追う意味はないと分かっている。そして自分は、彼にとっての帰る場所ではない。
 だから自分は、見送ることしか出来ない。

 敖潤は、その日いつもより少し早く目覚めた。それは習慣でもなく癖でもない。しかし、毎年この日だけは毎朝日が出る前に目が覚めた。寝衣から着替えることもなく、そのままベッドから起き上がり、適度に髪を梳かす。そして寝室から出て、隣の執務室へと向かった。夜明け前の殿内はしんと静まり返っており、パタリと閉めた寝室のドアがやけに大きく音を立てた。
 執務室のソファの上に載っているブランケットを持ち上げ、軽く肩に羽織った。まだ夜明け前は少しだけ涼しい。そして少し霞んだ目を擦りながら、敖潤はその赤い目を窓に向けた。外はまだ朝もやに包まれ、白くぼんやりとしている。ゆっくりとその窓に向かって歩み寄り、音を立てないようにゆっくりと窓を開けた。朝の霧のような空気が部屋に流れ込み、少し湿っぽいが心地のいい空気が頬にまとわり付く。薄靄の向こうから、黒く細い影が近づいてくるのが見えた。
「……天蓬元帥」
「お早うございます、閣下」
 にこ、と優しげに微笑むその男に、敖潤は目を細める。彼の腕には、一升の酒瓶が抱えられている。
「許可は態々取らずとも良いと言っただろう」
「でも、待っていて下さったでしょう?」
 またにこ、と微笑み、男はゆっくりと窓の近くまで寄ってきた。いつもワイシャツにだらしのないネクタイ、そして白衣を羽織っている男だが、今日、というよりも、毎年この日は、こうしてしっかり軍服を着ている。髪も後ろで結わえられ、いつものだらしない様子は微塵もない。彼の部下たちは、討伐の際にしか見られない姿だろう。そして、喪章としての黒い腕章を付けていた。
「そろそろ心に区切りをつけて真面目に仕事に出ろ、とか仰らないんですね」
「言ったところでどうにもならんだろう」
「まあ、そうですが」
 もう見た目は立派に青年だと言うのに、ぷうっと頬を膨らませる仕草に違和感がないのも妙な話だ。敖潤はそんな部下に眩暈を覚えながらこめかみを押さえた。くらくらとする寝起きの頭を押さえながら、ゆっくりと窓の外の青年に視線を移すと、彼は朝靄でしっとりと濡れた前髪を掻きあげながら、ひっそりと微笑んでいた。その仕草が、誰かを煽ることを学習済みの彼だが、自分に対してそういうことをすることはない。つまり、これは無意識なのだ。そうは自分に言い聞かせても、喉元で脈動する鼓動が抑えられない。その微笑みに、何度言葉を失っただろうか。あの頃から。
「今日は一日晴れるそうだ」
「そうですか。毎年、そうですね」
「奴は晴れが好きだったからな」
「ええ」
 微笑んだまま、男はゆっくりと頷く。伏せ目がちの目からすらりと伸びた長い睫毛が目に影を落として、更に目の印象を暗くしている。
「大将には言ってきたのか」
「いいえ。別にあの人に言う義理はありませんよ。それに言ったらついて来かねません」
「連れて行ったらどうだ」
「連れて行って、僕にあの人へ昔話をしろと?」
 それまで笑顔を湛えていた男の顔が急に冷め、目がスッと細められる。この位の自分であっても、彼のこういう時の表情は、何よりも怖いと思う。
「……済まない、失言だった」
 そう素直に謝罪すると、男は驚いたように目を瞠り、目を伏せて大きく息を吐いた。
「済みません、ついカッとなって」
 いや、悪いのは自分だ、と思う。彼にとってあの過去は何者にも替え難いものだと、解っていての発言としては不躾過ぎた。
「どちらかと言ったら、あなたを連れて行きたいところですが」
「は?」
「昭蓮は、あなたを尊敬していましたからね」
 そう言って、天蓬はうっすらと朝靄に溶けてしまいそうなほど儚く、微笑んだ。


