可愛い可愛い砂糖菓子。小さな雛鳥。その、純真で穢れを知らない白い羽根が泥に塗れていく。涙を涸らして、喉を嗄らして、それでも少女は無垢であった。天使のような愛らしさで皆を魅了していた彼女が今、世俗の闇に片足を踏み入れ、それでも引き返そうかどうか迷って佇んでいる。お帰り、と自分が言えば、きっと彼女はすぐに恐れて踏み出そうとしたその足を引くだろう。しかし、お出で、と言えばきっと彼女は躊躇いつつも闇の中へと踏み出してしまう。
 少女を、汚すも、留めるも、自分次第。

 彼女を過干渉な父親の元から攫って来て、とうに半日以上が経っている。車の助手席に大人しく収まった彼女は、ぼんやりとフロントガラスの向こうに広がる夜景を見つめていた。よく出来た造作と相俟って、夜景の光をそのまま映した深い珈琲色の眸は硝子製の眼球のようだ。しかし目の端に差した僅かな赤みがそれとなく、人としての温度を感じさせている。ステアリングに両腕を凭せ掛けて、じっとその横顔を眺めていた悟浄に、少女はそっと目配せをして小さく笑った。彼女はまだ高校生だが、知人に頼んで仕立てて貰ったワンピースは彼女の大人びた風貌を一層優雅に見せる。耳朶に揺れた小さな石のイヤリングが光を優しく反射した。
「天蓬、疲れたか」
「ちょっと、はしゃぎ疲れてしまいました」
 彼女の気を紛らわそうと、一日中色々なところに連れ回した。朝からテーマパークに行き、水族館やショッピングにも行った。夜はスタイリストの知人に頼んで彼女を綺麗にドレスアップして貰い、少し気取ったレストランにエスコートした。それなり、彼女も存分に楽しんでいたように見えていた。その全てが嘘、空元気とは思わないが、無理をしていたことは否めないであろう。食事を終え、賑やかな街を抜けてやってきた静かな高台で、彼女は流石に力を使い果たしたようだった。車内に広がる沈黙は苦い。上手く振る話題もなく、自分の身動ぎする音だけが狭い車内に響く。
「今日は、ありがとうございました。アクアランドも初めて行けましたし、父さんたちへのお土産も買えたし」
「いーっていーって。それより三蔵、めっちゃ怒ってんだろうなあ」
「僕が一緒に謝りますから、大丈夫です。……思った以上に、色んな人に迷惑をかけていたんですね」
 一週間前に彼女が大切な恋を失くしてから、彼女の様子は随分可笑しな様だった。いつも見られた笑顔も少なく上の空でいることが多く、周囲は皆心配をしていた。ただ、それは迷惑などではない。只のこちらからの親切の押し付けだ。彼女はひょっとしたら放って置かれることを望むかも知れないと思いつつも、手出しをせずにはいられなかっただけのことであった。そして自分の場合、彼女の胸を此処まで深く抉ったのが自分の浅はかな甥であるという負い目もあった。
「あんな馬鹿のことは、さっさと忘れちまえ」
「そんな、悪く言わないで下さい。あんなに仲が良かったのに、僕のせいで二人が不仲になったら嫌ですよ」
「あんなガキもう知るか」
「止めて下さいって……捲簾に婚約者がいるのを知ってて、好きになったのは僕です。金蝉さんとなら、きっと似合いの夫婦に」
「そうやって自分に言い聞かせて、更に自分を追い込んでどうなるんだ」
 そう言って天蓬の腕を取ると、驚いたように顔を上げた彼女は掴まれた方の手を強く握り締めた。本当は、一番信じたくないのは、なかったことにしたいのは彼女だ。今までは真っ直ぐ自分だけに向けられていた優しい視線が、自分ではなく他の者に向けられると理解した時の絶望は自分にも覚えがあった。足元から地面ががらがらと崩れていって、崩れた土塊と一緒に暗い何処かへと延と落ちていくような絶望感。今まで築かれた足場が失われて、心地よい陽だまりが突然自分に牙を剥く。自分の場合それは当然の報いだった。ただ彼女は違うだろう。何もしていない。ただ初めて知った恋情に戸惑っていただけだ。
 緩んだ悟浄の手からするりと逃れ、膝の上で指を組む。
「仕掛けたのはあっちだ」
「それに乗ってしまったのは、僕です」
 先に手を出したのは捲簾だ。幼かった彼は親の決定という柵からどうにか逃れたくて様々な女と関係を持っていた。そんな中で出会った、今までに出会ったことのないような存在である天蓬に惹かれたというのは、きっと嘘ではないのだろう。ただ、その選択は余りにも軽率だった。どうせ決定に逆らい切れないのならば、最初から黙って従っておけばよかったのだ。彼ももうすぐ二十歳を迎える。結局彼は逆らい続けることが出来なかった。非情になれなかった彼は、幼馴染でもある婚約者を切り捨てられなかった。それは婚約者や家族に対する優しさであり、勿論天蓬に対しては正反対の意味を持つ。どう綺麗な言葉を使って言い訳したとしても、天蓬が捨てられたことには変わりがない。そう、秤に載せられた天蓬は彼にとっては家族や婚約者よりも軽かった。彼にとってはそれだけのこと。
