火が燃えている。正面門の両脇に置かれた篝の中で、松がパチパチと爆ぜた。夜闇の中、ぼんやりと火の色に顔を染めて無表情で立ち尽くしていた門守は、ゆっくりと門へと向かって歩いてきた男に小さく息を呑んだ。細い身体を真っ黒な軍服に包んだ男。その服は彼にも見覚えがあった。西海竜王配下、天界西方軍のものだ。その男は、その中でも特に変わり者揃いと有名な第一小隊をつい最近まで束ねていた男だった。強く聡明であることと同様に、寧ろそれ以上に有名なのはその美しい容貌だった。とても軍人とは思えぬようなほっそりとした身体に花の顔(かんばせ)、漂う雰囲気は如何とも表し難い、匂い立つような濃密な色香が混じっていた。纏った空気すら自分とは全く違う世界のもののようで、門守は目を離すことも出来ずに食い入るように彼を見つめていた。思わず唾を嚥下した。
 黒い軍靴が地面を打ってゆっくりと近付いてくる。黒い髪は後ろで束ねられ、磨かれた眼鏡のレンズが篝火を反射して光った。その奥の、長い睫毛に縁取られた深い色の眸が光を受けて僅かに榛色を帯びている。白い頬に赤い光の色が映って、僅かにその表情に陰影を作る。美しかった。こんな風に不躾な視線を向けることをやめたいのに、目を逸らすことが出来ない。
 門守の視線に気付いた男は、その美しい面をふわりと緩めて微笑んだ。そして足を揃えて立ち止まり、小さく頭を下げる。耳に掛かっていた後れ毛がそれにしたがって垂れた。身体を起こした彼は自分に向けられた門守の目に、少し恥じらうように視線を落として微笑み、その毛を耳に掛け直した。そして門守にちらりと目配せしてから、ゆっくりと門をくぐっていく。門守はその一瞬足らずの視線の、息を呑むような艶麗さに身動ぎ一つ出来ないまま。男が去って行ってしまった後も余韻が消えず、彼はそのままじっと立ち尽くしたままでいた。カシ、と篝の上の松が燃えて、折れた。

 男はその門をくぐってから真っ直ぐに館の中へ入っていった。ぼんやりと明かりの灯された豪奢な廊下をゆっくりと歩いて行き、広い庭の見渡せる広間に出たところで、やってきた侍女に声を掛けられた。そしてその侍女に案内され、更に奥の廊下へと足を進めた。凝った装飾の照明具に目を奪われつつ、先を歩く侍女について行く。そして辿り着いた奥まった部屋の前、侍女は立ち止まって、その大きく重厚なドアをノックした。すると部屋の中から声がした。それを確認して、侍女は男へ向かって一礼した後、静々と去っていった。彼女に礼を返して、去って行く彼女が見えなくなるまで見送ってから、男はドアのノブに手を掛けた。
 ゆっくりとドアを開けると、甘く柔らかな香の香りが鼻孔に届いた。淡い橙の光の灯った室内で、ほっそりとした女性が後ろ向きで椅子に腰掛けている。ゆったりとした光沢を持った生地の服を纏った彼女は、ドアの開けられた音にゆっくりと振り返った。彼女の淡い青の眸が見開かれる。その瞳に微笑み掛けて、男は恭しく腰を折った。
「お久しぶりです、蓉妃」
「天蓬様……本当に、お会いしとう御座いました」
 嬉しさを隠し切れない微笑を湛えて、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がった。そして男の元へと歩み寄り、その両の手を取ってそっと包み込む。彼女のゆったりした服の裾に付けられていた宝玉の装飾具がしゃらり、と軽やかな音を立てた。




「……どう、思う。今日の元帥」
「お……おかしい、というか……いや、もしかして俺達がおかしいのかも」
 部下たちは顔を見合わせた。その議題は自分たちの尊敬する上官についてである。その上官の様子が、どこかおかしいのである。もしくは彼を除いた自分たち全員がおかしいのか、どちらかだ。普段から妙な色香を無料で垂れ流している我らが元帥であるが、そのレベルが、半端ではないのである。意図的に彼が色気を出そうとすれば自分たちなど一瞬でころりなのかもしれないが、無意識の状態でこんなにも……なのは、おかしすぎる。何の気なさげに、いつものように白衣を着て便所ゲタでてろてろ歩いているだけなのに、だ。幾らか慣れている自分たちだからこうして動揺しつつも普通に立っていられるが、耐性のない者なら前屈みである。尊敬している。美しいとも、思っている。だが性的な欲求などは持っていないはずなのに、この、反応は。
「……やっぱり俺達がおかしいんだろうか」
 そういうことになってしまうのだろうか、と彼らは肩を落とす。その後ろで、面白くなさげな顔をした男が、煙草を咥えて火を着けようとしたままの格好で止まっている。構えたライターの蓋を開けたり閉じたりしながら部下たちの話に耳を傾けていた。そして話をしていた彼らが部屋を出ていってから、ゆっくりと煙草に火を着ける。
 大事な大事な恋人であり部下である相手が、昨晩ふと姿を消した。偶然見掛けた部下によると、いつもよれよれの白衣と便所ゲタという姿であるにもかかわらず、珍しく自らシャワーを浴び、丁寧に髪を乾かして汚れた眼鏡を綺麗に拭き、卸し立ての新しい軍服を身に付けて出掛けていったのだという。それが普通の男の行動だと考えれば、それは明らかに、女の元へと通う姿である。身体を小奇麗にして、なるべく良い印象を持ってもらうようにと頑張る男の姿。しかし彼の恋人は自分だ。それを譲るつもりはない。ならば彼の向かった先には一体誰がいたのか。女子供のは優しいはずの自分が、まさかいつか女を敵視する時が来るだなんて思いもしなかった。
 確かに今日の彼はおかしいようだった。いつも人目を引くのは事実だが、毎日顔を合わせて少しは耐性の出来ているはずの馴染みの部下たちまでそんな風になるのはおかしい。何故か分からないが、どうしても目を引かれてしまうのだという。漂う濃厚な色香についくらりと惑ってしまいそうになる。手を伸ばしてしまいそうになる。端的に言えば、抱いてしまいたいと思ってしまうのだと。自分がそう思うのはいい、しかし周りの部下たちが同じ欲求を持っているのだと思えば、彼をそのままどこかに隠してしまいたいような乱暴な衝動が巻き起こる。緩く息を吐くと、紫煙は風に流されて散っていった。
 それから二本ほど煙草を吸い、そろそろ仕事に戻ろう、と立ち上がった瞬間、閉ざされていたドアノブが回される音がした。動きを止め、開かれるドアを見ると、開かれたドアの隙間から、白いものが姿を現した。無意識に胸がどくりと音を立てる。
「あ、捲簾……ここにいたんですか」
 二の腕が、粟立った。部下の話は聞いていたものの、自分はまだ一度も会っていなかったのだ。だから彼の色気が異常だと言われても、慣れた自分には大したことはないだろうと軽く考えていた。が、実際は度を越えていた。ふわりと鼻先に届く彼の匂いにすら、欲情を覚える。確かに、部下たちの言うように自分がおかしいのかもしれない、と思うのも無理はないだろう。しかし、自分に何か理由があるなんてことはないはずだ。ならば理由の所在は、彼。だが彼は何も変わりがないように、いつもと同じく捲簾の方へと歩いてきた。よれよれの白衣にお座成りに結ばれたネクタイ、足先に引っ掛けただけの便所下駄。浮かべられた柔和な笑顔もいつもと同じ、はず。そして近付いてきた彼は書類の束を手に、上目遣いに見上げてきた。その眸に見つめられるだけで、ぞっとした。しかしその衝動は不快なものではなく、寧ろ。
