我が宿敵は玉葱である。
 リビングと繋がったキッチンのフローリングに膝をついて、シンクの上に置かれた玉葱二つを眺めた。よくよく見るとおかしな形をしているものである。指先で突付けばその妙な形の野菜はごろりと転がり、置かれていた濡れ布巾にぶつかって止まった。こいつには今までに何度も泣かせられているのだ。なのに、こいつは美味しいのである。じっくり炒めたりゆっくりと煮込めば甘く、薄くスライスして水にさらしておけばサラダとして美味なのだった。小憎たらしいことに。もしもこいつが不味いのだとしたらこんな膠着状態には陥っていない。しかし、そんなに美味しいならばこんな刺激臭のする汁など出して人間を攻撃しなければいいのに、とたかが野菜に向かって思ってしまう。
 しかしいつまでも野菜如きと対峙しているわけにはいかない。お遣いに出かけた夫が帰ってくるまでに、どうにかこいつをバラしてしまわなければ。玉葱如きに泣かせられている姿を見られるわけにはいかないのである。早々にどうにかしなければ、と思いながら、天蓬はぐるりと部屋を見回した。ふと、テーブルの上に置かれたものが目に入る。水泳のゴーグル。昨日からテレビでは同じ人間の名前ばかりが連呼されていた。昨日二人で出かけた商店街の片隅、小ぢんまりとした家電店の前のテレビでは水泳中継を放送していた。あまりに熱心に彼が女子選手を見つめているものだからつい頭を張ってしまったが、それは可愛いやきもちだと思って我慢してくれたようだった。それから並んで家に帰って、夫が突然部屋から引っ張り出してきたのがそれだ。彼が学生の頃使っていたという。ゆっくりと立ち上がり、テーブルの上に置かれたそれを手に取った。黒いプラスティックレンズに、ゴムの青い縁。ふと思い立って、自らの眼鏡を外してテーブルに置き、それを頭につけてみた。何だか仄暗くなって勝手の悪かった視界は、暫くすると徐々に慣れてくる。そのまま、宿敵の待つキッチンに顔を向ける。何となく、今なら勝てるような気がした。
 キッチンに立ち、宿敵を鷲掴んで、包丁を握る。そして奴を一刀両断にした。暫く待ってみたがこちらにダメージはない。勝った。自分の姿を見てゲラゲラ笑う夫の顔がふと頭を過ぎったけれど、無視をした。さくさく、と包丁を下ろす度にする音が心地いい。窓の外からはきゃっきゃと子供たちの声がした。その愛らしい声に、ふと顔を上げる。そしてベランダの方に顔を向けた。その目にふと何か黒いものが映った。包丁を手放して、ゴーグルを額まで少し上げてみる。空を漂うその黒い物体は、鮮やかな赤だった。風にふわふわ揺られる、風船。その赤を暫く見つめていた天蓬は、ゴーグルを外して部屋を横切り、眼鏡を掛け直して財布を手にし、そのまま家を走り出ていった。

 妻に遣いを頼まれて、というよりも一方的に押し付けられて家を追い出された。ちらしの裏に走り書きされていたのは封筒と、豆腐と、チョコレート。見事にバラバラなそれを確認して、メモをジーンズのポケットに押し込む。これまで料理はいつも自分がやっていた。しかし元来妻は見事なまでの凝り性だった。何か料理に関係する本でも読んだのだろう、このところ、夕食を作るのは自分がやりたいと言い出すようになったのだ。元々器用な妻のこと、そしてきちんとレシピを見ながら作っているおかげもあり、妻の料理はとても美味しかった。美味い、と素直に称賛すると、向かい側に座って捲簾をじっと見つめている妻は、本当に嬉しそうに顔を綻ばせるのである。
 結婚をして彼是十五年。あの頃のような弾けるような体力も、『ときめき』もない。そして、若さゆえの熱過ぎる愛情は時と共にゆっくりと形を変えていった。今思えば気恥ずかしいほどの強烈な性欲も、程々に収まりつつあった。そしてそれもまた悪くないと思うようになった。妻はあの頃から変わらない。周囲を強烈に惹き付ける美しさも、奔放さも不器用さも、分かりにくい優しさもそのままだ。ただあの頃よりも少しだけ角が取れ、すぐに意地を張ってしまうところや何でも自分一人で抱え込んでしまうところはゆっくりと緩和されつつある。結婚したての頃は一切踏み込ませて貰えなかった範囲も、今ではそっと入れてもらうことが出来るようになった。十五年も経った今、漸く夫婦になっていくような気がした。
 切らしていた二百枚入りの封筒と、豆腐一丁、そして妻の好きなチョコレート。ビニール袋の中で揺れるそれらを片手に、坂道をゆっくり上っていく。目指すのは坂を登ったその先にある少し古びたアパート。ふと、空を見上げた。すぐに俯こうとしていた捲簾は、目の端に映った強い色に再び顔を上げた。僅かに赤みの差した空に、漂う更に強烈な赤。赤い色の風船が空に舞い上がっていく。一体どこから来たのだろう。ひょっとして、どこかでそれを手放してしまった子供が泣いているだろうか。そんな風に考えながら暫くぼんやりとその赤を見つめていた捲簾は、坂を上るのを止めた。そして踵を返し、そのままの足で坂を駆け降りていく。




