それは日差しも麗らかな春の休日の朝のこと。庭の木越しに差し込んでくる柔らかな木漏れ日に目を細めながら、この家の主は妻が淹れた食後のコーヒーを口にしながら新聞を端からじっくり読み込んでいた。ふと、廊下から響いてくるトタトタという軽い足音に首を擡げて、掛けていた眼鏡を下に僅かにずらす。段々とリビングルームに近付いてくる足音に口元を緩め、眼鏡を畳んでテーブルに置いた。そしてもうすぐやってくるであろう小さなレディの愛らしい襲撃に備えて新聞を畳んでいると、ふとその足音がピタリと止んだ。何だろうかと軽く腰を浮かせ掛けた瞬間、ひょこっとドアの縁から何とも言えなく愛らしい少女の顔がリビングルームを覗き込んできた。くりくりとした大きな榛色の眸が光を受けて爛々と輝いている。眸の色は残念ながら妻にも自分にも似なかったが、さらりと肩から流れるセミロングの柔らかい極上の絹糸のような髪は妻譲りだ。透けるような色白の肌に、頬は薄紅を乗せたように色付いている。二人の愛娘は名前を天蓬と言った。
 にこにこと微笑んだまま中に入ってこようとしない彼女を特に不審に思うでもなく、三蔵はちょいちょいと手招きをした。ぱちぱちと音がしそうなほど大きな眸を瞬かせた天蓬は何か悪戯でも思い付いたように小さく笑って、ぴょんと壁の影から姿を現した。その拍子にふんわりとスカートの裾が舞う。懐中時計を手にした兎を追いかけ、穴に落ちた少女のようなエプロンドレスを揺らしながら少女はとたとたと三蔵の方へと駆けて来た。そしていつものようにぽすんと抱きついてくるのを受け止めながら、一日十回以上は思っていることを心の底で叫んだ。心の中では何という愛らしさだと悶絶していようと、顔にはその十分の一も出さないのが三蔵だ。
 アリスのようなデザインでありながら元と少し違うのは、ドレス本体の色だ。本家のような空色ではなく、殆ど黒に近いような深い深い紫のドレスに、たっぷりのラッフルがあしらわれた純白のエプロンが映える。腰の後ろで大きく結ばれたエプロンの紐がリボンのように揺れている。ふんだんに使用されたチュールレースでふんわりと膨らんだスカートの裾にはこれでもかとフリル、胸元には共布の大きめなリボン、ふんわりした半袖の縁にはたっぷりとレースが使われている。なかなかの手の込み入りようであるが、これを作ったのが一応素人であるはずの妻だというから驚きだった。元々手先が器用で洋裁にも以前手を付けていたにしても、デザインから全てこなしているというのだからその腕前はプロ並みである。見れば、肩よりも少し長い髪の毛は頭の後ろで少しだけ緩く括られ、大きな紫のベルベットリボンが形良く結ばれていた。完璧主義の彼女らしい。その彼女ももうすぐカメラを携えてここにやってくるだろう。
「かわいいですか?」
 まだ少し舌足らずな口調でそう訊ねてくる娘についつい相好が崩れる。普段の不機嫌な三蔵ばかりを見ている部下たちが見たら卒倒し兼ねない穏やかな表情にも天蓬は動じず、じっと返事を待ってその大きな眸で三蔵を見上げている。ふくふくした白い頬が期待に僅かに紅潮している。指先でその頬を撫で、大きな人形のような少女を膝の上に抱き上げた。触れたその生地はしっかりとした手触りのよいもので、それだけでも質の高さを窺わせる。ちょこんと三蔵の膝に腰を下ろした少女の眸は、じ、と視線を逸らさない。好きだとか、愛しているだとか、綺麗だとか可愛いだとか、そういう言葉は生まれてからずっと苦手だった。しかし生きていく中で大事な人に出会うことでそれらはどうにかして克服せざるを得なくなった。愛は形がなく、目に見えない。態度だけでは伝わらないものでもある。
「ああ、勿論だ。世界一な」
 そう言うと、天蓬はくすぐったそうに、それでも嬉しそうに笑って三蔵にしがみ付いて来る。膝から転がり落ちないようにその身体を受け止めて、リボンの形を崩さないようにしながらその頭をそっと撫でた。それから暫く、嬉しそうに鼻先を三蔵の胸に擦り寄せていた彼女は、突然何か思い出したように慌てて顔を上げた。むくっと顔を上げた彼女がそのまま転がり落ちないように背中を支える。
「でも、でも、ぼくはにばんめでいいんです」
「どうしてだ?」
「いちばんかわいくてきれいなのはおかぁさんです」
 嬉しそうに言う少女の声に重なって、パタパタとスリッパの音がリビングルームに近付いてくる。どうやら“世界一”がやってきたようだ。

「すみません、カメラがなかなか見つからなくって。後でお庭に出て写真撮りましょうね」
 妻はやはり嬉しそうにカメラを片手にやってきた。素直にこっくりと頷く娘に極上の笑顔で微笑んで、二人の方へと近付いて来る。
