彼は見かけ以上に気を回す質だ。家に帰ってきた天蓬の手を見て毎日顔を顰めては、その大きな掌の中に包み込んで温めるのだ。自分の蒼白い手は体温の高い彼の手ですぐに温かさを取り戻す。そうしてやっと彼は笑うのだった。こちらに体温を分けて、彼の掌は少しだけ冷えてしまうのに。なのに彼は笑うのだ。変な人だ。伴侶に自分を選んだ時点で相当な変わり者だということは分かっていたが、付き合いが長くなれば長くなるほど、彼の変わり加減に感嘆すらするのである。
「何でこんなに冷たいかねえ、お前の手は」
「さあ……冷血人間ってことでしょうか」
「馬鹿言え」
 そう言って彼は天蓬の頭を小突く。手が冷たいことには慣れていた。冷たいことの方が普通だから、温かい方が却ってむず痒いようなくすぐったいような気分になってしまう。手袋も嫌いだった。しかしある日、家に帰った天蓬を迎えたのは、パステルカラーにやけに可愛らしい模様の描かれたビニールバッグだった。それを差し出した男とのあまりのギャップに一頻り笑うと、憮然とした顔の男はそれでも再びずいとその袋を差し出してきた。その妙な迫力に圧されて袋を受け取り、その中身を覗き込んだ。ふかふかしたそのグレーの塊は、手に取ってみると手に馴染む、柔らかい毛糸の手袋だった。今度もう少しまともなものを買ってやるから今はとりあえずそれで我慢をしろ、と彼はキッチンの方へ歩いて行きながら言った。その背中を見送りながら、再び掌の中にある暖かい塊を見下ろした。幼い頃を思い出すようなその柔らかい手触りは、何だか慣れなくてやはり少しくすぐったかった。手を通してみると、手に馴染んだそれはほわりと穏やかな熱を伴って天蓬の掌を包み込んだ。
 その日から、その手袋と天蓬の生活が始まった。いつも着ているコートと多少ミスマッチなことは何となく分かったが、天蓬は然程ファッションに気を遣う質でもなかった。どうせ寒い時期にしか使わない物だ。そうは思っても、ポケットにそれを入れていると、外に出た途端にその暖かさが恋しくなる。結果的に毎日お世話になることになったその手袋は、結局その冬が終わるまでずっと使われることとなった。途中、別のもう少し上質なものを、と彼が言ったが、天蓬はそれを断った。生憎、一旦一つの物に愛着が生まれると手放せなくなる質なのである。ウールのコートも重苦しく、春の香が漂い始めた頃には、その暖かさを恋しく思うこともなくなった。クリーニングに出したそのコートと共にクローゼットにその手袋を仕舞い込む。まさか二年越しの付き合いになろうとは、贈った本人も思っていなかっただろう。
 そして一つの冬を越え、二つの冬を越え、手の形にそっくり馴染むようになり、同時にほつれや毛羽立ちが目立ち始めた頃。
「なあ、新しいの買ったらどうだ」
「いや、です」
 放っておけば汚いからと勝手に捨てられてしまいそうなその手袋を庇うように抱えて、彼の申し出を退けた。結局のところ、汚れたタオルケットを離したがらない子供と同じだ。呆れたように彼も溜息を吐いた。そんな風にあからさまな態度を取られたとしても、譲るつもりなど毛頭ないのだ。子供の宝物も同じ、他人にはその価値が分からないのだ、自分の手の中にある時だけそれは宝としての光を放つのである。例えば周りから見てそれが、只の古びた手袋だとしても。
 この手袋は他とは違うのだ。そう思い込んでいる。
「どうしてそんなにそれがいいんだ」
「……さあ」
 思った以上にその、突然の贈り物が嬉しかったからだ。何を思って買いに行こうと思ったのか。どんな顔をしてこんな可愛らしい手袋の売っている店に入ったのか。どんな風にそれを選んで買ったのか。それを考えるだけで、心の奥から温もるような気がしたからだ。彼に言ったらきっと笑うから、絶対に言うつもりはないけれど。
「新しいの買おうって」
「嫌ですよ」
 そんな遣り取りを繰り返しながら、その手袋と彼と、重ねてきた幾年の冬を思い出すのである。





