妻は気取ったレストランが苦手だ。まるで自分自身がそのレストランの装飾品の一部となり、見世物になっている気分になると言うのである。好きなのは落ち着いた居酒屋。ワインも昔はその場の雰囲気で呑んだりもしていたが、本当はあまり好きではないという。彼女は、少しの肴と冷えた上等な清酒があればそれで満足という人だった。
 出会って、アプローチを掛けるようになってから初めて連れて行ったのは焼鳥屋だった。その時何と彼女は居酒屋の類に足を踏み入れたのが初めてだと言ったのである。いつもあちらこちらから数多の誘いがあるだろうにと訊ねると、おかしく思われたと感じたらしい彼女は「いつもイタリアンやフレンチのレストランなので」ときまり悪そうに言った。彼女という高嶺の花を思えば、少々背伸びをしたくなる男がかなりいたようである。まるで自らの身の丈に合った店に連れてきた自分が馬鹿だったようでその時はひどく後悔をしたのだが、そんな自分が彼女の伴侶の座を射止めたことを考えるとそれがその時最善の選択であったようだった。高価なワインやフレンチに砂肝と熱燗が勝ったというのだからまあおかしな話である。

 生涯連れ添うと決めた人がそんな人だから、毎年三回、捲簾には悩まねばならない記念日があった。それが結婚記念日、クリスマス、彼女の誕生日である。そして今日は、彼女の誕生日を一週間後に控えた日だった。ひと月も、ふた月も前から悩んでいたのに忙しさに感けて考えることから逃げているうちに、もうこんな日になってしまっていた。仕事で疲れて既にベッドの住人となっている妻を見下ろして、ベッドサイドのランプを点けた。そして部屋の電気を落とし、ベッドを揺らさぬよう、起こさぬように気を付けながらそっと布団をめくり、隣に潜り込んだ。小さく息を吐いて、間接照明によってぼんやりと照らされた天井を見上げる。
 交際する前は友人たちとのパーティーが主だった。付き合い始めてからは若者らしく外に出掛けて食事をしたりもした。しかし結局彼女は食事中はずっと張り付けたような笑顔で、家に帰ってくると漸く安堵したようにほっと息を吐くのである。一度色々仕事が重なって計画が出来なかったために、不本意ながら外には出掛けずに、自分の家で祝ったことがあった。その日は今まで過ごしたどの誕生日よりも喜んでくれて、祝ったこちら側が驚いたものだった。安上がりな奴だとからかってみれば彼女は悪戯っぽく笑って、そうですよ、と事も無げにあっさりと答え、今まで知りませんでしたか? と逆にからかってきたのだった。それからは毎年、何とか趣向を凝らそうと頭を悩ませているのである。外に出掛けて食事は家で摂る、というのも、何十年も続けていればネタも尽きる。家だけで祝うのだとしたら尚更マンネリに陥りやすい。作る料理を変えるにしても、食事を作るのは殆ど毎日捲簾が担当しているために新鮮さもない。
 特に今年は区切りの年であった。きっと彼女は覚えていないだろうが、交際を始めてから、つまり二人で誕生日を祝うようになってから丁度二十回目なのだった。新卒の頃に友人を介して知り合い、一目惚れした自分が粘りに粘って二十三で漸く交際を始めた。その年から今年で二十年目。あの頃自由に使えた僅かな金に比べれば、資金は今の方がある。しかし機動力は若い頃には敵わなかった。確実にあの頃よりも腰が重たくなっている。気軽にこれから海まで、夜景の見える高台まで、と思い付きで出掛けられるほどに若くもなかった。逆に言えば、あの頃は金が無くてもその力で何とかなっていたとも言えるのであるが。
 それに残念ながら今年の誕生日は、平日と平日に挟まれていた。あまり疲れさせては次の日の仕事に差し障りがあるだろう。だから出掛けるのは週末に回して、出来ることなら家でのんびり、且つ彼女を飽きさせない目新しい演出を。
(……無理だろ)
