彼の眸はいつも自分を苦しくさせた。その視線に晒されて、この身を偽ることは出来ない。その強い眼光が触れなば切れんばかりの凶器だったのである。今、その眸は白い包帯に覆われて閉ざされていく。天蓬は壁際で腕組みをし、手出しすることもなく黙って軍医の李偉によって行われる処置を眺めていた。白過ぎる室内が目に痛い。その白さが自分の異端さを際立たせるようだった。円椅子に腰掛け、項垂れた男は目を白い布に覆われて、膝の上に置いた拳を強く握っていた。李偉は何もせず見ているだけの天蓬を一瞥し、何も言わずに手を差し出してきた。それが何を意味するのか分かっていたが、今自分が動くべきなのか迷い、暫くそのまま動かずにいた。しかしすぐ、自分が動かない限り彼はこのまま処置を中断したままでいるつもりだと悟り、ゆっくりと溜息を吐きながら名残惜しげに張り付く背中を壁から離した。壁に据え付けられた薬品棚の抽斗から鋏を取り出し、持ち手を彼に向けてその掌の上に載せると、彼はその鋏で包帯の端を切り、器具類の置かれたワゴンの上に無造作に放り投げた。途端部屋中に響いた金属のぶつかり合う耳障りな音に男は怯えたように大きく肩を揺らした。いつも大きく構えて、何物にも動じることのない彼がそんな些細な日常の音に一々身体を震わせるのが不思議で、可笑しくて、ほんの少しだけ哀しかった。
 包帯の端を絆創膏で留め終えた李偉は、またいつものようにだるそうに肩を回した。視界を奪われた男は頑なに口を閉ざし、俯いたまま何も言わない。そんな彼に代わって天蓬が頭を下げると、李偉は如何にも嫌そうに顔を顰めて手を振り、追い払うような動作をした。そしてさっさと使用済みの消毒綿が入った膿盆を片手に処置室を出ていこうとする。ドアを開け、一旦一歩踏み出したところで彼は思い出したように振り返り、足でドアが閉まるのを押さえながら面倒臭そうに目を細めた。そのやぶ睨みの目は確かに天蓬を見ているのに、開かれた口から出た言葉は天蓬に向けられたものではなかった。がりがりと頭を掻きながら細めた目で彼は天蓬を睨みように見つめる。
「二、三日は安静にしていてもらうぞ。明日また消毒をして様子を見る。稽古や女遊びはもっての外……たまに骨休めをするのも悪くなかろう」
 問題行動を起こさぬことだと欠伸混じりに言い捨て、彼はさっさと部屋を出ていった。重い扉が閉まる音に、彼の肩はまたぴくりと揺れる。周囲を全て敵だと認識したように毛を逆立てる様は、まるで傷を追った獣のようだった。周囲に薄い膜を張ったように声を掛けられることも触れられることも拒絶しているようで、一体どうしていいのか分からず、とりあえず間を持たせる為白衣のポケットから煙草の箱を取り出し、パッケージを開封した。その中から一本煙草を抜いて火を点けながら、周りの動きに神経を張り巡らせているであろう男を横目に溜息を吐いた。こんなにも沈黙は重苦しいものであっただろうか。

 李偉が去り、二人きりになった室内は開けられた窓からさわやかな風が吹き込んでくる。なのにこうして息苦しい感じがするのは、部屋に染み付いた消毒液の匂いのせいなのか。
「痛みはどうです」
「……いや」
「それはよかった」
 間が持たないだなんて、彼といる時に感じたことはなかった。それは彼の雰囲気によるものが大きかっただろう。たとえば天蓬が気のない返事しかしなかったとしても、気まずくなるようなことはなかった。しかし今そうではないのは、彼は触れるものを皆傷つけようとするような乱暴な気配を纏っているからだ。掛ける言葉が見当たらない。煙草を手持ち無沙汰に動かすと細い煙の筋が真白な天井に向かって立ち昇ってゆき、消毒液の匂いが染み付いた室内に少しだけ身近な匂いが満ちて思わずほっと息を吐いた。
「普段が元気過ぎるくらいですから、たまにゆっくりするのもいいものだと思いますよ。これから部屋まで送りますから、トイレの場所くらいは勘で覚えて下さいね。始終介護するわけにもいきませんから」
 声を掛けても、返事はない。思えば、天蓬は捲簾に無視されたことがなかった。ある、といえばあるのだが、それは天蓬がその以前に彼を酷く怒らせたからで、自業自得というものだった。しかしその時ですら返事はしてくれたように思う。しかし今の彼は、まるで自分の声が届いていないかのように俯いたままなのである。聴覚は閉ざされていないはずなのに。目を閉ざされたら、自分の存在は分からなくなってしまうのだろうかなどとおかしな考えに至ってしまう。円椅子に腰掛け、項垂れて腕も足も力なくだらりと垂らした彼は、いつも傍にいる男と同一人物であるはずなのに、不気味に思えてしまった。口を真一文字に結んだまま、一言も発さずに俯く男は一体何を思っているのか。いつもなら気軽に触れられるその肩は、迂闊に手を伸ばせば斬り落とされてしまいそうなほど鋭く冷たい殺気を纏っているのである。
 惚れ惚れするほどの男の殺気に僅かに胸が高鳴るのと同時に、少し哀しい気がしたのは気のせいにしておきたかった。
「天蓬」
「あ……はい、どうしましたか」
 突然何を言うかと思えば、彼はそう言って自分の右手を突き出した。小さな円椅子に座り、安定感のない中で片手を伸ばしているせいでどこか不安定である。咄嗟に支えようと一歩踏み出したが、その瞬間(触れてもいいのだろうか)と普段なら考えもしないような不安に駆られて思わず手を退いた。
「手、貸せ」
「立ちたいんですか」
 いいから、と少し苛立ったように言う彼に戸惑いながらも煙草を消して彼の元へと歩み寄り、突き出された彼の掌の下に支えるように自分の手を入れた。そのまま彼は自分の手を支えにして立ち上がるのだろうと思っていたのだ。しかし捲簾はそのまま、触れた天蓬の手を吟味するように触り始めたのである。指の一本一本、爪の形、掌の輪郭を確かめるようにゆっくりと触れていく。手を退くことも出来ず、どういう顔をしていいのか分からなくて、されるがまま、黙って彼のすることを見つめていた。自分の冷たい掌を、彼の熱い指先が滑っていく。ぞく、と寒気のようなものが走った。それがじわじわとこの身を責め苛む快感だと知っている。
「可笑しいな。あんなに毎日見てたのに、お前の手の形も、色も、何も思い出せない」
 掌の皺、指の節を一つ一つ確かめてその形を探ろうとしているのだ。擽ったくはあったが、彼にとっては切実な思いがあってのことであろうその行為を止めさせることは出来なかった。彼の少しかさついた指先が、柔らかく脆弱な掌の皮膚を刺激する。彼が沈黙を保ったまま何を考えているのか。如何に自分が今まで彼の感情を汲み取るための努力をしていなかったかが分かる。目を見なければ、彼がどんな気分でいるのか分からないのだ。自分自身は彼が聡いのをいいことに意思表示もそこそこにして、彼の方ははっきりと意思表示をしてくれるのに甘え切っていた。そのつけがこんなところに現れるとは思ってもみなかった。こんなにも、彼のことを知らなかったなんて。
「天蓬」
「はい」
「俺が今触ってるのは、お前だな」
 彼が何を思ってそんなことを聞いてくるのか分からない。目が閉ざされたら、そんなことまで不安になってしまうのだろうか。あんなにもいつも、憎たらしいほどに堂々としたあの男が。衝撃を受けつつも、不安定になっている彼の前で沈黙を続けることはよいことではないだろう。表情は動揺していたとしても、声だけは平常を保たなければならない。動揺を表さないように上擦りそうになる声を何とか鎮めた。
「ええ、僕ですよ」