「今回はまた張り切ったな八戒」
「ええ、お義父様にお願いしたらすごくいい生地を頂いたんです。折角のいい生地ですから結構頑張っちゃいました」
 月に一度くらいのペースで彼女、八戒が作るほぼコスプレ紛いの服は、三蔵の父である光明から出資されてのものだ。時々目が飛び出るような高級な布地やレースがあしらわれているから恐ろしい。メイド服、チャイナ服、浴衣にバニーガール、何でもありである。八戒がこっそりそれらの写真を集めたアルバムを作っているのを知っている。きっと成長したこの子はその記録を見て過去を悔いるのだろう、と思えば少し申し訳なくもあるが、八戒が乗り気であるものをわざわざ止めようとも思わない。それに娘の可愛らしい姿が見られるのは素直に喜ばしいことだからだ。そしてこんなことが出来るのも素直な今のうちだけかも知れないから。
「何かお礼をしないと……」
「この服を着て見せるだけで十分喜ぶだろうよ」
 息子の三蔵であっても父が手を付けている仕事や手にしている財産を全ては把握し切れない。何でも手広く、それこそ言葉通り世界中を飛び回っている彼は、突然思い出したように電話を寄越してふらりと家に立ち寄る。たとえ外で数え切れない者たちから尊敬や畏怖の念を抱かれていたとしても可愛い孫の前ではやはり只の馬鹿になってしまうようである。親子二代に渡ってそれは同じことだ。三蔵の膝の上にちょこんと行儀良く座った少女は、話の流れがよく分からないのか、きょとんとして二人を眺めている。カメラをテーブルに置き、三蔵の隣に腰を下ろした八戒は、可愛くて仕方がないというように頬を緩めて娘の頬を指で突付いた。
「ああもう、本当に可愛いっ」
 ぎゅうとその小さな身体を彼女が抱き締めると、自然三蔵とも密着することとなる。つい生まれた出来心で、そっと腕を伸ばす……その瞬間、その穏やかな時間の終わりを告げる憎いチャイムが鳴り響いた。ぴくりと顔を上げた彼女はすぐさま腰を上げてインターフォンの方へと歩いていく。伸ばした腕は掻き抱く身体を失ったまま、娘の不思議そうな視線を浴びることとなった。
「はい、どちら様……ああ、悟浄ですか。え、お土産?」
「おじさん?」
 それまで大人しく三蔵の膝の上にいた天蓬は、その言葉を聴いてピクリと顔を上げた。そしていそいそと三蔵の膝から下り、フローリングをトコトコと八戒の方へと歩いていく。その目は期待にキラキラと輝いており、それは三蔵の機嫌を急降下させるに十分な威力を持っていた。あっさりと置いていかれた三蔵はその場から動けぬまま、拳を固く握り締めた。この憎しみはあの男で発散するほかない。

「おじさん!」
「ったくお兄ちゃんだって何回……ん、ああ? どうしたのよ、今日は随分とまあ可愛いカッコして」
 三蔵の穏やかな幸せの一時を打ち砕いたのは、向かいの家に住む独身男、沙悟浄だった。八戒にとって幼馴染であり、更には元恋人でもある。その事実だけでも三蔵にとっては天敵である。しかしそれ以上に、三蔵が悟浄を敵視する大きな問題が存在した。
 悟浄がやってきたと聴いて我先にと玄関に迎えに出た天蓬は、ドアから姿を現した赤毛の男を見上げて眸をキラキラ輝かせる。天使という者が存在したとしたらきっとこんな風なのだろうと大の大人たちが本気で思ってしまうほどにその姿は愛らしかった。折角の男前がでれっと相好を崩してしまうのも致し方なかろう。まるで童話から飛び出してきたようなその格好に目を瞬かせていた悟浄はそんな天蓬に目を細める。
「かわいい?」
「んー可愛い可愛い、天蓬は何着てても可愛い〜」
 手にしていた地方銘菓のロゴが入った紙袋を八戒に手渡した後、悟浄は両腕を伸ばして天蓬の小さな身体をふわりと軽く抱き上げた。ふわりと優雅にスカートが広がり、まるで大きな人形を抱いているような気分になる。力強い腕の上に抱き上げられ、頭を優しく撫でられて少女はうっとりと目を細めた。その愛らしさについつい悟浄が目尻を下げてしまうのも責められない……が、この状況で責めずにはいられない男がいた。玄関の方から聞こえてくる声を黙って聴いていられなかった三蔵は、重い腰を上げてリビングルームから玄関ホールに顔を出した。鋭い視線に射抜かれて、悟浄はひくりと口元を引き攣らせる。この家の主の登場に空気が冷え込むのを感じた。
「気安く天蓬を抱っこするんじゃねえ、ロリコンエロ河童。朝っぱらから人の家に何しに来やがった」
「ちょ、ロリコンっておま……」
「ろりこん?」