 そんなことを考えていては毎年ハードルが少しずつ高くなる。せめて十年前ならあれをしようこれをしようと色々なプランが頭に浮かんだ。しかし今はそれも全てやり尽くしてしまっている。それだけ長い間愛を深めてきたのだとポジティブに考えられれば一番いいが、それでは目下の悩みである今年の誕生日のプランが片付かない。二十年思い出積み重ねてきただけあって、どうせならば今までの二番煎じはしたくない。頭の後ろで手を組んで天井を見上げ、思案に耽る。隣で眠るその人は本当に幸せそうな寝顔ですやすや眠っている。昔から彼女は多くを望まない人だった。そんなところも好きになって、しかし今彼女のそんなところで悩まされている。難しいものだ。
 手探りでベッドサイドのランプのスイッチを探し、オフにする。すうっと明かりのなくなった寝室に、視界は一瞬真っ暗になる。何度か瞬きを繰り返してぼんやりと周りが見えるようになってから隣の様子を窺った。隣の天蓬は寝返りを打って、何かむにゃむにゃと寝言を呟いている。声を殺して小さく笑い、暗闇の中で、そっとその頭を撫でてから自らも布団に潜り込んだ。そうして悩む内に朝は訪れ、再び悩ましい夜が訪れる。その繰り返しで、彼女の誕生日はじりじりと着実に近付いてくるのである。



 白い息を吐き、手を握り合わせて温めながら駅のコンコースを歩いていた天蓬の目に映ったのは珍しい人間の姿だった。勤務している病院の最寄駅にある姿ではない。しかし自分がそれを見間違えるはずもない。肩に掛けたバッグの把手を握り、少しだけ歩く速さを速めて天蓬は、コンコースの中央にある大きな柱に寄り掛かっている姿に駆け寄った。
「捲簾、どうしたんですかこんなところで」
 見たところ明らかに会社帰りの格好ではない。だとしたら一旦家に帰ってからここまで来たのだとしたら何か火急の用でもあったのか。不思議に思いながらそう声を掛けると、片手をジャケットのポケットに突っ込んだまま携帯電話を弄っていたその男は、ポケットに入れていた手で掛けていたサングラスを少しだけ下にずらした。覗いた眼光鋭い目に、慣れている天蓬は怯むこともない。その目は天蓬の姿を捉えるとすぐに楽しいものを見つけた子供のように緩められた。ただでも人目を引く容姿をしているというのにサングラスでは人避けにもなっておらず、余計にその野生味の色濃い魅力を増している。ちらちら視線を投げかけてくる女の視線を四方八方から感じながら、そのサングラスを奪い取って床に叩き付け、ヒールで踏み割ってしまいたい衝動に駆られた。そこまで思っても、それが嫉妬だとかそれに付随するような感情だとは塵ほども思わないところが天蓬の天蓬たる所以である。彼が女性から多大なる人気があるのは昔からだ。今更やきもちを焼いてどうこうするわけでもない。ただ心がじりじり端から焼け付くような不快感は常に付き纏っていたが。
「お、来た。今電話しようかと思ってた」
「何かあったんですか? わざわざこんなところまで」
「いいや」
 そう言った彼は携帯電話を畳み、ポケットに入れてから天蓬の手の方へと手を差し出してきた。その視線の先を辿ると、手に提げられた大きな紙袋があって、とりあえず大人しくそれを差し出す。それを受け取り、中を覗き込んだ彼は少し複雑そうな顔をした。中に入っている色とりどりのラッピングバッグは心を浮き立たせるものであるが、彼は何を思ってそんな表情をするのだろう。
「これは?」
「職場の方から色々いただいたんですよ。実は今日誕生日なので、帰りにケーキでお祝いしてもらっちゃいました。……覚えてました?」
 覚えていなかったら色々無茶を言って困らせてやれ、と思いながらからかうようにそう言うと、複雑そうな表情を少し落胆したような表情に変えて隠すように小さく溜息を吐いた。(こんな歳になってまで)とでも思われたのだろうかと、こちらこそ少しだけ落胆して俯くと、頭の上をよしよしと撫でられた。ムッとしつつもそっと顔を上げると、少し擽ったそうに笑った彼が「ごめん」と呟くような声で言った。
