※天蓬と八戒(と金蝉)は女体化、捲簾と悟浄は男で兄弟です
※悟浄と八戒は仲良し年の差カップル
※舞台はお嬢様だらけの名門女子校
※花喃様は天蓬さんがお好き

以上の項目を笑い飛ばせる方のみお進み下さい。いっそギャグとして見ればいいと思います。























 駅のトイレで制服から私服に着替え、慌てて待ち合わせの喫茶店へと向かう。年季の入った木のドアを押し開けると、控えめにカランカランとベルが鳴った。いつも穏やかな店主が微笑みかけてくれるのに会釈をして、店内をきょろりと見渡した。しかし待ち合わせの相手はどこにもいないようだった。慌てて走ってくることもなかっただろうかと、制服の入れられた紙袋を逆の手に持ち替えて溜息を吐いた。そんな八戒を見ていたのか、洗ったグラスを拭いていた店主はのんびりと微笑んで言った。
「悟浄なら今トイレだよ。そこの、窓際の席で待っていたらいい」
 そう言われて見てみると、その席の椅子には見慣れたバッグが置かれていた。どうやらとっくに到着していたようだ。感謝を告げてからその席の向かい側に腰掛け、遅刻の理由をぼんやりと考えていた。そうしているうちに奥のトイレから水音が聴こえてきて、それと同時にガチャ、とドアが開いた。俯いたまま出てきた男は不意に顔を上げ、その紅い眸に八戒を捉えてその目を優しく緩めた。ひらりと手を振ると彼は少し早足で席へと戻ってくる。そのいつも通りの笑顔にほっと息を吐いた。
「遅かったじゃん、二十分は待ったぜ?」
「すみません、思った以上に時間が掛かってしまって。意外と時間が掛かるんですね」
「……そっか、お前先週から高校だもんなぁ。しかもあの桃女なんてさ……で、どうよ、新しい学校は。馴染めた?」
「どうもこうも。全くの新世界ですよ」
 そう話に入っていこうとするところで、ふっとテーブルの横にウェイトレスの女の子が現れた。オリジナルブレンドを注文すると愛想のいい少女はすすっと下がっていく。その後ろ姿を無意識に目で追ってから、再び八戒は話を始めた。ニヤニヤと珍しく気疲れを露わにする八戒を面白そうに眺め、彼は八戒の言葉を待って何も言わずにいた。
「いくら女子校とはいえ、漫画通りじゃないはずだと思ってたんですけどねえ」
 ふう、と溜息を吐く八戒に、悟浄は驚いたように目を瞬かせた。彼は一昨年から交際をしている四歳年上の悟浄。一般的な共学の公立校に通っていた彼にあの新世界を見せてやりたいと思った。むしろ、男はそういうものを見て喜ぶのだろうかと嫌なことも考えてしまう。こほんと咳払いをして気分を切り替え、丁度いいタイミングで届いたコーヒーを少し啜る。その温かさで少しだけ心が和んだ。
 親からの言い付けで進学した高校は私立の名門女子高だった。女ほどに恐ろしいものがあると思わない八戒は勿論嫌だと思ったが、中学の時に『高校は絶対に言うことを聞くから』という約束で普通の公立校に通わせてもらった手前、それ以上に我儘を重ねるわけにも行かなかったのだ。母親も卒業したというその高校は、桃源女学院。先程悟浄が言った通り、通称は桃女(ももじょ)である。所謂金持ちの子女ばかりの通う学院だ。とても友達など出来そうにない、と思っていたが割に人懐っこく無垢なタイプも多いようだった。にこにこ表面は微笑みながら、流石は温室育ち、と心の中では思っていたが。
「何だよ、なんたらオネエさま〜とか呼び合う関係とかがマジであるとか? ある意味覗いてみたいけどね、そんな世界なら」
「そんなではないですけど……個人的に美人の先輩をそう呼んでる人は沢山いそうですよ。実際もっとすごいのがありますから」
「勿体振んなって」
「実は、“花の君”と“月の君”とお近付きになってしまいました」
 ハナ? と明らかに顔についているパーツを指して言う悟浄につい笑いつつ、角砂糖の小瓶に手を伸ばした。
「それが所謂“オネーサマ”ってわけか。……勿論美人なんだろうな?」
 助平ったらしい笑みを浮かべながら言う男が自分の恋人であると何となく認めたくなくて顔を逸らしながら、瓶から一つ角砂糖を濃茶の液体の中に浸した。すぐに形を失ったそれをスプーンで掻き混ぜて溶かしながら、自分のつまらない気持ちを持て余す。
「ええ、びっくりするほどね。本当にお人形さんみたいに綺麗な人たちなんですよ。しかも花の君は月の君を溺愛してて、そっちの方も新世界でしたよ、本当にこういう世界があるんだなあって。カルチャーショックっていうんでしょうね」
「うわ、女の園って感じ……?」