 彼女の突飛な行動にはもう慣れている。しかし、今でも少し頭がくらくらするような瞬間が月に一度はある。それは慣れていないということなのではないのだろうかと思われるかも知れないが、これでも大分慣れた方なのだ。最初の頃は一日に何度も驚かされていたのだから、大した進歩だと思われないだろうか。進歩とはつまり彼女と自分との重なる部分が大きくなったということだ。最初は触れることもなかった二つが交差し、静かに重なり始めた。今もまだ、彼女の知らない部分が沢山あろう、その全てを望むのは我儘だけれどそれが自分の本音である。知れば知るほど驚いて、しかし次の日にはそれが彼女と自分の、共通の当たり前になっているのである。そうして静かに重なり合う日々を、ゆっくりと紡いでいた。
「寒くなったから、買ってきたんです」
「……勘弁してよ」
「駄目。いつまでも若いと思ってちゃ駄目ですよ、あったかくして下さい。風邪引いたりしたら大変なんですから」
 このところはまだ少し暖かい小春日和が続いていた。しかし天気予報によれば、今日からは寒気がこの地方に流れ込む。雪もちらつくと言われる時期に、彼女が突然買ってきたものは、驚くほどのものではなかったけれど捲簾の脱力感を誘うものだった。所謂肌着、インナーと呼ばれるものである。しかしそのらくだ色のディテールはどう見ても、昭和の親父の必需品であったそれだった。着替え中だった捲簾は、彼女の顔とそのらくだ色を見比べて複雑な顔しか出来なかった。それが暖かいのは分かる。寒い時期にはとてもいいものだということも分かる。しかしそれをはいとすぐに身に着けられるほどに自分は精神的に老いた感覚は持っていなかった。それを見抜いたような彼女の言葉に、言い返すことは出来なくて、ビニール袋で包装されたままのそれを受け取った。躊躇いはそう感嘆に消えるものではない。
「誰に見せるものでもないんだから、いいじゃありませんか。それとも何ですか、僕以外の前で、服を脱ぐ用事でもおありですか」
 そこまで言われて拒否すればどう痛くもない腹を探られ続けるか分からない。深い溜息を一つ、じっとこちらの様子を窺う彼女の前でそのビニール袋をの封を切った。広げたそれに、再び溜息が漏れる。満足げにこちらを見ている彼女に追い払うような仕草をしてみせると、少し唇を尖らせた彼女はそれでも大人しくリビングに戻っていった。流石に着ているのを見られるのはどうか、と思ったのだ。部屋に鏡がなかったのが幸いだった、と思いながら半ば自棄になりながらそれに脚を通した。

 その日はやはり寒かった。もしも冷えたら使おうと思って鞄に入れていた手袋とマフラーは既に着用されている。これではそのうち雪が降るというのも本当かも知れないと思いながら会社に向かう。あちらこちらで女子社員が手を擦り合わせ、腕を掻き抱いている姿を目にした。それなり、暖房はきいているものの窓の傍は風の通りがあり、冷える。自分の席についてマフラーを解いていると、横を通った部下が肩を震わせたのに気が付いた。どうかしたか、と声を掛けると、どうもこうもありません、と憮然とした顔で告げられた。
「昨日まであんなに暖かかったですし、突然こんなに寒くなるとは思わなくて」
「でもここはあったかいだろ」
「ええ、部長だけじゃありませんか? 結構寒いと思いますよ。暖房の温度、低くされてますからね」
 一昨年頃からの社の方針のせいか、あまり暖房の温度は高く設定されていない。温暖化対策というものである。しかし捲簾はそんなに震え上がるほどに寒いとは思わなかった。そう思って他の部下にも訊ねてみたが、そちらの方にも即座に否定された。逆に、もう少し温度を上げるように上と掛け合って来て欲しいと懇願されてしまい、苦笑いするしかなくなってしまった。そうしているうちに就業時間は訪れて、それぞれ文句を言っていた彼らも大人しく自分のデスクへ戻っていった。全員がいることを確認して椅子に腰を下ろし、口元を押さえて小さく俯いた。彼らの愚痴を聞きながら、自分だけが暖かい理由に何となく気付いて笑いを堪えていたのである。困ったものである。何故部長だけ暖かいんですか、と問われて答えるわけにもいくまい。答えたところで誰が倣うだろう。しかし冷えた手を擦り合わせている部下たちを見ていると、ふっと笑った彼女の顔を思い出した。自分と違い、大して歳を取らぬその微笑みは、あの日自分の心を持っていって以来、返してはくれない。それだけ自分の中で彼女は静かに輝き続けていた。
(――――いつまでも若くないんですからね、年相応の格好をして下さいな)
(ほっとけ)
 その綺麗で綺麗で、少しだけ小憎らしい顔を思い出すと、また更に少し温かくなった気がした。

 帰りには雪もちらつくだろうかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。しかし今にも雪が零れてきそうな凍てついた空は吐いた息を白く染めて暗闇に溶け込ませていく。澄み切った空気の中で、星は鋭く小さな光を瞬かせていた。街路を歩きながら、道なりにある可愛らしい雑貨店が目に入った。足を止め、ショウウィンドウのディスプレイに目を滑らせた。柔らかい色をしたライトに照らされ、雑貨が溢れるその中に、見覚えのあるものを見つけた。グレーの柔らかい手袋。あの頃、冷たく白くなった彼女の手を見ていられず、会社帰りに間に合わせで買った物だった。この歳でそういった店に男一人で入るのに抵抗がなかったわけではない。しかしその時は考える間もなくその店に足を踏み入れた。
 あれは一体何年前のことだったろうかと一人歩きながら考える。大分くたびれてしまったそれを彼女は今でも使っていた。元々数日間使って貰えれば十分だと思って買った物だから、持ちがよいわけでもない。ふわふわとして柔らかいそれは、毛羽立ち所々汚れも付いていた。いい加減買い替えようと言っても彼女は言うことを聞かなかった。気に入ってくれたのだろうと思えば嬉しいことだが、どうせならばもう少し吟味をするべきだったとも思うのである。立ち止まり、通り過ぎてしまった雑貨店を肩越しに振り返って、捲簾は溜息を吐きつつ頭を掻き毟った。

