自分は奴等とは違う。上層部の不穏な動きも分からないし、彼の心に渦巻く何かも知らない。
 だから自分は待つしかない。彼が自分に待っていて欲しいと望む限り。

 いつもと同じ、判子捺しの一日が終わる。部屋へ夕日が差し込むようになったのを見て、騒ぐ悟空に不用意に出歩かないように言い置いて金蝉は部屋を出た。擦れ違う誰もが、珍しく外を出歩く自分に向かって訝しげな顔をしていた。
 一年に一度だけ、一人で向かう場所がある。それは、連なった天界軍棟の裏手に聳える丘へと向かう道だった。綺麗に整備された道は途中までで、その奥は草が茂った野原になっている。そこまで踏み込むことはせずに、金蝉はその手前の枝垂れ柳の下で足を止めた。道の脇には大きな池が出来ている。降り注ぐ赤く染まった光に水面が煌いて美しいが、触れたら硬いのではないかと思うような、造りものめいた美しさだった。

 昼間、捲簾が金蝉の部屋を訪れた。彼の第一声は想像出来ていた。その日である時点で。二度のノックののちに開かれたドアから現れた黒い影に、金蝉は顔を動かさず目だけを向けた。
「うちの馬鹿いるか」
「いねえ」
「あ、そう」
 自分が訊ねることを予測していたかのような金蝉の切り返しに、一瞬捲簾は戸惑ったようだった。が、なんにせよ金蝉が口を割ることはないだろうと思ったのか、それ以上の追及はしなかった。しかし、戸口でドアに凭れて怪訝な顔をしていた捲簾は、咥え煙草で部屋の空気を汚しながら口を開いた。
「なあ、今日は何の日なわけ」
「あ?」
「“毎年天蓬元帥閣下はこの日お姿を消される”って、どういうことよ」
 逃げを許さない、真剣な時の捲簾の眼差しから、それでも逃げるように無理矢理金蝉は顔を逸らした。その口振りではもう大方話を知っていて、自分に訊ねることで確証をとろうとしているのだろう。
「幼少からの御友人が知らねぇなんてことねぇだろ」
「あいつに関して何でも知っているわけじゃない」
「あそ。割と浅い仲なのね」
 明らかな揶揄の篭った言葉に、思わず金蝉は顔を上げた。すると、意地悪げな顔をした捲簾ににやりと笑われる。指に煙草を挟んだまま部屋に入ってきた捲簾は、いつも天蓬が部屋を訪れた折りに使用する灰皿に灰を落とした。金蝉がきつく睨みつけるも、捲簾はその辺の猫に威嚇されたくらいにしか捉えていないようだった。鼻であしらうようなその態度に金蝉は歯噛みする。結局自分は何をしても捲簾にも天蓬にも勝てた例がないのだ。
 生きる世界が違うことを痛感する。そんな金蝉は、二人が自分に対しても同じような思いを抱いていることは、知らない。
「あいつは、自分のことを滅多に話さない」
「だろーな。俺にもそうだ」
「今日は、奴の戦友の命日だ」
 そう言うと、捲簾はちらりと金蝉の方を一瞥して鼻を鳴らした。
「噂は本当ってことか」
「噂」
 天蓬のような人間が自分の流されたくない噂を放置するはずはない。その考えには確信を持っていたので、その言葉に訝るような視線を送る。すると捲簾は少しだけ肩を竦めて、煙草を灰皿に押し付けて消した。
「噂っつか、西方軍じゃ暗黙の了解らしいけどな。俺は部下をちょいちょいっとシメて吐かせて初めて知ったけど」
「……」
 そういうことなら、きっと天蓬は部下たちが了解済なのを知っているのだろう。厚意に甘えることに少しだけ躊躇しながらも毎年、軍棟から姿を消す後ろ姿が想像出来る。誰より同情を嫌う彼だから。暫く吸いさしを弄んでいた捲簾は、何かに思い至ったようにそれを灰皿に捨て、すぐに身体の向きを変え、部屋から出ていこうとした。その後ろ姿に嫌な予感を感じた金蝉は、おい、とその背中に声をかけた。
「どこへ行く気だ」
「関係ないんじゃない」
 その、存外冷たい響きに目を瞠る。捲簾が容姿を裏切ってとても心根の優しい男だということは噂にも聞いている。そんな噂に見合わない冷たい声に驚いたのだ。一瞬言葉に詰まった金蝉を振り返って、捲簾は真剣な目を向ける。強い、目だと思った。いつもだらしのない格好ととても好いとはいえない素行であっても、やはり本来は軍人なのだと実感させる目だ。
 関係ない、と言われれば、確かにない。しかし、気になると口に出来るほど金蝉は素直なわけではなかった。
「俺は、勝手に動く」
 黒い獣のような視線に、身動きが取れなくなる。
「あんたも、勝手にすればいい」
 天蓬を放っておくも、その傷に触れるも、自由にしろということか。
「今、俺はあんたが憎いよ」
 その黒の獣は、そう言ってすぐに踵を返した。その後大きくドアが閉まる音がして、廊下にブーツと床が擦れる高い音が響き、ゆっくりと遠ざかっていった。
 部屋の中に、天蓬のものとはまた違う苦い匂いが残っている。一人部屋に取り残された金蝉は、椅子に座ったままそのままじっと、ドアを見つめていた。


