※死ネタです。死ネタは鬼門の方、読んだら不快な気分なりそうな方はお戻り下さい。※























 穏やかな暖かい日。何もいつもと変わらない。変わっていると言えば、何か足りない気もするのだけれど。一体自分は何をしているのだろうと捲簾は思った。握った拳が震えている。後ろから自分を羽交い絞めにしている黎峰の腕も震えていた。目の前には、唇から血を出した上官。しかし彼は自分を睨み上げたり叱責することはなかった。黙って血を拭って、視線を落とす。そのよそよそしさが余計に憎らしくて捲簾は再び拳を振り上げようとする。しかしそれも黎峰に押し留められた。
「……もう一度、ゆっくりお話を伺えますか」
 黎峰の丁寧な、しかし押し殺し切れない怒りに満ちた声が部屋の空気を震わす。
「天蓬元帥が昨夜下界で任務遂行中、死亡した」
「任務なんて聞いてない」
 間も置かずに言う捲簾に、上官である敖潤は顔を上げない。合わせる顔がないのだ、と頭の中、どこか冷静な部分で思った。
「極秘の任務だった」
「あいつの上司は俺だ、何で俺に話が下りて来なかった!」
 声を荒げる捲簾に、今度は黎峰も制止を掛けることはなかった。彼自身も、抑え切れない激情に肩を震わせている。敖潤は俯いたまま、机の上で手を組んでいる。その視線は落ち着きなくあちこちに動かされている。それに苛立って、捲簾はもう一度その横面を殴りつけた。しかしそれでも彼は顔を上げない。生白い頬が薄ら赤くなっていくのを、指先が冷たく冷えていくのと同時に見ていた。
「……本当はお前に下りるはずだった指令だ。それを彼が、自分に替えてくれるように、私に頼んできた。……どうしてもと」
 潜められた低い声に、眉根を寄せる。彼の血の気のない唇が微かに震えていた。自分の喉元で鼓動が高く鳴り響いている。苦しい、痛い、冷たい。今すぐ部屋を出ていつものあの汚い部屋で、本を掘り返してでもあの男を探したかった。今でもきっと、本に埋もれながら眠っているに違いないのに、何で、どうして、そんなはずがないのに。
「……なんで」
 そうとしか返せなかった。それを見て取ったように、黎峰が一歩前に踏み出した。
「……どういうことですか。それは誰から下りた指令で、どうしてそれを事前に元帥が知り、大将との交代を申し出たのか、それを詳細に教えて頂かなければ……納得出来ませんし、信じられません。私はまだ、信じていません、元帥が……亡くなったなんて」
 捲簾の気持ちを代弁したような言葉に、口の中に溜まった唾を飲み下した。そして視線を上げて、その視界に白い顔を下上官を捉える。普段、生理的に好かないと思うに留まっていたその姿が、今の捲簾には攻撃対象でしかなかった。
「……他の軍では手に負えないということで、西方軍に流れてきたのだ。そしてその筆頭として捲簾大将、お前に白羽の矢が立った。それを天蓬元帥が知ったのは偶然だった、報告書を彼がこの部屋に持ってきた時、偶然聞いてしまったらしい」
「では、何故元帥は身代わりを買って出たのです」
「その時点では、私も分からなかったのだ。何故彼がそんなに熱心に、交代を願い出たのか。……昨晩、私もゲートまで見送りに行った。その時彼が言ったのだ、……『この任務は、死ぬことだ』と」
 不可解な言葉に捲簾は眉を寄せる。しかしすぐに、思い付きたくなかった可能性に頭が辿り着き、頭から血の気が引いた。
「……そもそも、任務の中で“抹殺せよ”とされていた妖獣は、下界人の魂を喰らって生きているものだった。それが、元帥の魂を喰らったことによって呆気なく消滅した。つまり、この任務は“抹殺”ではなく誰か軍人を一人……“贄”として差し出すことが目的だったのだ」
 淡々と語られる話が、全く真実として頭に入ってこなかった。喰らわれただと。笑わせる。あの煮ても焼いても食えないあの男が。しかも呆気なく。彼がそう簡単にやられるはずがない……ならば、彼はそもそも“戦う”気で下りていったのではなく、“死ぬ”気で下りていったのではないか。
 捲簾を生かすためだけに。
「……どうして止めなかったんだ! あなたは彼の上官でもあったはずだ!」