 僅かにぶれた声に顔を顰める。彼がどう思ったかは分からないが、それに彼が言及することはなかった。親指の関節の皺を辿っていた指を止め、彼は俄かに下唇を噛んだ。感情を汲み取れないと、その一挙一動が妙に気になってしまう。普段だったら何とも思わない僅かな間の沈黙に、焦れて胸が圧迫されるようだった。噛まれて白くなった唇から吐き出される次の言葉を、重大な宣告を受け入れるような気分で待った。天蓬、とまた名前を呼ばれて、胸が高鳴る。それは心地のいいものではなく、ずきりと痛みを伴うほど重いものだった。
「お前には、俺が見えてるか」
 どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろう、と思い、今の彼にはそれが当たり前ではないのだと悟った。暫く逡巡した後、周囲を見渡した。そして近くにあった円椅子を片手を伸ばして引き寄せ、それに跨って捲簾の正面に座る。真正面から彼と向き合い、自分の手を握っている彼の手を上から包み込むように握った。傷痕だらけの、かさついた男の手を上から包み込むと、その手は緊張したようにぴくりと強張った。その震えごと封じ込めるように両手で握り込んで、宥め付けるように擦った。
「ちゃんと見えて、ちゃんと触れます」
 その言葉を聞き、彼は開き掛けた唇を閉じた。そして握られた自分の手を見るように少し俯いて、口元を少しだけ緩めて笑った。
「……お前の手、相変わらず冷てえ」
 形も色も何も思い出せない、と弱気なことを言っていた彼がほんの少しでも調子を取り戻してきたようで、安堵の息を吐く。そりゃすみませんね、と軽く返しながらも天蓬はその手を離さなかった。捲簾も振り払うような素振りは見せなかった。そうして暫く大人しく手を握られていた彼は、今度は逆に自分の手で天蓬の両手を掴んだ。熱いほどの掌に包み込まれて、手を退くことも出来なくなる。いい年の男二人が向かい合って座り、両手を握り合う光景は如何ほどに滑稽だろう。咽返るような消毒液の匂いと、照り返しで眩しい白の壁に意識を濁されて、現実味がなくなる。眠っているのか起きているのか、感覚が曖昧になる。
 ふと、彼の手が自分の方へと伸ばされたのに気が付いた。頭は夢を見ているようにふわふわとしていて、咄嗟に逃げることも思い付かずにぼんやりとそれを眺めていた天蓬は、その当てのない指先が眼鏡のレンズに当たったところで漸く驚いて目を閉じた。何をする気だと考える間もなく、彼は手探りで眼鏡を掴み、天蓬の顔からゆっくりと外した。蔓が頬を掠める感覚に思わず肩を揺らす。その眼鏡を畳み、開いた片手を再び天蓬の顔に伸ばしてきた。逃げることはやはり考えつかなかった。その手が再び目の付近に伸びてきたのに気付き、反射的に瞼を閉じる。その数秒後、そっと軽く瞼に何かが触れた感覚があった。
「目……眉毛」
「はい」
 捲簾の指先は瞼からつうと上に移動し、眉に触れる。そして眉尻から内側に辿るように指が移動する。そして彼の指先はそのまま鼻梁を滑るように下り、前触れもなく突然鼻を摘んだ。今までの静かな雰囲気に全くそぐわない子供っぽい行動に、思わず言葉を失った天蓬がただひたすら目を瞬かせていると、彼はふん、と感心したように鼻を鳴らした。
「意外と鼻柔らかいな」
「それぁどうも。……はらしてくらさいよ」
 間抜けな声で抗議すると、捲簾は存外素直に手をぱっと離した。漸く解放された鼻を擦っていると、何か考え込むように自分の口に手を当てていた捲簾は再び手を伸ばしてくる。今度こそ避けてやれ、と思うのに、その手が伸ばされるとやはり逃げることは出来なかった。明らかに目的を持って頬に触れた指は、そのまま下に移動し、上唇に触れた。その感触を確かめるように数回軽く押した彼は、その手を天蓬の首の後ろに回した。そして、近付いてくる男の顔を逃げることなど忘れて見つめていた。逃げたわけではない。意図的にずれたわけでもない。しかし、その少しかさついた唇は、天蓬の鼻の先にちょん、と触れた。一体どうコメントしていいものかと暫く悩んだが、結局事実を言う以外にないことに気付き、ぺろりと唇を舐める。
「捲簾、そこ、鼻です」
 感触でとっくに気付いていたのか、言われるまでもなかったようだった。しくじった、とでもいうように小さく舌打ちをした捲簾に思わず笑ってしまいそうになる。目が見えていないという大きなハンデがあるのは分かるが、百戦錬磨の彼がうっかり唇と間違って鼻にキスするとは何と可愛いことだろう。自分では笑いを噛み殺したつもりだったが気配で伝わったのだろう、拗ねたように彼の唇がへの字に歪んだ。そっぽを向いてしまった様子が何だか可愛いように思えて、不思議なほどに愛しくなった。いつものふてぶてしい態度の彼にこんな感情は抱き得ない。捲簾、と呼びかけても応答はなかった。それで別に構わなかった。椅子に座り直し、更に彼との距離を詰めてから、再び彼の名前を呼ぶ。そしてその両頬に手を添えて、正面を向かせた。突然の行動に驚いたように彼は身体を強張らせた。
「唇は、ここです」
 両手で包み込んだ顔に自分の顔を近付ける。しかしうっかり唇が触れる寸前で(目を瞑るべきだろうか)とつまらないことで迷ってしまい、勢いでいってしまおうと思っていた気持ちが一気に萎んで妙な羞恥心が顔を出してしまった。しかしそれ以上動きを止めていてはますます動けなくなりそうで、動けなくなってしまう前に、と天蓬はその僅かな躊躇いを振り切るようにして目を瞑って男の唇に自分の唇を重ねた。かさついていて、しかし自分よりも高い温度を持つ唇を軽く食み、舌で上唇と下唇を割って舌を押し入れる。いつもならば積極的に絡められる舌は消極的なまま。しかしそんな風に大人しい捲簾に新鮮さを感じて、少し面白がる余裕が生まれ始めた天蓬は、相手をいいように出来る機会を逃すまいと身を乗り出した。しかし天蓬が上位に立っていられる時間はそう長くはなく、気付かぬ間に捲簾の手はするりと腰に回されており、ちっとも誘いに乗ろうとしなかった舌はいつもの調子を取り戻して奪うような動きを見せ始める。舌を絡め取られて吐息を奪われて、すっかりいつもの彼のペースである。内心がっかりしつつも、ほんの僅かでもいつもの彼に戻ったようでほっとして、彼の腕に身を任せた。彼の頬を包み込んでいた手には既に力が入らず、力なく彼の服に縋り付くばかりだ。
「ん、んぅ…………ん、ふ」
 人にいいように振り回されるのは性に合わないとしても、彼にしてやられるのは妙な爽快感がある。
 一体どれくらいの間繋がっていたのか、どちらからともなく漸く唇を離した後、天蓬は深く息を吐いた。少しだけ乱れた呼吸を整えて、すぐ傍にある濡れた唇をぺろりと舐めた。獣がじゃれ合うように、個体確認をするようにぺろぺろと舐めているとそのうち捲簾はくすぐったがるように唇を笑みの形にした。その上がった口角を舌先で舐めると、噛み付くような口付けを仕掛け返される。その熱くて皮膚が硬くなった指先が天蓬の髪に絡み付き、柔らかく感覚が鋭敏な頭皮を撫ぜる度、甘い痺れが背筋を滑ってゆく。力が抜けてしまいそうな自分を繋ぎ止める為、彼の肩当てに爪を立てて堪える。冷たい金属に爪が剥がれそうなほどの力を加えて、ぞくぞくと這い登るような甘い快感に必死で耐えた。
 唇から離れていく温度に緩く甘い息を吐いていると、ちゅうと啄ばむように下唇を食まれてふるりと身体を震わせた。離れても尚、彼の吐息が濡れた唇を掠めて、まだ触れ合っているような気さえする。熱い吐息が頬に触れるのに、何だか無性に離れがたくなってしまう。彼の吐息に煙草や酒の匂いが混じらないことが不思議だった。
「今、俺がキスしたのも、お前だな」