「なまじ二人とも美人なだけに、何かそういう映画でも見ている気分ですよ。ああして見ている分には、綺麗なものですね」
 そう冗談めかして言うと、悟浄の表情は僅かに曇った。ひょっとしたらそういったことに抵抗があったのだろうかと不安に思うと、それを察したのか悟浄は慌てて「違う違う」と手を振って言った。そしてどこか煮え切らない様子で、目の前に置かれたコーヒーカップの把手を弄っている。何を言いあぐねているのか不審に思いつつも、彼が口を開くのを黙って待つ。
「いやぁ……お前がそっちの道に引き摺り込まれやしないかと」
 おずおずと、どこか恥ずかしそうに言うのについ吹き出してしまう。ばつが悪そうにそっぽを向く彼が何だか可愛く感じられてしまう。残念ながらと言うべきか、有り難いことにと言うべきか、自分は今のところそういった視線を受けることもなければ、そのマドンナたちからも可愛がられこそすれそういう目は向けられていない。尤も、花の君の場合は月の君以外の人間に興味はないのではないだろうか。
「そんな心配要りませんよ、僕、女の子にモテないみたいです」
「……ならいいんだけど」
 照れ隠しのようにぼそぼそ言う彼に胸が温かくなるのを感じながら、少しだけ甘くなったコーヒーを口にした。

 初めて見かけたのは、階段の踊り場でだった。所謂お嬢様という括りに一応八戒自身も入るのではあるが、これまではごく普通の公立校で学んでいたせいでそのお上品な雰囲気にすぐ馴染むことが出来ず、昼休みを一体一人どこで過ごそうかと悩んでいた。行き場もなく校内を歩き回りながら、屋上は入れるのだろうかと上へと向かおうとした途中、階上からばさばさと何かが落ちる音がしたのに気付いて駆け昇った。その先できょとんと立ち尽くしていたのが後に知る、“月の君”だった。その麗しい評判をまだ知らなかったからこそ気軽に声を掛けられたとも言える。大丈夫ですか、手伝います、と何の気なしに掛けた言葉に、その少女はゆったりと顔を上げ、ふわりと優しい月明かりのように微笑んだのである。同じ女の自分であっても思わず息が止まってしまうようなその美しさに、一瞬ぎくりとしたのであるが。月の君、こと天蓬。ステンドグラスの使用された踊り場の窓から差し込む光を受けて一人立ち尽くす姿は、たとえ回りに散らばっているのが大量の本だとしてもそんなことを忘れてしまうほどに美しかった。黒の絹糸が肩まで真っ直ぐに伸びて、白い頬に掛かっている。深くを覗き込めば落ちていきそうな珈琲色の眸に微笑み掛けられて、本当に時間が止まったように感じたのだ。
「ありがとうございます。少し、ぼんやりして歩いていたものですから」
 ふわりと微笑みながら掛けられた言葉に、漸く自分が息を詰めていたことに気が付いた。本を拾い集める手を再び動かし始めた。どう見ても日本語ではないハードカバーの本ばかりだ。この学院の学力は両極端だという。生まれてから甘やかされてばかりで碌に勉強もしていない頭の足りないようなお嬢様と、幼い頃からきっちりと英才教育を施されたエリートコースまっしぐらのお嬢様だ。間違いなくこの人は後者だと、噂を知る前の段階でもそう思った。結局、何故かその本の半分を持って運ぶ手伝いをすることになった。今思えばあの人からは何か人を惑わす香りでも出ているのかというほどに呆気なく陥落したように思う。
「これをどこまで?」
「第二音楽室まで。友達が待ってるんです」
 音楽室に大量の本を持ち込んで一体何をするのだろうと不思議に思ったが、その疑問は割とすぐに解けることとなった。第二音楽室は主にオーケストラ部の練習の為にある部屋だという。その部屋に近付くに連れて、ピアノの音が響いてくるのに気が付いた。すると訊ねるまでもなく、友達が弾いてるんですよと嬉しそうに彼女が言った。それは静かな廊下に響き渡る優しく、少しだけ哀しい綺麗な旋律だった。
 そして第二音楽室のドアを開けた瞬間、二度目の衝撃が待っていた。ドアを開けると奥に置かれたグランドピアノの前に、蜂蜜色の髪をした少女が座っていた。緩く編まれた三つ編みを肩から前に垂らし、鍵盤と向き合っている。透けるような白い指を鍵盤に乗せたまま、開いたドアの音に顔を上げた。そして少しの驚きと共にそっと微笑む。後に知ることになる“花の君”、こと花喃との出会いだった。
「あら、……珍しいお友達ね。どなた?」
「こちら、新入生の八戒さん。階段で本を落としてしまって、拾うのを手伝って下さったんです」