 池の水面がゆらりと揺れる。滾々と湧く水は少しの淀みもない。枝垂れ柳の下で、ゆっくりとしゃがみ込んだ金蝉は、その池に手を浸してみた。冷たい。もしも普通の子どもだったらば幼い頃、こんな水に入って水遊びしたりしたのだろうか。そんな風に考えて、そんなことを思いもしなかった、無気力な幼い頃のことを想った。
 毎日のように同年代の上級神の子らが、人となかなか係わりを持とうとしない金蝉童子の友人役として集められていた頃。何とか菩薩の甥である金蝉へ取り入ろうとへこへこと媚び諂う、妙に気位の高い連中に辟易していた。そんな中、大広間で金蝉のいる中央から遠い、大きく開いた庭へ一番近い場所に座った存在を目にしたのだった。一人で一心に二胡を弾いているその子供は、胸まである癖のない美しい黒髪で、端整な顔立ちをしていた。自分の手元を見下ろすようにいつも俯き加減でいるせいで、髪と同色の濃い色の睫毛が長いのがよく見え、睫毛で翳った眸の奥が暗く見えていた。見た目は自分とほぼ同じくらいで、いつも見るからに質の良さそうな黒や深緑、白や紫などの旗袍(チイパオ)を纏っていた。そのいっそ整い過ぎたきらいのある容姿と、年齢もあり、一見して性別は分からなかった。
 そういえばこうして子供たちが集められる時にはいつも、どこからか二胡の音色が響いていたことを思い出す。それすらその時まで気付かないほどに、金蝉は周りに無関心な子供だった。どうせどこかの奏者を菩薩が連れてきて演奏させているのだろうと頭の片隅で無意識の内に考えていたのだ。と、そう誤解してもおかしくないほどの腕前だったのである。金蝉がいくら無視をしても媚びるように話しかけて来る連中をあしらいながら、いつからか金蝉はその子供に見入るようになっていた。
 周りの人の存在に目もくれずに、いつもその子供は演奏ばかりをしていた。金蝉に取り入り、何とか親しくなって友人という位置を得て、親の顔を立てるために此処に連れて来られたに違いないのに。そしてその子供は、時間が終わるといつも誰より先に、二胡を片付けてさっさと帰って行く。まるで金蝉がいることなど関係ないと言わんばかりだった。
 話しかけてみようかとも思ったが、その音色を途切れさせるのは忍びなかった。それに、他の誰の話にも耳を傾けなかった自分が自ら誰かに話しかけたとなれば、周りの子供の妬みが一気にその子供一人に集中するのが目に見えていたし、何より菩薩や師匠である釈迦にあれこれと訊かれておちょくられてからかわれる自分が容易に想像出来た。慣れないことはするものではない。そう思いながら、金蝉はいつも、話しかけてみたい気持ちを抑えていた。それは、もし自分が話しかけても彼は無視をするのではないかという、理由なき不安があったのを誤魔化すためでもあったのだが、幼い金蝉は自分のそんな想いに気付く余裕もなかった。
 ある日、全く周りの子供に対して返事をしなかった金蝉が、初めて口を開いた。それに金や権力、地位が見えたとばかりに目を輝かせた周囲の子供は、金蝉の口にした内容に明らかに落胆したような表情を見せた。金蝉の言葉は、自分たちには全く関係のない人間についての話だったからだ。
 あの子供はどこの誰なのかと。
 名前は翠氷(スイヒ)、家柄はとても良いとは言えない、下級神。周りの子供から得られたのはそれだけだった。そして、それは秀でた、突出し過ぎた才能ゆえに疎まれた子供だった。頭も子供らしからぬほどに切れ、楽器に舞にと多彩な才能を持っている。そして、何よりその容姿が群を抜いていた。親族はいない。それなのに身に着ける服や楽器はどれもこれも一級品ばかり。それが、その子供を妬む者たちの格好の餌らしかった。どこぞの上級神に囲われ、人形のように夜毎愛でられている、夜には彼等の宴で酌をし、舞わされているなどという、訊けば訊くだけ不愉快になる噂話ばかりが飛び出し、金蝉は顔を顰めた。誰もが何とかその子供の悪評を金蝉に植え付けようとしていたのだ。
 早々にその悪童たちを追い返し、金蝉は既にいなくなったその子供がいつも腰掛けている場所に立ってみた。そして、そこからいつも自分の座っている場所を見つめてみる。きっとあの子供は、こんな風に自分を見たりはしないのだろうけど、と思いながら。
 そして、周りにいた子供たちに、あの子の性別はどちらなのか訊き忘れた、と少しだけ口惜しく思った。