 彼が言葉を発する度に頬に触れる濡れた吐息に図らずも、場違いな快感を覚えてしまう。彼は見ていないというのに妙な照れが襲い来て、それを誤魔化すように小さく笑って彼の頬に自分の頬を摺り寄せた。
「僕以外であるわけ、ないじゃありませんか……そうでなければ間違いなく、僕がその相手を斬り殺していますから心配要りませんよ」
 それもそうだ、と捲簾は笑い、頬を寄せて来る。下に下りて以来身嗜みを整える暇もなかったせいで伸びっ放しの彼の無精髭が頬を掠めて、それだけの刺激にも身体が震えた。頬に、敏感な首筋に逆立った髪の先や髭が触れて否応なしに官能を引き出される。彼の方は如何ほどだろうと思うのに、いつも滴るような欲を滲ませてその時期を知らせる眸が、今は閉ざされてしまっている。そのせいでどうにも、自分ばかりが追い立てられている感が否めない。自分だけ高められて、彼は平気な顔をして、包帯の下で嘲笑うような眼をしているのではないかと嫌な感情が芽を出してしまう。彼の肩に縋り付いて温い息を吐いて、その熱を何とか散らそうと身を縮こまらせた。
「天蓬」
 天蓬、と二度自分を呼ぶ声に漸く顔を上げ、何ですか、と訊ねる。彼の舌が唇を湿らせるように滑り、口篭っているようだった。躊躇うように唇を噛むさま、その仕草一つ一つを、天蓬は一つすら逃すまいと見つめ続けた。
「こんな不自由な身で我儘を、と言われるかもしれないが」
 歯切れが悪く、妙に畏まった言葉に首を捻りつつも、急かすことはなく辛抱強く次の言葉を待つ。所在なさげに天蓬の膝の上で握られた拳を両手で包み込んで、彼が自分から口を開くのを待った。流れる沈黙は思ったほどの不快感はない。纏わりつくような消毒液の香より先に彼の匂いが届く距離にいるからだろうか。彼の体臭に、汗、血、泥の匂いに、何より親近感を覚えた。彼の指先が僅かに冷えていくのを感じながら、静かに目を伏せる。このまま眠ってしまえればいいとさえ思いながら、日向水のようなまどろみに身を任せた。
「触りたい。お前を……抱きたい」
 その言葉を飲み込んで、我儘なんて、と笑った。微かにもれた笑い声に彼はどう思ったのだろう。目を閉ざされたままの沈黙はきっと普段のそれよりずっと長く、重く感じられるに違いない。彼が不安を感じる間を与えぬように、彼の目を覆う包帯の下、頬骨の上に軽く唇を押し当てた。張りのある頬が動揺したように僅かに引き攣るのを唇の薄皮一枚越しの感覚で感じながら、小さく笑い声を漏らした。しおらしい彼とは何と淋しいものだろう。自分には、こちらから求める勇気がない。いつも彼が自分を求めてくれることに甘えていたのだ。今日もこうして彼が一歩踏み出してくれるまで何も出来なかった。目の見えない彼の一歩は、きっと怖かったに違いないのに。
 ならば支える手を出せばいい。
「どうぞ、ご随意に。……目の前にいるのがちゃんと僕だと分かるまで」
 何度でも触れて確かめてくれればいい。
「僕は、あなたが別の人間に触れるのを見て黙っていたりしませんから……確実ですよ」
 天蓬の軽い言葉に彼は一瞬口を開きかけたが、そのまま何事もなかったように閉じた。一度舌で唇を潤し、彼は小さく天蓬の首元の辺りで囁いた。その響きが少し頼りなくて、しかしそれは猛烈に愛しさを感じさせる響きだった。するりと彼の首に両腕を回して、包帯に覆われた瞼の上に軽く唇を寄せた。こんな傷早く治ってしまえ。早くあの痛いほどの光を湛えた目に見(まみ)えたかった。なくなって気付くものがある。自分はこんなに彼の目が好きだったのだろうか。彼の目自体が好きだったのか、それとも自分を見つめてくれる器官としての目が好きだったのかは分からない。しかしこんなにも焦がれるものだとは思っても見なかった。自身の執着に、失って気付くとは何とも幼稚なことである。






 日も暮れて、大きな窓からは月灯りだけがぼんやりと照らし、窓枠の形を淡く床に描いている。正面はもう施錠されている時間なのでこんな時間に誰も来るはずのない処置室だったが、とりあえずベッドの回りにカーテンを引いて小さな白い空間を作り出した。天蓬は見慣れた空間とセクシャルな行為は結びつけたくなかった。その為でもあった。白いカーテンで周りの景色を遮ってしまえば、その見慣れた部屋の一角をそれから切り取ることが出来る。非日常の真白な空間で、手持ち無沙汰にベッドに腰掛けている捲簾の前で自分の白衣を床に脱ぎ落とした。今日は受動的ではいられないのである。彼の分まで目の役割を果たさなければならない。大した羞恥プレイだ。ネクタイも抜いて白衣の上に落とす。ゆっくりとそうして脱いでいると妙に羞恥芯が湧いてくるのに気付き、早く全て脱いでしまおうとワイシャツのボタンに手を掛けた。その時、突然捲簾が手を伸ばしてくる。もう要領を得たのか、どの辺りに天蓬の腕があるのか当たりをつけて伸ばされた手は確かに天蓬の肘を捕らえて引き寄せた。ベッドの端に腰掛けている彼の前まで引っ張られ、立ち尽くす。彼は手探りでボタンの場所を探しているようだった。そして襟から一番上のボタンを見つけたのか、上から順に手探りで器用にボタンを外し始めた。ゆっくりと手を動かしながら彼は苦々しげに鼻筋に皺を寄せた。
「全部お前にやらせたら、気分悪いだろうが……」
 どんな気持ちでそう言っているのか分からなかったが、天蓬は大人しく彼がするに任せることにした。彼がこうなってから数時間、天蓬は今まで知らなかったことをいくつも気付かされてきた。こうして彼が放った言葉一つでも、どんな表情でそれを言っているかによって全くニュアンスが違うということだ。例えば怒った顔をしていればそうなのだろうし、哀しそうな顔をしていればそうなのだろう。ニヤニヤとしていたとすればまた何か助平なことを考えているのだろうし、穏やかに笑って言っているのだとすれば自分を手の掛かる子供を見るような気持ちでいるに違いないのだ。しかし今は、感情を量るのに最も簡単な目が閉ざされている。つまり、彼を理解するための努力が必要なのだ。今まで、彼は感情が分かりやすい男だと思い込んできた。それはひょっとしたら自分が彼の表面だけ見て判断していたからかも知れない。
「捲簾、寒くないですか」
 そうよく考えもせずに問い掛けると彼は小さく吹き出して、「急に何だ」と笑った。確かに唐突だった。しかし彼の考えていることが分からないだけに、無意識の内に彼が不快になるようなことをしているかも知れないという不安が頭を擡げたのだった。そんな自分自身に焦れながら、ボタンが一つ二つと外されていくのを眺めていた。沈黙の中、小さな衣擦れだけが狭い白の空間を支配する。
「あんまり、神経質になるな」
「え」
「苦しけりゃ苦しいって言うし、痛けりゃ痛いってちゃんと言うよ。無理して汲み取ろうとしてくれなくていい」
 不思議な話だ。自分は、彼の目が見えないというだけで感情を量りかねているのに、全く何も見えていないはずの彼はいつもと同じような聡明さを以って自分の感情を呆気なく見抜くのだ。そのことに暫し呆然としていると、ボタンを全て外し終えた彼は口元に笑みを浮かべたまま自分の上着を脱ぎ始めた。重い軍服が音を立ててベッドの向こう側に落とされる。続いて首飾りもグローブもその上に同じように落とされた。それを呆然と眺めながら、流されるように自分のベルトに手を掛ける。手が震えているのは、隠し切れない。
「どうしてですか」
「ん」
「どうして、僕の顔も見えないのに、何も言ってないのに、僕の考えていることが分かるんですか」