 いつも温厚で、声など荒げない黎峰の声が震えていた。しかしそれも、捲簾の耳には遠いものに感じられる。
「止めようとした時には、もう昇降機のドアが閉まっていた。その後すぐに追いかけようとしたが階段では追いつけるはずもなかった。昇降機が戻るのを待ち、追って下界へ降りた時にはもう遅かった」
 天蓬はきっと知っていたのだ。その妖獣の性質と、その任務の本意を。怒りに震える黎峰と、呆然と立ち尽くしたままの捲簾を交互に見て、痛ましげに眉を寄せた彼は、組んだ自分の手を見下ろすようにして俯いた。
「……最期にお前たちのことを言っていた」
 黎峰に厳しく責められながら、敖潤はぽつりと言葉を漏らす。その言葉に捲簾もゆっくりと顔を上げる。
「何……?」
「……何故、身代わりになろうとするのかと訊いた。そうしたら、『捲簾を死なせたりしたら、部下たちに怒られる』と、そう言って笑っていた。自分がいなくなった方が、お前がいなくなるよりかはましだとな」
 敖潤が言ったはずの言葉が、何故かリアルに天蓬の声で頭の中、再生される。
『あんなに皆に慕われてる捲簾を死なせたりしたら、部下たちに怒られちゃうじゃないですか。……捲簾がいなくなるよか、ましですよ、僕の方が。だから、です』
 誰より部下を想っていながらそれを全く表に出さず、自分が慕われる、尊敬されるなどとは露ほども思っていなかった彼。
 くらくらした。地面に立っている気がしない。膝がおかしいくらいに震えていた。
「遺体は、残らなかった。妖獣もろとも……消し飛んだ」
 隣に立っていた黎峰が、膝から崩れ落ちた。あの世の絶望の淵に立たされたような、空気を震わす彼の絶叫にも捲簾は反応をすることが出来なかった。ゆっくりと見下ろした彼は、頭を抱えて慟哭している。ああ、何だかその哀しみが遠い。自分はまだ、何も理解出来ていないのにどうしてそんなに泣くのだろう。一体何がそんなに哀しい? ぱたぱた、と彼の下に水滴が散った。泣いているのか。どうして。天蓬が見たら嬉々としてからかわれるではないか。 ……なあ、どうして泣くんだ、黎峰。
「……式が、今晩にも執り行われる」
 何の。
「……喪章を、用意しておくように」
 モショウ?
 なあ天蓬、モショウって、何だ? なあ。

 その報せはすぐに広まり、天界中を沈黙させた。彼を尊敬していたもの、恋い慕っていたもの、憎く思っていたもの、全てがその死に沈黙した。愛、憎しみ、その違いはあったが、彼が周りを惹き付けて止まないのは同じだったのだ。愛したものはひたすらに恋い慕い、憎く思えば、彼のことしか考えられないほどに憎んだだろう。
 第一小隊の反応は、様々だった。黎峰はまだ精神状態が落ち着かず、鎮静剤を打たれて眠らされている。初めて彼等が泣くのを見た。まだ、泣き止まない。向ける場所のない怒りとやりきれなさに、誰も彼も泣くしかなかった。今にも、あの少し猫背な姿勢で部屋をひょっこり覗き込んできそうな気がするのに。その鳶色の眸を煌かせて近付いてきそうな気がするのに。李偉は、話を聞いてから「そうか」とだけ呟き、それから医務室に籠もっている。じっといつもの椅子に座り込んでいるようだった。誰もが信じたくなくてどうしていいのか分からずにいる。その哀しみの中、捲簾は一人取り残された。一度も泣かなかったのは、意外にも捲簾だけだった。
 小隊の中、きちんと式に出られたのは捲簾を含め八人ほどだった。黎峰は起き上がれる状態ではなく、放心状態で式典に出られる状態ではない者は置いて来た。しかし出席した者も、見てみれば酷い顔だ。突付けばまたすぐに泣き出しそうな者も少なくない。捲簾の隣には瞼を腫らして目を赤くした劉惟が立っていた。左隣には敖潤がいる。彼は捲簾に立て続けに二度殴られた頬をそのまま、赤く腫らしたまま立っている。
「この度は誠にご愁傷様でございます」
 頭の上から掛けられた慇懃無礼な、そして不快な声に、捲簾はゆっくりと顔を上げた。相変わらず不快な髭面に、薄らと笑みを浮かべる。その笑みが意外だったのかそれほどに奇妙だったのか、一瞬相手は声を詰まらせた。李塔天だ。
「……態々どうも」
「とうとう捲簾大将も男鰥(やもめ)か、などと揶揄する者もおられますが気になさらぬよう」