 そう天蓬が言うと、椅子に腰掛けていた花喃はゆっくりとした動作で立ち上がり、二人の方へ向かって歩いてきた。そしてありがとう、と言いながら八戒が持っていた本の束を受け取った。つい気圧されてそれを差し出すと、彼女はふわりと花が開くように華やかに艶やかに微笑んだ。窓から差し込む光に髪が透けて、太陽の色を帯びる。白く陶器人形のような頬に蜂蜜色の髪が寄り添う。
「いつもこうなの、ごめんなさいね。……天蓬、いつも一人で持てる分だけにしなさいって言ってるでしょう」
「だって、また取りに行くの面倒じゃないですか」
 いつもここで彼女の演奏を聴きながら本を読んでいるのだとここまでの道中に聞いた。八戒が所属するのは普通科だが、この学院には音楽科がある。きっと彼女は音楽科の生徒なのだろうと当たりを付ける。
「本ばかり読んでいないで、あなたも練習したら良いんだわ」
「え、練習?」
 それまで静かに話を聴いていたにも関わらずついそう声に出してしまうと、隣に立っていた天蓬は少し困ったように笑って助けを求めるように花喃を見、しかし対照的に花喃は誇らしげに微笑んで天蓬の肩にトンと手を乗せた。助けてくれる気はないのだと悟ったように苦笑いした天蓬は少しだけ笑って頬を指で掻いた。その時、肩に乗せられた花喃の白い手が天蓬の少し紅潮した頬をするりと撫でて、その刺激に天蓬がぴくんと目を細めた。その僅か数秒の出来事に、八戒はまるで見てはならないものを見てしまったように内心酷くうろたえて、ついと視線を逸らした。衣擦れの音だけを聞きながら顔を上げられず、花喃が口を開くまでじっと腹の前で組んだ自分の手を見下ろしていた。
「天蓬はうちの音楽科でも随一のヴァイオリン奏者よ」
「随一なんて止めて下さい、去年のコンクールだって碌な成績を残してない」
「腕を怪我したせいね」
 そう言われると少し拗ねたように天蓬は、負けに言い訳はしたくないんです、と一人ごちた。そんな天蓬を微笑ましげな眸で見つめていた花喃は、ちらりと八戒の方へと目を向けて微笑んだ。
「聴いていく? この子にも人に聴かれているっていうプレッシャーがなくちゃね」
 かくして、後に全校生徒から羨ましがられることになる彼女たちの二重奏を独り占めすることとなったのである。それと同時に、あの時代錯誤な通称のことを知ったのだった。
「ああ……あれですか。何なんでしょうね。いつからあるのか、誰が言い出したのか僕は知らないんですが……花喃は?」
「知らないわ。勝手なものよ、私なんてそのままだもの」
 そう言って“花の君”は、その花の顔を少し不服げに歪めて譜面に手を伸ばした。度々音楽室に誘われるようになった八戒は、全校生徒の羨望の視線を背中に感じつつも今日も第二音楽室に足を踏み入れた。そして少し悩んだもののあの通称について訊いてみたところがこの反応である。二人とも困惑している様子である。まあ、こんな一歩間違えば笑えないジョークのような徒名が公認だったら公認だったでおかしいとは思うのだけれど。
「ところで、花と月がいたら太陽とかもいそうですよね」
 譜面を指でなぞっていた花喃は、特にものを考えずに言った八戒の言葉に動きを止めた。まずいことを言ってしまっただろうかと動揺する八戒をよそに、花喃の横でペラペラと本を捲っていた天蓬はそんな二人の様子を見て小さく笑った。
「いますよ。太陽。花喃は太陽の君とあまり仲が良くないんです」
「嫌いよ」
「こら、どこに耳があるか分からないでしょう。同じ三学年で、金蝉といいます。大分もう噂で聞かれていると思いますけど」
 男の陰の全くないこの学院で噂になることといえば、美人の生徒か金持ちの生徒の話だ。そのどちらにも当てはまると言われる“金蝉”という存在を八戒も聞いたことがあった。代々続く茶道の家元の一人娘と言われる彼女は、長い金糸の髪と紫紺の眸を持つ絶世の美女と言われている。八戒はまだ見かけたことはないのだが、一体花と太陽との間にどんな因縁があるのかが気になった。しかしこのつまらなさげな花喃の様子を見て訊ねることは出来ない。そんな気持ちを汲み取ったように天蓬は開いていた本を閉じてから言った。
「僕も分からないんですけどね、どうしてあんなに二人の間に確執があるのか。そもそも花が太陽を嫌うなんて不思議な話」
「あら、じゃあ私は月下美人ということにして頂戴」
 その瞬間、八戒はその声に混じった艶に反射的に身を硬くした。艶やかに微笑んだ花喃の細い指先が天蓬の頬に触れ、するりと滑って顎を捉える。逃げたい、と咄嗟に思ったが一体今ここでどうやってどこに逃げ隠れすると言うのか、と立ち竦んだ。きょとんと目を瞠ったまま花喃を見ている天蓬にはSOSを送ろうとも全く意味がない。それどころか逃げることも、その手を払うこともなくぽかんと口を開いたまま花喃を見つめた天蓬は、訝しげに首を傾げた。