 それから何十年、何百年経ったであろうか。金蝉の顔からは、既に幼さが抜け始めていた頃のこと。
 桜の木の下で再会したその子供は、相も変わらずの……いや、余計増したであろうか、金蝉の周囲の美姫も引けを取るような美貌を誇っていた。穏やかに桜を見上げるその横顔に見惚れ、息を呑んだ。しかし、相手はあの頃のことなど覚えていないだろうと思っていた金蝉は、まず話しかけられたことに驚いた。そしてその子供が自分のことを覚えていたことに再び驚かされた。殆ど自分を見ていなかったであろうその子供が、だからだ。そんな反応を、その子供は花が咲くような微笑で見つめていた。
 そして性別は男、“翠氷”は幼名で、今は“天蓬”と言うのだということを、教えられた。同時に、士官学校へ入学するのだということも。

 離れている間に、あの頃大広間の隅で一人、美しい二胡の音色を奏でていた小さな美童はすっかり強くなっていた。あの頃の儚げな消えてしまいそうな美しさとは違う、自信に溢れ強さに満ちた美しさは、この天界でひときわ異彩を放っていた。あの頃、勇気がなくて覗き込むことの出来なかった彼の双眸は、光の届かぬ場所に置かれた琥珀のような、濃い鳶色をしていた。光に透けて明るい色彩になったその眸に正面から真っ直ぐ見つめられる。それは一瞬怯んでしまうほどの強い光を湛えた、大きな眸だった。まだ金蝉よりも幼い顔をした彼は、それでも金蝉よりもずっと大人びたように見えた。
 自分より幾らか背の低い彼は、上目遣いでじっと金蝉を見つめてくる。ますます困った金蝉は、色々訊いてみたいこともあったはずなのに、唇は凍り、頭にも何も思い浮かばなかった。そんな風にたじろいだ様子の金蝉を見つめて、その大きな目は穏やかに細められた。
『ご無沙汰致しておりました、金蝉童子』
 まだ声変わりし切らない僅かに高い声でそう告げ、しなやかで美しい動作で自分の足元に跪いた彼に、息を呑んだことを鮮やかに覚えている。
『……覚えていたのか』
『勿論です』
 跪いていた少年は、そう答えてにっこりと微笑み、再び立ち上がったのだった。その後、彼が士官学校に入ってしまうと、それからまた暫く会えない日々が続いた。天界軍直属の士官学校は寮制だった。きっとそこでも友人が沢山出来ているのだろう、と考えながら、時々桜の木を見つめながら思っていた。しかし、彼はそれからも時折金蝉の元を訪れた。何度も、何度も。その時に、一度だけ彼の後ろをついてきた男の顔を覚えている。大柄で、それでも心の穏やかさを体現したような優しげな風貌をした男だった。

 そんな彼は、それから、日を重ねる毎に違った顔を見せるようになった。ただの邪気のない笑顔など、二度と見ることはなかった。天界軍に入った当初一介の軍人に過ぎなかった彼は、それからぐんぐんと頭角を現し始め、その若さで元帥の位を拝したのだった。そんな彼と自分とに精神的な距離を感じ、二人が距離を置き始めた、その頃のことだったと聞く。

 戦友を失い、部下を失い、心も身体も酷く傷付き血を流しながらも、自分が傷付いていることに気付くことすら出来ていなかった彼。
 その彼に、あの時の自分は何故何もしてあげられなかったのだろうか。