 その明らかな揶揄と厭らしい笑みに、李塔天の後ろに控えていた仕えの男も不快そうに顔を顰めたのが見えた。しかし李塔天には見えていないらしい。隣の劉惟が顔を厳しくして一歩踏み出そうとするのを捲簾は右腕で制した。そしてまた薄らと笑みを浮かべてみせた。
「ご丁寧にどうも」
 先程から捲簾の様子がおかしいことに李塔天も気付いたのか、少し気味悪そうに顔を顰め、そそくさと去っていった。その後ろ姿を見送り、ひたすら捲簾は笑ったままいた。劉惟が心配そうに見上げてくる。その真っ赤な目の方がよっぽど心配だ。
「何でもない。……お前こそ無理をするな」
 そう言うと、劉惟は泣きそうな顔で笑った。
「大将も、平気な顔ばかりしているといつか、倒れてしまいますよ」
「馬鹿言え。俺は平気だ」
「……平気なはず、ないですよ……」
 他人のことなのに、自分のことのようにそう言って、彼はまた泣きそうに笑った。実際、少し泣いていたのかもしれない。暫くするとその場に静粛に、と静かな声が響く。いつもはこんなものでは静まらない者たちが、ぴたりと話すのをやめた。
 他軍の中にも、ちらほら泣いている顔が見受けられた。それを捲簾は、ひたすらに静かな目で見つめた。自分を慕うものなどいるはずがない、と謙遜でも何でもなくけろっと言った彼の顔を思い出した。憎らしくて憎らしくて愛しくて、今すぐこの腕に抱きたかった。
 これから、彼の骨の欠片すら納められることのない墓が築かれる。そして幾人もの天界人から数え切れないほどの献花を受けるだろう。遺品の一つも、髪の一本も、何もない、名前と功績が刻まれるだけの石の前に人々が膝をついて祈るのだ。
(天蓬、お前、まだどこかにいるだろ? どこかで笑ってるだろ。こんな大層な仕掛け、おふざけが過ぎる)
 いつも穏やかに綺麗に笑って、自分と敖潤の間に立っている彼が、もう、肉体も魂もどこにもないなんて。
(茶番、だ)
 舞台の真ん中で、道化の自分は立ち尽くす。救いの主は現れない。救うことが出来るのはただ一人、舞台から姿を消した、彼だけ。
 救いの主がいないなら、救われることは二度とない。
 どうして昨日、自分は気付けなかったのか。彼は何の変わりもなかった。いつもの汚れた白衣を着て、ぼうっと部屋に座り込んでいて。ただ、午後から買い物に行くと言っていて、それに自分はまた本を増やすのかと呆れた声を出した。そして彼はそんな自分に、本当に楽しそうに笑っていた。そして愛しげに捲簾を見上げて、珍しく積極的に自分からキスをした。
 どうしてあれで、気付けなかった。全てを負って自らの身を擲つ暴挙に出る彼を、どうして殴ってでも止められなかった。
「……大将、式は終わりました」
 トン、と肩を叩いたのは愀禮だった。顔を上げて見れば、先程まで将校が整列していた列はもう人が疎らだ。
「悪い」
「ストレスを溜め込むのは身体によくありません。……元帥を欠いた今、あなたまで倒れては統率が取れなくなります」
 いつも冷静な愀禮の言葉に頷く。しかし、顔を上げて彼を見てみれば、彼の目も僅かに赤らんでいるのが分かった。

 人を庇って死ぬなんて、柄じゃないだろう。なあお前。
 広間を足早に抜ける。あんな封じ込められた不の空気には耐えられなかった。見慣れた部下の泣き顔も、啜り泣く音も、漂う煙、重い空気。そしてその場に、あの男がいない。漂う甘いバニラが香らない。暇そうな欠伸も、面倒臭そうに頭を掻く仕草も、何もない。同情も、可哀想なものを見るような視線も不快なだけだった。
 下界だったらこんなこと、何度も起こっていることなのだろう。愛した人を、急に喪うことなんて。天界ではそんな感情が退化してしまう。喪うことなど有り得ない世界だから(実際有り得なくなんてないのだが)。大体この世界で喪ったことがある者なんてどれだけいるのだろう。誰も彼も平和呆けしている。いつまで経っても春で、美しさが全く変わらないつくりもののような世界だから、無理もない。
 そんな世界の中で、初めて見た変化のある美だった。
 軍棟を離れて中庭の桜の木の下へ向かおうとした。しかしすぐに止めて逆方向へ向かう。丘の上に立てられると言っていた骨もない墓石。見るだけ見てやろうと思ったのだ。そんな墓に、彼は見向きもしないだろうけれど。