 昭蓮は、天蓬と軍士官学校時代の同期であり、友人だった。敖潤も次代の士官を養成する機関が正常に機能しているかとまめに査察に行っていたので、その姿を何度か見ている。昭蓮は天蓬より幾らか背が高く屈強で、いつも快活に笑っている好青年だった。友人、というより、親友と言った方が相応しかった。今の天蓬しか知らぬ者にはきっと信じられないことだろう。今ではもう身近な者すら心から信頼しているのか分からないような彼に、親友という存在がいたなどとは。
 もうすぐで、二人揃って士官学校を卒業出来る、というその頃の話だった。
 細かな事情は学校内で隠蔽されてしまい、敖潤他上官側に流れてくることはなかった。知っているのはその日の実践訓練で昭蓮とバディシステムを取っていた天蓬と、一部の仲間のみだ。その事件の概要を公言しようとした彼らは次々と姿を消した。天蓬は多くを語りたがらず、原因は教官にあるのだとそう一言敖潤に告げただけだった。その後、当時の教官もまた、天界から姿を消したのだが。
 昭蓮が自分を尊敬していたのは知っている。しかしもし彼が、天蓬が自分を毎年弔ってくれているのを知っているなら、きっと天蓬一人に弔って欲しいと思っているだろう。昭蓮が、彼にそういう類の感情を抱いていたのを知っているからだ。本当に、細かく見ていなければ気付かないほどの、小さな違和感だった。ふとした瞬間に彼が天蓬を見つめる視線が、どこか切なげだったり愛おしげだったりしたから。
 それが自分の姿に重なったからとも、言えた。

「そうかも知れないが、彼はお前一人で十分だろう」
「そうでしょうか」
「ああ。明朝には必ず帰って来い」
「勿論です」
 にこ、と笑った天蓬は、腕の中の酒瓶を抱えなおした。毎年彼は、昭蓮の好きだった酒を一本持って、彼の墓のある丘へ行く。勿論そこに屍が埋まっているわけではない。が、彼は墓標くらい立てなければ心の整理をつけられなかったのだろう。花は毎年、その丘へ行く道のりで摘みながら行くのだという。いい花が見つからなかったら摘まずに行く、どうせその丘には彼の好きな桜が咲いているから、と彼は以前笑った。
「私が彼にしてやれることは、これくらいしかない」
「昭蓮も喜びます」
 そう言って、彼はまたにこ、と笑った。笑うことしかもう出来ないのだろう。泣くには、もう時が経ち過ぎていた。自分が一体何年間生きているのか殆どの者が把握していないこの天界だ。彼もきっと自分が何年生きたのかなど覚えていないだろう。が、きっと彼が死んで、何年経ったかは覚えている筈だ。元々人と腹を割って話をするタイプの男ではなかったのが、士官学校を出た途端に一層その人嫌いの気を濃くしたのは事実だ。変人、軍事オタクと呼ばれるほどにまで軍の采配についてのめり込んだのもその頃から。

「ねえ」
「何だ」
「天界のものは、死んだらどこに行くんでしょう。下界のどこかですよね」
「さあな。生憎死んだ経験がないので分からん」
 にべも無く切り捨てると、少しがっかりしたような顔をして天蓬は溜息を吐いた。何と応えて欲しかったのか、彼の心をそこまで裏読みする能力は残念ながら持っていない。今日くらい、彼の口車に乗せられてやってもいいとは思ったが、それだけの能力が無いのに下手に裏読みしては誤った答えを言った時に余計厄介だ。
「天界のものは、望んだところに転生出来ないんでしょうかねえ」
「まさかとは思うが」
「後追いなんてしませんよ。するならあの日、すぐにしてます。第一後を追ったところで会えるか分からないのに」
 昭蓮は、自分がどうすることを望んだだろうか。それを自問自答しながら、毎年その丘に向かって歩いたのだろう頭の中で薄れていく彼の笑顔に反比例して上がっていく己の位。いつしか元帥にまで昇りつめた自分と、思い出の中の、士官候補生にすらなれなかった彼。
「こんなことを言うのは自分らしくない、とは思いますが、いつか会えたら、と思っています。今でも」
 これは、彼が普段零すことの無い弱音だ。どうしていいのか一瞬戸惑った敖潤は、その時吹いた風に任せて、聞こえなかった振りをするしか出来なかった。
「すみません。甘えが過ぎました」
「いや……それは構わんが」
 殊勝に頭を下げた天蓬に少し驚いて声を掛けると、ゆっくり顔を上げた彼は困ったように微笑んだ。
「盃はありますか」
「え」
「あなたのです」
「……あ、ああ」
 唐突に告げられた言葉に一瞬たじろぎつつ頷くと、天蓬はにっこり笑って、持って来て下さい、と言った。戸惑いつつ私室に戻り、暫く使われていない銀製の盃を軽く拭いて窓辺に戻る。すると丁度天蓬が、手にしていた酒瓶の包みを剥ぎ、栓を抜いているところだった。
「おい……」
 ぽん、と軽い音を立てて酒瓶の栓が抜ける。それを掲げて微笑んで見せた天蓬は、こっちに向かって手招きをした。
「何を……」
「出して下さい」
 促されるままに、盃を手にした右手を前に出すと、天蓬は盃に向かってその酒瓶を傾けた。そして盃から溢れそうになるほど注いで、満足そうに鼻から息を吐いた。そしてまた栓をし直す。酒の満たされた盃を右手に、目を瞬かせた敖潤は、訝しげに目を細めて天蓬を見下ろす。盃からは、瑞々しい果実のようなすっとした酒の香りが漂った。
「……何を」
「あなたも弔って下さい」
 気持ちだけで十分です、と、その男はきれいに微笑んだ。
 決して本心など覗かせやしないくせに、こうして極々稀に見せるこのきれいな笑顔に、きっと昭蓮も惹かれていた。馬鹿らしいとは思っても、今この瞬間、昭蓮が彼の心の中を十割占めているという事実が嫉ましく思えるのも事実だった。何者にも奪われることはないだろう彼の心を、こうして今。
「……明朝だ。遅れは許さん」
「ありがとうございます。昭蓮の代わりに、感謝します」
 そう言って、天蓬はゆっくりと目を伏せた。そしてそっと頭を下げる。長い睫毛がさらりと流れるさまをじっと見つめて、手の中の酒が零れないように、窓辺のテーブルに置いた。そっと顔を上げた天蓬は、口元に笑みを湛えたまま、敖潤の右手に手を伸ばす。そして伺いを立てるように小首を傾げたので、許可するように頷く。すると彼は、手袋に包まれた両手で敖潤の右手を恭しく持ち上げた。そして、流れる自分の横髪を掻きあげて耳にかけながら、ゆっくりとその手の甲に向かって顔を伏せる。
 鱗の浮かんだその手の甲に、柔らかくしっとりと濡れたものがふわりと触れた。
「では閣下、行って参ります」
 手の甲からゆっくりと顔を上げた彼は、そう言ってそのまま地面に片膝と握った拳を突き、深く腰を折った。さっと無駄のない動きで立ち上がり、颯爽と背を向けて歩いていこうとするその背中につい手が伸びて、その手をぎゅっと握り締める。