 そう問われて彼はぴたりと一度動きを止めた。しかしすぐにその手はベルトに掛けられる。ベルトの金具を外しながら彼は唸り声混じりにそうねえ、と呟いた。金属音に続いて彼がベルトを放り投げた音で天蓬は顔を上げた。そして自分のベルトも抜き取って白衣の上に落とす。気持ちが急いてしまってなかなか巧く動かない指でカフスボタンを外しながら、じれったい思いで彼の返事を待った。喉元が焼け付くような不快感に、思わずこの場から逃げ出したくなる。彼の目は閉ざされているのに、それなのにまるで彼に真正面から見つめられた時のような酷い恐怖が襲ってくるのだ。
「俺にも分からんけどな」
「何ですか、それ」
 漸くカフスボタンを外し終えてその返事を聞き、落胆した天蓬は思わず不機嫌な声を出した。その様子までまるで見えているかのように彼は小さく笑い、天蓬の腕を手探りで掴み、引き寄せてきた。シャツ一枚越しに熱い掌に掴まれて、一度沈静したはずの火がゆっくりと燻り始める。思わず腕を引きたくなりながらも、それが出来ずにいた。掴まれた腕から舐めるように這い上る熱が抵抗する気力を根こそぎ焼き尽くしていくのである。
「目の前にいるのがお前だって分かるから、安心して気配を探れるんだ。誰にでもってわけじゃない」
「……嘘吐き」
 そう呟いて天蓬は彼の前に跪いた。彼が何だか頭の上で反論をしていたが、頭の中がかっとして全く耳に入って来ない。彼のことが狂おしいほど愛しいのは事実としても、好ましくない点を上げるのは特別難儀なことではなかった。その筆頭に上げられるのがその八方美人なまでの優しさだった。誰にでも与えられているその優しさに、自分に向けられる愛が軽く思えてしまうのである。美人と子供には滅法弱い彼のこと、それらの人間にせがまれたらもしくは、彼は自分に与えているものと同等の愛を与えてしまうのではないか。それがいつも頭の中から消えない疑念であった。そのことに彼は気付いているのだろうか。寧ろ気付いてくれればいいのにとすら思っている。しかし彼はそんな風に思われているという可能性すら頭の中から排除してしまっている。だからこうして躍起になって反論するのだろう。
 ベルトを外されたパンツのボタンを外し、ファスナーを下ろす。ジジ、という音を聞きながら苦々しく顔を顰めたが、今更後戻りは出来ない。下着を引き下ろし、窮屈そうに飛び出してきたすっかりいきり立ったその先端を舌先でちろりと舐めた。頭上の彼は反論を止めて息を呑んだことにほっとして、少しだけ優越感が生まれた。先端からは離れ、顔の横から落ちてくる髪を耳に掛けながら茎に下を這わせて、根元を両手を使って扱く。裏筋をくすぐるように舐め上げる。ずっと口を開いたままでいるせいで口に含み切れなくなった唾液が口元を伝って零れるのに眉根を寄せた。直に先端に滲み出してくる苦い雫を見て、漸く口を離した。唾液に塗れた唇を舐めながら、ぬるつく陰茎を右手で扱く。左手で顎を伝った唾液を拭いながらちらりと彼の様子を窺う。彼の浅黒い耳は月灯りしか照らすものがない中でもはっきり紅潮していることが見て取れて、その興奮の度合いを窺わせるが、不思議とその唇は苦しげに噛み締められたままだった。そこで漸く、状況の分からない彼を置き去りにしてしまったことに思い至って、顔を顰める。咄嗟にどうするか考え、目に入った彼の右手を掴んだ。一瞬驚いたように硬直したその手は、子供をあやすように軽く一定のテンポで叩いていると、安心したように弛緩してくる。それを待って天蓬は再びいきり立ったそれに舌を伸ばした。
 先端を舌で円を描くように舐めると、頭上から微かな唸り声が聴こえて小さく笑ってしまいそうになった。握られた左手に篭る力が強まるのを感じながら、それをするりと口腔の中へと迎え入れる。纏わりつくような苦味を感じながらも、 それを更に吸い出すように先端の窪みを舌で突付き、軽く抉る。 じわりと染み出す雫を余すことなく嚥下しながら、その熱さと苦さで口の中が麻痺しそうだと、酸欠に近い状態の濁った頭でぼんやりと考えた。膨張し、口に含み切れなくなったそれから口を離し、暫く息を整えた。顎が痛い。
 そうして荒い呼吸を繰り返していると、繋がれていた手を離した捲簾はその手を天蓬に向かってゆっくり伸ばしてきた。どこへ触れたがっているのか分からないので動くことも出来ぬまま、その手の行く先を見守った。一度空を切ったその手は次に天蓬の頭に触れた。そしてゆっくりと髪を梳く。
「天蓬……もう、いいから」
 そう言われるとつい止めたくなくなってしまって、唇を舐めてから再び天を仰ぐ屹立を口に含む。髪を撫でていた指は緊張したように髪を鷲掴み、その痛みに僅かに顔を顰めた。しかしそれで動きを止めることはなく、頭を前後に動かしながら愛撫を加速させる。最早目的は自らの快感ではなかった。口の中に唾液と彼の体液が溢れて飲み込み切れなくなり口の脇から零れていくのを止められない。質量を増したそれが口の中を埋め尽くして喉まで塞ぎ、気道を塞いで呼吸を阻むせいで、頭がぼんやりとしてくる。髪を掴んでくる手に力が篭って痛みを増すのも気にならない。冷たい床が、火照った身体を唯一冷やしてくれるものだった。喉まで押し込むと反射で嗚咽が起こり、じわりと涙が眦から染み出す。
「ん、ぅ、ぅう……ん、ふ、ぅう……」
「天蓬、ッ……――――――出すぞ」
 耳から入ってくる言葉を理解するのに時間が掛かる。彼がそう言ったにも関わらず、すぐに意味を飲み込むことが出来なかった。そして漸く理解した瞬間、口の中に熱い液体が吐き出されて思わず咽込みそうになる。しかしその衝動を堪えて、精を吐き出した陰茎をゆっくりと舐めてから口を離した。そして、口の中に溜まった苦味を二度に分けて飲み込む。こくん、こくんと喉を上下させると、喉に纏わり付く粘度に顔を顰めた。なかなかこの苦味は消えてくれない。小さく咳き込んでいると、荒い呼吸を整えていた彼は心配そうに、先程まで強く髪を掴んでいた手で頭を撫でてきた。前髪を梳き上げる温かい指先に目を細めその優しさを甘受して、ほうと息を吐く。そして彼のものの様子をちらりと窺い、その回復までどれくらいだろうと当たりをつける。それまでには必要な準備もあった。いつもならば彼が頼みもしないのに楽しそうに全てやってくれるそれらを今日は自分一人で全て行わねばならない。そのことを思うと気が重く、立ち上がる気力さえ削がれそうだった。
 それでも何とか気力を振り絞って床から立ち上がり、彼の頬に軽く口付けてから、ベッドの空いたスペースに乗った。一瞬躊躇いが出たが、誰が見るものでもない、と思い切って自分のパンツのボタンを外し、下着ごと引き下ろした。それも全て床に脱ぎ落として、ベッドサイドのワゴンの上に予め部屋の中から探しておいたワセリンを手に取った。何せ急なことで本来その目的のためにある潤滑液などは持っていない。といってもこの状態の彼を処置室に置いたまま、棟の違う自分の執務室へ戻るのは躊躇われた。有り合わせではあるが仕方ない。一度大きく息を吐く。腹を括り、その蓋を開けた。しかしその勢いを削ぐように、焦ったような彼の声が耳に届いた。
「おい天蓬、お前今何しようとしてる?」
 この状況下であまりにデリカシーのないあけすけな言葉に、思わず顔が一気に紅潮したのが分かった。彼としては純粋に気になったのだろうが、それを言わせるのかと天蓬は怒りに似た呆れが頭を支配した。拳を握り締めつつも、怪我人相手に無体は出来ない。二度きっちりと深呼吸をしてから、彼の頬に手を添えて一語一語区切って告げた。
「あなたが、目が見えない状態だから、僕が、自分で、慣らすしかないでしょう、が!」
