行く悟空の後ろ姿を見つめて、ほんの少しだけ苦笑した。

 捲簾はと言えば、精神的にも身体的にもくたくただった。行方不明の悟空を探して敷地内を駆け回り、見つけたと思えば得体の知れない魔物と戦う羽目になり(それは捲簾が挑発したせいだが)、しかも全く歯が立たなかった。身体もプライドもボロボロだ。
(……何なんだありゃ、銃弾を掴み取ったり握りつぶしたり、挙句何か術を出そうとした)
 ただの魔物ではないのは確かだ。そもそも、どうしてこの敷地の地下に囚われていたのか。いつから、誰に、どうして。
 後ろで悟空が楽しそうにそれと会話しているのを聞きながら、溜息を吐いて階段を昇った。目指す先は二階の一番端、元は最後の皇帝の側仕えをしていた、次郎神という男の私室兼書斎だ。彼なら、最後の皇帝と旧帝国の最期を知っているはず。そして、あの魔物の言うことが正しかったとすれば、あれのことも。
 重厚なチョコレート色のドアの前に辿り着く。ドアの前に立ち、後ろについてきていた二人にそのまま待つように言い置いて、捲簾はその部屋のドアを二回、軽くノックした。
「じいさん、いるか」
 返事を待たずに捲簾は部屋に踏み込み、悟空が部屋を覗きこもうとする前にドアを閉めてしまう。そしてそのまま部屋の中へと足を進めた。  中には広い絨毯張りの部屋が広がっている。その奥の窓の前には、重厚な執務机が置かれている。そこに、彼は座っていた。
「じいさんと呼ばないでくれませんか、あのですね、誤解されがちですが私はまだ……」
「あーも、その話はあとで聞いてやるから……」
 いつもの話が始まった、と捲簾は半ば呆れながら、部屋に置かれたソファに乱暴に腰掛けた。そして興味なさげにローテーブルに置かれた本をペラペラと捲る。
「ところで、何の御用ですか?」
 ペンを置きながら問いかけて来る彼に、本来の目的を思い出して、捲簾は本を閉じた。
「じいさんは、旧帝国が崩壊した時、まだ若かったんだよな?」
「ええまあ……いえ、今でも十分若」
「それはいいから。あのさ……“テンポウ”って、何? 何なのあの魔物」
 指先で、本の栞を弄りながら気がなさそうに言う。すると、目の前の次郎神は顔色を変えた。
「誰から聞いたのです、それを」
「え」
 思う以上の反応に思わず引いて、言葉に詰まってしまう。椅子から立ち上がり、捲簾の座る向かい側のソファに再び腰掛けた彼は、真剣な目を捲簾に向けた。
「や、ちょっとな。で、何なの、それ」
 暫く黙って捲簾を見ていた次郎神だったが、やがて捲簾が口を割る気がないと見ると、諦めたように息を吐いて、ゆったりと椅子に背を預けた。
「あの頃は、その名を知らぬ者などこの帝国にいなかったのですが」
 そう呟く彼の声は、どこか淋しげだった。
「どういうこと」
「この帝国には、古代からその皇帝を守護する守護者がおりました。その血筋を守り、次代へと繋ぐ帝国の守護者(ガーディアン)、それが、天蓬様です」
「……」
 捲簾は、顔から血の気が引いた気がした。自分はとんでもない相手に喧嘩を売ろうとしていたのではないだろうか。あの時悟空が気転を利かせなければ、もしかするとあのまま。そんな捲簾をよそに、両手を組み、俯き加減に次郎神は低く続けた。
「歴代の皇帝を、祝福し守護する。美しくて、聡明で……あの頃は、皇帝と共に帝国の誰からも愛されておりました。誰一人として“魔物”などと呼びはしませんでした、……新帝国軍の反乱が起きるまでは」
「……」
 自分にとっても、それは重苦しい思い出だった。父はその戦乱の中亡くなり、母は生きるために新帝国軍の通達に従い、寝返ったのだ。一人残された自分は次郎神を始め、旧帝国に最後まで縋り付きこの宮殿に軟禁されるようになった人々に育てられたのだ。
「あの方は最後の皇帝、金蝉様を非常に慕われていて……よく二人で、宮殿の中庭を寄り添って散歩されていました。主従の立場を越えて、あれは親友同士のようでもあり、一対のようでもあった」
 彼の口調は、楽しい昔の話をするような優しいものだった。
「戦乱の中、皇帝の絶命と共に力を失い、天蓬様はそのまま新帝国軍に捕らえられました。……きっと処刑されたでしょう。あの方とて、不死身ではないのです」
 捲簾ははっとして顔を上げた。彼は、天蓬を死んだものと思っているのだ。そうではないことを伝えようと、顔を上げた。しかしまた、何か話し出そうとする彼に口を噤んでしまう。
「美しい方でした。強く、博識で優しかった」
 その、幾分うっとりしたような口調に、捲簾は目を見開く。こんな彼は初めて見たのだ。
「じいさん、まさか惚れてたんじゃないだろうな」
 半ばからかい混じりにそう呟いて見ると、面白いように彼の顔は紅潮していった。そんな反応に、言った捲簾の方が困ってしまう。
「おいおいおい……」
「なっ、断じてそんなことは……決して!」
 そのまま脳溢血でも起こして倒れてしまいそうなほど顔を赤くした次郎神に何だか申し訳なくなって捲簾は逃げ腰になりながら立ち上がった。彼とて、皇帝が健在の頃はまだ若人だったのだ、恋の一つや二つしていてもおかしくない。そのままドアへ向かい、捲簾は少しだけドアを開いて、その外でしゃがみ込んでいる天蓬へと手招きした。
「何ですか」
「入れ」
 戸惑ったように戸口に立ち止まったままのそれの腕を引き、捲簾は部屋の中へと再び入った。後ろから悟空もパタパタと追いかけてくる音がした。しかしそれにも構わず、細い腕を引いてそれを前に突き出した。
「おい、じいさん」
 何やら一人、火照った顔を冷やしていたらしい次郎神は、突然目の前に現れたそれに瞠目した。それはまるで、信仰している神が急に目の前に現れたかのような目で。
「どうして……」
 驚きに言葉を失う彼の前で、天蓬は捲簾の腕をやんわりと解き、恭しく膝をついて腰を折った。
「ご無沙汰しておりました……ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした」
「てっきり私は、もう、亡くなられたものだと」
「あの後、新帝国軍に捕らえられて今までこの宮殿の地下牢に押し込められていたのです」
「それで、出てこられたということは、まさか……」
 次郎神の視線が部屋に巡り、二人の後ろに立つ悟空に留まる。それに頷き、天蓬は立ち上がった。
「俺が、偶然見つけたんだ。天ちゃんが捕まってるところ」
「彼と、新たな契約を結びました。再び、皇帝の血を守るために」
 はっきりとした口調で告げる天蓬に、一瞬目を瞠った次郎神は、次第にゆっくりと俯き、小さく頷いてそっと目頭を押さえた。
「――――ご無事で、本当に宜しゅうございました」

