近頃悩みがあった。最近とんと文字が見え難くなったのである。誤魔化し誤魔化し生活していたものの、仕事をしている以上いつまでもそうしているわけにもいかなくなる。そして何だか物悲しい気分を抑えながら向かった先は眼科と眼鏡店だ。しかし苦痛はそれまでで、それからは世界が変わったように苦労が減った。ただ多少、恥ずかしい気分がないわけではない。何となく歳を取ったのを認めてしまうようで嫌なのだ。掌の上で革のケースを転がしながら溜息を吐いた。老眼鏡というのは確かに良い物であるが、言葉の響きが何とも悲しい。しかし本や新聞を読んだり仕事をしたりする時には必要なものだ。こんなに良い物なのだから、どうせならばもう少し手を伸ばしやすい名前であればいいのにと思う。何故わざわざ名前に「老」とつけるのか。
 食事の済んだダイニングテーブルで、捲簾は持ち帰った書類を広げていた。じゃんけんで皿洗い係になった妻がキッチンで食器洗いに励んでいる音と、窓辺から届く風鈴の音を聞きながら、ペンを滑らせる。時折首を回したりしながら、コピー用紙に印字された細々した文字を読む。そうしているうち、水音が止んだ。そして続けてぺたぺたとスリッパの音が近付いてくる。捲簾の使う、大きな黒いエプロンの裾で手を拭いながら戻ってきたのは妻だ。くりくりとした榛色の眸が捲簾の顔を捉える。
「麦茶いります? あ、それともアイスコーヒー?」
「ん、コーヒーお願い」
 そう答えてから、ペンを置いて広げていた書類を一纏めにした。そういえば結婚する前、本気でうっかりそばつゆに氷を入れて出されたことがあったのを思い出す。あの時は実は自分は嫌われているのではないかと思ったものだが、自分以外へ対しても幾度となくその間違いを繰り返しているところを見ると、ただうっかりしているだけらしい。それから褐色の液体を出された時には幾ら喉が乾いていても先に匂いを嗅いでから飲む癖が出来たのである。いつもしっかりしているのに唐突におかしなミスをするのが妻だった。
 妻がこれまた一目惚れして買ってきたグラスは繊細な細工がなされている。氷の浮かべられたグラスに注がれた褐色の液体は、見た目ではそばつゆなのかコーヒーなのか判別出来ない。目の前に置かれたグラスを手に取った捲簾は軽く鼻を近付けて匂いを嗅いでから安心して口をつけた。喉を冷たい液体が下りていく感覚にほっと息を吐いた。ちりん、と窓辺の風鈴が小さな音を立てる。