 そう言われて漸く、天蓬が言葉に詰まった理由に気付いたのか、あ、と声を漏らしたきり彼は口を閉ざした。顔が熱いのを否定出来ないまま、彼の目が見えていなくて本当に良かったと思いながら膝立ちになった。こんな、まるで自分で慰めるような真似を強制もされずにやろうとしている自分が信じられなかった。しかし今はそうも言ってはいられない。潤滑油を手に取り、躊躇いを振り切ってその指先を自らの後孔へと運ぶ。固く閉ざされたそこが、彼の指によって丹念に開かれていく快感を知っている。しかし今は死にたくなるような羞恥心が真っ先に現れて何も考えられなかった。感情とは無関係にぼろぼろと涙が零れて頬を濡らすのが不快で、しかしそれを拭う余裕もなかった。零れた涙が頬を伝って、清潔な真白のシーツに落ちていく。
「……ふ、ぁ、……ッあ、っ」
 身体を支える左腕が安定しない。それに加え、潤滑油の滑りによってずるりと後孔に滑り込んだ人差し指を思わず自分で締め付けてしまい、予想外の快感が身体に走り身悶えた。一体一人で何をやっているんだ、と頭の中の冷静な部分が自分自身を嘲った。しかしそんな冷静な部分もいつまで持つか分からない。泣きたい気分になりながら声を必死で堪えて自分を責め続けた。自分が、自分の一番気持ちいい場所を知っている。しかし自分でその部位に触れてしまうのが酷く恥ずかしいことのように思えて意図的にそこを避けてゆっくりと開き続けた。しかしそのことによって余計にじわりじわりと抑圧された快感が蓄積されていき、頭が混乱してくる。霞が掛かったようにはっきりしない意識では、彼の様子を気遣うことも出来ない。
 そうして頭がふわふわとしてきた頃、唐突に肩に触れてきた熱に過剰なほどに反応して身を引いた。驚いて顔を上げれば、それは捲簾の掌だった。先程まで下に下ろしていた両足をベッドに上げた彼は、天蓬の肩に触れていた手をそのまま滑らせ、宥めるように天蓬の頬を撫でた。その指先は頬を濡らす涙に触れたようで、彼の唇は悔しそうに噛み締められた。
「……来い」
 そう言われ、腕を引かれるままに天蓬は鉛のように重い身体で彼の傍へと移動した。そして促されるままに彼の両腿の間に膝立ちをする。彼の唇はシャツの隙間から覗く胸元に触れ、指先は悪戯にシャツの上から赤く膨れた突起を引っ掻く。待ち侘びたような鋭い快感に身を固くする天蓬をあやすように、背中に回された手はぽんぽんと軽く叩いてくる。自分一人で身体を支えきれなくなり、彼の肩に、頭に掴まってバランスを取る。その黒髪に頬を寄せて堪え切れない声を漏らす。しかし、与えられる快感を待っているばかりではいられない。一旦離していた指を、再び臀部に回す。その奥、解れ掛けたそこに自分の指を恐る恐る埋める。柔らかくなったそこに人差し指を埋め込んで、その口を少し広げるようにぐるりと動かした。その瞬間に背筋を這い上るような電気が走った。快感なのか不快感なのか分からないのに指を止められないのはやはりそれが快感だからなのか。自分では触れたことのないような箇所にウィークポイントを見出しては羞恥でこのまま死んでしまいたいような思いに襲われた。自身が淫らで惨めで、辺り構わず泣いてしまいたくなる。
「ん……ぁ、あぁ…………はぅ……けん、れ」
 無意識に名前を呼んでしまってから酷く後悔をした。今日の自分は、与えられる立場でいてはいけないのだから。気を引き締めるように唇を噛み、窪みに埋める指を一本増やす。異物感による嫌悪がなくなることはない。しかし自身を穿ち、そこを埋め尽くす男の温度をはっきりと覚えていた。そしてそれに穿たれることによる頭の中が焼け付くような快感は確実にこの身体に残っている。吐気がするほど切実な情欲に目が眩む。指を埋め込んだ自身の後孔からぐちゅ、ぬちゅ、と濡れた音が響くのをどこか遠くから聞いているようだった。
「ぁ、あぅ、うう……んんッ……はぁっ……!」
 平らな胸の上で小さく主張する赤い突起に吸い付かれ、爪の先で引っ掻かれ、頭の中が白くなる。そんな中、自分の後孔を指で広げながら、声を堪えることも忘れて、口から漏れるがままにあえかな声を零し続けた。その間、一人静かに黙りこくっていた彼は暫く止めていた手で天蓬の腰をそっと撫でた。その手が腰から臀部へと下りていくのにぞくりと身を震わせる。双丘を押し開くように鷲掴み、低く声を落として囁いてきた。
「今、どんな風になってる?」
 この男は、と怪我人だということを差し引いても怒りが勝った。手を上げることは出来ない代わり、彼の肩に掛けた手に力を込める。しかしそれでも尚、「言ってくれないと分かんねえ」と囁く彼に、思わず目に涙が滲んだ。こんなことは自分らしくない、と歯噛みしたが、どうせ彼には見えないのだと考え、諦めた。頬を伝う不快な液体をワイシャツの袖で拭って唇を彼の耳朶に押し付ける。そして荒い息ごと耳に注ぎ込むように囁いた。
「ん……ぁ、熱くて、ぁ、……ぬるぬる、して……」
「どれ」
 それからの突然の動きに天蓬はついていけなかった。既に天蓬の指が二本埋め込まれたそこに、彼は唐突に自分の人差し指をねじ込んだのである。引き攣れるような違和感を感じたもののそれが痛みや不快感でないことに唇を噛み、苦く思うばかりだった。それどころか、待ち侘びた人の感触にいやらしくひくつき、きゅうと収縮して締め付けてしまう。彼が小さく笑みを漏らしたのに気付いてかっと頬が火照った。その指先が淫らに蠢き始めるのに怯え、自らの指を抜こうとすると、それを逆に押し込むように穿たれて、全身に電気が走ったようにビクッと背が反り返った。下腹部で熱く震えていた自身が先端から精を零して、自身と彼の腹部を濡らす。
「ひッ、……ぁ、あァ……っい、ぁぁあ……ッ!!」
 押し込まれて自らの指が刺激した一点が、図らずも今の今まで避けてきた最も弱い箇所だった。ちかちかと光るものが視界に溢れ、更に目が滲んで周りが歪み、気道が狭まり絹を裂くような声しか出ない。ひくひくと身体を痙攣させながら焦点の合わない目で呆然と虚空を眺めていた天蓬は、するりと胸元にちくちくしたものが触れたことで漸く我に返った。それは彼が自分の胸に頬を擦り寄せたからで、ちくちくとしたものは彼の髪の毛であった。止め処なく流れた涙が視界を覆うのを、手の甲で乱暴に拭う。そして彼の髪に頬を寄せて緩く息を吐いた。
「今ほど、目が見えなくて後悔したことはねえな」
「……すけべ」
 悔し紛れにそう唸るように呟く。しかし彼はからかうような調子ではなく、滴るような色香を以って低く言葉を耳に注ぎ込んでくる。悔しくて恥ずかしさに地に埋まってしまいたいくらいなのに、彼が興奮しているという、日常からすれば別段特別でもないようなことに至上の喜びを感じてしまう。その声に身を震わせて、彼が悦んでいることに安堵して深く息を吐いた。その息にすら艶のある声が混じってしまう自分が嫌で、奥歯を固く噛み締める。
「お前が、自分でしてるって思うだけですげえ興奮する」
 ぬる、と後孔から彼の指が抜き出される感覚に身体を震わせた。同時に抜けた自らの指が敏感な部分を掠り、また声を上げてしまいそうになるのを何とか堪えて、深く息を吐いた。そして、ちらりと彼の両足の付け根に目を落とした。一度解放してからすっかり回復し、膨張し切って反り返った赤黒いそれに思わず身体が震えた。それによって与えられる快感を覚えている身体は無意識のうちに反応して背筋が震え、思わずこくんと喉が鳴る。天蓬、と名前を呼ばれて頬を撫でられて、またころりと涙が一粒零れた。どういった感情で零れたものなのか分からない。止めようもないそれを拭うでもなく、ころころと頬を伝って落ちていくのを他人事のように眺めていた。
「もう、中に入りたい」
