彼女が浮気をした。
 おまけに何だかよく分からない言い訳をしてきた。悪いことをしたのは相手のはずなのに突然その怒りが自分に向けられたことに、意味は分からなかったがとにかく責任転嫁をされていることだけは正しく理解した。そして、深く考えるのが面倒だったのでじゃあ別れようと言ってそのまま帰ってきてしまった。むしゃくしゃする。一人とぼとぼと家路に就いていた悟空は、自宅へと向かっていた足をその場で止めた。そしてバッグのベルトを短くして身体にぴたりと付け、夜の道を走り出す。こんな鬱々した気分のまま家に帰って寝るのはどうしても嫌だった。頭に過ぎったのはいつも自分を助けてくれたその人の顔で、迷惑が掛かるだとか、考える余裕も残っていなかった。
 その日、その選択をしたのが正解だったのか。今でも少しだけ考え込んでしまうことがある。



「……でさぁー、あたしがどうして浮気したのかわかるー? とか何とか言っちゃって……んなの知るかーっつの、ったく」
 でろでろに酔っ払い管を巻く悟空を、微笑みながら静かに見つめていた彼は、小さく声を出して笑った。そしてテーブルに零れたグラスの周りに付いていた水滴を布巾で拭きながら口を開いた。その、柔らかい微笑みを浮かべた青年の顔を見つめて、悟空は深く深く溜息を吐いた後しゃっくりを一つした。
「それは災難でしたね、でも割と簡単に別れられてよかったんじゃありませんか?」
「まーね、うん……どうして引き留めないのよーって、怒られたけどさ。おれ、そういうのメンドーだし。引き留めて欲しいってことは別れたくないってことだろ? なら、浮気しなきゃいいじゃん? って話だろ? おれ間違ったこと言ってる?」
 ひくっ、と再びしゃっくりをした悟空に彼はまた笑って目を細め、「間違ってませんよ」と首を振った。相も変わらず綺麗な笑顔だとぼんやりした頭で見惚れているうちに、うっかり手にしていたグラスを傾けてしまっていたらしく膝の辺りに冷たさを感じて慌てて我に返った。グラスからこぼしたビールが膝を濡らして含みきれなかった水分が床にぱたぱたと落ちていく。慌て、叱られるのではないかと身体を縮こまらせる悟空をよそに、のんびりと立ち上がった彼は先にリビングを出て悟空の方へと手招きした。
「脱衣所で脱いでいて下さい。今スウェットか何か出してきますから」
 彼は本当に優しくて綺麗だ。まだ幼稚園に通っていた頃、近所に住んでいた彼に悟空が懐くのに然程時間はかからなかった。芯は優しいのだが如何せん乱暴者な兄と同級生だった彼は、その頃から群を抜いて頭が良く、少女のような愛らしい顔立ちをしていた。いつも優しくて、怒った兄に追い掛け回されると悟空が逃げ込む先は彼の住むアパートだった。それは勿論兄も知っていて、悟空がいなくなればすぐに鬼もかくやの形相で彼の家に押し掛けてきたのだったが、兄が来ると知っていても悟空はいつも彼の家に向かってしまっていた。殴ろうと腕を振り上げる兄から隠れて彼の身体にしがみ付けば、彼は困ったように笑いながら庇ってくれる。その頃自分にとっての彼は安堵できる隠れ家であった。しかし中学に入った頃からは不思議な緊張を感じるようになっていた。それは勿論男友達に対する感情ではなく、しかし女の子に感じるものともどこか違っていた。彼は悟空の中で友達でもなければ家族でもない、不思議で曖昧な位置を占めていたのである。
 脱衣所へと向かい、濡れてへばり付くジーンズを脱いでいると奥の部屋から出てきた彼が顔を出した。
「すみません、ジャージしか見つからなかったんですけど」
「あ、うん! ありがと」
 差し出されたのは彼が首席で卒業した高校のものだった。自分も彼に遅れること数年で入学したが、その噂は彼が卒業して数年経ってからでも十分に知れ渡っていた。聡明で端整な顔立ちの彼は、在籍中はさぞかし人気があったに違いあるまい。ジャージを受け取り、彼がリビングに戻って行くのを見送りながらそれに足を通す。大分裾の余るそれが何だか悔しかったが、百八十センチ近くある長身の彼と自分を比べるだけ虚しいというものである。裾を脹脛の辺りまで捲り上げてから、濡れたジーンズを手に取った。どうしようか迷っていると、リビングの方から声がした。