「一晩で散っちゃうじゃないですか……しかもサボテンだし。いえ、僕サボテンは可愛くて好きですけど」
「あなたが好きならそれでいいわ」
(うわわわわあわ……)
 それは暗黙の了解、というものであった。それを入学後一週間で悟ることが出来たのはある意味幸運である。花は月を恋い慕い、太陽は月を慈しむ。これがこの学院における奇妙な三角関係だった。どの存在も人形のように美しく、心の中のどろどろとした汚らしさをまるで感じさせないためにそれは演劇のワンシーンのように美しく迫力があった。入学前までは想像もしなかった世界の中で、しかし元々順応能力の高い八戒は入学後二週間もする頃にはもう違和感など感じなくなっていた。感じなくなるならざるを得ないような環境に置かれたせいとも言える。そうしてゆっくりと学院に馴染んでいくうち、不思議に思ったことは自分が特段生徒たちからの嫌がらせを受けたりしないことだった。後に知ることになるのだが、それは彼女たちが選んだものには手を出さないという暗黙の了解があったのである。当面の安泰な生活は確保されたということだ。勿論悟浄が心配するようなことも有り得ない。これだけは言っておくが決して女にもてたいわけではないのである。



「まあ、楽しそうでよかったよ。よく考えりゃ心配するまでもなかったか、お前上っ面いいし」
 何て言い様、と顔を顰めると、彼はまるで悪気のないような笑顔を浮かべて頭を掻いた。何だか酷くその表情が懐かしい。毎日の殆どを女ばかりの環境で過ごしているものだから、その男らしい腕を見ているだけで不思議な気分になる。八戒の視線の先を不思議に思ったのか、悟浄がその紅い目を瞬かせるのに苦笑いした。不思議なものだ、たった一、二週間会っていなかっただけで、まるで酷く昔の友人にあったような気分になるのだ。
「どした?」
「いえ……本当に世界が違うんだなあって。毎日細くて綺麗な女の人ばっかり見てるから、何だか悟浄が新鮮で」
「何? 俺のような美形が彼氏でよかったって?」
「まあそんなところです」
 否定すれば余計に喜ぶ男なので、軽く肯定して受け流しておく。しかしそれでも彼は嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。しかしその笑顔すら自分をほっとさせるものだった。決してあの学院にいることが辛いわけではない。友人も出来、固いお嬢様ばかりではないことも知った。ただ、少しだけ女の園特有の息苦しさを感じないでもないのだ。そんな中で、そんな息苦しさも感じず、今まで過ごしてきた環境とも違う、静かな空間を与えてくれるのがあの二人の傍だった。時折、それとはまた違った居心地の悪い空気を漂わせることはあるが。ただ同性愛という括りに押し込めてしまうのもよくないような気を起こさせるのだ。安易にからかってはならないのだ。
「ナーニ考えてんだよ、男の前で」
「女のこと」
「……何、その先輩のこと?」
「内緒ですよ。そういえば昨日言ってた用事って何ですか?」
 恋人同士が会うのに特別な理由は要らないが、今日は昨日彼に電話で「聞きたいことがある」という名目で呼び出されたのだ。その話を振ると、話を逸らされたことを少々不服に思っているような表情で、それでも彼はこほんと一つ咳払いをした。
「女を紹介して欲しいんだけど」
 刹那、咄嗟に八戒はテーブルに置かれた水の入ったグラスを掴んだ。しかしそれを八戒が持ち上げる前に、ほぼ同時にグラスを上から悟浄の手が押さえつけた。行動を読まれていたことに思わず舌打ちをすると、困ったように笑った彼はゆるゆると首を横に振った。
「俺だって流石に恋人に向かって女の子紹介して〜なんて言わねえっての……俺じゃなくて兄貴」
「捲簾さんが、どうしてまた」
 悟浄の兄は彼を見れば分かる通りの女好き、しかも悟浄よりも数枚上手を行く男だ。悪い人ではないと思っているが、温室育ちの無垢な少女があんな男の餌食になるのだと思えば顔を顰めてしまうのも致し方ない話であろう。それを悟浄も分かっていたのか、承諾し難いと眉根を寄せる八戒に苦笑いをした。そして指先でカップの縁をなぞりながら話を切り出した。悟浄の口から少しずつ語られるそれは、聞くだけで恥ずかしくなってしまうようなくすぐったい恋の話。