 『……何ですかコレ。僕にこんな安い石の下で安らかに眠れるとでも?』
(……言いそう)
 そう言って一人むくれる姿を想像すると、何だか泣くどころか笑える気がした。奴ならば石の下より本の下がいいと言うだろう。石より本を数十冊積んでやった方が喜びそうだ。後で、彼が気に入っていた本を数冊見繕って持って行ってやろう。尤も天界人である彼が死んだ今、一体どんな姿でいるのか分からないけれど。
(転生すんのかな)
 自分より先に転生して、捲簾が下界に降りた頃には彼は既に爺さん、ということも有り得なくはない。
(まあそうだったら、精々介護してやるよ)
 あれが爺さんになったら、相当困った悪ジジイになるに違いない。自分以外、あの男が手に負えるはずないのだ。
 どれだけぼうっとしていたのか、もう既に丘に人はいなかった。そもそも、どうしてこんなにすぐに墓の用意が出来たのだろう。入れるものがなかった、というのもあるだろうが、……既に誰か一人が死ぬことは、想定されていたのか。だとしたら、あれは自分のものになるはずだった墓なのだ。それを、あの馬鹿が勝手に割り込んで入りやがった。
 月夜の丘をゆっくり登る。さわ、と芝が風に揺れた。ちらほら見える黄色の粒は蒲公英。丘の上には桜の大木。いい桜があるものの、この天界に馴染まない死に満ちた場所が何だか居辛くて滅多に訪れない場所だった。ここには一度、彼が部下の墓に参るのについて行ったことがある。その時も変わらず青々とした芝、黄色の蒲公英、桜が咲き誇っていた。何も変わらない。しかし部下の墓の前にしゃがみ込んで、少し懐かしげに笑っていた彼はいない。
 そして何も変わらぬ丘の上、一つだけ増えた石。天界に訪れた、滅多にない死の匂い。肴には、少し辛すぎた。
「……最期の最期まで、恩着せがましいんだよ……」
 俺を庇うなんて、何をやってるんだ。柄じゃないだろ。
 真新しい石の前に立つ。供えられた……というよりもこんもり盛られた花の山は、一体それぞれどんな想いが込められているのだろう。生前伝えられなかった愛の告白か、親愛の情か。それとも生前の敵対心が、彼の死によって何か変化を来たしたのか。それを見つめて、何だか苦しい思いに駆られた。
 酒瓶を取り出し、逡巡した後それを石の上で逆さにした。半分ほど残っていたそれが流れ出し、微かな水音と共に石を濡らしていく。「本当は石によくないんですけどね」と言いながら豪快に部下の墓石に掛けていた彼を思い出した。よくない、なんて言ったって、どうせこの天界にある石が朽ちるわけがない。
「……あーあ、いい酒だったのによ」
 何もない夜だったら、久しぶりにお前と膝を突き合わすことだって悪くないと思っていたのに。ぷんと香る高い香りに目を細めた。
 話したいことが沢山あった。部下との馬鹿話や彼についての噂話、美味かった酒の話、意見を聞きたかったこの前の討伐についての話。いつも話していたのに、この段になって、こんなにも話し足りなかったのだと気付いて驚いた。
 昨日見た朝焼けのこと、泥まみれになっていた悟空とそれを叱っていた金蝉のこと。昨日、それすら話せずに自分は彼の部屋を去った。それは、明日でも明後日でも話せると思ったからだ。
 もっと話せばよかった。何でもよかった。なのに、よりにもよって最期に交わした言葉が。
『じゃ、またあしたな』
『……ええ、またあした』
「あしたって、言っただろ」
 あした会えないなら、会えないって言えばいい。何で『またあした』なんて返したんだ。
 花の前に両膝をついた。墓を見つめていると、今でもその辺で彼が脚を組んで座っているような気がした。そして俺を見て笑っている。
 だから泣けない。自分が泣いたりしたら、彼は腹を抱えて笑うだろう。死んでも尚、からかわれるなんてとんでもないことだ。無意識に奥歯へ力が籠もった。墓から流れ落ちてくる酒の雫が、捧げられた花々の花弁を濡らしていく。ぱたぱたと花弁の上に散る雫を見て、口元を笑う形に歪めて見せた。

 泣かない。

 最期くらいお前の思う通りには、させない。











2006/10/03