「濡れた服は洗濯機に入れておいて下さいね、洗っておきますから」
「分かった」
 そう返事をしてからそれを洗濯機に入れて脱衣所を出た。再びリビングに戻ると、彼は先程悟空が床に零したビールを拭いていた。テーブルからはまだぽたぽたと零れてきていてきりがない。慌ててリビングに入っていって彼の前に膝を突く。
「あ、ごめん。俺がやるよ」
「いいですよ、もう済みましたから。座ってて下さい、新しいの出してきますね」
 床を拭き終え、テーブルも軽く拭いた彼は布巾を手にして奥に戻っていった。それを手持ち無沙汰で見送りながら、悟空は再び椅子に座り直した。酔いは少し覚めてしまったようである。悲しくない、辛くないと思ってはいたけれど、こんな風になってしまったのも多少のショックがあったからだ。嫌いな人間と付き合う趣味はないわけだし、あの子のことは少しは確かに好きだったのだ。その子が、自分の預り知らぬところで他の男と繋がっていたのだということがショックではないはずがない。しかし、物凄く好きだったというわけではない、それが彼女の心を傷付けたのだろうか。戻ってきた彼が不思議そうに自分の名を呼ぶまで、悟空はぼうっとテーブルの上の飲み掛けの缶ビールを見つめていた。
「……元気出して下さい。若い頃には、よくあることですよ」
「でもさ、天ちゃんは浮気なんてされたことないだろ? ……いつも皆に好かれてて、嫌われることなんて」
「ありますよ。人間は傷を幾つも抱えて大人になるんですから。僕も子供のままじゃいられないでしょう」
 そんな風に言う彼の顔は本当にいつも通りの優しい笑顔で、つい混乱してしまう。言葉の内容とその表情のギャップに、ついていけずに取り残される。そのうち、少しだけビールの残っていた缶は片付けられ、プルトップの開けられていない新しい缶が差し出される。手を伸ばして受け取ればそれは指先を引きたくなるほどキンと冷えていた。促されるままにプルトップを押し開けて一口煽る。アルコールの波に押され、先程感じた僅かな違和感は頭の隅に追いやられてしまったのである。そしてそのことはついに、手後れになるその瞬間まで抽斗から取り出されることはなかった。
 ごろごろと空になった缶が並べられたテーブルに、ふわふわした頭のままで突っ伏した。視界がぐるりぐるりと回って気持ち悪いのに、空を飛んでいるような浮遊感が少しだけ気持ちいい。嘔吐きたいのか笑いたいのかよく分からぬまま小さく笑うと、喉が刺激されたせいか小さな嘔気をもたらした。胸の辺りを押さえながら小さく唸っていると、いつの間にいなくなっていたのかキッチンから戻ってきた彼は、グラスに注がれた冷たい水を差し出してきた。腕をテーブルについたまま緩慢な仕種でそのグラスを受け取る。手を添えて悟空の手にそれを握らせた彼は、グラスを満足に口許に運ぶことも出来ない悟空を見て、少し困ったように笑った。
「飲んで潰れて寝てしまえば少しはすっきりするだろうと思ったんですが……意外と潰れないものですね」
「へへっ、おれだってもうガキじゃねーもーん……まあ、恋愛に関しちゃガキかもしんねーけどさ……」
「え?」
「どうすりゃ一番よかったん、かなーって……別れたくないって、言やよかったのかなぁとか、ふざけんじゃねえって、一発叩けばよかったのかなって……暴力は、よくないけどさぁ、でも、何の覚悟もなく浮気なんてすんなーって思う」
 自分でも何が言いたいのかまとまらないことに苛立ちながら言葉を紡ぐ。しかしそれを急かすことも苛立つこともなくただ静かに耳を傾けてくれる彼の存在は本当に貴重だった。酔っ払った仲間と彼女を悪く言って飲み明かせばそれはそれで気が晴れるかもしれない。しかしそれは根本的な解決にはならないのである。あの時自分がどうすることが、どう声を掛けることがベストだったのか。そう考えてしまうのはつまり、自分がしたことを悔いているからに他ならない。
「なあ……天ちゃんなら、どうする? 付き合ってる子がさ、浮気したって……それが分かったら、天ちゃんどうする?」