 ひらり、と池の水面に柳の葉が滑り落ちた。その鮮やかな緑に、金蝉は我に返る。視界は夕日で赤く、その緑が目を刺すようだ。金蝉はゆっくりと立ちあがる。少し足が痛かった。一体どれくらいそうしていたのだろうか、既に夕日は沈みかかり、丘へ続く上り坂は赤い絨毯が敷かれたようになっていた。立ち上がった金蝉は、再びその細い道の中央へと足を運ぶ。少し眩しい。自分の影が後ろに長く伸びている。赤い光が自分の目を苛んだが、それでも金蝉はその場から動かずに、その先から現れる姿を待っていた。
 すっかり日は半分ほど沈み、世界が赤く染まる頃。金蝉の前に、長く細い影が伸びてきた。一升瓶を抱えたその影は、金蝉を目に捉えて何度か瞬きをして小さく息を吐いたようだった。それは少し落胆した時のそれのようで、思わず金蝉は顔を顰めてしまう。いつからか、彼は自分からいくらか距離を取るようになった。滅多に金蝉は彼の執務室に踏み込むことはなかった。それは彼が拒否し、または許可しないからだ。
“あなたの来る場所じゃありません”
 いつからか、それが彼の口癖のようになっていた。うっすらと浮かべられたその笑みは金蝉にはどんな種類のものなのか分からなかったけれど、本物ではないということだけはしっかりと分かった。彼にとって自分は安らげる場所ではない、ということだ。常に気張ったままの彼は、一体どこで息を抜いているのだろう。元帥という肩書きを下ろす場所が、彼にはあるのだろうか。正確に言えば、あった。しかし、それは当の昔に失ってしまったのだ。
 今の彼にとっての自分は、一体。

 少し疲れたような表情で金蝉を見下ろしていた天蓬は、諦めたように目を伏せて、ゆっくりと一歩ずつ坂道を降りてきた。
 珍しく討伐でもないのに軍服に身を包んだ彼は、背後から差し込む夕日のせいもあって酷くほっそりとした印象を受けた。両腕は、だるそうにそう重そうでもない空の一升瓶を抱えている。一歩一歩、こちらに向かって歩み寄ってきた彼は、一定の距離でぴたりと立ち止まった。そして、何の感情も浮かばない眸をじっと金蝉に向けてくる。その目が昔から苦手だった。思わず俯きたくなったが、今、目を逸らしてはいけないという強迫観念に駆られて、金蝉はじっと彼の目を見返した。
「……よく帰ってきたな」
 やっと絞り出した言葉は、そんなものだった。目の前の彼も少し不思議そうに目を見開く。そして次の瞬間には、その秀麗な面をさも不快そうに顰めた。
「何ですかその言い方。まるで帰ってくるとは思わなかったとばかりの口振りですね」
 いつもの間接的な皮肉とは違う、棘の剥き出しになった言葉に、その時ばかりは何故か嫌だとか、腹が立つだとか思ったりはしなかった。ただ、少し、痛々しいと思っただけで。普通なら歩き続けられないような傷をいくつも負ってなお、その傷を隠すように毅然とした態度を取り続ける彼は、とても痛々しかった。
 傷付いた獣のような顔をした男を見上げて、金蝉はゆっくりと口を開いた。
「毎年、もう帰って来ないんじゃないかと思ってる」
 そう、毎年習慣のようにここまで彼を迎えに来て、今日のような彼の不愉快そうな顔を見るまでずっと、今度こそ帰ってこないのではないかと考えている。そう考えてしまうからこそ、毎年のようにここへ足を運ぶのを止められないのだった。
「僕が、今までに一度でもあなたに待っていて欲しいなんて言ったことがありましたか」
「ないな」
「だったらどうして」
 天蓬は不毛な押し問答が何より嫌いだ。言ってしまえば、ものすごく短気だからだ。それは本人も自覚するところらしい。そんな彼は金蝉のそんなのんびりとした返事に苛立ったようだった。瓶を抱いたまま酷く苛立ったように金蝉を睨みつけてくる彼に、金蝉は逆に心が段々安定してくるのを自覚した。先程までの、彼が無事に帰ってくるかどうか不安に思っていた頃よりずっとましだ。そう思って、彼の怒ったような顔を見つめていると、何だか微笑ましくすら思える気がした。苛々と金蝉の返事を待っている彼に、思わず笑ってしまいそうになりながら金蝉は口を開いた。
「俺が待ちたいだけだな」
 そう、またものんびりと答えると、目の前で顔を厳しくしていた天蓬は、呆気に取られたように目を見開いた。待つことしか叶わないと知っているからだ。あの男のようにお前に並ぶことなど出来ないと知っている。金蝉が口にしたのは紛うことなき彼の本音だったのだが、天蓬はからかわれたと思ったか、微かに頬を赤くして形相を厳しくした。
「ふざけるくらいなら、帰って下さい」
「いつ俺がふざけた」
「あなたとの会話には実がないんですよ。お帰り下さい、金蝉童子。こんな時間に出歩かれては御身体に障るでしょう」
「天蓬」
 少しだけ声を低くすると、少しだけ肩を揺らした彼は、むすっと口を閉ざして金蝉を見た。
「少し落ち着け」
「あなたがここにいなければもう少し落ち着いていられたでしょうに」
 苛立っているときの天蓬の毒舌は際限がない。苛立っているのでなければどこか体調が優れないか何かだ。そんな時の天蓬は会話をすることも人に触れられるのも極端に嫌がる。全くもって獣のような奴だ。そんな彼に溜息を一つ吐いた。
「分かった。なら先に戻れ」
「は」
「俺は暫くここにいる。先に軍棟へ帰れ」
 そんな提案をした金蝉に、天蓬は一瞬だけ表情を緩めて目を瞬かせた。が、すぐに表情を引き締めて首を横に振る。
「あなたに何かあれば共にいた僕に責任があります。あなたが帰ったのを見届けてから帰ります」
「そんな顔をした奴を放っては帰れんな」
 分かっていた。彼が少しは自分に気を許してくれていること。こうして感情を全て取り繕わずにいてくれることこそが、彼の自分への甘えなのだと知っていた。言葉に詰まったように目を見開く彼に、ゆっくりと金蝉は手を伸ばした。振り払われるだろうと思いながらのそれだったのだが、彼は意外にも逃げることなく、その手を受け入れた。近付いて見ると、頬骨の高い位置に少しだけ砂の汚れが付いている。大方丘の上で寝転がっていたのだろう。指先でその汚れを拭ってやると、少しだけ伏せ目がちにしていた彼は、心地よさそうに目を伏せた。
「お願いですから、もう僕を待たないで下さい」
「何故」
「あなたがいつものように待っていてくれても、いつか僕は帰らなくなります」
 その、帰らない、は“生きては帰らない”という意味だと即座に理解し、金蝉は目を伏せた。死のない天界で、一番死に近い場所にいるのが、彼等軍人だ。いつか、亡骸になって、もしくは首だけになって帰ってくるかも知れない。最悪の場合、肉片すら戻らない可能性もある。
「待つのは俺の自由だろう」
「それでも!」
「俺が待つことで、少しでもお前を死から引き止められるのならと思っている」
 いつかお前が戦場で、死に少しでも引き摺られそうになった時に、俺の存在が足枷になればいい。