 無邪気に復唱する天蓬に慌てた八戒が悟浄を睨み付ける。結局怒られるのは俺だけ……と頭を垂れる悟浄を見て、心配そうにアリスルックの天使はよしよしとその白くて小さな掌で頭を撫でてくれる。即座に復活、と思いきや、それを見て更に殺気立った父親に悟浄はその視線から逃れるように天蓬を盾にしてその影で大きく溜息を吐いた。これで大きくなった天蓬が彼氏を連れてきたらどうするつもりだろう。八戒はとりあえずは穏やかに迎え入れるだろうが、三蔵の場合何を仕出かすか分からない。しかし、何と言っても天蓬は三蔵と八戒という立派な美男美女の間から生まれた娘だ。きっと成長すれば母をも凌ぐ美人になるだろう、狙う男も後を絶たないはずだ。三蔵が心配なのも無理はない。だからといって悟浄にまでこうして強烈な敵対心を抱くというのは、これはもう只の嫉妬だろう。
「天蓬の結婚式とか、絶対お前泣くんだろうなあ〜? こりゃ見物だぜ」
「誰が嫁にやるか!」
「悟浄、あんまり刺激しないで下さいよ。最近何だかそういう話に敏感なんですから」
 年頃の娘というわけでもないのに心配が早過ぎだろう。何せ天蓬はまだ四つだ。結婚出来る歳になるまでまだ十二年もある。今からそんなに心配ばかりしていたらその内心労で禿げ上がってしまうのではないかと心配してしまう。それがなかなか冗談とも言い切れないから最近では気安くからかえなくなってしまった。八戒も昔なら軽くからかうようにしていた髪の話をすっかりしなくなってしまったのが恐ろしい。
「でも、まあ、いつかは行くだろ。天蓬のウェディングドレス姿、楽しみにしてるからな〜」
 マシュマロのようにふわふわした頬を指先で突付きながら何気なく言うと、その白い頬はぱっと紅を刷いたように薔薇色に染まった。おや? と悟浄が首を捻ると、頬を真っ赤に火照らせた少女は何かを言いあぐねるように口をぱくぱくさせた。ん? と言葉を促すように顔を覗き込むと、真っ赤になった顔を僅かに俯けて、ぽつんと「あの、」と呟いた。
「ん? 何何、どした?」
「あの……ぼくおおきくなったら、おじさんのおよめさんになりたいです」
 天蓬の頬は湯気を噴きそうなほど赤く染まっていたが、八戒は空間の空気が一気に冷え込んでいくのを感じていた。この場に三蔵がいなかったとしたら、何と微笑ましい光景だろうと笑って見ていられたが今はそういうわけにはいかない。天蓬はこの場の不味さに気が付いていないのか、円らな眸でじっと悟浄を見つめている。悟浄はと言えば、あまりの衝撃に三蔵の存在が頭から吹っ飛んでしまったのか、黙々と指折り何かを数え始めた。
「……天蓬が十六の時、俺が三十七……? 流石に無理か……いやでもまだギリ」
「ちょっ、悟浄! 何呑気に!」
 慌てた八戒の声と肩に掛けられた手で漸く我に返った悟浄は、足元から這い上る凍て付くような殺気に気が付いた。ぎしきしと上手く動かない首を巡らせて、その冷気の源を恐る恐る窺った。
(うわ殺される)
 その目を見た瞬間、悟浄はそう確信したと言う。しかし三蔵は笑った。その視線だけで殺せるような眼光のまま、口元をニイと持ち上げて見せる。無表情より余程恐ろしいその笑みに、つい天蓬を抱く腕に力が篭った。それを見た三蔵の背中からは暗黒のオーラがゆらゆらと立ち昇っている。
「喜べ河童、俺も鬼じゃねえ。殺しはしない」
「え、あ、それはどうも……」
 その代わり、と低くゆっくりと告げられた言葉は、まるで死刑宣告のような重々しい空気を伴って。
「貴様を社会的に抹殺してやるよ」
 ニイ、と物騒な笑みを残した三蔵はそのままゆっくりと階段の方へと歩いてゆく。二階には彼の書斎がある。そこから掛けられる一本の電話で大きな警察組織が簡単に動くことを知っている。そんな男の言う社会的抹殺、その意味が分からぬほど悟浄は馬鹿ではなかった。階段を昇っていく音と共に血の気が降りてゆく。震える手で慌てて天蓬を八戒に押し付け、破れかぶれになって三蔵の後を走って追っていく。きっと悟浄の頭の中には明日の新聞紙面に踊る自分の名前が過ぎったはずだった。どんな罪を着せられるのか、それは三蔵の裁量次第ではあるが生半可なものではなかろう。
 天蓬を抱いた八戒は、階段の上で繰り広げられている男たちの低レベルな争いを聴きながら深く溜息を吐いた。八戒の腕の中、四つにして早速二人の男を惑わせている将来の美女は、きょとんとして目を瞬かせるばかりだった。












昔似たようなパターンで捲簾が悟浄の子、というのを書いたのですが今回の場合は捲簾は天蓬がかなり成長するまで出て来ないパターンです。
とんでもない設定の上半端な感じで本当にいろいろと申し訳ない。      2008/09/15