「え、僕ですか? ――――僕の答えなんて参考にならないと思いますよ」
「いいから教えてよー、いろいろ勉強してかなきゃ、次の恋だってできねーもん」
 酔っ払い独特の押しの強さでそう詰め寄ると、困ったように眉根を寄せて笑った彼は、傍にあったグラスを手に取り、口の中を潤すように少しだけ口に含んだ。中に入った強い酒は、悟空では一口で喉が焼けてしまいそうなものだ。
「僕――――――……ですか。僕なら、もうタコ殴りですよ」
「えええ? 天ちゃんダイタン〜〜!」
「もう気が済むまでずっと殴り続けると思います」
「天ちゃんが本気で殴ったりしたら死んじゃうよー! 浮気なんか死ぬ覚悟じゃないとできねーじゃん」
 酔いの回った頭だからこそ彼の言葉を笑って聞いていられた。素面の状態でその話を聞いていたら血の気が降りてしまうだろう。彼も、相手が酔っ払いだからと分かってその話をしたに違いないと、今思えばそう思う。いつも悟空を庇ってくれたその微笑みで、その唇で、耳を覆いたくなるような言葉を吐き出していくのをその時の悟空が不思議に思うことはなかった、それどころかけらけら笑いながらそれを茶化していたのである。だからと言ってその時悟空が正気に戻ってそれを制したところで彼が口にしたであろう言葉は想像に易かった。「冗談に決まってるじゃありませんか」。その一言で悟空が反論を封じられることは必至だった。自分が彼に勝てた試しなどないのだから。
「死なせやしませんよ、安心して下さい。顔面骨折は免れませんけど……治ります。鼻っ柱は真っ直ぐには戻らないかもしれないけど、眼球を狙うつもりはありませんし命に差し障りはない程度でしょう。きっと僕の手も傷付いて、骨折してぼろぼろでしょうね。そして、僕の手が砕けてもう殴れなくなったら」
「なったら?」
「そうしたら……許してあげますよ。僕はそのままどこか遠くに行くんです。その人と、もう一生出会うことがないような遠くへ」
 その時の自分がどう言ってそれを茶化したかははっきり覚えていないけれど、悟空に話を混ぜっ返された彼が楽しそうに笑っていたことは覚えている。それから先は何も覚えていない。目が覚めたら自宅、自室のベッドの上にいて、使用人に訊ねれば朝早くに彼が車で送ってくれたとのことだった。はっきりしない記憶の中で、一瞬だけ泣きそうな顔をした彼が呟いた言葉だけが鮮明に頭の中に焼き付けられていた。
(本当に愛した人に裏切られたその瞬間、僕は一度死ぬんです)




 思い切り泥酔し、その日の記憶が定かではなくなったせいか、あれほど落ち込んでいたというのに失恋の傷は急速に埋まり始めていた。彼女が新しい男と付き合い始めたと聞いてもその傷は痛むことはなかったし、街で二人寄り添い歩いているところにばったり出くわしても何とも思わなかった。ただ、あの日苦しそうな顔をしていた彼女が笑っていることが何だか嬉しかった。笑ってその新しいカップルと別れ、夜の街を歩きながらふと思い付いた。再び彼と話がしたいと思ったのだ。自分の出した結論を聞いてもらいたい。思い立ったら即実行が鉄則であるため、深く考えもせずに夜の道をひた走った。そして辿り着いたマンションでインターフォンを何度か押してから漸く気が付いたのである。
「……あー……仕事、遅いのかもな……」
 彼はまだ年若いにも関わらず将来を期待される心臓外科の名医だった。手術予定はみっしりと詰め込まれており、時折出張もしている彼が平日のこんな時間に家にいるはずがない。インターフォンの前で項垂れつつも、最後にもう一度だけボタンを押した。空しく響くそのチャイムを聞きながら、そのドアに背を向けた。
 少し残念な気持ちを引き摺りながら家に到着すると、どうも玄関の辺りが騒々しいのに気がついた。不思議に思って声を掛けられそうな人間を目で探す。するとその時ふと玄関を通り過ぎた男が目に留まった。悟空が帰ったことに気付いた彼は笑ってこちらに向かって歩いてくる。
「次郎神! 何かあったのか?」
「悟空様、お帰りなさいませ。たった今三蔵様が出掛けられたばかりなのですよ」
「三蔵が今? 何でこんな時間に……」