「お帰りなさい」
 珍しく先に帰宅していた天蓬は、襟ぐりの大きく開いた、ふわふわと柔らかそうな薄手のニット姿で玄関に現れた。後ろ手にドアを閉め、鍵を掛けた。そして鞄を受け取ろうとしたのか、こちらに伸ばされた彼女の腕を引き、抱き寄せる。その身体からはふわりと甘い香りがして、手に触れる柔らかい感触に深く息を吐く。暫く大人しく抱き締められていた彼女は、そのうち捲簾の腕の中で小さく身動ぎした。コートの腕の中から顔を出して、少し怒ったように頬を膨れさせる。
「もう、冷たいですよ……あ、でも着て行ってよかったでしょう? 今日寒かったですもんね」
「……まーな」
 温かい日だった。その温かさを感じる度に彼女の顔が頭を過ぎって、寒さを感じるどころではなかった。腕の中で満足げに笑っている彼女が何だか憎らしくて、その目尻に唇を押し当てた。彼女はくすぐったがるように肩を竦め、くすくすと笑い出した。
「どうしたんですか、何かおかしいですよ」
「るせぇ、お前のせいで今日は一日中何かおかしいんだよ」
 言いがかりなのは分かっている。徹底的に反論される、と思いきや、腕の中でじっとしていた彼女は再び小さな声で笑い始めた。
「一日中僕のことを考えてくれてたってことですか」
 咄嗟に「違う」と言いそうになってしかしそれは嘘でもないことに気が付き、しかし認めてしまうのが癪で黙りこくると、天蓬はますますおかしそうに笑い出した。きまり悪くて僅かに俯く額を、彼女の少し冷たい指先で突付かれた。その手をそっと掌の中に包み込んで温める。相変わらず冷たい手だった。暖かい室内にいてもこんなに冷たいなんて両手に包み込んだその白い手に息を吹きかけて、擦り合わせる。それを黙って見つめていた彼女がふっと、少しだけ切なげに瞼を伏せたのに気が付いた。しかしどう訊ねていいのか測り兼ねて、それを見なかった振りをした。
「帰りに、手袋買った店の前通ったんだ」
「……うん」
「新しいの、買ってこようかと思ったけど……止めたわ」
 どうして、と問いたげな眸に、頭を掻きながら答えた。
「お前が気に入ってんならいいかなあと思って……流石に穴が開いたりしたら、買い替えるからな」
 少し驚いたように目を瞬かせながら捲簾を見上げていた天蓬は、ゆっくりとその頬を緩めた。そしてじゃれるように捲簾の背中に手を回してコートの胸元に顔を埋めた。厚いウールの生地越しでも、その温かさと柔らかさに、外の寒さで硬くなっていた身体が解れていく。外した手袋をコートのポケットに押し込んでから、右手をその華奢な背中に回して、左手で首筋に流れる黒髪を梳いた。むずがるようにゆるゆる首を振った彼女は、ちらりとコートに埋めていた顔を少しだけ上げて上目で捲簾を見つめた。
「別に、あれじゃなきゃいけないわけじゃないんですよ」
「え?」
「頼んだわけでもないのにあなたが、僕のためにわざわざあんな可愛いものを売ってるような店に入って選んでくれたんだなあって思ったら、すごく嬉しかったんです。だから、他のどんな高いものよりもあれがいいんです」
 そう言ってまるで邪気のない笑顔を見せる。いつもは人を食ったような裏のありそうな笑みばかり浮かべているくせに、と憎くすらなる。
 その黒髪に絡めていた指先でその頭を引き寄せて、僅かに腰を屈めてその額に口付けを落とした。不思議そうに目を瞬かせるその彼女の頭を少し乱暴に撫でた後、靴を脱いでその身体を抱き寄せたまま家に上がった。抱き締められたまま彼女は捲簾のマフラーを解いている。冬の匂いがしますね、なんて笑いながら、少しは温かさを取り戻したその手が、冷たくなった捲簾の頬を包み込む。ああ折角温かくなった手がまた冷たくなってしまう、と思いながらも、その温かさを静かに受け入れた。ふふ、と嬉しそうに笑うその顔を見下ろして、今度はその紅色の唇に口付けを落とした。

 この存在が、わたしをひそかにあたためる。










ウニクロのCMを見ていてむらむらっと湧いてきた話。何だかんだといって仲良しなのです。         2007/11/22*いい夫婦の日