 向かい側の席に座った天蓬は、両肘をテーブルに突いてじっとこちらを見つめてくる。その視線の優しさに、何とも言えなくくすぐったい気分になる。結露で濡れた手を布巾で拭きながら軽く首を傾げてみせた。
「……どうした?」
「いーえ」
 にこにことこちらを眺めている天蓬は飽きる気配を見せない。一体何がそんなに楽しいのだろうか。彼女の凝ることといえばいつも自分が思い付きもしないようなおかしなことだから、尚更答えが気になってしまう。にこにこ笑ったまま頑なに答えようとしない彼に辛抱強く訊ね続けると、天蓬はふっと視線を上げて捲簾の方を指差した。しかしその範囲は漠然としていて一体どこのことなのか分からない。
「何?」
「その眼鏡」
 そう言われてついその眼鏡を外しかける。しかしその途端に天蓬は焦ったようにその手を止めさせた。そして軽く唇を尖らせる。珍しいその表情に思わず手を止め、目を瞬かせた。何か気に入らない行動でもしただろうかと軽く首を傾げて見せる。
「外しちゃ駄目ですよー」
「何でまた……眼鏡ったって、老眼鏡だぞ? 年寄りの証しみたいだろうが」
 苦く笑ってそう言うと、天蓬は驚いたように目を瞠って納得がいかないというようにまた唇を尖らせてふるふると首を横に振った。
「違います。熟した男の魅力を増すアイテムですよ」
 そう熱弁を振るう妻に苦笑いをする。今回のおかしな凝り性は老眼鏡らしい。相変わらず着眼点がおかしな奴だ、と笑うが、相手は気を悪くしたようでもなく楽しそうに笑っていた。
「っていうか、俺はもう熟しちゃってるわけだ」
「大丈夫ですよ、捲簾ならおじいちゃんになっても格好良いですから」
「お前の言うことは昔からよく分からん」
 そう言いつつも笑みは抑えられなかった。とりあえず眼鏡はそのまま掛けておくことにした。こんなに嬉しそうな天蓬は久しぶりだったからだ。これが必要となったのは一種の老化現象が原因であるから喜べたことではない。しかし天蓬がそうして喜ぶのなら、まあいいかと思えてしまう。歳相応に老けてゆく自分と違って、妻は歳を取れば取るだけ幼くなっていく。というよりも、昔の方が歳に似合わず老成し過ぎていたのだ。今くらいが、程好く角が取れていて丁度いいのかもしれない。しかし毒が完全になくなってしまっても、天蓬らしくなくてつまらないだろう。
「……成程」
「何ですか?」
「お前ってそんなに俺のこと好きなわけか」
 からかったつもりだった。若かった頃と違って言葉で愛情を確かめ合うことをしなくなったため、少しは妻も恥じらうだろうと思ったのだ。しかし、じっとこちらを見つめていた天蓬は、そのきらきらした目を瞬かせた後、本当に楽しそうに笑った。美人の妻を貰って二十年以上、自分とてその美しさに慣れたものと思い込んでいた。しかしこうしてふとした瞬間、言葉を失うほど圧倒される時があった。
「ええ、すごく」
 じわりと頬骨の辺りが熱くなった気がした。テーブルに両肘をついてじっとこちらを見つめていた天蓬は、くすぐったくなるような笑顔を浮かべた。交際していた頃の天蓬なら、こんな風に意地悪に問えば、そんなわけないだろうと憮然とした顔で突っぱねたものだ。それもどこか初々しくて、淡紅に染まった白い頬が劣情を掻き立てたものだけれど。テーブルの向こうに手を伸ばしてその頭を軽く撫でる。
 言葉にするのも悪くない。思えばもう何年言葉にして想いを伝えていないだろう。それが必ずしも必要なことではないということは分かっていたが、久しぶりに言ってみようという気になったのは、昔の天蓬を思い出してしまったからかもしれない。

「……俺も、多分お前が思う以上にお前のこと好きだぞ」
 最初は少し躊躇って痞えたが、思った以上に言葉はするりと口から漏れた。一瞬呆気に取られたようだった天蓬は、薄らと頬を染めたように見えた。そしてふっと、顔を俯けて逸らす。その薄ら赤く染まった横顔や首筋は昔なら毎日のように見たもの。わざとあからさまな言葉で想いを告げれば、面白いように簡単に赤く染まる薄い皮膚。変わるものもあるけれど、四半世紀の時が経つとしてもそう簡単には変わらないものもあった。
(思った以上に、変わってねえな)
 二人とも。自分の頬が熱くなっているのを、手の甲を頬に当てて確認する。こうして真っ赤な顔を突き合わせるのも久しぶりのこと。
 たまには初心に帰るのも悪くはない。
 眼鏡を外してテーブルに置き、そっと手を伸ばした。指先が、淡く紅潮した頬に触れる。僅かに熱を持った赤い頬を軽く撫でると、伏せられていた瞼がふるりと震えた。ゆっくりとその睫毛が押し上げられるのを、何だか待ち切れない子供のような気分で待った。








四十代夫婦。ツンデレで老眼鏡もえ、な天蓬……が可愛くて仕方のない捲簾氏(43)。後厄。            2007/07/30