 いつも仕事で忙しいと言って家にいない兄がこんな時間に帰宅していることもおかしければ、腰の重い彼が慌てて出掛けていくというのも不思議だ。そう思って悟空が首を傾げると、次郎神は沈痛な面持ちで言葉を続けた。
「何でもご友人が大怪我をされたとか……ああ悟空様も親しくされていたのでは」
 それに続けられた名前に目を瞠る。兄と、先程悟空が家を訪れた彼の高校の同級生の名だったのである。慌てて困り顔の次郎神に食ってかかる。
「大怪我!? どうして……事故とかか?」
「いいえ、それがどうも喧嘩か何かではないかという話でした……何でも酷い……顔面骨折だそうですよ」
 へえ、と声を漏らした瞬間、喉がひりつくような思いを味わった。喉が固まり、身体も動かせなかった。考えることを止めたいのに、“顔面骨折”という言葉だけで頭は思考をどんどん展開させる。偶然とも考えられた。本当に彼がどこかのチンピラと喧嘩をしたとか、通り魔にあったとか、それだけの話かもしれない。しかしこの狭い空間の中で起きた事件としてはあまりに異色だった。出来すぎていた。思わず口許を覆って言葉を失う悟空に、ショックを受けたのだと勘違いしたらしい次郎神は、気遣うように肩に手を載せてきた。
「三蔵様はつい先程病院に向かわれましたが……後を追いましょうか……?」
「あ――――……ううん、俺はいいや。飯は後で食べるからそのままにしといて」
 それから二階の端に据えられた自分の部屋へ戻り、上着を脱ぐのもそこそこにベッドにダイブした。頭の中をぐるぐる回る言葉に眩暈がした。ベッドの上で仰向けになり、天井を仰げばぐるぐると自分のベッドが回っているような感覚に襲われた。犯人は分かっていた。何故かも分かっていた。それに繋がってばらばらだったフィルムが一つ一つぱたぱたと繋がっていく。あの人が好きな人。その人が何をして、今のこの事態に繋がったのか。繋がり始めたフィルムが頭の中で鮮やかに映し出されていく。
(……天ちゃんの、好きな人って、そうなんだ――――――……ケン兄ちゃん)
 愛した人に裏切られた時の彼の行動は、女性に対してすることにしてはあまりに残虐だった。その時点で少しはおかしいと頭の片隅で思っていたのである。しかしそれを酔いのせいにして深くは考えないようにしていた。自らの拳が潰れるまで殴り続ける彼の頭はどんな感情に占められていたのだろう。どんな顔をしていたのかなんて自分には分かるはずがないのに、どうしてか、その時の彼が泣いていたのではないかと思ってしまうのである。
「――――……! まッ」
 慌ててベッドから起き上がり、ドアのところに置きっぱなしのバッグを取りに向かった。部屋の中に戻る時間も惜しく、バッグから携帯電話を引っ張り出して震える指で目的の番号を引き出す。そして耳に当て、どうかまだ間に合うようにと願った。しかし十回ほどのコール音の後、耳に届いたのは無情な機械音だった。舌打ちをして通話を切り、次の番号を引き出す。そして同じことを繰り返したものの、やはり耳に届いたのはやはり冷たい機械の音だった。携帯電話をその場に落として、ふらふらとベッドに戻る。力なくうつ伏せに飛び込んで、枕を抱き込みながらぼんやりと目を閉じた。携帯電話は契約が切られている。自宅の番号は掛けても繋がらない。彼はもういないのだ。
 間に合わなかった。彼は、どこか遠くへ行ってしまったのである。

 普通に考えれば、彼の犯したことは犯罪だった。立派な傷害罪である。しかしその被害者である捲簾は何一つ語らなかった。周りから何度訊かれようとも決して口を割らなかった。自分にそんなことをした相手の顔を見なかったはずがないのに、捲簾は頑なに口を閉ざした。あの夜が明けて次の日、悟空もまた病院へ見舞いに向かった。最初に次郎神から話を聞かされた時は流石に驚いたが、全治数ヶ月の怪我を負った彼は言うほどの重傷ではなかった。捲簾が上手く拳を避けたのか。それとも、彼が、元は愛した相手を本気で殴ることが出来なかったのか。それは悟空には分からない話だ。悟空も捲簾も決して彼の名前を口にすることはなかったが、生来敏感な兄は一度も見舞いに訪れない彼のことをすぐに疑ったようだった。その追及が厳しくなったある日、捲簾が「お前には関係ない」と一喝すると、兄は二度と彼のことを口にすることはなくなった。昔はまるで本当の兄を慕うようにこの男を慕っていたはずなのに、今見るとまるで彼が別人に見えるのだ。頼れる兄のような存在であった彼があの日を境に一瞬にしてただの男に変貌し、彼への尊敬は幻のように消えた。不思議な話である。日ごとに彼と話すことはなくなり、見舞いに訪れても沈黙ばかりが広がるようになった。彼は何も変わってはいない。変わったのは、自分の見方だ。