 大学の先輩の紹介で始めた書店のアルバイトももう一年が経つ。夜遅くまで開けていることもあり、様々な人を見ることになるので暇潰しは専ら人間観察だった。夜ともなればレジに立って万引きを監視するばかりになる。単調な仕事だ。飽きる飽きないではない、仕事なのだから。そんな単調な日々に、一定のリズムを作り出したのはある少女の存在を知ってからだった。毎月必ず、ある文芸誌を一冊購入していく少女。時折それに彼女が好きな作家なのか、単行本が混じる。彼女の好きな作家がぱっと頭に思い浮かべられるほどに、彼女の記憶は鮮明だった。有名な女子校の制服を纏い、一寸のだらしなさも窺わせない。それが礼儀であるにせよ、彼女が帰り際に微笑んで少しだけ頭を下げてくれるのが堪らなく幸せな瞬間だった。桃源女学院といえば知らぬ人間のいないような名門だ。自分のような貧乏学生が縁のある存在ではない。今までは決して狙った相手を見送るなどということは有り得なかった。しかし今はどうしても触れられない。下手を打てば、あの微笑みが汚らわしいものを見るような目に変わってしまいそうだと思ったからだ。それがたとえ万人に向けられるものだとしても、微笑んでいて欲しかったからだ。
 少女は毎月二十日、七時過ぎに書店のドアをくぐる。何とかその日その時間には確実にレジに立つようにしている。そしていつもの文芸誌を彼女がレジに持って来るのを待つのである。自分で考えても何とはなしに気持ちの悪い行動だ。しかしそれ以上踏み込むことも出来ず引くことも出来ず、自分らしくもない「待ち」の姿勢に甘んじていたのだった。
「七百十円です」
 しかも今日に限って客がいない。がらんとした店内で、目の前で彼女が財布の小銭入れをごそごそと探っている。いつもの自分ならどうとでも声を掛けられるのではないのか、と悔しくて堪らなくなる。距離を縮めたいなんて我儘は言えない。彼女がこの書店に来なくなったら、それで終わりなのだから。繋がりなど、糸一本すらもない。そして悩んでいる間にも差し出された千円札と十円玉に思わず客である彼女の前で溜息を吐きそうになった。慌てて溜息を飲み込んだその瞬間、思わず耳を疑った。
「いつもお疲れ様です」
 それが彼女の放った言葉だと瞬時に信じられなくて思わずじっと見つめ返してしまう。財布を手に、彼女は不思議そうに捲簾を見上げていたが、そのうち何かに思い至ったようにあ、と声を漏らして困ったように首を振った。
「すみません、いつもここに来る度にあなたにお会計して頂いていたのでつい……」
 照れたように笑ってからもう一度、すみませんと謝る彼女にふっと我に返った捲簾は慌てて訂正した。そして慌てて釣り銭の三百円を差し出す。手が触れたらそれはもう初恋の少女のように手を引っ込めてしまいそうだと思ったのでそっと、手が触れ合わぬように手渡した。何も言わずに釣り銭を仕舞い込む彼女を黙って見つめた。空調の音と心臓の鼓動の音がやけに響いている。財布のファスナーを閉めた彼女は、そのまま笑顔だけを残してカウンターの上の本を持って出口へと向かう。ああ今週も終わってしまう、と思いながらその姿を眺めていると、自動ドアの手前で少女は急に立ち止まり、きょろりと振り返った。そしてまた柔らかな微笑みを浮かべた。ぺこりと頭を少し下げてドアから出ていく。まるで天使が通った後のようにその付近はきらきらと輝いて見えた。



「実に末期ですね。でも、あの人が」
「そうなんだよなあ、あの人が」
 二人の言葉の“あの”には色々な意味が込められている。あの気の多い、あの移り気な、あの女好きが、一人の少女に恋をして数ヶ月というのだから驚いた。そもそも今までの彼の場合、片想いの期間はつまりアタックをしている期間であった。だからあまり片想いをしているというイメージがなかったのである。そんな人が自分から話しかけるでもなく数ヶ月間、月に何度か会える機会に賭けて様子見しかしていないというのは些か不気味ですらある。名門女子校というところがネックなのか。しかし彼は目標が高ければ高いほど活き活きとする質だ。相手の地位を見て尻込みするわけがない。
「『イヤーフケツですー』って言われる可能性が無きにしも非ずですけど」
「でも自分から声掛けてるんだぜ、気が全くないわけじゃないだろ」
「そういうのって男の思考ですよねえ……」
 渋い顔をする八戒に悟浄は慌てたように言葉を継ぐ。まあそんなステレオタイプなお嬢様はごく少数だ。実際男に全く興味がない生徒がいないでもないが、恋人のいる生徒だっているのである。それにしても桃源女学院は選ばれた子女しか通っていないとはいえかなりの生徒数がある。特徴を聞いたところで八戒に分かるだろうか。とりあえず明日にでも詳しそうなクラスメイトに聞いてみるつもりで、八戒は生徒手帳を取り出した。