 その言葉を聞いて、暫く目を瞠ったまま立ち尽くしていた彼は、泣く寸前の子どものように顔をくしゃりと歪め、僅かに俯いた。
「あなたを必要とする自分を認めるのは嫌なんです」
「何故」
「必要なものなんて要らないから」
「矛盾してるじゃねぇか」
「……そう、ですね。自分でもよく分からないんです」
 自嘲するように笑って顔に手を当てる彼が夕日の中、どうにも心許なく思えて、金蝉は伸ばした手を彼の肩に乗せて少しだけ引き寄せた。今にも彼が泣きそうに見えたから。泣く姿を彼が決して金蝉に見せたくないと思っていることを知っているから。金蝉の肩の辺りで、黒髪が少しだけ揺れた。
 このひ弱そうに見えて強い幼馴染は、実は誰より精神的に参り易かった。本来そういった性質であるものを、軍隊に入り自らを戒めることで無理矢理に自分を縛り付けているのだ。
「あなたの身体は、まだ温かいですね」
「何を言ってる」
「いつまで、あなたの腕の中にいる権利が、僕にあるんだろうと思っただけです」
 何かよく解らないことを唐突に言い出した彼は、そう言って少しだけ笑って、金蝉の胸から顔を上げた。
「お前の望む限り、ずっとだ」
 そう言うと、彼の笑みは消え、また、少しだけ泣きそうな顔になった。金蝉は掛ける言葉を持たなかった。ただただ、彼の身体を胸に抱き込んで、きつく抱きしめた。「痛いですよ」と呟く彼の声が震えていたことにも気付かない振りで。
 真っ赤な夕日が彼と自分の身体を赤く染めた。いつか、こんな風に血塗れになって息絶えた彼の身体を、その血で服を赤く染めながら抱き起こす自分が居るのだろうか、と思うと、その夕日すら、憎かった。












金蝉と天蓬に関しては昔書こうと思って放置していたエピソードだったのですが。長っ。……今度ちゃんと纏めて過去を書きます。      2006/4/17