「覚えてるよ。だから迎えに来た」
 そう言った彼は紙袋を左手に持ち、右手で天蓬の手を攫った。驚いたものの抗うこともなく手を引かれるままについていくと、彼はそのまま駅の出口へと向かっていた。少し歩く速さを速めて彼の横に並ぶ。ちらりと横目にこちらを窺った彼は、再び顔を正面に戻してから少し低い声で呟いた。
「こんなことなら朝一番に言っときゃよかったな」
「何をですか?」
「おめでとうって」
「覚えてたのに黙ってたんですか?」
「……ちょっとがっかりした?」
「……ちょっとだけですよ」
 その言い方が少し拗ねたように響いたせいか、彼は小さく喉を鳴らして笑った。駅から再び外へ出ると、足元から這い登る冷気に思わず身震いしてしまう。そのまま彼は向かった先は駅前の駐車場だった。どうやら車でここまで来たようだ。車の前まで来るとバックライトが一度点滅する。彼は天蓬の手を離し、後部座席のドアを開けて手にしていた先程の紙袋を中に入れてドアを閉めた。そして続いて助手席のドアを開け、ドアの上に左腕を凭せ掛けたまま恭しく天蓬を助手席へと促した。その気取った風な仕草に思わず笑ってしまう。
「さ、どうぞ?」
「何か変な感じです、捲簾じゃないみたい」
「酷いな。俺はいつでも紳士だけど」
 車に天蓬が乗り込んだのを確認してから、そう言って笑って彼は静かにドアを閉めた。一人きりの空間でまた小さく笑い、「誰が」と呟いた途端、ぐるりと後ろを回って運転席側に戻ってきた彼がドアを開けたことで一人きりの空間はなくなった。運転席に腰を下ろした彼は一つ大きく息を吐いてからシートベルトを締めた。それを見て慌てて天蓬もそれに倣い、ベルトを接続した。エンジンが掛かると同時にエアコンが入って温かい空気が流れてくる。肩の力を抜いて、コートのボタンを一つ二つ外した。
「どこか行きたいところは?」
「この後は何のプランもないんですか?」
 首を傾げてそう訊ねてみれば、ステアリングに両腕を乗せて唸っていた彼は、がりがりと頭を掻いた。どこか納得がいかないような顔をしているようにも思えた。なかなか口を開こうとしない彼を訝るように再び首を傾げれば、彼はちらりと天蓬の顔を窺ってから諦めたように少し顔を逸らして言った。
「……俺のプランだとこのまま直帰なんだけど」
「だったらそれでいいですよ」
 即答すると、彼は少し驚いたように目を瞠った。
「いいの?」
「ええ。僕、家好きですし」
 それは知ってる、と言い、彼は天蓬の返事を待つこともなく車を発進させる。揺れも少なく、滑るように動き出した車は、ゆっくりと駐車場を後にした。窓の外をヒュンヒュンと飛んでいく光を目で辿りながら、何だか平日の夜に彼の車に揺られているという珍しい出来事に少しだけ子供のようにわくわくした。ちら、と視線を横に送ってみると、ステアリングに載せられた節張った大きな手が目の端に映った。前腕の中頃までまくり上げられた、黒いセーターの下から覗く手首に付けられた腕時計が差す時刻はもうすぐ八時だ。それをぼんやりと眺めていると、それまで静かにフロントガラスの方を見つめていた彼が唐突に口を開いた。
「今年は、本当はもうちょっと凝りたかったんだよ」
「どうしてですか」
「……別に」
 真っ直ぐ真正面を見つめたままの横顔が少しだけ拗ねたように見えて、天蓬はよく分からなくて座席に背中を預けて前を向いた。
「大分長くいますよね、僕たち」
「……まあな」
「飽きた?」
「まさか」
 退屈で、コートのボタンを一番下まで外しながら足を少しばたつかせた。だってもう何年一緒ですか、と訊ねてみたが、彼の方からの返事は得られなかった。沈黙してしまった横顔を暫く見つめていたが、そのうち諦めて一人で数え始めた。指折り指折り、その年の誕生日に彼が何をしてくれたかが少しずつ思い出されてきて思い出し笑いが漏れてしまう。それまで沈黙を保っていた彼は、隣から漏れる笑い声が流石に気になったのか横目で天蓬の様子を窺い始めた。