「で、どんな子なんですか?」
「んーと、あいつから聞いた分では、髪がこんくらいで黒」
「セミロングで黒。他には?」
「えっと……そうだ眼鏡、黒縁の。肌は白めで」
 そう言われても、これだけの特徴では該当する生徒が多すぎる。その中から美人を絞り込んだとしても、両手では足りないだろう。何かもう一つ、滅多にないような特徴を持っていなければ特定は出来ない。そもそも彼が自分で聞けばよかったのだ、名前を。折角相手から話しかけてもらえたのにそのまま帰すなんて、彼のすることとは思えない。
「……これじゃ、無理かな?」
「無理でしょう。そんな子いっぱいいますよ。……何か、持ち物とかアクセサリーとかないんですかね」
 テーブルに頬杖をつき、窓の方を見つめて何か考え込んでいた悟浄は何か思い出したように手から顔を離した。
「そういえば、制服だ」
「制服は皆着るでしょ」
「じゃなくって。制服の襟の、ここんとこにブローチがついてたって言ってたような気ィする。何か、花の形したやつ? ……あ、でももしかしてそれ全員付けてるとか……?」
「いいえ? 花のブローチ? ……あ、そうだ。生徒会の役員バッチが確か桃の花の形だって聞いた気がします」
 その言葉に悟浄の表情にも安堵の色が浮かぶ。少なくとも生徒会の人間だと分かれば、数人の中から条件に合う者はいたとしても二、三人くらいのものだろう。そしてその中で彼が心底惚れ込むような者、とくれば大体特定出来るはずである。しかしそこで他の問題が持ち上がって来る。生徒会のメンバーといえば、ただでもレベルの高い生徒ばかりがいる学院の中でまた更にワンランク上となるのだ。そんな一種浮世離れしたような人が、一般人などに興味を持つだろうか。
(でも、その人が自分から捲簾さんに話し掛けたって言うし……平気かな?)
 どちらにしても、八戒は何が何でも捲簾の恋を叶えたいと思っているわけではない。悟浄が頼むから、暇潰しに調べてみてもいいかくらいに思っている程度だ。しかしなかなか面白そうな話である。美人には見境なく手を出しては百発百中の男が指を咥えて見ていることしか出来ない美少女に、一目会ってみたいと思ったのである。それをネタに多少突付いても、今まで散々からかわれた仕返しとして妥当であろう。
 花のブローチの美少女を探す。それだけで何だか少しわくわくした。



「花のブローチ、確かに生徒会の方が付けているみたいです。生徒会といえば、本当に選ばれた素晴らしい方ばかりですもんね!」
 興奮したように頬を火照らせてそう言うのは、クラスで最初に親しくなった八百鼡だった。彼女もそちらの趣味があるのかと思えば実は既に男の恋人がいたりして、意外と分からないものだと思う。それと同時に徐々に分かり始めてきた。皆から熱い視線を集める女生徒たちは決して恋情だけを集めているわけではないのだ。それぞれに尊敬を集めるだけの秀でたものを持っているのである。それも、家柄以外の何かを。単に名家の娘だから、金持ちだから、という理由で持ち上げられている者は結局そこまでなのだ。
「生徒会のメンバーって何人ですか?」
「えっと、生徒会長に副会長、書記二人に会計二人、あとは議長……だから七人でしょうか」
 全員の顔はまだ分からない、と言われてしまい、流石にそんなに簡単に見つかるはずがないかと諦めた。クラスにはもっとそういうことに詳しそうな生徒もいるのだが、下手に嗅ぎ回って怪しまれるのはあまり得策とは言えない。授業をぼんやり聞きながらはたと思いついた。自分にはもっと頼れる後ろ盾があるではないかと。
 そう、花喃か天蓬に訊けば手っ取り早いに違いないと思ったのである。昼食の誘いを断り、いつものように第二音楽室へ向かう。足取りも軽く階段を昇っていくと、前に揺れる蜂蜜色が目に付いた。
「花喃さん!」
 他の生徒はそんな風に気軽に名前を呼んで呼び止めることなど出来るはずもないが、八戒は何故他の生徒がそんなにも萎縮するのか分からなかった。花喃自身も分かっていないらしいので仕方のない話だ。呼びかけに階段を昇る足を止めた彼女は振り返って小さく微笑んだ。柔らかそうな髪を今日は解いたままでいる。肩から柔らかく滑り落ちたそれは光沢を放って彼女の顔を包み込んでいた。
「天蓬さんは一緒じゃないんですか?」
「ええ、用事があったから先に行ってもらったの。あなたもこれからご飯?」