「あなたの判子が欲しいそうです。なるべく早めに」
 柔らかな紅い唇が動く。そして吐く息も甘そうだ、と思った瞬間には、口付けていた。彼の背中に腰に腕を回して、吐息を奪うように角度を変えつつ深く口付ける。一度目を瞠った彼は、すぐに身体を柔らかくして目をふるりと伏せ、柔軟に捲簾のキスを受け入れた。柔らかな唇、舌を味わって、更に深く繋がろうとする。彼の手が掴まる場所を探るように捲簾の胸元を辿り、軍服を小さく掴んだ。吐息に混じって甘やかな音がする。
「……んぅ……ふ……」
 鼻から漏れるその甘い声に更に煽られた。ここまで制御か利かないのは、やはり何かがおかしい。そうは思いながらもその艶やかさには勝てず、呆気なく理性を手放した。徒に、腰を支えていた手を徐々に下げて、徐にその小さな臀部を掴む。彼は驚いたように目を開いて咄嗟に捲簾から顔を離した。その目と目が合って、どちらからともなく笑った。
「……どうしたんですか」
「こっちの台詞だな」
 するりと彼の両腕が捲簾の首に回り、その身体を支えるべく捲簾は彼の腰を抱いた。白衣に包まれていると相応の体格に見える彼も、それを脱ぎ落としてしまうと心許ないほどに細身だ。その細い腰に腕を回して、軽く彼の鼻先にキスを落とした。その感触に彼は身体を縮こまらせて、小さく笑う。そして捲簾の胸元にその額を摺り寄せてきた。そんな風に猫のようにじゃれてくる男の髪を撫でながら、彼を取り巻く濃厚な甘い香りに頭の芯がくらりと揺れた。
「……お前、昨日の夜、どこにいた」
「もしかして怒ってますか」
「ちょっとな。俺を放り出して女の所にしけ込んだ、薄情な恋人に」
 そう言って、その艶やかな黒髪を一房掬い上げて口付ける。彼は否定しなかった。その大きな目を見開いて驚いたように捲簾を見ている。仮定は事実だったらしい。やっと事実が分かって納得する反面、湧き上がる疑念は暇がない。何故……何処へ、誰に会いに、何をしに行ったのか。その真実を彼の口から聞かなければ納得が出来ない。焦燥感で、喉の奥がじりじりと焼け付くような気分だった。するとそれが顔にも表れていたのか、彼は一瞬戸惑ったように眉を垂れ、その後困ったように笑った。
「すみません、話してから行けばよかったですね。実は昨日の晩、蓉妃の所へ行っていたんです」
「……蓉妃、だと」
 蓉妃は、昔捲簾が関係を持ったことのある天女である。そして、実質自分の最後に付き合った女でもあった。それは丁度自分が西方軍に流された頃のこと。それからゆっくりと彼に惹かれるようになり女から自然と足が遠退いて、最終的に彼を落とすため全ての女性関係を切った。その時の女が、彼女だった。淑やかでたおやかな見た目に、芯の強さを持つ女だった。あれから、一度も顔を合わせていない。彼女は身分が高く、上級神からも寵愛を受けていた。有り体に言えば高級娼婦のようなもので、当時は彼女がこっそりと娼館の中へと招き入れてくれていたおかげで自分のような下級の者でも会うことが出来ていた。だから、一旦関係が切れてしまえばそう簡単に見(まみ)えることの出来る相手ではなかったのだ。しかし、その名前がどうして今更、突然彼の口から出てくるのか。その言葉を求めるように彼を見つめると、彼はぱちぱちと目を瞬かせた。
「一度彼女、ここに来たことがあるんですよ」
「え」
 ここは簡単に立ち入ることの出来る場所ではない。そもそも、男の職場に不躾に足を踏み入れるような馬鹿な女ではなかったはずだ。当時のことを思い返しながら、あの華やかな、しかしどこか影のある美貌を思い出していた。そんな捲簾をじっと見つめていた天蓬は、同じく何か思い出すように虚空を仰いだ。そしてふと口を開く。
「あなたに別れを告げられた、すぐ後だったようですが」


 天蓬は、女と対峙していた。相手は天界でも随一と言われる佳人。加えて舞の才能にも恵まれた美しい天女だった。栗色の長い髪は背中へ流れ、淡い青の眸がじっと天蓬を見上げてくる。その目には敵愾心はない。ただひたすらに、興味に満ちた子供のような眸だった。すぐに敵愾心丸出しで掛かってくるのならば女であろうと容赦なく話術で捻じ伏せてしまおう、と思っていたのだが、勢いを殺がれて天蓬は困ったように笑う。捲簾を訪ねてきたという彼女の扱いに困って、部下が自分に泣き付いてきたのはつい先程のことだった。彼女が天界でも三本指に入ろうという美人だと誰もが知っているため、邪険にすることも出来ない。しかし軍則で原則的に関係者でない者を立ち入らせることは出来ないのだ。しかもそれが女となれば尚更である。そして天蓬は、軍棟の入り口に立ち塞がるように立っていた。勿論この男もその『三本指』に間違いなく加えられるであろう美貌を湛えている。その後ろでは、先程天蓬に泣き付いてきた部下たちがこそこそと様子を窺っていた。
「……捲簾大将は、今召集を掛けられているため不在です。申し訳ありませんが……」
「あなたが、天蓬元帥でいらっしゃいますの?」
「え、あ、ええ……そうですが」
 自分を凌ぐマイペースさに天蓬は勢いを止められて首を捻った。調子が狂う。彼女の眸は天蓬の返事に更に輝いて、ますます興味深げに天蓬の姿を眺め回す。不躾な行為であるはずなのに不思議と不快だとは思わず、ただその行動の不思議さに首を捻るばかりだった。とにかくこのままの状況は精神的に良くない、と思い、天蓬はとりあえず会話を試みることにした。
「今日は、捲簾大将へ一体どのような御用件でしょう。もし宜しければお伝えしましょうか」
「一昨日、突然終わりにして欲しいとお願いされましたの。だからもしかしたら彼、誰か本気になった方が現れたのではないかしらって思って。それで、わたくし是非その方にお目に掛かりたいと思って、誰なのか伺いに来たのですわ」
 無邪気にそう言う彼女に、天蓬の後ろにいた部下たちの空気が固まるのが分かった。部下たちはその『大将の本命』というものを否応無しに知ってしまっていた。知らざるを得なかったとも言える。何を隠そう、今現在彼女と向き合っているこの、天蓬元帥がそうなのだ。だから事実、この状況は修羅場だった。だが彼女は何も知らずに天蓬を見上げている。そして天蓬も、何もかも覆い隠した笑顔で彼女を見下ろした。
「色々な艶聞は耳にしますが……如何せん数が多いもので、私にはどれが事実でどれが嘘なのか、分かり兼ねます」
 そうにっこりと微笑みながら言った天蓬をじっと見つめていた彼女は、ふと艶やかに微笑んでゆるゆると首を振った。
「……帰りますわ。ご迷惑お掛けして、本当に申し訳ありませんでした」