「何笑ってんだ」
「若い頃は夜景とか海とか、色々連れて行ってくれたなあと思いまして」
 そう言うと彼は途端に顔を引き攣らせてまた正面を向いてしまった。しかしその時タイミング良く赤信号に引っ掛かり、徐々に減速した。暫くの間、目の前を車の大群が横切っていくのをゴオゴオという騒音を遠くに聴きながら眺めていた天蓬は、そっと横を向いた。すっかり臍を曲げてしまった彼はそれでもこちらを見てくれない。暗闇と、近付いてきては去って行くカーライトで照らされる男の顔は深い陰影を作って、見慣れたその顔に濃密な色気を纏わせる。息の詰まるような感じを覚えつつも、静かに口を開いた。
「思い出しました」
「何を」
「付き合い始めてから、二十年目ですね。ごめんなさい、そういえば数えたこともなかったなあ」
 元々イベント事には疎かった。クリスマスやらバレンタインやら、昔から友人に急かされたり誘われたりしなければそのまま一人でぼんやり家にいるようなタイプだった。それとは対照的に、見た目を裏切りひどくロマンチシストなところのある彼は、女の自分以上にイベント事や記念日に敏感だった。しかし自分とて結婚した年や結婚記念日を忘れるほどには耄碌していない。ただ、今日も勤務を終えて申し送りをした後、病棟の同僚たちが小さな丸いケーキで祝ってくれるまで自分の誕生日のことはすっかり忘れていた。だから、朝わざと何も言わなかった彼を責める権利などなかった。皆からプレゼントを受け取って初めて、彼から何も言ってもらっていないことに気付いたのだから。自分も覚えていないようなことを彼に覚えていてもらって、且つ祝ってもらいたいなんて我儘もいいところである。
「……端から期待しちゃいねえよ。どうせ病院で誰かに言われるまで自分の誕生日のことだって忘れてたんだろうし」
「あれ、ばれてましたか」
「何年一緒にいると思ってんだ」
 指を組んで伸びをしながら言うと、ポケットから煙草を出した彼は小さく笑いながらケースを軽く叩いて一本を取り出す。その先を軽く咥えて手探りでシガーライターを探している。しかしそのうち赤信号が青信号に変わり、彼は小さく舌打ちをしてステアリングに手を戻した。いつもならこんなことはしないけれど、たまたま手に触れるコートのポケットにライターのような感触があったので、天蓬はそれを取り出して小さく火を着けた。それを横目に見て気付いた彼は少し驚いたように目を瞠ったが、すぐに左手の指に挟んだ煙草を差し出してきた。その先に火を着けると、火の消えたライターはさっさとダッシュボードの上に投げ捨ててしまう。
「……二十一年ですか」
 出会って付き合うまで一年、付き合い始めてから結婚までが五年。喧嘩の数も数え切れないほどだけれど、倦怠期にはまだ程遠いようである。まだまだ彼のことを全て理解したような気にはなれないし、今でも時々彼の知らなかった表情を知ってぎょっとすることがある。二十年なんて結局この程度のものだ。天寿を全うするまで一緒にいたとしても彼のことを全て理解出来るかは自信がなかった。開けっぴろげなようでいて、一定の距離以内には人を寄せ付けないのが彼の少しばかりの冷たさだった。でも自分は今、その距離の中にいる。
「もう少しで四半世紀だ」
「半世紀後はどうなってると思います? ……僕、よく早死にしそうだって言われるんですけど」
 日々の不摂生と一日五箱の煙草は誰の目にも不健康に映るようである。医者の不養生を体現していると言われたことは一度や二度ではない。ただ今になってその喫煙習慣を変えられるとは思っていない。医師としてその習慣がどれだけおぞましい結末を生むかは目の当たりにしているが、やはり無理なものは無理だった。自らも煙草を取り出して先程放り投げたライターを取って火を着けた。車内には二つの赤い光が灯る。