 結局この子は坊やの道楽に付き合わされただけなのか。馬鹿な話もあったものだ。
「だって、それでも好きだったんです」
 綺麗な顔をくしゃくしゃにして天蓬が泣く。それをどこか遠くから眺めているような気分だった。小さい頃、八戒に叱られて泣いていた時とは違う泣き顔。あの頃はあんなに家の外からでも聞こえるような声でわんわん泣いていたのに、今は声の一つも漏らさぬようにしているかのようだ。声を噛み殺して、零れて来る涙を留めようとするように目を強く押さえている。それを止めさせようと腕を強い力で引くと、思った以上の抵抗があった。ああそういえばこの子は強かったんだと思い出す。柔道を始めた時には驚いたけれど、母親の腕っ節を考えれば別段可笑しな話でもない。道場に通うようになって、小学校に入学して、彼女は段々家から、悟浄から離れていった。彼女の世界はどんどん広がっていく。それでも彼女は「おじさんが好き」と言い続けていた。様々な経験をしながら、少女は成長していった。背はすらりと伸びて、脚は細くしなやかに。胸は膨らみ、ぷっくりと丸かった頬は柔らかさを残したまますっと大人の線になっていった。今は涙が濡らす頬は、あの馬鹿な子供の前では紅潮して恋する少女を思わせたのだろうか。
 いつからか、彼女は少しだけ脇道に逸れ、寄り道をするようになった。遅く帰ることが増え、外泊も見られるようになった。そのことに関して、一度だけあの馬鹿者に注意を掛けたことがある。「分かった分かった」と、「気を付ける」と、彼はそう言って笑い、ちらりと悟浄を見上げて口角を吊り上げた。その目が、愉悦と優越感を滲ませていたことに気付かぬほどに初ではない。自分は保護者でありいつかは彼女が誰かと連れ立って家を出ていくのを見守る立場であって、そんな目を向けられたとてどうも思わないはず。しかしその時の自分は何ということか、馬鹿者に対して強烈な、嫉妬めいたものを覚えたのである。そして馬鹿者はそれを知っていた。知っていて、それでも保護者的立場を装おうとする自分を哂っていたのだ。それまで悟浄にとってその馬鹿者は可愛くて少し憎らしい弟分のような甥であった。それが急に温度を失くした。
 思えばあの頃から既に自分は二人の破局を願っていたのではないだろうか。
 これは、幼い頃から大切にしてきた少女が他の男に汚されるのが嫌なだけなのか。それとも、我がものにしたいという歪んだ感情なのか。悟浄に腕を掴まれ、顔を覆えなくなった少女は、ぎゅっと目を閉じて俯き、痛みを堪えるような顔をしている。初めての痛みは、彼女の至るところに残るだろう。すっかり汚されて帰ってきた少女が、それでも汚れた世界を恋しく想って泣くのを、只見ていることしか出来ない。掴んだ腕は細い。いつの間にこんなに大きくなったのだろう。いつの間に声を出して泣かなくなったのだろう。
 いつの間にこんなに綺麗になったのだろう。少女の成長は、いつも瞬く間だ。
「もう、全部終わったことだ」
 その言葉が傷付いた胸を更に抉ることになるだろうことは知っていた。ただ、あの男が付けた傷をそのまま残しておくのは癪だった。
 フロントガラスを雨粒が叩き始める。車内に響く雨音は、ざあざあと強くなり始めていた。ほの暗い空から叩き付ける水滴で外界から遮断されたようになる。その閉塞感がやけに自分を追い詰めた。
 甥は大学を卒業し次第、正式に婚約を結ぶだろう。そして社会に出て安定を得られる頃になれば結婚となるだろう。彼が無理だと知ってもどうしても逃げたかった、その苦渋の思いは、叔父である自分には理解できる。しかし、一人の男として、その代償となって傷付いた少女を前にして、その行為を正当化することはどうしても出来なかった。それは、可愛い娘同然の少女と、可愛い甥のこと。その二人が幸せになるのなら、何を犠牲にしても惜しくないはずなのに。それは叔父としての自分の精一杯の偽善だ。本当は甥だろうと何だろうと、触れさせたくないという思いが何より大きかった。
 掴んだ腕を強く引き寄せて、その薄い肩に両腕を回して抱き起こした。少し驚いたように身体を揺らした彼女は、それでも全て投げ出してしまったように両腕を悟浄の首に回した。運転席と助手席の境がもどかしい。胸に顔を埋めた少女の身体が、しゃくり上げる度にひくひくと震える。歪んだ感情が頭を過ぎるのを、懸命にぎゅっと目を閉じることでやり過ごした。
 このままどこにも帰したくない。他の誰より自分を頼って欲しい。本当は彼女が悲しんでいる、この状況を望んでいたのではないか。
 闇に引きずり込んだのは、自分だった。









中年と小娘のハイブリッド!な浄+天。タイトルはルルティア。前作と空気が違う…。
差し上げものの予定だったんですが、こんなものは恥ずかしくて捧げられない…!
2009/01/15