「いざという時は、真っ先に僕を見捨てて下さいね」
 褥の中、まだ行為の余韻が残る中で彼はそう、僅かに潜めた声で言った。それはまるで秘密の話でもしているようで、少し掠れたその声は甘く響いた。しかしその甘い声で囁かれる苦い離別の言葉に捲簾は眉根を寄せる。そしてシーツに包まる滑らかな肩を掴んで自分の方を向かせた。僅かに潤んだ目と紅潮した頬が濃密な色香を漂わせていて、まるで先程の言葉が自分の聞き間違いだったのではないかと思えてしまうほどだった。しかしその潤んだ目は面白がるように細められ、弧を描いた唇は再び同じ言葉を繰り返した。その濡れたような艶の唇は月明かりに妖しく光る。
「……悪趣味、じゃねえ?」
「そもそもが趣味のあまり良くない話ですからねぇ」
 そう返してから彼はふわふわと欠伸を挟んだ。そしてむずがるように枕に頬を擦り付けてから、力を抜くように緩く息を吐いた。
「いざという時、って、言ってるじゃないですか……今すぐ捨てろなんて言ってないですよ」
 何だかそれだと『捨てる』の意味が異なってくるような、と思いながらも、突然そんなことを言い出す彼が面白くなくて、白い頬に掛かる黒髪をつんつんと摘んで、その嫌に整った顔を覗き込んだ。暗闇の中では光の見出せないその眸はぱちぱちと瞬き、そして捲簾の拗ねたような顔に思わずといったように噴き出した。
「そんな捨て犬みたいな顔しないで下さいよ、あなたが捨てられるみたいじゃないですか」
「捨て犬とは何だ」
 そう言い返すと彼はますます可笑しそうに笑って背を丸めた。肩に掛かっていた黒髪がさらりと背中側に流れて白い首筋が露わになる。そこに当分消えそうもない自分の噛み跡を見つけて、犬と言われることにそれ以上反論出来なくなってしまった。腕を伸ばして、指先でその跡をなぞる。彼は目を瞬かせ、そして笑った。その笑顔が怒ってはいないことに少しだけ安堵した。
「また噛みましたね」
「……」
「鬱血痕ならまだ言い訳のしようがあるんですが……この間李偉に温い目で見られましたよ」
 そう言って彼の指先もまた、自分の首筋の噛み跡をなぞった。そして血は出ていないことを確認して、再び緩く自分の首を撫でた。
「まあ、不埒な手合いへの牽制にはなってますが」
 彼は男性だ。しかし性的な目的で迫る男が絶えることはない。時にあからさまな誘いを掛けられ、捲簾との関係を揶揄される。彼自身はそれもすでに慣れたもので器用に撥ね退けているのだが。しかし聞いた覚えのないそんな話に、捲簾は片眉を持ち上げて、不機嫌な顔をして見せた。
「何だそれ、聞いてねえぞ」
「だからこう、ガッと白衣の襟を掴まれて迫られた時、噛み跡が見えると皆一瞬戸惑うんですよ。で、その隙に逃げる、と」
 彼が日々様々な目的で狙われていることは分かっていたが、こうはっきり聞いてしまうと何だか苛立ちが抑えられない。じっと彼の首筋を見つめたまま悶々としていると、彼は不思議そうに捲簾の顔を覗き込んできた。
「珍しく反省してるんですか。でも三歩歩いて忘れそうで、嫌ですね」
「俺は鶏か」
「髪の毛の感じが、こう」
「鶏冠じゃねえよ……ったく」
 態となのか天然なのか計り兼ねる発言にとりあえずきちんと突っ込んでから、捲簾は大きく息を吐いた。そして、全く的外れな方向に腕を伸ばして眼鏡を捜している彼の手に眼鏡を手渡してやって、彼がその眼鏡を掛けるのを見ながらもやもやした気分を口に出した。
「何だかなぁ」
「何ですか」
 ことん、と首を傾げる彼は事の重大さを何も分かっていない。そして捲簾自身もその『事』とは一体何なのか実体を把握出来ずにいた。自分に分からないものが彼に分かるはずがない。怪訝な顔をする彼にとりあえず八つ当たりを謝って、その頭を撫でた。そして上体を起こし、ベッドサイドのチェストから煙草とライターを取った。暗闇の中一瞬だけ辺りが火の明るい色に染まり、すぐにその光は消える。そして煙草の先が光っている光だけが暗闇の中、ぼんやりと浮かんだ。細く息を吐き出すと、闇の中にゆるゆると白い煙がたゆたって、ゆっくりと消えていった。その煙が完全に風に掻き消されてしまうのを見送ってから、躊躇いがちに口を開いた。