「男鰥は蛆が湧くんだとよ」
「あなたはきっと大丈夫ですよ。僕一人だと危ないかも知れませんけど」
 深く考えずに放った言葉だった。しかし彼は正面を見据えたまま咥え煙草の煙を燻らせている。
「……勘弁してくれよ……」
 煙を吐くと同時に呟かれた言葉に、天蓬はゆっくりと唇から煙草を離した。彼が口の端から吐き出した煙が視界を僅かに曇らせている。苦々しげに歪められた横顔をそのまま見ていていいものかどうか迷い、結局再び正面に顔を戻して煙草を咥え直した。それでもフロントガラスから見える前の車などは意識に入っておらず、先程目にした彼の横顔だけが頭の中をぐるぐるしていた。真意を質してみたくとも、どういう言葉を掛けたらいいのか分からない。いつもは達者なはずの口が肝心な時に回らないことに、苛立ちながら煙草のフィルターに歯を立てた。
「怖くて怖くて堪んねえよ」
「――――何が」
「お前はある日突然隣で冷たくなってそうだし」
 どんなイメージだと呆れ返りつつも、そう考えてしまう捲簾の気持ちも分からなくはないので口を閉ざしたままでいた。ぷか、と戯れに吐き出した煙で輪を作っていると、長く息を吐いた彼は吸殻を灰皿に捨ててその手で頭をガリガリと掻いた。苛立ったように漏らされる唸り声に、叱られる前の子供のような気分になった。すっかり短くなった煙草を灰皿に入れると、車内に点る赤い光はなくなった。
「俺は、もう二度と結婚なんて面倒なことするつもりはねえの。金は掛かるし、手続きは面倒だし」
 ステアリングの上で握り締められた手を静かに見つめていた。その筋が浮き上がるほどに強く握り締められているのが分かる。
「もう四半世紀くらいは生きてくれよ、頼むからさ」
「……大丈夫ですよ。僕はあなたが思うよりずっと生き汚い人間です」
 もし自分が死んだら彼を誰かに取られるというのなら、彼が事切れるまではどうあっても生きていたいと思う。生き汚いというよりか腹汚いというべきなのかもしれない。それでも、彼を縛りつける唯一の条件が生きていることだというのなら。
「ちょっと、遠回りして帰りませんか」
 その言葉に少し驚いたように顔を上げた彼は、何も言わぬまま。いつも直進する交差点を左折した。中心街から抜け、ちらつくネオンがぐんと少なくなった道を走りながらその横顔を眺めた。向かう先は何となく見当が付いている。昔、何年前だったかも思い出せないが、こうして来るまで向かったことがあるような気がした。その時は今ほど打ち解けていたようには思わない。助手席で小さくなって、今と同じようにこっそりと彼の様子を窺っていたような気がする。手の中でライターを弄びながらも、もう一本吸う気分にはなれなかった。



 隣でぼんやり窓の外を眺めている妻の横顔を横目に窺い、溜息を吐きたい気分になったがそれは押し留めた。こんな狭い空間では一つの溜息がその空気を一気に濁らせてしまうだろう。飲み込んだ溜息が胸の中で溢れ返って呼吸を苦しくさせた。
 いつか一言言っておきたいことではあったが、まさかこんな日に言う羽目になるとは思わなかった。彼女の生き方を見ていていつも思っていたことだった。この世に未練など全くなさげなその態度が胸に引っ掛かっていた。そして一人残されることに対する感情に胸が焼けた。それは恐怖というよりも生々しい嫌悪感だった。狂いはしないし、後を追うなんてことは絶対にしないだろう。ただ彼女を喪った後生きていく自分の姿が想像出来ないのだった。一人あの家に住んでいるとも思えない。再婚なんて以ての外だ。
 結局何も口にしないまま、いつの日か辿った坂道を登り、脇道に車を入れて小さく作られた駐車場に車を停めた。
「ちょっと出るぞ」