 あの日から数ヶ月後、彼の怪我は完治した。彼の真っ直ぐだった鼻梁が僅かな歪みを残している、それだけが、あの日を境に風のように消えた彼を小さな痛みと共に思い出させてくれるのである。






 その記憶も薄れ始め、捲簾と顔を合わせることもなくなった六年後。成績は芳しくなかった悟空だが何とか職に就き、人並みの生活を送っていた頃、高校時代の友人が怪我をしたという報せを耳にした。彼は高校を卒業した後、少し田舎の海の見える街に帰ったとのことだった。どうせ暇な日曜だと、電車に揺られて二時間、海と空の間を眺めながら友人の住む町へと向かった。初夏の海辺は風が心地いい。人の少ない田舎らしい駅舎に降り立ち、病院に向かうのは後にしてひとまず海へと向かった。誰もいないのをいいことに、靴と靴下を脱いでパンツの裾を捲り上げながら海に足を浸す。空気はもう暖かくても水はまだ冷たかった。それから暫くして、近くの水道で足を流し、近くのベンチに腰掛けて足をぶらつかせながら乾くのを待った。
 すっかり乾いてから靴下を履き、靴を足先に引っかけて砂浜をあとにした。靴の中に入り込んだ砂を片足ずつ出しながら、坂道を登って高台の上にある病院を目指した。

 白亜の大きな建物は、海辺に似つかわしい。そういえば何も差し入れを持ってこなかった、と後悔しながらもとりあえず病院の門を通った。そして正面の玄関を目指して少し小走りで向かう。海辺の高台は一際風が強い。前髪が風に煽られてあちこち跳ねるのを手で押さえながら進む。あまり前を見ずに歩いていた悟空は、正面に何か立ちはだかっているのに気付いて歩調を緩めた。髪を押さえていた手を離し、顔を上げる。
(……嘘だ)
 今になって、何故だ。
 肩に付くほど長かった黒髪は、短く切り揃えられている。自分が戯れに奪って掛けてみれば眩暈がするほどだった度の強い眼鏡はなくなっている。それでも、一目で彼だと分かった。白いシャツを浜風に揺らしながら、彼もまた信じられないような顔をしてこちらを見つめていた。普段はただの黒に見える眸が、光を孕んで透けるような茶に見える。さらさらと白い額の上を、短くなった髪が揺れている。
「天ちゃ……」
「……どうして、こんなところに」
「あ、俺はここに入院してる友達の見舞いに、さ、その」
 そう言うと、驚いたように目を瞠った彼は次第に諦めたように目を伏せて、小さく口許を笑みの形に歪めた。その声も、少し悲しげに見える笑い方も、少し見た目が変わっていたとしても全く変わっていない。暫く黙り込んだ彼と悟空の間を、風の鳴き声だけが通り過ぎていく。騒音のないこんな街では、風の音で模しなければ耳が痛くなりそうだ。
「……大きくなりましたね。もう……二十四、かな」
「うん、最近二十四になった。…………えーと、元気……だよね。あ、でも病院」
 この時間に病院から出てきたということはどこか体調を崩しているのだろうかと思い、首を傾げると、彼は笑って首を振った。そして背後に聳え立つ病院を振り返って、眩しそうに見上げる。
「いいえ、ここには勤めてるだけですよ。今、夜勤明けで帰るところです」
「あ、そうなんだ。天ちゃんすんごい外科医だったから、大変なんだ……」
 そう話を盛り上げるつもりで口にした悟空は、彼が少し困ったように視線を落としたことで話を続けるのを止めた。彼が視線を落とした先にあるのは彼の掌だった。ひく、と喉が引き攣るような感覚を覚えた。どこか彼がその掌を握ったり開いたりする仕種が不自然に思えるのは、自分の目がそう見せているのだろうか。あの日、その長くて綺麗な指が、血に塗れたのだろうか。
