ちゃぷん、ぱしゃん

 白いワンピースの長い裾を捲り上げ、膝の上まで川の水に浸した彼女は、飽きることもなく水と戯れていた。川岸で釣糸を垂れながらその姿を静かに眺める。波のない水面に、不思議なくらい希薄な存在感を伴って立った彼女は、時折その白い足で川の水を蹴り上げる。その水飛沫一つ一つがちらりちらりと月の光を帯びて輝き、小さな宝石の欠片のようでもある。しかしそれらはすぐに川に落ち、同化して大きな川の一部となり、またゆらりゆらりと月明かりに揺れるのである。見上げた空は、林に囲まれている。木々の額縁の中に暗闇のカンバス、そして中央には丸く柔らかな光を放つ、月が一つ。
 川底が透けるほどに美しい川では、立っているだけで川を泳ぐ魚の姿が窺えた。釣針に引き寄せられた魚が嫌がり暴れるのに気付いてそれを引き上げた。静かで何もかも緩やかなその空間の中で、盛んに暴れるその魚を針からそっと外して、銀のバケツの中にそっと放した。ゆらりと長い尾びれを揺らめかせて狭いバケツの中を泳ぐその姿を暫し眺めていたが、釣針に新たに餌を付ける為に川の方へ身体を戻した。その瞬間、ふっと頭の中から釣糸のことが消えた。
 ワンピースの裾を捲り上げ、静かに川の中に立ち尽くした彼女がじっと空を見上げている。淡く蒼白い光を浴びて、その横顔がぞっとするほどの凄艶さを帯びる。その彼女が、ふっと思い出したように捲簾の方を見て静かに笑った。月明かりがするりとその黒髪を伝って零れて、川面にきらきらと光の粒を落としていくようだった。自分には触れられない、と思った。いつも手を伸ばせば触れられる彼女は、今は手を伸ばしてもすり抜けてしまいそうだった。ふふ、と小さく笑った彼女は何か話そうと口を開きかけた。しかしその瞬間その姿は捲簾の視界からふっと消えてしまう。ばしゃん、という音と共に。
 その姿を求めて立ち上がると、月明かりに照らされた川面にぼんやりと白いものが沈んでいるのが見えた。そして静かに輝く川面から、ぱしゃんと彼女の顔が覗いた。どうやら川の中の石の上で滑って落ちてしまったらしい。ずぶ濡れになった仔犬のようにぶるぶると顔を振って、再び彼女は笑った。しかし何か思い出したように再び水の中に消え、戻ってくる。その手にあるのは眼鏡だった。すっかり濡れてしまったそれを二度振ってから掛け直した彼女は漸く立ち上がった。
 ひたりと白いワンピースは身体に張り付き、魅惑的なボディラインが月明かりの下に晒される。川の中に立ち尽くす姿に目を奪われ、釣糸を引く魚の存在に気付くのが遅れた。そのうち、餌だけ取って釣針から逃れた魚が、ぱしゃんと音を立てて優雅に泳いでいってしまった。その音で漸く我に返った。竿を持ち上げ何もついていない釣針を見て小さく嘆息する。そしてワンピースの裾を絞っている彼女を見つめて、再び深く溜息を吐いた。艶やかな髪から滴った水が白い首筋を伝ってワンピースの生地に染み込んでいく。僅かに肌の色を透かした白い生地は真正面から見つめることを躊躇わせるのに十分だ。まるでいけないことをしているようだ、と初な少年のような気分でその艶めかしい姿を盗み見る。長い間感じることがなかった僅かな罪の意識がちくりちくりと胸を苛むのが少しだけ新鮮だった。