「お前を捨てて、俺にあの親子連れて逃げろってのか」
「そうです」
「何で」
 捲簾がベッドを見下ろすと、白いシーツに頬をつけた彼はぼんやりと空(くう)を見上げていて、その眸は煙草の火を映し込み、妖しく光っていた。その目にふざけたような様子は窺えない。
「真っ先に足手纏いになるのは金蝉でしょう。しかし彼を見捨てて行ったのでは本末転倒です。きっとその時、彼は自分と悟空のことを考えるだけで精一杯になっている……もし、時が来たらあなたはまず、金蝉のことだけを考えて下さい。僕へのフォローは要りません」
 そう言ってから彼はベッドから起き上がり、自分の白衣をベッドの下から引っ張り上げてそのポケットから煙草を取り出した。いつも通りライターなんて持っていないだろう彼に自分の煙草を掲げてみせると、彼はゆるゆると首を振って、捲簾の手からライターを抜き取った。そしてそのライターで手ずから火を着けた。自分のものとは違う、濃密で重い煙草の香りが鼻に届く。暗闇の中、ぼんやりと浮かんだ二つの光が、蛍のように浮かんだ。
「悟空はどうすんの」
「勿論僕が見ますが……きっと金蝉が自分で守ろうとすると思います。だけどあの人は誰かを完全に守りきれるほどの体力がない。だからそれをあなたが助けて下さい。あなたが金蝉を、僕が悟空を、その金蝉は悟空を守る。分かりますか。……そして」
 彼が長く息を吐くと、甘い香りが立ち込めて部屋中が彼の香りに染まる。空気の流れが止まった気がした。
「僕が傷を負ったら、そのまま置いていって下さい」
 ゆっくりと彼の顔を見る。煙草を銜えてぼんやりと窓の外を見つめていた彼は、捲簾の視線に気付いて薄ら微笑んだ。
「嫌だって言ったら」
「金蝉や悟空に斬り掛かってでも、追い払います」
 そう言う彼の目は真剣で、それが冗談ではないことを示していた。鋭い鳶の眸が力を持ち、捲簾を見つめる。煙草を灰皿に押し付け、そして彼の手から煙草を取り上げた。彼の目は驚いたように一度見開かれ、その後批難するように細められる。それにも構わず、捲簾はその煙草も灰皿で押し消して、彼の身体をベッドに押し倒した。両腕をシーツに押し付けてぐっと顔を近付ける。しかし彼は怯むことなく真っ直ぐ捲簾を見つめ返してきた。彼の顔に捲簾の身体で生まれた影が掛かって、彼の表情が窺い辛くなる。
「嫌だって思うのは、自由か」
「それを行動に移さないのなら」
 彼を置いてなんて行けない。しかしそれは精神論だ。別に、金蝉と悟空を連れて逃げることが目的なわけではない。しかしきっと彼は、あの二人を失ってしまったらそれを全て自分の責任だと背負い込んでしまうだろう。ならば、彼がそんな風に苦しむのならば、彼の意に添うように傷付いた彼を見捨て二人を連れて逃げてやろう。それを、彼が望むなら。しかし心は裏腹にそれを頑なに拒んだ。
「嫌だ」
「そんなこと言わないで下さい」
 分かってる、分かっているのだ。そんな(出来もしない)ことを、と彼が言いたいのだろうことも、これが幼い我侭だということも。しかし、口にすることくらいは許して欲しかった。
「金蝉助けて、お前を見捨てろって……ふざけてる」
「捲簾」
「分かってるよ、約束する。いざとなったらお前を見捨てて金蝉と悟空抱えて逃げる。怪我で動けないお前を、囮にしてでもな」
 そう言った瞬間、視界の下にある彼の目に僅かに影が過ぎった。こんな風な目をする彼を置いて行きたくない。しかし自分が彼を守りたいのと同じように、彼はきっともっと金蝉や悟空を守りたいのだ。そう考える時点で、全員で下界に、という希望は失われている。こんな発言をする彼を見たら、金蝉はどんな顔をするだろう。金蝉は、彼が誰より自分の行動に自信を持っていると信じているはずだ。そんな彼が、こんな顔をするのを見たら。しかし、こんな顔は他の誰にも見せる必要はない、とも思っていた。そもそもが金蝉と自分では彼との付き合いの長さが違う。少しくらい、金蝉の知らない自分だけが知っている彼の表情があってもいいはずだ。