 はい、と言って手に持った小さなランチバッグを持ち上げてみせる。食堂も勿論ある学校だが、最初の頃から音楽室に通うのが常になってしまったせいで毎日弁当を持って来るようになってしまっていた。尤も花喃や天蓬の場合、食堂に入っていけばわらわらと回りに人が集まって食事にならないからだという。初めて聞いた時はこれが有名税というものかと感心したものである。
「今日はカップケーキを焼いてきたんですけど……」
「あら嬉しい。本当にいつもありがとう、八戒」
 優しい微笑みでそう言われると流石に照れてしまう。頬が赤くなっているだろうか、と思いながらも誤魔化すように少しだけ笑った。彼女たちが本当に綺麗なのは、否定しようのない事実だ。こんな人たちにだったら、同じ女であってもよろめいてしまうのも分からなくはない。そんなこと、妙に心配性の悟浄には内緒だけれど。
 彼女と並んで音楽室に近づいていくと、何やらピアノの音がする。しかしいつも音楽室から響いてくるような優しく切ない旋律ではなく、ポップで軽快な、大分小さな頃から聴き覚えのあるメロディー。そう思っていると、隣を歩いていた花喃は大きく溜息を吐いて眉根を寄せた。そしてつかつかと音楽室の前に歩いて行き、ガチャリとドアを開ける。途端に音は止まり、迎えてくれたのは優しい月の微笑みだった。
「あ、遅かったですね。もうお腹空いちゃいました」
「……天蓬、どうしてよりによって『ねこふんじゃった』なのかしら」
「だって僕これしか弾けないんですよ〜……あ、チャルメラなら何とか……」
「天蓬!」
 ビク、と肩を竦めた天蓬は花喃の形相に怯み、顔を逸らしながら「冗談ですよ」と弱々しい声で言った。その横滑りした視線がぴたりと八戒を捉える。そして救いを求めるようにふにゃりと笑ってこちらに向かって手招きをした。
「八戒も入ってきたらどうですか」
「あ、失礼、します……」
「恥ずかしいところを見せちゃいましたね」
 ピアノを片付けた天蓬は椅子から立ち上がり、こちらに近付いてくる。それと同時に花喃が何か、ポケットを探り始めた。そして取り出した何か、小さなものを天蓬の掌に握らせた。
「天蓬、ほら。今度はなくさないのよ」
「あ、ありがとうございます」
 手渡されたそれが何なのか気になって覗き込もうとすると、それに気付いた天蓬がその小さなものを目の前に差し出してくれた。それは螺鈿のような細工のされた十円玉ほどのサイズの花のピンバッジだ。
「桃の花ですよ。生徒会役員が付けるものです」
「え……じゃ、何、えっ、天蓬さんって生徒会役員……?」
「そうですよ、花喃も。ね」
 そう言って天蓬は八戒の後方に向かって微笑み掛ける。それを振り返ると、微笑んだ花喃が立っていた。そして肩に掛かるふわりとした蜂蜜色の髪の毛を後ろに掻き上げる。すると制服の襟が露わになり、確かにそこには今天蓬の掌の中にあるそれと同じものが付けられていた。ただの役員証にしては凝ったデザインで、臙脂色の襟の上に淡い桃色が映える。
「僕はともかく、花喃が生徒会役員だと知らないってことは、ひょっとして入学式で寝てましたね?」
 天蓬がからかうように言った言葉で八戒は目を瞠った。入学式に出席していれば必ず目にする生徒会役員と言えば、他にいない。慌てて顔を上げた八戒に、乱れた髪を直しながら困ったように花喃は微笑んだ。ふわりと甘い香りがした。
「それじゃあ花喃さん」
「生徒会長、よ」
 ちなみに僕は副会長ですよ、と笑いながらバッチを自分の制服に取り付けようとしている。しかしうまくいかないのか手こずっているようである。しかしあえて八戒は手出ししなかった。もうすぐだ、と思ったからだ。
「しょうがないわね……貸しなさい」
 天蓬の元に歩み寄った花喃は、天蓬の手からバッチを取り上げて襟の生地をそっと持ち上げた。そして生地を掬い上げてピンを留めていく。その距離の近さでありながら天蓬は全く違和感を感じていないようである。対して見ている八戒の方が照れて顔を逸らしてしまいたくなった。トン、と花喃が天蓬の肩を叩いたところで漸く顔を上げる。
「クリーニングに出す時以外は外さなければいいのよ」
「外してないですよ〜、体育が終わってから見たら、もう制服に付いてなかったんです」
「それって盗まれたってことですか?」
「そうね、最低の行為だわ。前からよくあったのよ、そのせいで私は少し前にロッカーの場所を移したんだけれど。……私からも先生方に話しておく、鍵は壊れてなかった? 場合によってはあなたのロッカーも移動しましょ。とりあえず荷物は生徒会室に置いて」