 首元で囁かれた言葉に、意を決して鉛のように重い身体を動かした。彼の身体に自分の身体を近付け、彼のそれを手で掴んで先程までに散々に慣らされ柔らかくなった自分の後孔にそっと宛がった。それが触れているというだけできゅうと収縮し、誘い込むようにひくつくのが耐えられない。もう、熱に任せて全て埋め込んでしまいたい。そう思いながら彼の両肩に手を掛けて、ゆっくりと腰を落とし始める。
「く、ぅう……、ふ……ぁ、ああ……」
「く、ぁ……ッて、ん……っ」
 押し開かれ、狭いそこを圧倒的な体積が埋めていくのを目で見たように感じていた。最初あった抵抗は奥に進むに従って弱まり、潤滑油の助けを借りて突然ずるりと滑り込んだ。奥まで一杯に強烈な熱に埋め尽くされて、圧迫感に胸が苦しくなる。天蓬の呼吸が整うまで待ってくれるつもりなのか、彼は目が見えないなりに手を伸ばして、シャツ越しに天蓬の背を擦ってくれた。その手の温もりに息を吐きながら他人の温度を持ったその異物がゆっくりと内壁に馴染んでいくのを待った。じわじわと熱が伝わってきて、温度が同じになってゆく。溶けていく、否、溶かされていくようだ。自分と同じ温度を持った大きなものが、自らの意思に反して蠢き、あらぬところを突き上げるのだから堪ったものではない。
「けん、れん」
 途切れ途切れの言葉で名を呼べば、彼は酷く優しく穏やかな声で返事をしてくれた。滲む視界の中、彼の頭を子供がぬいぐるみを抱き抱えるように必死で抱き締めながら嗚咽を堪えた。気が緩めば、子供のように泣きじゃくってしまいそうだったのである。彼には見えていないと言うのに、精一杯繕うように唇を笑みの形に歪めて見せた。そうすれば少しは、笑っているような声が出せるのではないかと思ったのである。尤も、精一杯繕って出した声は情けなくも震えて上擦っていて、恥ずかしいほどに彼に揺り動かされていた。
「これが……僕、ですよ」
 分かりますか、と彼を見下ろした瞬間、ぽたりと下に落ちた液体は何だったのか、自分でも咄嗟に測りかねた。涙で、汗で、精液で、唾液で、至るところがべたついて仕方ないのに少しだって離れたくない。ぴたりと彼に身を寄せて、その髪に鼻先を押し付けてぎゅっと目を瞑る。頭がくらくらするような消毒液の匂いから逃げて、汗と僅かに香るしゃぼんの香りに縋る。目が見えている、見えていないの問題ではないのだ。現に、確かに彼が見えているはずの自分だって、本当に彼を掴めているのか不安になってしまうのだから。何だって、この目というものはこんなにも信用できないのだ。目に見えるものが全てであればこんなに苦しむことだってなかったのに何と不自由なことだろう。
「今度忘れたら、承知しませんから」
 目が見えなければ分からなくなってしまうような曖昧な関係だなどと思いたくはなかった。目に見えぬものだってあるはずだ。それで分かって貰えない淋しさは絶望の色をしている。その色一色で目の前が染まるのは、何も見えないよりも余程恐ろしい。
 身体を満たし、欠けた部分を埋める熱にぞくぞくと寒気に似た震えが上る。まるで高熱を出した時の言いようのない眩暈のように巻き込まれて抗えない。最早脚にも腕にも、自身の身体を支える力はなかった。しかし残った使命感だけで何とか彼の肩に掴まりながらも身体を立て直す。震える内腿に力を入れて身体を少し起こすと、中に埋まっていた熱塊がずるりと抜け出し、内壁がその凹凸に擦られて堪らない快感が走る。ぐずぐずと泣き出してしまいそうな自分を諌めて、声が洩れないように下唇を噛んで、ぬるりと抜け出す感覚に耐えた。胸に抱え込んだ彼の口から漏れる吐息が荒くなっていくのに気が付いて、少しだけ余裕を取り戻す。そしてぎゅっと瞼を閉じて、再び腰を彼の上に下ろした。
「んぁ……ぁ、あぅ……ッ」
「ッ、っくぅ、あ……天蓬……ッ!」
 彼が声を漏らす度に首筋に熱い吐息が掛かり、ぞくぞくと身体が震えるのが止まらなくなる。ぎゅうと彼の頭を抱き締めたまま荒い呼吸を繰り返しながら、汗なのか涙なのか分からない液体が視界を歪ませるのにかぶりを振った。彼の前髪を掻き上げて、その額に唇を軽く押し当てた。汗の塩辛さなのか自分の涙の塩辛さなのかよく分からないまま、腰を浮かせては落とし、あんなにも避けていた弱い部分を探り当てるように腰を揺さ振る。はしたないだとか穢らわしいだとか、そんな常識的な言葉は全く通用しない次元で、獣のように交わることしか出来なかった。
「ぁ、ああぅ、っ、は、ッ……ぁ、ふぁあ……!!」
「っぅ……てん、……く、ぁ」
「けん、っあぁッ!」
 背中に掻いた汗でシャツがじっとりと湿り、張り付いているのが分かる。そのシャツに縋るように握り締められた彼の手の震えだけが、理性を呆気なく吹き飛ばしそうな自分を引き留めていた。尤もとうに理性なんていうものは残っていやしないのではないか。獣に理性があるだろうかと考えれば何だが無性に笑えてしまう。どうせセックスをするのなら理性で武装しているよりも全て明け渡した方が楽しいし、深い快楽を得られる。普段あまり聴くことのない彼の“声”にじわりと温かさが胸に広がるのを感じながら、汗に湿った彼の髪に鼻を埋める。
 ふうふうと呼吸を繰り返しながら、身体をぴたりと彼の身体に寄せた。胸に触れていなくても、その身体全体から鼓動が伝わってくるのにほっとした。心音で安心するとは自分も赤ん坊と同じようなものだと、小さく笑った。
「ちゃんと、わかりますか……」
「お前が、俺を好きだって?」
 荒い呼吸の中、からかうような口調で言われても腹は立たなかった。むしろその口調ですら愛しくて、憎らしくて愛しい男の背中にがり、と爪を立てる。いて、と彼が声を漏らすのにくすくすと笑いながら、天蓬は彼の浅黒い耳朶に唇を付けて囁いた。
「そう、どれだけ、あなたを愛してるか」
 彼は一瞬笑みを消した。そしてすぐに唇を笑みの形に曲げ、如何にもおかしそうに喉を鳴らして笑い始めた。愛しげに彼の両の手は天蓬の背中を包み込んで抱き寄せる。そしてがり、と天蓬の首筋に齧り付いて来た。痛みとも快感ともつかないそのぴりりとした刺激に身を震わせる天蓬へ、彼は笑い混じりに低く囁いた。
「痛いほど……な」
 それと同時に、平らな胸の上で硬く膨れていた突起を爪で弾かれて素っ頓狂な声を上げてしまう。官能のスイッチはいとも簡単に彼に揺り動かされるのだ。今日ばかりはその主導権を全面的に支配出来るかと思っていたのだけれど、彼がそんなことを簡単に許すはずもなかったのだ。しかし今日に限ってはそれもいいかと思えてしまう。胸の突起を痛いほどに弄られながら、二人の身体の間で雫を零す屹立を器用に擦り上げられて更に深みへと突き落とされる。無意識のうちに腰が揺らめくのを、泣きたいような羞恥心に襲われながらも止められなかった。自らの快感を探りながらも相手のそれを咥え込むように締め付けると胸元で息を詰まらせるような吐息が聞こえた。
「…………ッ、お前……だな」
 荒い吐息に紛れてしまいそうな小さな声で囁かれた言葉に、ぎゅうと心臓を握られたように胸が大きく鳴り、じわじわと熱が広がっていく。きっとこれを幸福感と呼ぶのだ、随分と、想像していたよりも痛いけれど。口元を緩めながら、彼の髪に頬を寄せて目を瞑る。
「天蓬、……顔」
 そう呼ばれて目を開き下を見下ろすと、彼もまた天蓬を見上げるように上を向いていた。それ以上彼は何も言わなかったが、両腕を彼の首に回し、誘われたようにその唇に自らのそれを重ねた。身体もぴたりと寄せ、身体中を密着させながら深く口付けていると、そのままくっ付いて離れられなくなるのではないかと思えてしまう。それもいいかな、と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「……ッ、ん!! ん、ぅんんっ……ん、んっ……!!」