 突然態度を変えた彼女に、天蓬は目を瞠る。それを楽しそうに見つめていた彼女は背を向けかけて、再び天蓬の名前を呼んだ。その碧眼は、まるで愛おしむように天蓬を見つめる。射竦められたように、何故か動くことが出来なかった。
「天蓬様」
「はい……?」
「捲簾様に、『あなたは良い目をお持ちだ』とお伝え下さいまし」
 そう言って微笑み、彼女は天蓬に背を向けた。栗色の長い髪が風に揺れる。何だか言いようもない感情が胸を支配し、天蓬は首を傾げて、再び彼女の後ろ姿を見つめた。桜の花弁だけが、去る彼女を惜しむように足元で舞い回っていた。


「……『良い目』、ね」
「すみません、伝え忘れてて……ひょっとして重要なことでしたか」
 珍しく殊勝にそう訊ねてくる彼に笑って、再びその唇にキスをした。彼はきょとんと目を瞬かせて、その後面白がるようにキスを受け入れた。その身体を抱き締め、髪の毛に頬を寄せる。その時、ふと鼻に届いた香りに目を見開く。嗅ぎ慣れない香りだ。しかも、嗅いだ途端に頭がくらりと揺れる。近くで嗅いだせいだろうか。そして、先程覚えたような強烈な欲情が更に強くなって表れた。これは、あまり質(たち)の良いものとは思えない。何とか平静を保ちつつ、努めて平らな声を出した。
「お前、シャンプー変えたか」
「いえ、いつものと同じです」
「じゃあ……何か付けてるか」
 そう言うと、天蓬はぱっと顔を上げて少し驚いたような声を出した。
「よく分かりましたね、ほんの少ししか付けてないのに……昨日蓉妃に頂いたんです。香の付いた水だそうで、貴重なものなんですよ」
 じり、と歯噛みする。彼女の意図するところが分からない。それを深く考える余裕すら生まれなかった。甘い香の香りに、彼の匂いにじりじりと神経が焼かれつつあったのだ。三日食事を抜き、目の前に餌を吊るされた肉食獣の気分だった。湧き上がる情欲と熱くなる身体は止められない。なのにもかかわらず、彼は何の気もないような顔をしているのだ。いつものように、気付かない振りで捲簾を煽っているわけでもない。それが却って厄介で、そして苛立ちを増した。自分ばかり追いつめられ高められることが気に入らない。何も分かっていない顔をして、そんなに匂いますかねぇ、などと言って鼻をひくつかせている天蓬に、ゆっくりと手を伸ばした。白衣に包まれた腕を掴んで引き寄せ、両手でその両頬を包み込んで口付ける。先程は受け入れた彼も、どこか様子がおかしいことに気付いたのか小さく抵抗を見せた。ぐいぐい身を寄せてくる捲簾の肩を軽く押しやり、訝るような視線を向ける。頭が麻痺している。麻痺した頭には、その顔すら誘っているかのようだった。堪らない。酷い頭痛が襲い、突き上げるような吐き気がした。
 彼の首に緩く結ばれたネクタイを引き抜き、近くの執務机に放り投げる。そして引き千切らんばかりの勢いでそのワイシャツのボタンを外した。そのシャツを白衣ごとはだけてその首筋に噛り付いた。彼の手首を掴み、抵抗を封じ込めてその首筋を舐め上げる。天蓬はひくりと喉を震わせた。
「……下、脱げ」
「何でそんなこと……」
「二度言わせるな」
 いつもの捲簾らしからぬ言葉に、彼は一瞬目を瞠った。その表情に焦れて、自ら彼のベルトに手を伸ばして性急な仕草でそれを引き抜き、ボタンを外した。そこにきて、彼が再び抵抗を見せ始めた。スラックスを引き降ろそうとするその手を掴み、止められて、捲簾は顔を上げて不機嫌な目を向けた。
「……ここでは、駄目です」
「何処ならいいんだ」
「鍵の掛かるところ」
 そうとだけ言って天蓬は咎めるような顔をした。その顔と言葉に、やっと僅かに理性を取り戻した。ここは西方軍の者なら誰でも出入り出来る広間である。つい先程まで部下たちが居たのだからまたすぐに戻って来ないとも言えない。それにここにはドアがなく勿論鍵など掛けようもない。窓も全開だ。外からも中からも丸見えな状態で、天蓬の強い視線を受けて俄かに頭の中が冷める。
「……悪い」
 彼の身体から手を離し、自分の頭を掻いて呆然とした。こんな、職務を行う場所で一体何をするつもりだったのだろう。自分の行動を振り返って自己嫌悪に陥り掛ける捲簾を前に、天蓬は真剣な顔をしていた。そしてそっとその冷たい手を捲簾の額に当てたり、瞼を押し開いて眺めたりしている。
「何か盛られたわけではないでしょうね。どこか異変は」
 異変は下半身だ、といつもの調子で言おうとして、しかしそれは冗談にはならないことに気付いて口を噤んだ。暫く静かな表情でじっと捲簾を窺っていた天蓬は、ぴくりと右眉を跳ね上げた。そして徐にその白い手で捲簾の急所を鷲掴んだ。突然のことに動転してその手を払い除けようとするが、その前に彼は自分からその手を離した。そして詰問するような口調で話し始めた。
「食べ物、お酒、装飾品、何でもいい。誰かから何か貰い物をしましたか」
 彼は自分が何か薬を盛られたと思っているらしい。まさか捲簾が職務中に何の理由もなく盛ったりしないと信じているような行動に、罪悪感で胸が痛んだ。実際、何の理由もなかった。理由があるとしたら、彼の方にだ。しかし今彼に責任を押し付けるのは幾らなんでも良くない。よって捲簾は適当に口を噤んでおくことにした。しかし、天蓬はその捲簾の歯切れの悪さにますます疑念を抱いたようで、ぐいぐいと身を寄せて顔を覗き込んでくる。彼の背後にある窓から、ふわりと緩い風が吹いてくる。その風に乗って、先程の甘い香りが漂ってきた。それをそのまま吸い込んでしまった途端、頭の芯が揺れた。実際に身体もふらつき、平衡感覚が一瞬失われて咄嗟に近くの机に手をつく。込み上げる嘔吐感に、目が眩むような強い情欲。彼の手がそっと自分の背を擦るのが分かった。その手付きにすらぞわりと欲が煽られる。はっきりと頭の中で『抱きたい』という欲が形成されつつあった。
 それまで静かに捲簾を観察していた天蓬は、それを察したように捲簾の腕を肩に回して身体を支えた。そして引っ張るようにしてその広間を出ようとする。咄嗟に何処へ行くんだ、と訊こうとしてそれを遮るように発された彼の言葉に口を噤んだ。
「仮眠室まで、少し我慢して下さい。漏らすんじゃありませんよ」