 ぴしゃん、と水音がして、彼女がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。水深の深い場所を通ってくるせいで、折角絞ったワンピースの裾は再び水に浸かってしまっている。水中で白いワンピースは海月のように揺れていた。ふわり、ふわりとまるで泳ぐように夢見るような足取りで川岸へと歩いてくる。岸に辿り着いた彼女は、川岸で再び自分の姿を見下ろして眉根を寄せた。それでもぺたぺたと濡れた足で丸い砂利の敷き詰められた川岸を歩いてくる。まるで手に届かないような気分でいた彼女が確かな存在感を持って自分に近付いてくることが不思議だった。柔らかな微笑みを浮かべて捲簾に近付いてきた彼女は、その場ですとんと腰を下ろした。捲簾が濡れないようにか、僅かな距離を取ってその場に膝を抱えて座り込んだ彼女は銀のバケツに向かって中の魚を眺めている。寒くないかと訊ねようと、彼女を見た。しかし彼女はその言葉を読んだように捲簾を上目で見て、ゆるゆると首を横に振った。「平気」とでも言うように。その空間には音も言葉も要らなかった。
 彼女の覗き込むバケツの中には、月が丸ごと写っている。月の中を泳ぐ魚は悠々と、優雅に尾びれを揺らめかせる。その月に手を伸ばそうとするように彼女の手が水面に映った月に触れる。しかしそれはすぐに掻き消え、彼女の手が離れていくと段々と形を取り戻していく。月は、手の届かないものの象徴だ。自分にとっての彼女が、かつてそれであったように。時間があれば手が届くわけではない。頑張れば手が届くわけではない。自分にとっては、月が自ら自分の元に降りてきたかのような話だった。天使でも天女でもなく、自分にとっての月だった。暗闇を静かに照らし、気まぐれに雲の狭間に顔を隠す。どうしようもなく心を騒がせる月、そのものだったのである。
 雲に顔を隠していた月は、再び輝き始める。捲簾の“月”はゆっくりと立ち上がった。そして徐に、再び水の中へと足を踏み入れていく。躊躇うことなく川の中央まで歩いていった彼女は、腰の上程まで水に浸かって暫く空を見上げていたが、突然ぱしゃん、と水の中へ消えていった。暗い水の中に一瞬見えなくなった姿は、そのうちゆっくりと浮かび上がってくる。上を向いた格好でぷかりと川面に浮かんだ彼女は空を見上げながらゆらゆらと漂っている。海月のように漂って、白いワンピースがひれのように水面に揺れていた。
「捲簾」
 水音以外に音のなかった空間に、彼女の静かな声が響いた。釣針の先に餌をつけていた捲簾は、手を止めてその姿に目をやった。ゆらり、水面でたゆたっていた彼女がふふ、と小さく笑ったのが分かった。水と戯れる彼女はまるで、と陳腐な喩えをしそうになって、慌ててそれを頭から掻き消した。
「月に手が届きそうです」
「……そうか」
 お前がそれだと言ったら笑うだろうか。
「俺は届いたよ」
 ちゃぷん、と水が一瞬波立って、彼女が身を返したのが分かった。川底に足をついて立った彼女は、きょとんとした目で捲簾を見つめた。ぱたぱたと水がしとどに濡れた髪の先から川面に落ちてくる。川面に波紋を作り、彼女の身体を囲むように広がっていく。静かに自分を見つめるその眸を受けて、捲簾は立ち上がりその視線を真正面から受け止めた。
 いつも手近にある煌びやかな光ばかりを貪って、空を見上げることすらなかった自分が、初めて心の底から欲した光は淡く強い月の光だった。そんなものに手が届くなどとは思いもしなかった。求めることが滑稽ですらあったはずである。しかし彼女は自ら降りてきて、そして自分の手を取ってくれた。
「……いいなあ」
 そう、一つ呟いて彼女は再び川面にゆったりと浮かんだ。海月のように漂いながら空の月を見上げていったい何を思うのだろう。彼女は何も分かっちゃいない。自分が彼女に手が届いた時、どれだけ嬉しかったのかきっと何も分かっていない。