「待て、元帥」
 声を掛けると、天蓬はぴく、と背を伸ばして振り返った。彼は不思議そうに首を傾げたが、それをそのままに敖潤は部屋の中に身体を向けた。部屋の奥に配置されている執務机の引き出しを開き、目当てのものを探る。そしてそれを手にまた窓辺に戻った。
「何か」
「持って行け」
 きょん、と自分を見上げる男に向かってその手にしていたものを投げ付けた。咄嗟のことにも驚くことなくそれをキャッチした彼は、それを見て目を見開いた。
「煙草」
「お前と彼は同じ銘柄だったろう」
「よく御存知でしたね」
「二人で講義をサボって桜の木の上で煙草を吹かしていたのを知らんと思ったか」
「……何で知ってるんです」
「士官学校のあの桜の木は学長室から丸見えだ」
 さも失敗した、というように顔を顰める天蓬に口元だけで笑う。査察が終わった後、学長と話をするソファからはその見事な桜の木が良く見えた。学長側のソファからは見えない位置で、大柄な影とそれより少し細い影が可笑しくて堪らないと言うように肩を揺らしているのを見ていた。翳った木の上で、ほんのりと赤く光る二つの火。運良く学長は気づかなかったが、開け放たれた窓から流れ込んできたのはあの煙草特有の甘い香りだった。
「供えておけ」
「下界から物を持ち帰るのはいけないのでは」
「お前にそれが言えるのか」
「いえ全然」
 クスクスと肩を震わせながら笑った彼は、煙草の箱を受け取った手を軽く上げて謝意を伝えて見せ、軽く礼をしてまた、背を向けて歩いていった。白濁とした朝靄の中に、黒く細いその背中が消えていくのを、それが消えても暫く、見つめ続けた。
 日が少しずつ昇り始めるのに、その朝靄はゆっくりと掻き消されていった。朝務もあるのでそろそろ支度を始めなければならない。今日は元帥の不在を誤魔化すという任務もある。それに今更溜息が出る思いだったが、それも何年間も繰り返してきていることだ。いい加減慣れが来る。問題はあの不良学生のような大将だったが。
 彼には話さないでおこう。なんとなく、この秘密を共有する者が増えるのが惜しいという子供のような考えだった。

 窓の外の桜が揺れる。今でもまだ、あの頃の二人が煙草を吹かしているような気がして、木の上を見上げて目を細めた。しかし香ってくるのはあの特有の甘さではなく、テーブルに置かれた盃から香る酒の匂いだけ。

 桜の風が舞った。











2005/10/2