「あの日……利き手が潰れてね。神経にも損傷があって……少しは回復したんですが、細かな技術を必要とするオペはもう出来ないんですよ。あれから改めてリハビリをしながら勉強をし直して、外科から内科に転身したんです」
 今は内科勤務です、と笑いながら言う彼の表情に、咄嗟に嘘を探った。彼は笑いながら泣いて、俯きながら怒る人だから表面をそのまま鵜呑みにすることは出来ないのである。しかし彼はすぐにその隙を隠してしまう。悟空がじっと自分の様子を窺っていることに気付いたのだ。静かに微笑みながら自分を見つめてくる彼の視線を真正面から受け止める。
「……ケン兄ちゃんは、元気だよ」
 突然そう口にしたのは、その話題を極端に避けている彼が本当に知りたいのはそれではないかと咄嗟に思ったからだ。自分の過去にしたことを悔やんでいる。そして誰よりもあの男の幸せを願っているに違いないのだから。
「……そうですか」
「結婚してないし、恋人もいないらしいよ。……俺あんまり会ってないけど」
「どうして?」
「話すことないし……」
 あの事件以後、彼は悟空の中に湧いた戸惑いを察したように、必要以上に近付いてくることはなくなった。きっと彼は悟空が全てを知っていることを察したのだろう。二人の間で会話が生まれるとしたら、今目の前にいる彼のことだけだったが、それを口にするのはタブーだった。二人とも忘れた振りをしなければならなかったのである。
「あれから、お金を送ったんです」
「え?」
「治療費……かかっただろうと思って。まともに受け取ってもらえたとは思ってませんけど」
 まるごと寄付してたりして、と彼は冗談めかして言ったが、それは本当だった。書留で送られてきた小切手を見るなり彼はすぐに寄付の手配をしてしまった。一円も彼の手元には残らなかったのである。しかしそれは言わない方がいいだろうと口を閉じる。そして真っ直ぐに、何か物言いたげに彼を見上げた。
「……本当は、僕が直接伝えなければならないと分かっています。でも、今の僕にそんな度胸はないから」
 代わりに伝えてくれますかと口にした彼を、大分前から予感していたような気がした。続けられた言葉が一つ一つ胸を苛んでいく。あの日の謝罪、そして彼の幸せを願う言葉に、関係のない自分が泣きたくなった。お願いできますかと最後に言った彼に、悟空は何とか声を出して、分かった、と呟いた。
「いつかきっと、直接謝りに行きますからって」
 ザザ、と遠くから波の音が聞こえる。波の音に、彼の言葉に、頭の中が掻き乱されるようだった。

「結婚したんです」
「そうなんだ、おめでと。いつ?」
「去年です」
「髪切ったのは?」
「それは六年前」
「コンタクトにしたの?」
「おかしいですか?」
 自分の右目を指差して笑う彼に、悟空も自然に笑うことが出来た。おかしくない、と返すと少しだけ嬉しそうに彼が笑う。眼鏡越しの、いつも少しだけ悲しそうだった彼よりもずっと若くなったような気がした。あの頃の彼はいつも何かに悩んでいた。あの日壊したものは、耐え切れないほどに大きくなった彼の悩みだったのだろう。笑っていても本を読んでいてもいつも泣いていた彼は、今はもういない。
 そのうち、病院の正面玄関から一人の女の人が出て来たのに気付いた。長い黒髪が浜風に靡かせた背の高い人だった。不思議そうに悟空を見て首を傾げ、その大きな眸を彼へと向ける。背中に触れられて初めて彼女の存在に気が付いたのか、振り向いた彼は驚いたように目をしていた。
「ああ、すみません。気付かなかった」
「いいえ、……あの、あちらは?」
「僕の、友達ですよ。まだあっちにいた頃の」
 そう彼が言うと彼女は一瞬、少しだけ不安そうな顔をした。彼女はどこまで知っているのだろうかと考えたが、すぐに話の矛先が自分に向けられたことで我に返った。
「妻です。ここの小児科勤務なんですよ」
 彼の反応から警戒する必要はないと思ったのか、彼女は少しだけ不安げだった表情を緩めて悟空に微笑んで会釈をした。そしてすぐに車を回してくると言ってその場を離れていった。それを暫く何も言わずに見送っていた彼は、小さく笑って首を振った。短くなった髪の襟足が浜風に揺らされて、何だか酷く痛々しく見える白い首筋を擽っていった。