 その後、次郎神を座らせ、落ち着かせてから話を再開した。
「じゃあ、あの頃の従者たちもまだ残っているんですね」
「はい、いくらか……新帝国軍へ流れてしまった者もおりますが」
 手を組み、向かい合わせの席に座って顔を付き合わせながら重い話をする天蓬と次郎神に、悟空はあまり理解が付いていかなかった。頭に幾つもはてなを浮かべていると、隣に座っていた捲簾が「無理すんな」と頭を叩いた。すると悟空は、不満げに唇を曲げて捲簾を見上げた。
「……だって、俺も分かりたい」
「どうしてだ?」
「だって、俺は天ちゃんの主になったんだ、だから、いろいろ責任とかあって……それに、旧帝国を取り戻すために何かしたい。そしたら天ちゃんも嬉しいし、俺も嬉しいし……ケン兄ちゃんだって、またお母さんに会えるかもしれない」
 そう必死に言い募る悟空に捲簾は目を瞠り、天蓬は静かな眸でじっと見守っていた。そしてゆっくりと目を伏せた。
「ああ、そう。天蓬様。彼……捲簾は、爾燕の息子なのですよ。よく似ているでしょう」
 捲簾を手で差しながら言う次郎神に、天蓬はぱっと目を見開いた。初めて見たそんな表情に、捲簾も悟空もきょとんとしてしまう。
「爾燕の。ああ……そういえば、妻が子宝に恵まれたと、喜んでいましたね。じゃあ……奥様は」
「母さんは、生きるために旧帝国と赤ん坊の俺を捨てて新帝国軍に寝返った。その後どうなったかは知らない」
 つっけんどんに返す捲簾に、一瞬戸惑ったように視線を揺らした天蓬はその後小さく謝って視線を落とした。
「何もかも変わってしまったんですね……一体何十年私はぼうっとしていたのでしょう」
「三十年、ほどになります」
「……そうですか。皆さんの記憶から消えるには、十分な時間ですね」
 淋しげに呟くその声が、窓から流れ込んでくる夜風に流されて、消えていった。