 深く口付け合ったまま突然腰を突き上げられて、大きく目を見開く。急激に上り詰める感覚に視界は歪みほぼゼロに等しく、何かに縋り付いていなければ激流に押し流されてしまいそうで、きつく彼に抱き付いた。突き上げられる度に素直に反応する身体は深く咥え込んだ彼の熱塊をきつく締め付けて食い締め、彼はその刺激に眉根を寄せて眉間に深い皺を刻んだ。それを見たのを最後に、天蓬は瞼を閉じた。触覚や聴覚だけが頭を支配して、至るところに触れる感触や淫らな水音に頭の中が掻き乱される。頭が真白に染め上げられて、かぶりを振った。腰を掴まれて強く引き落とされて弱い部分をぐりぐりと抉られる感覚に、ぎゅっと眉根を寄せて天を仰いで浅い息を吐いた。今どれだけ自分は浅ましい顔をしているのだろう。頬を紅潮させて溢れる涙と飲み込み切れない唾液に塗れている、そんな顔を見られずに済むことが唯一の救いだった。
「けんッ……ぁ、はあ、あァ、んむっ……んぅ」
 伸ばされた手に顎を捉えられ、再び深く唇を重ね合わせられた。盛れ出る声は彼の喉の奥に消えていく。しかししつこいその責めは止むことがない。ぐりぐりと感じる場所ばかり擦り上げられる快感は恐怖を伴った。一気にどこかへ上り詰めて、一人底の見えない奈落に突き落とされるように。息も満足に出来ない中で、頭がぼんやりするがそれが快感によるものなのかもう分からない。過ぎた快感が責め苦とも思えるほどに強く突き貫かれ、高みへと押し上げられる。その激流に耐えるように筋肉の付いた背中に爪を立てた。
「――――っ、んぅ、……んン――――!!」
「……っん、ンン……ッ!」
 貫かれた奥に熱が放たれ、きつく瞼を閉じた。身体ががくがくと震えるのを自らの意思では抑えられない。
 熱い。
 触れ合った肌も、唇も絡ませた舌も、爪を立てた背中も、焼き尽くされるほどに熱かった。












「じゃあこれから包帯とガーゼを取り除く。まだ目は開くなよ」
 それから二日後、天蓬は捲簾を連れてあの日の処置室へと参じた。一足先に処置室にいて、処置用器具の準備をしていた李偉は、並んで訪れた二人をじろりと検分するように眺めて小さく笑った。その目には、あの夜の情事も全て見抜かれているような気がしてしまい、天蓬は何とも言えない居心地の悪さに顔を合わせることが出来ぬままふいと顔を逸らした。
 そして、あの日と同じように部屋の隅で腕組みをしながら、彼の頭から包帯が巻き取られていく様子を眺めていた。何重かに巻かれていた包帯をぽいと袋に捨て、手袋を嵌めた李偉は鑷子を手に取った。そして瞼ごと覆うようにつけられたガーゼのテープを剥がして、そっとガーゼを取り除いた。創部を見て、フンと鼻を鳴らした李偉は使用済みのガーゼを同じように袋に捨ててから、消毒液に浸かった綿球を軽く絞って瓶から取り出し、創部に軽く滑らせた。
「……まあ、良かろ。傷の離開もないし腫れも引いてるし。まあ傷痕が消えるまではあと少し掛かるが、女でもあるめえしうじうじ気にするなよ。そんなもんは勲章のうちだぜ、碌に現場にも出ねえ甘ちゃんの上司には絶対に得られねえ誇りだ」
「言うじゃねえか。俺は傷痕くらい構わねえよ、瞼なんてきちんと塞がればいい」
「後はちゃんと見えるかどうかだがな……そればかりはお前が見てみないことには分からん」
 軽口を叩きながらも指で触れて傷の様子を診た李偉は満足したようにゴム手袋を外して袋に捨てた。そしてずいと顔を目一杯捲簾に近付けて淡々と言う。何をするつもりだ、と天蓬が目を瞠るのに気付いたのか、李偉はちらりと天蓬の方を見てニヤと笑い、唇に人差し指を当ててみせた。どうせ大事ではないだろう。黙ってそれに従い、天蓬は静観の姿勢を取って口を噤んだままその様子を眺めた。
「目、開いてみな。途中で痛みがあるようなら開けるな、無理すると傷が裂けて瞼が縦にも割れるぞ」
 その言葉に呼応するように小さく瞼を震わせた捲簾は、ゆっくりと瞼を押し上げ……視界一杯に映る無精髭の男の顔に声は出さずとも思い切り驚いたようで円椅子ごと引っ繰り返りそうになった。しかしそんな彼の様子には構わず、李偉は「問題なく見えてるな」と言ったきりワゴンの上の片付けに向かってしまった。その後ろ姿を呆然と見つめる捲簾に思わず緩んだ口元を軽く手で隠しながら、天蓬は窓の外に顔を向けた。そんな天蓬の様子も見ていたのか、けけ、と如何にも楽しそうに笑った李偉は、ごみを纏めて器具を片付けながらからかうように片目を細めて捲簾を振り返った。
「やっぱり最初に目に映すのは美人がよかったか。……おい天蓬、またそんな隅で拗ねてねえで病み上がりの御大を労ってやんな」
 わざとらしく声を張ってそう言った李偉に、思わず舌打ちしそうになる。睨みつけるも、彼はお構いなしの様子で如何にも愉快そうに口笛を吹きながら白髪混じりの短髪をがりがりと無造作に掻いている。消毒液で黄色に汚れた消毒綿を如何にも嫌そうに処理しながら、彼は患者に背を向けたまま事務的に問診を始めた。覚えのある、射抜くような視線が自身の横顔に向けられているのには気付いていた。しかし、久しく離れていたその痛いほどの視線を真正面から受け止める勇気はまだなかったのである。
「視界が霞むとか見えにくいとか、痛みとか、異物が視界に映るとかはねえか。瞼に違和感……は当然あるだろうが」
「ああ、目にも瞼にも特に痛みはねえし、見え難くもない。瞼は多少重い感じがあるが……しかし少し眼球が痒いな」
 掻くなよ、と打てば響くように釘を刺した李偉はふんと鼻を鳴らして振り返り、顎の髭をじゃりじゃりと弄りながら再び捲簾の前に歩み寄った。そして消毒綿を下瞼に当てて引いたり眼球を覗き込んだりしていたが、すぐに何でもないように首を振った。問題ない問題ないと呟きながら腰を起こし、徐に天蓬の方に目を向けて、ちょいちょいと人差し指で呼び寄せるような仕草をした。ぴくりと眉を動かした天蓬に向かって彼は足で指図する。ガン、とスリッパの足で物品の乗ったワゴンの足を蹴ると、その暴挙を批難するように金属の器具類が耳障りな高音を立てた。
「天蓬、お前この辺のもの片付けておけ、使用済みの器具はいつものように。面倒臭えけどこれから薬師寮まで行って点眼薬をかっぱらってくるから……痛みがあったら大人しく目を閉じておけ、絶対に擦るなよ。瞼が縦に開いたって一発芸にはならんぞ」
 前半は天蓬に、後半は捲簾にそう言い置くと、李偉はだるそうに猫背の背中を部屋に向けて、スリッパの音を立てながら処置室を出ていった。ドアが閉まる音に重なって、廊下で彼の大きな欠伸が聞こえた。彼がまさか人前での欠伸を控えるような質ではないというのに、と思いながら、彼の視線を真正面から受け止めないようにワゴンへと向かい、キャスター付きのそれを引き摺りながら窓際の水場へと向かった。しんと静まり返った空気は肌を刺すようだ。

 使われた綿を一つの袋に纏めて専用のごみ箱へ放り投げてから、シンクの中に大きなトレーを出して水を溜める。水道下の戸棚から消毒液を取り出そうと身を屈めた瞬間、またも背中から貫かれるような視線を感じた。見ていなくても彼が自分を見ている瞬間はすぐに分かる。そう思い、小さく笑いながら戸棚から液の入ったボトルを取り出して身体を起こした。その視線には気付かぬ振りで、分量を量った液を溜めた水の中に入れる。濃厚な梅色は水に散って薄い桜の色になる。静かな室内には、開かれた窓の外から聞こえる桜の木の枝が風に揺らされる音と、無粋な水の音だけが響いていた。後のことは李偉が自分でやるだろうと器具を液に浸け、手を洗う。この手を洗い終われば、流石に振り返らなければなるまい。念入りに、ゆっくりと手を洗っても一分は持たない。精一杯に時間たっぷり手を洗い、殊更丁寧に手を拭く。それでも二分に満たない。いや、ひょっとしたらそのくらいは経っているのかも知れない。しかし、二人きりのこの静かな空間は時の流れが異様に遅く感じられるのである。