 深く穿たれて、硬いマットに頬を寄せながら一体どれくらい経っただろうとぼんやり考えていた。しかしきっとまだほんの少しの時間しか経っていないだろう。あれから苦しげに荒い息を吐く彼を引っ張り、新しい部屋が確保されたため現在は閉鎖されている旧仮眠室に入った。誰も入っては来ないだろうが一応錠前を付け、カーテンを閉める。そして背後の彼を振り返った瞬間、カーテンの隙間から漏れた光が彼の目に映り込んでいて、その凶悪さにぞっとした。そして、手近にあった簡易ベッドに引き倒されて今に至る。ちらりと視線を逸らした先、タイル張りの床には白衣とネクタイが投げ捨てられていた。半ば乱暴に脱がされた時に少し布の裂けるような音がした。恐らく袖の付け根が破けたのだろう。もう使い物にならない。快感だけを追い続けさせられる頭を逃がすためにそんなことを考えた。しかし後孔から肉棒が抜き出される感覚に背が反り返った。意識を逸らした自分への意趣返しだろうかと思いながらも、ひくんと出て行こうとするそれを締め付けてしまう。散々慣らされ、少しくらいの無体には耐えられる。過去の経験から、痛いことも酷いことも何でもないように受け流すことも出来る。しかしどうしても、快感だけを追う優しい愛撫には弱かった。乱暴なようで今の彼の手付きは嫌に慎重で優しい。きっとこの様子だとガツガツ責められるだろうと思っていたので拍子抜けしたのと同時に、もどかしさを感じた。付き合わされたのは自分、自分は彼のためにこうしているはずなのに、まるでこれでは逆だ。しかし後孔に埋め込まれた熱は硬く張り詰めている。先程一度放ったばかりだというのにそれはすぐに硬度を取り戻し、その大きさは天蓬を苛み続けていた。その割に律動は天蓬を労るように緩いもので、固いマットに這いつくばった天蓬は彼の手に支えられてやっと腰だけを高く上げている状態だった。二度ほど放出させられた身体は甘い倦怠感に冒されている。頭の中は妙に晴れ、現在の時刻、残してきた仕事の量と頭を巡らせていた。この男を一刻も早くどうにかして仕事に戻らなければ。彼に判を押させなければならなかった書類はそのままあの部屋に置いてきてしまった。部下たちは探しているだろうか。しかし職務中にふらっと捲簾や天蓬が消えることはざらだ、誰も気にかけないかもしれない。大きく溜息を吐くと、それに反応したように捲簾は口を開いた。
「辛くないか」
「平気、です……もう、乱暴でも構いませんからさっさと出るだけ出して、終わりにしてくれませんか」
 饐えた匂いのするマットに鼻先が擦れ、顔を顰めながら何とか腕に力を込めてちらりと後ろを振り返った。今にも泣き出しそうな、見たこともないような顔で彼がそこにいた。今、自分にこんな無体を強いている男の表情とは思えなかった。圧迫感とせり上がる快感に滲んだ視界の中で彼の顔が歪む。ひょっとしてこの状況に罪悪感を感じたりしているのかもしれない。その心根の優しさがとても愛しいのに時折鬱陶しいとも思えてしまう。気遣いという行為が自分の自尊心を傷付けるからだ。
「……焦らすのが楽しいですか、変態」
「あ……え、いや、そういうわけじゃ」
 珍しく焦った声を上げる彼にぼんやりした頭で笑いつつも、驚いた拍子に彼が動いたことで内壁が擦り上げられ、天蓬は嬌声を堪えて奥歯を噛み締めた。いっそ景気よく声を出してやったら彼ももっと乗るのかもしれないと思いつつも、反射的に声を上げるのを堪えてしまう癖はそう簡単に治らないものだった。奥歯を噛み締め、埃っぽいマットに頬を押し付けて何とか甘えた声を出してしまいそうな衝動を堪える。その時、暫く押し黙っていた彼が不意に何か小さく呟いた。その言葉が何だったのだろうかと考えようとした瞬間、後孔に埋め込まれていたそれが一気にぎりぎりまで抜き出され、そのまま強く突き入れられた。突然の衝撃に伏せていた目を大きく見開き、手の下にあったマットに爪を立てた。
「……ん、ぁ、あ……あっ!」
 びくんと背筋を反らせ、思わず大きな声を上げてしまったことに焦る。人が立ち入らないとはいえ部屋の前を通る者は疎らながらいる。唯一身に着けているワイシャツの袖を噛み締め、声を堪えた。視界が滲む。しかしそれもいつまで持つか分からなかった。あちこちを探るように緩く突き入れられる熱に泣きそうな気分になりながら、じりじりと迫り来る快感の波に恐怖に似た思いを感じていた。彼はいつもと違う。しかし、自分もどこかおかしいような気がしていた。しかし媚薬の類とも断言出来ない。激しい情欲を感じるわけではないのだ。何か、微熱のような緩く甘ったるい快感が身体に纏わりついて消えないのである。いつもなら出来る抵抗も全く出来そうにない。後孔は無意識に受け入れた熱を逃がすまいと、更に奥へと導くようにひくついて余計に羞恥を煽る。
「ふ、っ……んぁ……!」
 声にならない甲高い音が喉から漏れる。まるでこれから殺されるようだ、と思った。彼の手に掛かれば、その手の平で簡単に握り殺されてしまう小さな生き物のようだと。白い布地を噛み締めながら、目頭からつうっと涙が伝ってマットに染みを作るのを見つめていた。
 ふと、背中に暖かさを感じて重い瞼をゆっくり押し開く。彼が圧し掛かってきたのだと気付いた時には、密かに動いていた彼の指先が天蓬の平らな胸を辿っていて、その指先は徐にぷくんと膨れた小さな芽を摘んだ。皮の厚い彼の指先は硬く、僅かにかさついていて、柔らかいその部位は突然の刺激に瞬時に緊張した。
「ひっ……や、めなさ、っやぁ……!」
 硬い指先が容赦なく摘み上げ、捏ね回す。先程から、身体から力を抜いて這いつくばる度に身体の下の硬いマットで擦れていたため、つんと硬くなったそれは酷く敏感になっていた。今まで散々慣らされ普通の男より格段に敏感になったその部位は、無駄にウィークポイントとなっていた。本当に、無駄に。時折ふとした瞬間にシャツが擦れて変な顔になっていることがあることなど、彼には決して知られてはならないと思っている。知ったが最後、更に調子に乗るに決まっているのだから。しかし彼の指先は本当に容赦がなかった。強く抓り上げたり軽く爪を立てて引っ掻かれたりする度、目が眩みそうになる。普通に考えたら痛くて堪らないことのはずなのに、その少し乱暴な愛撫に痛みよりもっと深い快感を見出してしまう。胸に刺激を受ける度に内壁を突き上げる肉棒を思わず締め付けてしまう天蓬に、背後で彼が小さく笑った気配がした。
「本当に好きだなぁ、お前」
「うるさっ……もう、いやですって、ば……んあ、ぁ……」
 今度は先程とは打って変わって指先で優しく転がされ、もどかしいような緩い快感に苛まれる。顔を上げているのに疲れ、頭を落としてふと自分の胸元の方へ目を向けてみた。彼の太い指の間から摘まれた桃色の芽が小さく顔を出していた。熟れた果実が彼の武骨な指に摘まれている様を前にして恥ずかしいような、じんと痺れるような快感が走った。その瞬間突然強く抓上げられ、思わず高い声を上げる。その高い声を羞じて頬にさっと赤味が差すのを感じつつ、そのまま視線を鋭くして彼を振り返る。すると本当に楽しそうな顔をした彼がじっと天蓬を眺めていた。その視線の濃度に身体にぞくりと何かが走り、少しだけ身を震わせた。こういう時の彼は、時折怖いと思う。顔は笑っているのに、目は酷く凶悪なのだ。そしてその奥には暗い情欲が揺れている。天蓬はいつもその瞳に、彼の中の捕食者の本能を見出すのだった。逃げ出すにはもう遅すぎる。
「なにっ、するんですか!」
「――――……見て、感じた? 」