 その後の話は夕食時にすることにして、三人は書斎を後にした。三人の間の空気は、その部屋に入ったときとは全く違う、重く少しよそよそしいものに変わっていた。来る時と同じく、少し前を歩いていた捲簾は、振り返ることもなく天蓬に声を掛けた。名前を呼ぶこともない。正確に言うと、呼べなかった。何か、真っ直ぐにあの目を見てしまったら、何かがおかしくなってしまう気がして。
「あんたの部屋を用意する。大人しくしていてくれ」
「はい」
 初めて対峙した時のふてぶてしさの全く見えない弱々しい声音に、流石につっけんどんにしすぎただろうかと不安になる。しかし今更振り返ることも出来ずに捲簾は更に歩く速度を速めた。悟空へ新しいシーツなどを貰いに行くよう頼み、捲簾は天蓬を連れて、三階へ上がった。三階には比較的位の高い使用人の部屋が並んでいる。突き当たりの部屋は捲簾の部屋だった。その隣の部屋の前まで歩き、振り返る。視線は僅かに逸らしたまま。
「ここがあんたの部屋だ。隣は俺の部屋。こんな使用人レベルのが嫌だって言うなら明日にでも大部屋を用意する」
「いえ、結構です。……十分です、部屋があるだけでも」
 そう言って天蓬は視線を下向きのまま、「ありがとうございました」と小さく呟いた。調子が狂う。初めてあった時には殺されるかと思ったくらいだというのに、急にこんなに弱々しくなられては。自分の頭をがりがりと掻き、言葉を探しながら唸った。しかしこれといった気の利いた言葉が出てくることもなく、捲簾はすぐに諦めた。
「……じゃ、俺、夕飯の手伝いしねぇといけねぇから」
 そう言ってその場から離れようと天蓬に背を向ける。しかし背中をその不思議な声で呼びとめられて、足を止めてしまう。
「何」
 振り返ることも出来ずに問い返すと、背後から少し躊躇いがちな声が返ってきた。
「……爾燕も、奥様も。本当にあなたがこの世に生を受けたことを心から喜んでいました。そのことは、覚えていて下さい」
「あんたに何が分かるんだ」
 とんでもないことを口にした、とすぐに後悔した。だけど撤回することも、振り返って天蓬の顔を見ることも出来ずに、捲簾はそのまま歩き出した。そして速度をつけて階段を降りていく。口の中に苦々しいものが広がった。あの人はどんな顔をしていただろう。想像するだけで胸の奥がずきりと痛んだ。

 どうやら嫌われているらしい、と結論付けた。それもそうだ、初対面で自分は彼を殺そうとした。これで彼が自分に好感を抱いていたら、彼は相当な馬鹿だ。つまり彼は馬鹿ではなかったらしい。利発そうな青年だ。容姿が、よく父親に似ている。あの戦乱の始まった頃、まだ彼の妻は出産していなかった。つまり、捲簾は父の顔を見たことがないに違いない。
 天蓬は自分に割り当てられた部屋のドアノブを捻り、ドアを開けた。長い間使われていない部屋の、饐えた匂いがする。しかし長い間地下にいた天蓬には、それすら心地のいい空間に思えて、ベッドや棚、小さなソファやテーブルの置かれた部屋を見渡した。使用人に充てるには少し広いように思えるこの部屋は、上級の使用人だけに充てられていた部屋だ。必要な物は揃っているし、不自由は全くない。何より、ベッドで寝られるだけ幸せだ。窓辺に置かれた柔らかそうなベッドに腰掛けると、僅かにたわんで身体が跳ね返った。ここでぐっすりと寝られたら、さぞかし幸せだろう……。
 ぱたり、と天蓬はそのまま横になった。少しだけ埃っぽい枕も全く気にならない。柔らかい布団に身体が吸い寄せられるようだった。瞼がどうしても上に上がらない。腕に力が入らない。そのまま睡眠欲に逆らうことも出来ず、瞼を閉じる。落ちていく感覚に、少しだけ天蓬は微笑んだ。











最後の皇帝は、金蝉です。ラストエンペラー。しかも一応既婚。皇帝だからさ。勿論新帝国を率いるのは某うんこ頭です。
たまには仲の悪い捲天もいいよね(いいのかな)。        2006/09/26