「天蓬」
「すいません、今ここを片付けてしまいたいので先に部屋に帰って下さって構いませんよ。……ああ、閣下にお願いしてあなたは明日まで休暇にしていただきました。精々部屋で大人しく養生していて下さい、暴れ回ったりしないことです」
 天蓬は必要に迫られた時と軍事について語る時は弁が立つが、それ以外では意外と思われるほどに言葉少なだった。しかし、それ以外にも天蓬が饒舌になる瞬間がある。それが、早く話を切り上げてしまいたい時だった。それを指摘したのは他でもない彼ではなかったか。ぺらぺらと無駄なほどに話をしてしまってから、乾いた唇を噛んだ。自分の浅はかさに嫌気が差す。彼に内心を悟らせるような真似をした、それだけで情けなさに拳をシンクに叩き付けたくなった。彼の視線が俄かに鋭くなる……それが、見ていなくても分かった。傷の様子はとても気になったが、創部が瞼では目を合わせないわけにはいくまい。
「天蓬」
「はい」
「天蓬」
「……何ですか、子供みたいに」
 子供のように名前を繰り返すだけの彼に思わず口を緩めた。そんな風に呼べば、自分が絆されるとでも思ったか。いつもの小さな諍いによるものであれば絆されてやっただろう。しかし今そうそう負けてやるわけにはいかない。シンクの脇に纏められていた膿盆をスポンジで洗う振りをしながら返事をする。しかし背後の彼は円椅子から立ち上がる気配すら見せなかった。だらりと両手両脚を垂らして、鋭い眼光でこちらをじっと見据えているのだ。こんな状態で振り返ることが出来るものか。
「天蓬」
「くどい! ……何だって言うんですか」
「お前の顔が見たい」
 彼の言葉は時に率直過ぎて胸を鋭く貫く。洗いかけの膿盆をシンクに叩き付けるように置き、ぎゅっと泡の付いたスポンジを握り締めた。わなわなと震える自らの拳を見ていられなくて目を瞑る。荒立った気を沈めるようにゆっくりと深い呼吸をした。折角窓から吹き込んでくる淡い桜の香りが、強烈な消毒液と洗剤の匂いに掻き消されてしまい気の鎮まる暇がない。
 背後の彼が、椅子から立ち上がったのが分かった。そして少しの迷いもなくスタスタとこちらに近付いてくる。シンクの中に両手を落としたまま、天蓬はその足音を聞いていた。しかし覚悟した感触はすぐには訪れなかった。背中から聴こえる声にざわりと鼓膜が揺さ振られ、首筋へと弱い電気が走ったように粟立つ。
「お前の顔が見えない間、ずっと考えてた。こういう時お前はどんな顔をするんだろう、こう言ったらお前はどんな顔をするだろうって考えてた。けど何も分からなかった。毎日毎日見てたから、貴重にも思わずその記憶をただ淘汰してたんだって気付いて愕然としたよ。当たり前のように、お前の表情が俺に向けられてたからだな」
 自分はそれほど表情豊かなタイプではないと思っていた。しかし彼には分かっていたのだろうか。両肩に乗せられた熱い掌を振り払いたいのに上手くいかない。この感情が何なのか。怖いのか、恥ずかしいのか。あんなにも焦がれた目が見られないのが淋しい。
 肩口を包み込むように載せられた掌はするりと滑り降り、両腕を掴んで強く背後から抱き竦められる。怪我をしてから彼はあまり能動的に動くことがなかったため、久しぶりに与えられた息が苦しくなるほどの腕の力に、縋りついてしまいたくなる。
「捲簾……痛い」
 水に浸した指先がきりきりと冷たいのに、身体の中心からは焼け付くように熱い。ぴたりと彼と触れ合った背中が暖かくなって、いつもそれが離れ難かったことを思い出してしまう。
「ずっとお前を目だけで見て、そのことを幸せだとも思わなかった。だから、目が見えなくなっただけであの有様だ」
 彼が何を言いたいのか分からなくて焦れる。早く核心に、とも思う。しかし延々とこうしていられるのならもう少し口を閉ざしていてくれてもいいと思った。
「顔が見たい。いつかまた、お前の顔が見られなくなったときの為に」
 そこまで言われて、いつまでも意固地でいられるだろうか。水道のコックを捻って水を出し、膿盆についた泡を流して、手の泡も洗い流した。コックを締め、手を軽く振ってペーパータオルで水気を拭き取る。そしてそれを丸めてごみ箱に放り投げ、彼の腕の中でくるりと身体を反転させた。突然振り返った天蓬に一瞬驚いたように目を瞠った捲簾はその後表情を緩めかけたが、すぐにその笑みを複雑そうに歪めて、天蓬の頬に手を伸ばした。どうして彼がそんな顔をするのか分からないまま、じ、と彼を見上げる。
「何でそんな……泣きそうな顔してる」
 指摘されるまでまるでそんなことに気付きもしなかった天蓬は目を瞠り、彼の言う“泣きそうな顔”を変える為に少しだけ笑ってみせた。しかし彼はますます困ったように笑うばかりだった。却って彼の方が泣きそうだ、とぼんやりと感じながら、両頬を大きな掌に包み込まれるのを静かに受け入れた。ごつ、と額を合わせられて、間近に彼の眸がある。その両の瞼を切り裂いた傷は塞がっているが大きな痕を残したままだ。触れてみたいと思ったが、ここまで密着していては触れようもない。触れる為にわざわざ離れたいとも思わなかった。不思議なことに、こんなに近くにあっても彼の視線を怖いとは思わないのである。何故だろうか、その目は、記憶の中にある彼のどの目よりも優しいような気がした。
「やっと見られた」
「何を」
 間近で囁くように告げられて思わず笑うと、「やっと笑った」と捲簾は嬉しそうに言った。彼の短い髪の毛が額を掠めてくすぐったい。それを紛らわすように額を擦り付けると、彼は小さく笑い声を漏らして目を細める。
「今度こそ、しっかり覚えておく。……何があっても、いつでも思い出せるように」
 何かとは何だ、などと無粋なことを考えたくはなかった。手持ち無沙汰にぶらりと身体の横に垂らしていた腕をそろりと持ち上げ、彼の背中へ回した。そっとその背中を撫でてぎゅっと抱き締める。そして正面にある彼の眸を真正面から見つめ返して、その奥をじっと覗き込む。彼もまたこちらの眸を見つめ返したまま何も言わない。
「あなたの目って、こんな色してたんですね。今まで、深く考えたことなんてなかった」
 毎日毎日、嫌と言うほど顔を合わせていたはずなのにどうしてぼんやりとした輪郭しか思い出せなかったのだろう。こんなに圧倒的な存在感のある男を、そうそう忘れるはずがないと思っていたのに。ぱちん、と一つ、驚いたように瞬いた眸を真っ直ぐに見つめ返して笑う。少し顔を反らせて、鼻先を擦り寄せるとその目は不思議そうに盛んに瞬いた。一瞬一瞬を貴重と思えないほどにここは平和だからだ。そして必ず戦乱の時、この平和を思い出しては後悔するだろう。
 その眸の色一つ、忘れないように記憶に刻み込んでいこう。これは決して、いつまでも傍にあるものではないのだ。たとえばいつか自分が一人になって、一人きりで立つ為の糧を失くした時、瞼を閉じればすぐに思い出せるようであればいい。
「きれいです」
 果たしてこの男と進むこの先に光を見出せるか。その眸の奥に今一度、探してみるのである。











一度吹っ飛んだデータを記憶を頼りに復元しました。
当方の天蓬は基本的に捲簾が大好きで、捲簾のためならぶつくさ可愛くないこと言いつつ結局何でもやります。         2008/3/30