 更に紅潮した頬が、その証拠だった。笑った彼はゆっくりと身体を起こした。圧し掛かられていた背中が涼しくなって少しだけ心許なくなる。胸の先の小さな屹立がじんじんと腫れたように熱を持っていた。責め苦から解放されて嬉しいのかそれとも淋しいのか、内心を計り兼ねて天蓬は緩く首を振った。腕から少し力を抜いた途端、その小さな芽がマットに擦れて堪え切れないような快感が走り抜けた。何とか上げてしまいそうだった声を堪えて唇を噛む。涙が止めど無く流れてくるのが不快で、マットに濡れた頬を擦り付けた。解放を許されずに張り詰めたままの自身がもどかしい。手を伸ばそうにもこの状態ではどうしようもない。そもそも、そんなことをしたら彼を喜ばせるだけだった。解放を待ち焦がれる自分を押し留めつつ、彼が次に何をしようとするのかを探った。ふと、彼の両腕が天蓬の腹部と膝裏に回る。まさか、と思った。そして彼が本気なのだということを同時に悟り、何とか止めさせようと抵抗を試みる。しかし彼は一切聞く耳持たずに、押し黙ったまま静かに実行した。
「ちょ、待ちなさ……――――いっ……ゃあ、あ!……ひ、ぅあ、ぁ……」
 後ろから貫かれたまま身体を持ち上げられ、座った彼の上にそのまま落とされる。身体を支えられながら彼の足の間に手をつき、その強すぎる衝撃を何とか受け止めようとする。その腕も大きく震えて今にも力を失いそうだった。その様子を気遣ってか、その間彼は天蓬の身体を支えたままじっとしていた。硬いものに貫かれ動きも侭ならない中で、ふと今まで自分が伏せていた場所にぱたぱたと小さな染みが出来ているのに気付いた。そして同時にそれが何なのかに思い至って更に頬を火照らせる。すると、肩越しにマットを見下ろした捲簾は小さく喉で笑った。その笑い声に更に羞恥心を煽られて顔を俯かせる。
「ほったらかしだったもんな、ごめんなぁ」
 そう冗談めかした口調で言いながら、天蓬の身体を支えていた腕の片方を伸ばし、天を向いてとろとろと透明な雫を溢す自身を手の平にそっと包み込んだ。待ち焦がれた刺激に目を細めたが、彼は早々にその手を離した。持て余した快感をどうしていいのか分からずに不安げに振り返る天蓬に、彼は楽しそうに笑って、マットについていた天蓬の右手を取った。そしてその手をそのまま天蓬の自身へと導こうとする。途中までされるが侭になりそうだった天蓬は、自分の手が自身を掴まされそうになる寸前でやっとその意図に気付いた。
「えっ……ちょっと、何をっ!」
「自分で弄ってみ。そしたら後でこっち弄ってやるから」
「ふっ、……調子に乗るのもいい加減にっ……!」
 そう言いかける天蓬には反応せず、彼はもう片方の手でまだ弄られていなかった方の淡い色の芽に触れた。ちり、と痺れるような快感に無意識に視界が滲む。
「っ……はぅ、ん」
「それとも、逆にする? そしたら俺がそっち弄ってやるけど……」
 究極の選択に目眩がした。どっちも嫌に決まっている、といつもなら反論出来るはずが、焦らしに焦らされた頭の中は何よりも絶頂を求めていた。殆ど抵抗する力など出なかった。導かれるままに自身を握らされる。そしてゆっくりと離れていった彼の手は天蓬の膝裏に回った。膝が胸に付くほど折り曲げられてゆっくりと身体が持ち上げられる。見た目は貧弱でもそう軽い身体ではないというのに、彼はいとも簡単に持ち上げる。そして後孔に突き入れられていた肉棒がゆっくりと抜き出されていった。ぷちゅ、と濡れたような粘着質の音がして唇を噛んだ。閉め切られた室内は音が反響して小さな物音も聞こえてしまう。秘部から漏れ出る小さな厭らしい音も全て彼の耳に届いているだろう。ふと、どろりとした感触を感じて目を瞠った。彼が中に放ったものが溢れてきているのだと悟って、羞恥と僅かな屈辱に頬を染める。強い快感の中に僅かな不快感が混じって、気持ち良いのか悪いのか分からなくなる。しかし抜き出される際、内壁が小さく擦られるだけでその不快感などはすぐに消し飛んでしまった。この身体は実に良く出来ている。不快の中からも快感を見出すことが出来る。それは自分を取り巻く環境に順応してのものだったが、出来ることならこんな能力、欲しくはなかった。
「んぁ……や……あぅ、ん、ぁ……」
「……やらしー声」
 捲簾が笑うのが分かった。しかし吐く息吐く息に一々嬌声が混じってしまうことに今更恥じらいも何もなかった。ただ一刻も早くそれを突き入れて欲しくて堪らない。そう考えることへの恥じらいも、どこかへ消し飛んでしまっていた。もう乱暴でも何でもいいと思えた。寧ろ自分は乱暴にされることを望んでいるのではないかとすら思える。決して自分が被虐趣味だなんてことはないはずだ。きっと。昔から乱暴は強いられるものであって求めるものではなかった。なのに今、乱暴な刺激を求めるのは何故か。開きっぱなしの口から止めど無く漏れる甘い音に意識が白んでくる。限界まで抜き出された肉棒の先端を離すまいとするように締め付けてしまう。
「はや、く……けんれ、もう、いやです、ってばぁ……」
 度を越した焦らしは快感なのか苦痛なのか分からなくなる。その境界をさ迷いながら、断続的に与えられる小さな刺激に涙を零した。ひりつくほど嬲られた淡い芽はつんと硬くなって、晒された空気にすら身を震わせた。天を仰ぐ屹立を握らされた自分の手は、どうしていいのか分からないまま。小さく震えながら零れ落ちる雫で濡れた自分の手を見下ろして、緩く息を吐いた。そんな天蓬を見てか、捲簾は小さく笑った。その温い吐息が首の後ろに当たってぞくりとする。
「堪え性がねぇ奴だな……俺もか」
 ふとぬるりとしたものが耳朶を撫ぜて、身体をぴくりと縮こまらせる。舐められている。全く以って犬のような男だと呆れ返りつつ、その柔らかく濡れた感触と、くちゅ、と態と立てられる濡れた音に否応無しに反応してしまう自分が一番呆れたものだと思った。細かく震える天蓬の項に頬を摺り寄せて首筋に軽く噛み付いてくる。
「イクなよ。まだまだこれからだ」
 ぞっと、した。
「……――――い、ぁああ…・・・は、ん……けん、れ……」
 身体を持ち上げていた腕が離されると同時に下から強く突き上げられ、身体を大きく仰け反らせた。ずぶずぶと沈み込んでいくそれを、肉壁はきゅうきゅうと締め付ける。倒れ込みそうになる身体は捲簾の肩に支えられ、天蓬は捲簾の肩に頭を預けて天井を見上げる格好になった。強すぎる快感の余波がなかなか過ぎ去らず細かく身体を震わせながら天を仰ぐ。目の焦点が合わず、歯を噛み締めようと思うのに力が入らない。自身を握り込んでいた手が生温い液体で濡れていくのが分かった。そして、ぐちゅ、と秘部から厭らしい音がして、また引き抜かれるのではないかと思わず下腹に力を入れてしまう。それを愛おしげに見つめていた捲簾は、こめかみや首筋にキスを落とす。絶え間なく伝わる波を何とかやり過ごした天蓬は肩越しに振り返り、恨みがましげに捲簾を睨み付けた。多少オーバーに肩を竦めた彼は、天蓬の顎を捕らえてその唇を自分のそれで塞いだ。辛い体勢に加えて無理に後ろを向かされて酷く苦しいはずなのに頭の中はぼんやりと快感と不思議な幸福感で満たされていた。酸欠なのかもしれない、と思いながら、そのキスに身を任せた。舌を絡ませ息を継ぐ暇もないほどに奪われる感覚に、捕食される弱い動物の気分になった。心の底まで食い尽くされるようだ、と思った。