「心配させてしまいましたね」
「あの人、知ってんの?」
 何を、とは言わずに訊ねる。浜風にシャツの背を孕ませながら、彼は風に煽られた髪を手で押さえた。
「当たり障りのないところまで……ですけど。僕はずっと、自分はゲイだと思って過ごしてきました。今思えば、あの人もそんな僕を内心軽蔑していたんじゃないかと思うんです。生来女だけが好きな彼が、戯れに男に手を出してみただけで、あの関係に大した意味なんてなかった。意味のない関係に縋り付いていたのは、僕だけだったのに」
 最初は悟空に話しかけるようであった言葉は次第に独白へと変わっていく。それを黙って聞いていた。波の音が、聞くに耐えない彼の胸に突き刺さるような独白を、程よく掻き消してくれるからだ。
「でも僕も女性を愛せました。抱くことも出来た……ゲイじゃなかったんです。だから、もう少ししたら、あの人と改めて真正面から向き合えるような気がするんです」
「天ちゃんは」
「はい?」
「今、幸せなんだよね」
「……ええ」
「そのまんま、伝えとくから。天ちゃんは幸せだから、さっさとケン兄ちゃんも幸せになれば、って」
 そう言うと、一瞬あの頃に戻ったようにふっと泣きそうな表情をした彼は、すぐにそれを微笑みの中に消してしまった。波間に全てが消えていく。過去の痛みもきっとそのうち波間で藻くずと消えるのだろう。
「……本当は、死ぬ気でここまで来たんです。だけど、いざ海を目の前にしたら怖くて、足が竦みました」
「当たり前だよ」
「そうですね。……あの頃僕は、当たり前のことが何も分かっていなかったんです。だからあの人の考えているごくごく当たり前のことも分からなかったし、善悪の基準も曖昧だったから、無知ゆえにあの人に怪我をさせた。これは、若気の至りで片付く問題ではありません。逮捕されてもおかしくなかったのを、あの人が庇ったんです」
「でも……天ちゃんはあの晩、一度死んだんだよな」
 愛した人の手酷い裏切りに、天蓬という男は裏切り者を殴りながら一度死んだのだ。今目の前にいるのはあの日とは違う彼。彼の全てだった存在は、今の彼の中には片隅に隠れている程度なのだと思う。しかしきっと、時々それは顔を覗かせて彼の胸を苛むのだろう。それが彼の犯した大きな罪の、一生続く代償である。
「一度死んだ僕の屍骸は、誰かがあの頃の僕を覚えている限りいつもその心の中にあります。本当は消し去ってしまいたいけど」
 しかしその哀しい屍骸は一生捲簾の心に横たわったままだろう。それが、彼の犯した罪の代償だった。今はいない昔の天蓬の屍骸を抱えたまま、捲簾は未だに次の恋愛も出来ずにいる。今これでやっと、彼と捲簾の思いは等分になったのではないかとも思えるのである。あの頃彼が幾ら捲簾を思おうともその逆はほんの僅かしかなかった。今はその正反対だ。幾ら捲簾が彼を思おうとも、彼が再び捲簾を思うことは二度とない。捲簾の天蓬への思いは、六年前のあの夜にやっと始まったのだ。皮肉なことに、その夜天蓬の思いは終わりを告げたのだったが。
 そしてその屍骸は悟空の心にも残っていた。あの日の晩の彼が、死の直前の顔が、今でもはっきりと思い出されるのである。

 そのうち、駐車場の中から一台の車が動いてきて、二人の隣で停車した。深い茶色のボディの可愛らしいミニカーだった。中には先程の女性がいて、悟空を見て小さく会釈した。それを見て、悟空には視線をやることもなく彼は助手席のドアに手を掛けようとする。それを見て咄嗟に声を上げた。逃がさぬようにその腕に掴まって追い縋る。
「あの! ……電話番号、教えて。あとメールアドレスと住所! いいだろ?」
 そう声を張り上げると、彼は驚いたように目を瞬かせて暫く動きを止めた。しかしそのうち助手席のドアを開けた。駄目かと諦めかけた時、助手席に腰掛けた彼はダッシュボードからメモ帳とボールペンを取り出した。そしてさらさらと紙の上にペンを滑らせる。書き終えたのか、メモ帳から一番上の一枚を破り取った彼は、それを二つに折って悟空に差し出した。