 ドアを開けて運転席を出る。そして車の後ろをぐるりと回って助手席側に向かった。そして助手席のドアを開ける。カツンとヒールの先がアスファルトを打った。高台の上であるせいか駅前よりもずっと風が強く冷たい。助手席から後部座席に身体を乗り出して黒いマフラーを引っ張り出した。そしてドアを閉めてから天蓬の首にそれをぐるぐる巻きにして首の横でひとつ結んだ。
「これじゃ小学生みたいですよ」
「いいから」
 冷たい風に頬を少しだけ赤くして唇を尖らせる天蓬を撫でて宥め、鍵を閉めてからその手を引いて歩き出した。もこもこした毛糸の手袋は彼女にとっては必需品だ。元々体温の高くない彼女は放っておけば指先が凍てついたように冷たくなったままでいる。本人は冷たさに慣れているからどうでもいいと言うのだが、毎日毎日帰ってくる度に真っ赤な指先を擦り合わせている姿を見ていられずに急遽買って贈ったのだった。後でしっかりした仕立てのものを別に買ってやる予定だったのだが、彼女がそれでいいというので数年間ずっと使われている。どうせこんなに長く使われるのならばもっといいものを買うべきだったと少しだけ後悔しているのだが。大きなボタンにハイウエストの洗練されたディテールのコートに、その少しだけ野暮ったい手袋は不釣合いに思えた。
「……寒くないんですか?」
「え?」
「手袋、片っぽします?」
 そう言って天蓬は繋いでいた手を離し、繋いでいた側の手袋を外して渡してきた。そのまま突っ返すことも出来ず、それを繋いでいなかった側の手に嵌めた。そして再び、素手のまま手を繋ぐ。今まで手袋をしていたせいか、いつものようには冷たくない。しかしすぐに冷えてしまうその指先が外気に触れないように、掌の中に包み込んだ。
「ここに来たの、何年前の誕生日だか覚えてるか?」
「……忘れた」
「俺も」
「でも結婚前だったと思いますよ。車の中で間が持たないなぁって思ってたの、覚えてますから」
 その言葉をゆっくり飲み込んで、小さく笑う。付き合っていた当時そんなことを思っていたのかと思う反面、結婚してからはそういう思いはないのだと知ってほっとする。小さな林の中の一本道の向こうに高台の木の柵が見える。砂利道を歩くには適さない靴を履いている天蓬が躓かないようにしながら高台の先までゆっくりと時間を掛けながら歩いた。
「寒……」
 吐いた息が白く染まって暗闇の中でぼんやりと滲むように消えていった。黒い海に輝く粒が沈んでいるような景色はあの頃よりも大分輝きを増している。時間の経過を感じ、それでも隣に立っている存在を有り難く感じる。冷たい指先は自分の温度で中和されて、体温が溶け合ったようになる。すらりと細く長いのに女性の割にはその指がしっかりとしているのは幼い頃からずっと剣道をやっているからだ。そのせいで僅かに普通よりも関節が太く、見た目以上に指輪のサイズが大きいことを彼女は密かに疎んでいるのを知っている。まるでそんなことで悩むようには思えないからこそ何だかおかしく感じてしまう。
「じゃあ、これから毎年来るか」
 そんなことを言ってみせると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせて捲簾を見上げた。闇の中、街灯にぼんやり照らされた眸がじっとこちらを見つめ、眼鏡のレンズが光を弾く。
「……毎年、ですか」
「嫌?」
「嫌、じゃないですけど」
「毎年ここに来てから家に帰って、熱燗でも」
 ぱちぱちと目を瞬かせながらこちらを見つめていた天蓬は、徐々に頬を緩めて擽ったそうに笑った。そして小さく一度頷く。
「お酒は上物でお願いしますね」
「当然」
 自室のクローゼットの奥には数週間前に取り寄せしてあった上等な酒の瓶が箱のまま布に包まれた状態で隠してある。もしも何もプランが思いつかなかったらそれを奥の手にする予定だったのだが、結局本当にその奥の手を使うしかなくなったようである。もしもの時のためにおでんの仕込みも済んでいる。そこまでしている時点でもうどうにもならないと気付いていたのだが。