「ん、……ん、ぅ……ん、は」
 唇を解放されて大きく息を吐いた。そして静かに息を整えていると、彼の指先が唇の上をなぞっているのに気付いて、そろりと顔を上げた。真っ直ぐに向けられる優しい目に怯みそうになって思わず俯いてしまう。敵意を向けられるのには慣れた、しかしその無償の好意は怖い。何か裏があると穿ったものの考え方ばかりしてしまう自分にとって、それは理解し難いものだった。優しく髪を撫でられて戸惑いの表情を浮かべる天蓬に、彼は顔を摺り寄せてくる。その仕草が甘えてじゃれてくる大きな犬のようだと笑う。彼の短い髪が頬に触れて少しくすぐったかった。自分からも少しだけ彼の頭に頬を摺り寄せて笑った。
「犬、みたい……ですね」
「じゃあお前はにゃんにゃん鳴いて、猫じゃねぇの」
「変態」
 笑い合って、啄ばむだけのキスをする。そして緩い律動が再開された。彼を固く食い締めていた後孔がその動きに合わせて収縮する。徒に彼の指が平らな胸の上の小さな粒に触れ、指先でそっと転がす。散々弄られて腫れたように紅くなったそれは爪の先でくりくりと摘まれて軽く押し潰されていく。痛いほどに弄くられたそれが彼の指の間から小さく顔を出していた。その淫猥な光景から目を逸らしたいのに、どうしても目が離せない。
「ぃ、あ……けんれ、ん、いたい、です……いや、っ……」
「それが好きなんだろうに。ほら、手動かせ……よくなりたいだろ?」
 お座成りに手を添えただけになっていた天蓬の手を上から捲簾の手が握り締めてくる。そして急にその手が自身を擦り上げるように動く。彼にされているのか自分でしているのか分からない状態に目眩がしそうだった。三箇所それぞれに緩く強く与えられる刺激に口からは止めど無く甘い声が漏れ、涙が頬を伝い落ち胸元を濡らした。その雫がそそり立った淡い色の芽を濡らし、その上から彼の指が好き放題に動く。涙の雫で濡れたそれは厭らしく濡れ光っていた。ゆるゆると天蓬が手を動かし出すと、満足したように彼は手を離した。そして一層強く突き入れ始めた。内壁を探るようにあちこち擦り上げられ、もう甘ったるい声を上げることしか出来ない。調子付いた彼が、もっとも敏感な部位を探り当てるのも時間の問題だった。
「けんれっ、もう、はやく……んあぁ、ふ、ぁ!」
 緩い突き上げが物足りなくて自らゆるゆると腰を動かし始めると、背後の彼が楽しそうに喉を鳴らして笑っているのに気付いた。しかし今更止めることなど出来なかった。彼は天蓬の感じる場所を分かっていて態と避けている。いつものことだ。天蓬が焦らしに焦らされて我を失い乱れ切ってしまうのを楽しそうに眺めて「淫乱だ」と呼ぶ。それを否定する気はなかった。男に突き入れられて悦んでいる時点で、変態で淫乱だと言われても仕方がない。そんな風に自分を罵って悦ぶ男を何人も見てきた。しかし彼は、本当に優しい目で愛おしむように天蓬を撫でながらそう優しく、低く囁くのだ。甚振られているのか愛でられているのか自分でも分からなくなって甘い息を吐いた。
「淫乱、だな」
「うるさ、ぁッ、ひぁ……ぁ、う」
「こんなに腰振って、こんなに固くして、濡らして……本当にやらしくて、可愛い……」
 耳に注ぎ込まれる厭らしい言葉に、天蓬は唇を噛んで固く目を瞑る。それが屈辱なのか快感なのか分からない。きっと屈辱も快感に摩り替えてしまったのだと結論づけた。それ以上考えたくなかったのだ。
 じっと俯いて押し黙った天蓬は、捲簾はこれからどうするつもりだろうと考えを巡らせていた。早く、終わらせなければ。仕事に戻らなければ。やり疲れて動けないなんてことはあってはならない。そう天蓬の思考が彼から離れたのが分かったかのように、彼の手が天蓬の腰を掴んだ。突然のことにどうしたのかと考える間もなく、その硬いものがぐりぐりと天蓬の内壁を擦り上げる。逃げを打つ天蓬を許さず捲簾はひたすら強くその肉棒を突き上げた。
「い、やあぁ……や、あ……いけませ、んぁああぁっ!」
 背を仰け反らせ顎を反らして、彼の胸に凭れ掛かる。びくびくを身を震わせて快感を貪る姿に捲簾は愉悦を滲ませた眸で眺めていた。しかし天蓬にはそれを見つめ返す余裕などなく、ただ断続的に与えられ続ける強い快感に苛まれていた。突き上げられる度に硬く立ち上がった自身はふるりと震えて蜜を溢し続ける。手の平全体で擦り上げ、括れに指を絡ませて、雫を零し続ける先端に指を掛けた。軽く引っ掻いてみると堪え切れない快感が襲って、体内に埋め込まれた捲簾をきつく食い締めてしまう。彼が後ろで息を詰まらせたのが分かったがそれを気遣う余裕もない。
「……ぁ……あ、も、いきた、い……」
 思わず口を突いて出た言葉にはっとして唇を噛む。しかし彼は嬉しそうに笑って天蓬の項にキスをした。
「お前、さ」
「……っん……なん、ですか……?」
「蓉妃に貰った香水、ここに付けた?」
 そう言って捲簾は再び天蓬の項にキスをした。確かにそうだ。ほんの僅かだけ、首の後ろにつけた。ほんの少しの量だというのに、分かったのだろうか。彼は自分の付けた噛み跡をなぞるように舐め上げ、愛しむように背後から天蓬の身体を抱き寄せた。
「も、限界、かな」
 彼の言葉に頷こうとして、唐突に内壁の敏感な部分を擦り上げられて息を詰まらせた。先程まで散々焦らして避けられていた場所を容赦なく刺激されてひたすらに甘い声を上げ続けた。胸でぷくりと膨れた粒を弄られ、自分の指で張り詰めた自身を慰めながら、ほろほろと涙を零して善がった。おかしい、と思っても止められない。柔らかな内壁を貪られてただ首を振ることしか出来なかった。絶頂が近づき頭の中が白んでくる。
「ぁ、んぁ……あぁ、ひ、ぅ……ぁああ―――――……!」
 身体全体が緊張する。一層強く後孔を締め付け、絶頂へ駆け上った。背後の捲簾が唸るように声を漏らしたのを最後に、ぷつんと意識が途切れた。





+++





「……よくいらっしゃいました、捲簾大将」
「どうも」
 蓉妃のよく訪れていた花園に無遠慮に足を踏み入れた捲簾は、小さく会釈した。彼女も何の気なさげに微笑んで、手にしていた水差しを近くの棚の上に置いた。そしてその白い手で、繊細な細工の施された白いガーデンチェアを指した。揃いのテーブルと並べてあるそれは、自分が座るには少し不釣り合いなように思えた。
「お掛けになって下さいまし」
 しかしとりあえず彼女の言う通りにその椅子に腰掛ける。彼女は向かい側の同じ椅子に腰掛けた。相変わらず、美しい女だ。しかし今は、その事実が何だか恐ろしい。静かに微笑んで捲簾を見つめるその女に、少しだけぞっとした。彼女に会ったのはあの日、別れを告げた日以来だ。彼女は何の未練もなかったかのようにその申し出を了承した。それきり、顔を合わせることもなかった。きっとずっと、これからもずっとそうなのだろうと思っていたのに。微笑む彼女へ向かって、自分の右目を指差して笑ってみせた。