 夫が帰ってきた。封筒と、豆腐と、チョコレート。それだけを買った割には時間がかかったようだ。包丁を手にしてまな板と向かい合ったまま「おかえり」を告げる。「ただいま」と声が聞こえて、重い足音が近づいてくる。包丁を持ったまま、顔を彼の方へと向けた。右手にビニール袋を提げた彼は、左手に何か見慣れぬものを掲げている。水がぱんぱんに詰まった小さなビニールの袋。中でゆらゆら揺れているのは、二匹の赤いお魚。暫くそれを見つめていた天蓬は、ゆっくりと首を傾げて彼を見上げた。
「……どうしたんですか」
「掬ってみた」
 夫は大真面目な顔をしている。その顔と金魚を交互に見つめながら、昔一目惚れして買った金魚鉢は一体どこにやっただろうかと考えた。包丁を置いて、彼へ近付く。そしてじっとその袋に顔を近づけ、中で泳ぐ魚を見つめた。その二対の小さな眸が自分を捉える。金魚掬いの金魚は、悲しいかな短命だ。碌にケアもされず、病気に罹っていることが多いためである。別れはきっとそう遠い話ではないだろう。いつも彼に咎められるマイナス思考で無意識にそう思っていると、彼はすっとその袋を下ろして、天蓬の顔に自分の顔を近づけてきた。その顔は、怒っているような、少し困っているような微妙な表情だった。そして、しようのない子供を見つめるような目でもある。彼はそのままごつんと自分の額を天蓬の額に軽くぶつけた。痛みのない衝撃にきょとんと目を見開くと彼は苦笑いをした。
「またおかしなこと考えてる」
「すみません」
「いいよ」
 彼の唇が自分の額を優しく掠めて、思わず額に手を当てた。ほわりとその部分だけが熱い気がした。それを見て笑いながら、彼は戸棚からガラスのボウルを取り出してくる。そしてそれ一杯に水を溜めてシンクに置き、その中に金魚を放流した。漸く狭い空間から出られた金魚はぴちぴちと跳ねて、水の中をすいすい泳いでいる。金魚鉢を探してくると言って、彼はリビングを出て行った。金魚二匹と一緒に残された天蓬は、少しだけ腰を屈めて、ガラス越しにその赤い魚を見つめた。何とタイミングの悪いことだろう。そう思いながら天蓬は、コトコトと揺れる鍋を見つめた。ほとほと困り果てて溜息を吐く。時折見せる彼の無邪気さには、こちらが参ってしまうのである。

 今夜のメニューには玉葱のサラダが入っていた。玉葱を切るのが何より嫌いな人が一体どうしたものか、と考えながらキッチンに立った。その時ふと、シンクの脇に置かれた自分のゴーグルが目に入った。昨日の夜からテーブルに置いたままになっていたはずのそれは何故ここに、と考えてすぐにその意味に思い至る。これはきっと妻があの宿敵に立ち向かう際の盾になってくれたに違いない。思わぬ活躍を見せた自分の持ち物を労って、それをポケットに押し込んだ。自分がそのことに気付いたと知ったら、きっと恥ずかしがるに違いないから。
 黙って座っていろと言うものだから、捲簾は黙ってダイニングテーブルの前でぼんやりとテレビを見ていた。昨日金メダルを獲った女子選手のニュースが飽きるほど放映されている。知りたくもない家族構成までうっかり記憶してしまいそうになるほどだ。何度も映し出される決勝戦のVTRに飽きて、リモコンでテレビを切る。ぶつ、と無機質な音がして、不機嫌そうにテレビは映像を消した。
 ダイニングテーブルの上には、妻が昔どこからか購入してきたレトロな金魚鉢の中でゆらゆらと揺れるように泳いでいる。明日は餌を飼って来なくてはならない。頬杖をつき、そう思いながらガラスの表面を軽く爪で叩いた。そうしているとキッチンからはいい匂いが漂ってくる。食欲を刺激されて、金魚鉢から顔を上げる。するとキッチンの方から大皿を二つ手にした妻が、よたよたと歩いてきた。コト、と小さな音を立ててテーブルに置かれたのは、それはそれは美味しそうな金目鯛の煮付だった。顔を上げてみれば、少しきまり悪げな顔が困ったようにこちらを見つめていた。その顔を見て、金魚を見た彼の顔が曇った理由に気付いたのだった。
「……つい」
 そしてその曇った目はちらりと金魚鉢の中の金魚に向けられる。お魚の前でお魚を美味しく頂くのは、少しだけ良心が痛まなくもない。しかし捲簾がその金魚をとってきたのも、単なる気まぐれだ。きっと天蓬が夕飯に金目鯛を選んだのも、ただの気まぐれに違いない。
「座れよ。注いでやる」
 椅子から立ち上がり、サイドボードからグラスを二つ取り出す。そして冷蔵庫から酒のパックを出してきた。大人しく向かい側の椅子に腰掛けた妻の前にグラスを片方置く。自らも自分の椅子に腰を下ろしてから、二つのグラスに透き通った透明の液体を注いだ。ゆらりと交差するように泳ぐ二匹の金魚が、ガラスの曲面に差しかかる度に大きく見える。
 自分の前に置かれたグラスを持ち上げると、天蓬もまた圧されたように自分の前にあるグラスを持ち上げた。軽く二つのグラスの口を触れ合わせると、涼やかなガラスの音がした。ふと思い付いて、自分のグラスを軽く金魚鉢の縁にもぶつけてみた。思ったような軽やかな音は耳に出来ず、少し鈍い、ごち、という音がした。僅かに落胆して唇を曲げると、それを見ていた天蓬が笑う。やっと笑った妻を見て、捲簾も口元を緩めた。グラスに口をつけて、少しだけ酒を口に含む。変わらず隣にいてくれる人に感謝しながら。








月●冠「つき」の前CMがすごく好きでした。すごくセンスがいいCMで大好きだったのに何で変わったんだ…orz
タイトルバーのコピーはそのCMのものです。CMのストーリーそのままだとただのダブルパロディなので、ちょっと違う感じにしました。
2007/06/20