 少しだけ身を寄せてきた天蓬に気をよくしてその腰に手を回す。すぐさま鋭い痛みが走るかと思いきや、腰に回した手の甲の上に手袋をした右手が重ねるように載せられ、その毛糸の少しだけちくちくした感触が手の甲に触れた。はっとして視線を向ければ、少し悪戯っぽい表情をした天蓬がこちらの様子を窺っていた。
「あったかいおでんなんかがあると尚嬉しいんですけど」
 その言葉に少しだけ笑った。そして自分の手の甲を寒さから覆い隠すように載せられた毛糸の手袋を上から握り締める。
「……あるよ。家にちゃんと」
 そう言うと流石に驚いたように彼女は目を丸くした。そんな顔は何だか久しぶりに見たような気がして、少しだけ面映ゆい。一度だけその頭を撫でてから、再びその手袋をつけていない手を握った。少し放っておいただけなのに、その指先は既に冷たくなってしまっている。自らの熱を移すようにその指先を掌に握り込んだ。
「そのうち、何も話さなくてもよくなりそうですね」
「それは困るな」
 その手を引いて、黒い海に沈むちらちらと安っぽい光を放つ宝石に背を向ける。もう帰るんですか、とそう言いつつも天蓬はくすくす笑いながらついてくる。その手を握り締めながら、一体あの時はどんな風にここから帰っただろうかと考えた。いつかも辿った砂利道を軽く蹴り上げるようにしながら下っていく。そしてちらりと斜め後ろを歩く姿を窺った。足元を見るのに精一杯でこちらの視線に気付いていないその俯いた顔を見下ろして、徐々に記憶が戻ってくるのが分かった。確かあの時天蓬は怒っていた。車の中に苦しい沈黙が広がっていたのもそのせいだ。今となってはその原因も思い出せない。二人とも若く、沸点も低かったため、きっと喧嘩といっても些細な理由だったのだろうとは思うのだが。
「……思い出した」
「何を」
「あなたってば、僕に内緒で女の人と会ってたんですよ」
「え? ああ? ……ああ」
 言われて見て漸く思い出した原因に頭を掻いた。そしてじとりとこちらを見つめてくる視線にまさかまだ根に持っているのかと焦り、言い訳を口にしようとした唇は天蓬の突然の笑い声にそのままの形で固まった。少し後ろを歩いていた彼女はさっさと先を歩いていってしまう。先程とは逆転して手を引かれる格好になった捲簾は歩く速さを速めてそれについていく。
 駐車場に着き、漸く平坦な道になると天蓬は少し歩く速さを緩めた。そして車の方へと向かって歩いていく。立ち止まり、その姿を見つめていた捲簾は、ふと思い付いて助手席のドアに手を掛けた後ろ姿に声を掛けた。「なあ、」という呼びかけに、彼女はドアに手を掛けたまま肩越しに振り返る。
「土曜日、どこか出掛けるか。バイクで」
 ゆっくりと二回、瞬きをした彼女は暫くして静かに笑った。
「あなた、あの時も同じこと言いましたよ」
 そう言って彼女はさっさとドアを開けて中に入ってしまった。それを追い、運転席側に回ってその座席に身体を沈める。ドアを閉めてしまうとその狭い空間には再び二人きりの沈黙が広がった。エンジンを掛けようとして躊躇い、ステアリングに腕を凭せ掛けてちらりと横目に、助手席でシートベルトを締めている天蓬の姿を見た。
「……んで、返事は」
「晴れたらね」
「確かあの時も同じこと言ったよな」
「分かってるんじゃないですか」
 くすくすと笑う天蓬を横目に、漸く肩の力を抜いてエンジンを掛ける。シートベルトを留めてから車を発進させる横で、天蓬がラジオをつけた。暫く流れたニュースの後には、週末の天気予報。予報は快晴。そこまで聴いたところでぷつりと音声は途切れた。その音声を断った指先は、そのままダッシュボードの上のライターに伸ばされた。











本当は10月を天ちゃんの仮想誕生月に仕立てて企画中にアップさせるはずが大幅に遅れ…。         2007/11/12