「俺の審美眼も、悪かねぇだろ」
「ええ。素晴らしい目をお持ちですわ。あの日……軍棟にお邪魔して、あの方と初めて顔を合わせてすぐに分かりました。あなたが囲っていた幾人もの天女が、一度に全て捨てられてしまったその理由……真意が」
 彼女の淡い青が光を弾いて神秘的に輝く。そして面白がるように細められた。
「怒っておいでなのでしょう? わたくしが彼に差し上げた香の件かしら」
「それもちょっとな。だけど本当に訊きたいのは、どうしてお前があれにちょっかいを出すのかだ。俺への嫌がらせではないんだろう」
 彼女が嫉妬に狂って、自分から彼を引き離そうとしている、ということは考え難かった。今考えると、本当に彼女が自分を愛していたのかどうかも定かではない。あの時は何とか女関係を切ることと彼のことだけで頭が一杯で、相手の反応まで全て気にしてはいられなかった。しかし今考えると、余りにも彼女の反応は薄く、寧ろ何処か楽しげにすら思える笑顔を浮かべていたように思えるのだ。そして今の彼女も、同じ笑みを浮かべている。それが何を意図するのか、段々と頭の奥底で理解し始めていた。
 蓉妃はゆっくりと椅子から立ち上がった。そしてその緩やかなドレープのついた裾を揺らしながら捲簾の元へと歩いてきた。彼女の白い指先が静かに伸ばされ、捲簾の頬のラインをそっとなぞってすぐに離れていく。甘い香りが一瞬鼻先に流れてきて、その香りを払うように首を振るった。そしてたおやかに微笑む彼女を見上げる。大の男でも身を竦ませるようなその視線を、彼女は静かに見つめ返していた。
「――――お前、本当は俺のことは好きじゃなかっただろう」
 そう質しても彼女は微笑みを絶やさずに、まるで捲簾の問いをはぐらかすように僅かに首を傾げてみせた。そして小さく笑い、視線を少しだけ逸らして口を開いた。
「捲簾大将」
「ん?」
「あなたのことは好きでした。だけどあなたの思う通り、恋情ではなかったのでしょう。わたくしとあなたは似ていたから。お会いしてすぐに分かりました。どちらかと言ったら友人……のような感覚だったかしら」
 そう言ってから彼女はゆっくりと歩き出し、棚から先程置いた水差しを持ち上げた。そして再び、咲き誇る美しい花々に丁寧に水遣りを始める。その手付きは、本当にその花々を愛おしんでいるようだった。捲簾の疑念はゆっくりと晴れ始め、ある一つの、思い付きたくなかった可能性が真実味を帯びつつあった。水差しを手にしたまま、彼女は振り返った。緩く編まれて右肩に流されていた栗色の髪がさらりと背中に流れる。その艶やかな上を月の光が滑っていった。
「わたくしは、あなたと同じ。美しいものを愛でるのが好きですの。それが物であれ人であれ……だからあなたとお話するのは本当に楽しかったですわ。あなたの美しいと思ったものの話、下界の有終の美……自由に出歩けないわたくしには、本当に楽しかった」
「あれは、俺のものだ」
 蓉妃の言葉を遮るようにそう固く言い切った捲簾に、彼女は少し驚いたような目をした後に、小さく笑った。その反応は、まるで捲簾のその返事を予想していたかのようだった。
「構いませんわ。あれほどの逸品ですもの、必ずしも自分だけのものに、なんて我儘は申しません」
「近付くな、とは言わない。あれに触るな」
「……どうしても?」
 彼女はきょとんと目を瞬かせた。その目は子供のように純粋だ。しかし『純粋』は『善』と同格ではない。
「あの白い肌に触れてみたいと思うのは、罪になりますの? あの少し冷たい美貌を、歪めてみたいと思うのも? あなたはいつも美しいものについて話すのと同じくらい、彼についてお教え下さいました。その時あなたは、桜や御酒の話をされる時と同じような優しい目をなさっていた。だからわたくし、何となく見当は付いていましたの。あなたが……あなたの目の、向かう先が」
「だからあれを見に、態々軍棟へ」
「我が事ながら、はしたない真似だとは思いましたわ。けれど、最後に一度くらいあなたに迷惑を掛けても、構わないかと思いましたの」
 飾ることもなくそう正直に言う彼女が好ましかった。全てを偽ってでも彼に接触を試みるようだったら、彼女から彼へと続く道を断ってやろうと思っていたのに。一度は愛した女だ。無体はしたくない。しかしそれは詭弁だ、と自分がよく分かっていた。女だからと見逃すことは出来ない。
「あれはきっと、お前が俺の新しい恋人に嫉妬して乗り込んできたと思っただろうな」
「ええ、とても困った顔をしていらして……でも、本当に美しかった」
「まさか、単に美しいものが見たいってだけで来たなんて、流石に奴だって気付かなかっただろうよ」
 ふふ、と彼女は微笑んで、少しだけ視線を落とした。
「あなたは美しいものを愛でるのが好きですもの……だからそのあなたが、美しい天女たちを全て捨ててでも、どうしても手に入れたいと願う人とは、どんなに美しいのだろうと……期待に打ち震えました」
 そんな風に、今度こそ包み隠さず話す彼女に、捲簾は喉を鳴らして笑った。付き合っている時から感じていた違和感はこんな些細な切っ掛けで簡単に解明されてしまった。彼女と過ごす時間は酷く心が静かで落ち着いていて、まるで気の置けない間柄だった。しかし恋人同士と言うにはどこかおかしくて、しかし当時の自分はそんなことを深く考えることもなかった。何はともあれ彼女と話すのは実際、楽しかったのだ。それもそのはず、彼女と自分はよく似た感性を持っていた。それも、『物の美醜について』という一点に対して。よく似ていた。しかしその一体感が、恋人としてのものではないことは、何となく二人とも察していたのだ。
「まさか、元恋人に現恋人を取られる危機感を感じる羽目になるとはな」
「取りはしませんわ。わたくしは、あなたの行動一つであの方にお会いすることも出来なくなりますもの。あなたがもし、わたくしがこんな浅ましい考えを持つ女だと彼に話したら、きっと彼はもうわたくしのところへ訪ねてきて下さらなくなりますわ。二度とお会い出来なくなるくらいならば、手に入れる意味はありません。……それもあなたは計算済みなのでしょう。意地の悪い人」
「分かってるんじゃないか」
 そう言って捲簾は本当に楽しそうに笑った。それを蓉妃は恨めし気に見つめる。そして手にしていた水差しを再び棚に戻して、捲簾の方へと戻ってくる。そして何かを強請るように上目遣いで見つめてきた。
「少しお酒を下さいませんか」
「喜んで。……ほら」
 捲簾は手にしてきた袋から、細身の瓶を取り出した。深い黒い色をした瓶を受け取り、蓉妃はうっとりと目を細めた。白い指先が瓶の表面のラベルを滑る。暫くそうしてラベルを眺めていた彼女は、徐にからかうような目を捲簾に向け、問い掛けてきた。
「上質なものですわね。これで当分彼には会うなということかしら」
「おいおい俺がそんな性悪に見えるか」
 如何にも心外だ、と言いたげな捲簾の顔に、蓉妃はころころと笑った。