 よもやここまでとは、と八戒は開いた口が塞がらなかった。有名税とはいえ、こんなことでは流石に嫌になるだろう。しかし怒っているのは花喃ばかりで天蓬はどうでも良さそうだ。身の周りのことにあまり頓着しないらしい彼女は、お金や服でも盗られない限りはああしているに違いない。ひょっとしたら大切な本を盗られたりしたら本気で怒るかも知れないけれど。
 そこで、ここにやってきた本来の目的を思い出し、それが非常に有利な方向へと向かっていることに気が付いた。彼女らは三学年だから詳しいだろうと思い訊こうとしたのだけれど、その彼女たちが生徒会役員だというのだから。
「あ、あのっ天蓬さん、つかぬことを伺いますが」
「何ですか?」
「生徒会の中に、こう、肩くらいまでの黒髪で眼鏡を掛けてて色白な、綺麗な方っていらっしゃいませんか?」
 天蓬はうーんと唸って首を傾げた。隣の花喃は、その質問自体ではなくその質問をする意図の方が気になっているようだった。じっとその薄い透けるような翠の眸で真っ直ぐに八戒を見据えている。しかし彼女に対して男に頼まれたからなどとはとても言えずに、じっと天蓬の返事を待つ。しかし彼女は「いたかなあ」などと言って首を傾げている。じりじりとその返事を待っていると、その沈黙を涼しい声が通り過ぎていった。
「天蓬しかいないわ、そういう子は。そもそも眼鏡をかけているのは生徒会では天蓬だけだもの」
「あ、そういえばそうでした……で、八戒それが何か?」
「え? は、いえ!」
 ここまで直球で訊くべきではなかったと後悔しながら笑って誤魔化しておく。大体、花喃のいる前で訊いたことが最大の誤算だった。先程から彼女は意味深な視線をこちらに向けているのである。それを上手く交わしながら、カップケーキで天蓬を釣り、さっさと昼食を始めることに成功した。しかしふと気を抜いた瞬間、天蓬は手を洗ってくると言って一人音楽室を出て行ってしまったのである。呼吸一つの差で彼女を追うことに失敗した八戒は、剣呑な目をする花喃と二人、部屋に取り残された。防音のしっかりした室内はしんと静まり返って、彼女が動いたことによる衣擦れ一つも大きく響いた。
「そんなに怯えなくてもいいのに」
「え……」
 へらりと誤魔化すように笑って振り返ると、優しく微笑んだ花喃が少し困ったように笑ってピアノに凭れていた。窓から差し込む光に彩られた髪の毛や、柔らかな生地の制服に包まれたまろい身体のラインがまるで造形物のように艶めかしい。思わせぶりな目で、静かに八戒を見つめたその翠は責め立ててくる。魅入られたようにその視線から逃れられない。
「でもね」
 ピアノに頬杖を付いた彼女はついと目を細めた。それだけでその人形のように整った白い面は凄烈な光を帯びる。
「あの子に虫が付くのはどうしても避けたいの。分かるかしら」
 両肘をピアノに突いて、微笑むように目を細めた彼女は「ねえ」と言って小さく笑った。柔らかい光を受けて、彼女は獲物を射程範囲内に捉えた猫のように目をついと細め、背をしなやかに丸めて肩を竦めた。柔らかな微笑みに隠されたその爪はきっと八戒が思うよりずっと綺麗でずっと鋭利だ。それは明らかに、温室の中で大切に育てられた家猫のする目ではない。ぞ、と思わず寒気が走った。
「私だけの、ものだから」
 その薔薇色の唇が弧を描くのを、ただ瞬きも出来ずに見つめていることしか出来なかった。




 そして一週間後の同じ時刻、同じ喫茶店で、同じように悟浄と向かい合った八戒は腑抜けた顔をしてぼんやりと紅茶を飲んでいた。あまりにいつもと違い過ぎる様子の八戒に、どう話を切り出したものかと悩んでいるようで悟浄はテーブルに載せた両手をもぞもぞとまごつかせている。それを指摘する気にもなれずに、カップをソーサーに戻すと深く深く溜息を吐いた。このままテーブルに懐いてしまいたい。
「あー……で、花のブローチの女の子は見つかった?」
「……見つかったけど内緒です」
「は?」
「教えたりしたら、僕の首が、飛びます」
 喩えではないかも知れないのだ。
 あの瞬間、恐るべき秘密に無邪気に手を伸ばしてしまったのだと知ったのだった。心配するように悟浄が声を掛けて来るのにも構わず、テーブルに両肘を突いてがっくりと項垂れた。間違いなく天蓬はあんなこと、知らないのだ。









ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。         2008/05/20