 気が済むだけ漂って、ぼんやりした顔で川から上がってきた彼女をタオルで包み込んで抱き寄せた。濡れることを気にしてか、距離を取ろうとする彼女を許さず抱き締めて髪の毛を揉むように拭き取る。何か物言いたげな眸で見上げてくる彼女は、捲簾が見つめ返すと躊躇うように目を逸らした。暫く言葉を考えるように俯いていた彼女は、唇をぺろりと舐めた後にぽつんと呟いた。
「またついてきてもいいですか」
「……いいよ」
 久しぶりに釣りに行く、と言った捲簾に、珍しくついて来たがったのは彼女だった。捲簾の趣味は釣りであり、天蓬の趣味は読書である。大抵は捲簾が趣味に出かける時には天蓬の方も自らの趣味を優先させていた。しかし珍しく彼女はついて行ってもいいかと伺いを立ててきたのである。初めの頃は捲簾の隣でじっと釣りを眺めていたが、次第に飽きたように林の中を散策したり、果ては靴を脱いで川の中へと入っていった。そのうち日は暮れ夜が訪れ、今に至る。ぐっしょり濡れたワンピースは冷たかろうと思ったが、この場で着替えさせるわけにもいかない。タオルに包まった彼女は焚火を前にしてじっと丸くなった。そして捲簾の肩に寄りかかるように頭を凭せ掛ける。ぱちぱちと爆ぜる木々を見つめていると、声を出すことも躊躇われた。この贅沢な静寂を壊してしまいたくなかった。濡れた彼女の髪が頬を掠めてむず痒く、軽く肩を竦めた。
「今日のあなたは、いつもとは少し別人みたいに見えました」
「……それはお前の方だよ」
「そうですか?」
「そうだよ。……びっくりした」
 冗談めかしてそう言うと、彼女は捲簾の肩に額を押し付けてくすくす笑い出した。その振動が伝わってくると同時に彼女の笑いまで伝わってくるようで何だかおかしくてこちらまで笑ってしまう。彼女の肩からタオルがずり落ちないようにタオルごとその薄い肩を抱き寄せる。冷たい肩を温めるように手でその肩の先端を撫でた。
「僕も、またあなたの新しい一面を見られたみたいで少し嬉しかったです。こんな歳になって、おかしいですかね」
 おかしくない。そう言おうとした途端、うっかり膝の先でバケツの縁を引っかけてしまい、たぷんと中の水が揺れ僅かに零れた。それを見て、彼女は身を乗り出して中を覗き込む。
「これ、戻すんですか?」
「ああ」
「僕がやってもいいですか?」
 捲簾が頷くと彼女は嬉しそうに立ち上がってバケツの把手を持ち、タオルを肩から掛けたまま川岸へ向かった。そして捲簾もその後を追う。川の縁に立ち、僅かに足の先を水に浸けたまましゃがみ込んだ。そっと彼女がバケツを傾けると、水の流れに従って狭い世界を泳いでいた魚は喜びに溢れた様子で川へと戻っていった。暫くその魚が見えなくなるまでそのまましゃがみ込んで見送っていた彼女は、バケツを手にしたまま立ち上がった。
「行っちゃいましたね」
「そうだな。……食べたかった?」
「ちょっとね」
 小さく笑って少し困ったような顔でそう言う彼女の頭を撫でる。乾きかけたその髪は指にならってさらりと解けた。
「……明日帰ったら、焼き魚で飯にしような」
「はい」
 嬉しそうに笑うその顔がくすぐったくて、わしわしとその頭を撫でた。そして乱れたその髪を指で梳く。
 こんなにも手が届く距離にあるのが今でも信じられないような思いを感じることがあった。月が落ちてきたのだ、それほどおかしくて、信じられないことはないだろう。しかし確かにここにある。そのまろい頬を両手で包み込んで、額を合わせた。少しだけ冷たい額が合わさって、ぱちぱちと不思議そうに瞬く眸が眼前にある。
 月は、この手の中にあった。









2007/12/09