「ええ。……彼に関しては、どんな非道でも仕出かしそうに見えますわ」
 微笑みながらも口から出る言葉は容赦がない。耳に痛いな、と笑いながら捲簾は椅子の背凭れに身体を預け、脚を組んだ。そしてこちらを静かに見つめてくる彼女の目を真正面から見つめ返した。
「そんなことはしない。けど、代わりに答えてくれるか、蓉妃」
「ええ、何でも」
「どうしてあんな質の悪い香をあれに贈った。もし誰かが切羽詰まってあれを襲ったら、とは思わなかったか」
 口調の軽さ以上に鋭い捲簾の視線に、しかし彼女は全く怯むことなく、表情すら変えなかった。彼女の白い手に包み込まれた瓶が、光を弾く。その光景は美しさを越えて半ば薄ら恐ろしくもあった。真っ直ぐ捲簾を見つめ返していた彼女は、ゆっくりと視線を落として口を開く。やけにその唇が紅く感じた。
「実験だったのです」
「実験?」
「もし彼に何かあって、あなたがどういう行動に出るのか。もし守ることすら出来ないのならば、と」
 捲簾は笑った。彼女も美しく微笑んでいる。
「狂ってる」
 彼女は微笑んだまま、反論をしなかった。もし、彼に何かがあるかもしれない、という可能性も考えていたのに彼女は実行した。それが狂気でなくて一体何なのか。そんな蓉妃の様子を眺めていた捲簾は、そっと彼女の手から瓶を取り返し、瓶が入っていた袋に手を入れ、オープナーを取り出した。そしてラベルを指でトントンと叩いて掲げてみせる。
「乾杯といくか。……きっと、これが最後だ」
「ええ」
 視線が絡む。不快感はなかった。自分によく似た、冷静な表情に僅かに狂気を滲ませた視線だった。並んだグラスに真紅の液体が注がれる。薄いグラスの縁を、青白い月の光が滑っていった。
 小さく涼やかな乾杯の音が、耳から離れなかった。





+++





「……、ん」
 僅かな眩しさを感じて、目を薄く開く。その途端に自分の横を通っていく大きな足音が聞こえてきた。寝起きの頭にその騒々しい音は不快で、天蓬は顔を顰める。そして緩慢な仕草で腕を持ち上げて、むずがるように顔を擦ってから、なかなか光に慣れない目を瞬かせて体を捩った。途端に下肢に鈍い痛みを感じ、思わず唸り声を上げて蹲る。すると途端に遠くからバタバタと先程の足音が近付いてきて、がばっと自分の顔の上に影が掛かった。そしてふわりと慣れた匂いが鼻先に届く。
「平気か」
 目の前にある精悍な顔に、ゆっくりと目を瞬かせて天蓬は小さく笑った。何て顔をしているのだろう。いつも余裕に満ちた表情が、こういう時ばかり情けなく歪められるのだ。そんな顔をするなら無体をしてくれるなと言いたいのだが、それはきっと彼も自分も無理な話だろう。じっとこちらの反応を窺っている彼に笑いかけて、ゆっくり身体を起こそうとした。しかし彼の両腕に肩を押し戻される。そしてどうやら横になっていた場所は自室のソファの上だったらしいと気付いた。周りは片付けの真っ最中で、先程の慌ただしい足音はそのせいだったようだ。自分の身体を触って確かめてみると、行為が始まる前の状態に戻されていた。
「……全部、あなたがやってくれたんですか」
「まあな。俺が悪いわけだし」
 本当の原因はまだ分からない。原因が捲簾にあったのか。そうだとしても一体誰が、という堂々巡りになる。何となく身体が気だるい。行為の後の倦怠感というのとも少し違う、頭の中がふわふわするような感覚に襲われ顔を顰める。ソファの前にしゃがみ込んだ捲簾は、暫くそんな天蓬の様子を眺めていた。ややあって捲簾はゆっくりと腕を上げ、天蓬の額辺りを二、三度撫でて立ち上がった。
「お前が見えるところにいないと奴等が心配するからさ、とりあえずそこで寝ててくれるか」
「はい」
 そういえばあの時置き忘れた書類はどうなったのだろう、と思い、少しだけ不安になる。そんなことを思いながら天井を見上げていると、まるで心を読んだように遠くから声を掛けられた。
「書類、判押して出しておいたからな」
 気の利く男だ。安堵の溜息を吐いて、身体から力を抜いてソファに沈み込む。考えなければならないことが多くある。なのに気だるい脳内は難しいことを考えることを破棄した。その内何を考えなければならなかったのかも思い出せなくなって、本格的に身体は睡眠へと向かって落ち始めた。難しいことは後にしようと思った。今は少し眠りたい。
「天蓬」
「……なん、ですか」
 丁度心地良く眠りに落ちるところだった瞬間に突然声を掛けられて、不機嫌な声を出そうとしたものの、色々と世話になったことを思い出してそれを思い留まった。そして何とか平らな声を心掛けて返事をする。
「今夜、ちょっと出掛けるから」
「……は、ぃ」
 一刻も早く眠りたい天蓬の頭はそれを然程重要な事項とは捉えず、そのまま返事は尻窄みになり意識はゆっくりと暗闇へと落ちていった。その姿を遠目に見つめていた男が、何か思案げに目を細めていたのにも勿論気付くはずもなかった。

 ソファに横たわった天蓬が穏やかな寝息を立て始めるのを確認して、捲簾はポケットから小さな瓶を取り出した。手の平にすっぽり包み込めてしまうような小さな物である。きらきらと輝く硝子細工の施された繊細な芸術品だった。香水などには興味のない天蓬だったが、これだけ凝った美しい細工だと気に入ってしまうのも無理はなかろう。瓶の中には半分ほど、澄んだ湖のような深い水色の液体が入っていた。それがどこかあの女の目を髣髴させて顔を顰める。まだ頭の奥がずきずきと痛んでいた。きっとこの液体のせいだろう。質の良いものではないのは確かだ。娼婦にも質の悪いものはいる。こういったおかしなものを客に盛る女が。彼女がそういった質の悪い者から手に入れたとしか考えられなかった。
 そもそも、自分は天蓬があの女と知り合いだったことを今日まで全く知らなかった。そして時々夜に会っていたことも。今まで気付かなかったということは天蓬は態々自分のいない日を選んでいたということだ。彼にとっては暇な日を選んだというだけのつもりで、裏切りだなんて到底考えもしていないのだろうが、ふつふつと沸いてくる暗い嫉妬の念は切り落とせなかった。それを思えば先程の無体への罪悪感も少しは薄れよう。そしてそんなことを思う自分に苦く笑った。
 手の平に握り込んだ瓶を握り締める。今度下界に下りた時にでも、地に埋めてしまおう。そして彼女には釘を刺す必要がある。しかし一筋縄ではいかない予感はしていた。過去に確かに愛した相手が、今は一体どんな女なのかよく分からなくなっている。
 瓶をポケットに仕舞った。そしてすやすやと眠り続ける彼に何か掛けてやろうと室内を見渡す。そして目に付いた、机の上に畳んであったブランケットを手に取って広げる。ふと、間に挟まっていた花弁が足元に舞い落ちた。
 軍靴で花弁を踏みしめる。それで全ては終わりだった。










テーマは「女に食われる天蓬」。恐ろしいことになりました。お釈迦様でも私の煩悩は払えまい。    2006/12/31(07/01/03:修正)