「すみません、携帯電話はもう持つのを止めたんです。だから住所と、家の電話番号ですけど」
「……手紙、書くからいいよ」
 生まれてこの方、まともな手紙なんて書いたことがない。だけど彼の為なら、帰り際に便箋でも買って帰ろうかな、なんて思ってみるのである。
「楽しみにしてます」
 その言葉と同時に助手席のドアが閉められた。そして窓が機械音と共に静かに下がっていく。中から覗いたその笑顔に、何だか胸が苦しくなって顔を歪めた。
「中の食堂のメニューもなかなかですよ、お見舞いが済んだら行ってみたらどうですか」
 そう言って彼はひらりと手を振った。そして車は静かに発進する。遠ざかっていくのと同時に、窓が閉まっていくのが見えた。それを見たら何だか無性に胸が詰まった。この胸の中に確かに昔の泣き虫だった彼がいて、今も時折泣き声を漏らすのに、今の彼は何て幸せそうに笑うのだろう。
「……しあわせそうじゃん…………ちくしょー」
 何だかじっとしていられない気分になって、走り出す。もう一度海に入りたい気分だった。そして大声で何か叫びたかった。病院の門を出、坂道を転がるように駆け下りる。目指す砂浜までは、もう少し。






 夕暮れまでたっぷり海辺で過ごした悟空は、日が海に沈んでいくのを眺めながら慌てて駅へと駆け出した。人も殆ど乗っていない田舎の電車に慌てて乗り込んで、海の見える街に別れを告げた。電車には徐々に人が乗り込み始め、賑やかになり、人は増え、窓から見える景色はきらきらと眩しい都会へと趣を変えていく。自分のシャツに纏わり付いた磯の香りと、靴の中に入り込んだ砂浜の気配だけが今日の出来事が幻ではないことを証明していた。しかし、一人家の門の前に立った瞬間、あまりにそれが現実的で、今日訪れた海の街が幻のように思えてしまうのである。
 夢見心地のまま眠りに就き、次の朝目覚める。空腹を訴えてのんびりと一階に降りると、帰宅していた兄がリビングルームのソファを占領して新聞を読んでいた。返事がないと知っていて一応朝の挨拶をし、近くの一人掛けのソファに腰を下ろした。眼鏡を掛けた、その不機嫌そうな横顔を眺めながら、そっと言葉を選びながら口を開く。
「……なー、三蔵」
「何だ」
「ケン兄ちゃんの連絡先教えて」
 その名前が出た瞬間、兄の顔が不快げに歪められる。それも見ない振りで、悟空は言葉を続けた。
「…………そんなものを知って、どうする」
「――――――伝えることがあるんだけど」
「それなら俺が伝えておいてやる」
「駄目。……三蔵には聞かせられねえんだよ」
 あれは、あの人が捲簾に向けた大切な告白だった。勇気を出し切れなかった彼が、それを自分に託したのである。そんな大切なものに他人を介するわけにはいかない。ソファの上で膝を抱えて、近くのテーブルの上にある煎餅を手に取った。袋ごとそれを割りながら、三蔵の様子を横目でちらりと窺った。その顔は苦虫を噛み潰したようなそれで、きっと自分の抱えた伝言が何であるのか分かっているのだろうという顔だった。でも自分の口から教えることは出来ない。
「……そうかよ」
「うん。ごめんな」
 新聞を畳んで立ち上がった兄は、丸めた新聞で悟空の頭を叩いてからリビングを出ていった。膝を抱えたままその後ろ姿を眺めていた悟空は、その姿が見えなくなってから手の中にある煎餅の袋を開けた。そしてその一欠けを口の中に放り込んだ。がりがりと咀嚼しながら、ソファを降りて窓辺に向かう。今日もいい天気だ。きっとあの海辺の街は水面を太陽の光にきらめかせて眩しいのだろう。
 今も泣き続ける遺骸を胸に抱いた男に、あの伝言をどうやって伝えようか考えた。その現実を思いきり残酷に突きつけることも考えた。しかし、それは告白を自分に託した彼の気持ちを裏切ることになるだろうから、止めた。大きな欠伸をして、潤んだ視界の中に映る太陽に目を細めた。
 海辺の病院で働く彼は、今日も潮風に涼しくなった首筋を撫でながらぼんやりと空を見上げているだろうか。










2008/01/09