「それでいいんです。あなたがそれが出来ない人だなんて、思いたくありませんから」
「それは、俺を信頼してくれてるわけ」
「ええ。誰より、あなたを」
 綺麗な顔に綺麗な微笑。吐かれる言葉も優しいのに、その真意は酷く苦いものだった。『あなただけはきっと自分を捨てていってくれる』、なんてそんな、間違った信頼を寄せられるだなんて。胸がもやもやして、苦しくて、唇を噛んだ。
「そんな信頼、要らねえなあ」
 軽い口調で言って、自分の髪の毛をくしゃりと掴む。そんな捲簾をじっと見上げていた彼は、少し困ったように笑った。そして右手をそっと伸ばして少し冷たいその手で捲簾の頬に触れた。ひやりとした感触に息を呑んで、髪を掴んでいた手を離した。
「あなたには迷惑を掛けますね」
「そう思うなら、ちったぁ気ィ遣え」
「すみません。だけど、これが最期の我侭です」
 不覚にも、ずき、と胸の奥が苦しくなって顔を顰めた。これが最期、なんて。彼を失わないためならば、幾らだって我侭を聞いてやっても構わないのに。部屋の片付けなんて今更苦痛でもなかったし(苦痛だったらとっくに止めている)、それだけ彼と長く過ごすことが普通になっていた。それは、決して失えない時間だった。変化がなくて退屈なこの世界でも、彼といるだけで時間が動いているような気がして楽しかったのだ。しかし皮肉なことに、こうしてカウントダウンが起こっている動乱の今が一番、生きているということを実感させられている。
 見下ろした彼は、穏やかに笑っていた。その笑みが、何を意味するのか分からなくて不意に畏怖のような感情が湧き起こる。既に、彼は何か覚悟を決めてしまっているような気がした。冷たく穏やかな外見に、短気で熱っぽい内面を持ち合わせる彼は、時折突拍子もないことを考える。それはまるで捲簾には考え付きもしないようなことばかり。利己主義に見えて自己犠牲を働いたり、突然自ら進んで汚れを被る悪者を演じてみせたりする。
 まさか今回も、いざとなったら自らの身を挺して、だなんて考えてはいないだろうか?
「信じてますから」
(やめてくれ)
 そんな約束、嫌だ。そんな風に、子供のように駄々を捏ねる心を精一杯に押さえ付けて、捲簾は無理矢理に笑ってみせた。その表情のおかしさに気付いてか気付かないでか、彼も緩く微笑んで捲簾を見上げた。
 その時、意地になって頷いてしまわなければよかったのだ。




 飛び交う怒号の中、強く背中を叩かれて捲簾はふと我に返った。隣には鋭い目をした彼が、後ろにはこれから何が起こるのか想像も付かないような顔の、僅かに怯えたような様子の金蝉と悟空がいる。自分の手に握られた銃のグリップに確かめるように力を込めた。
「ぼうっとしている暇はありませんよ」
「ああ……分かってる」
 空いた左手が淋しくて、咄嗟にその手を彼に伸ばす。そして彼の肩を強く抱いた。その手が、震えていたのは何故だっただろうか。一瞬驚いたように目を瞠った彼は、生死の境に晒された、こんな危機的な状況下であるにも関わらず捲簾に向かってそっと優しく微笑んだ。そして伸ばされた手がゆっくりと捲簾の髪を撫でる。白い瞼がそっと伏せられ、少し怯えたような目で捲簾を見上げた。そして彼の声が急に潜められるのに、どくりと胸が大きく鳴った。
「忘れていませんね、あの約束」
「……覚えてる」
 いざという時は、彼を捨て置いてあの二人を連れて逃げる。それが彼との約束だった。仮令彼を見殺しにすることになっても、その亡骸を敵に投げつけてでもあの二人を助けるため逃げると。しかしその約束を今持ち出さないで欲しかった。まるで、まるで今から死にに行くかのような、その約束は。
「俺達は生きるために行くんだ。死ぬことを考えるな」
 彼はそう告げた捲簾の目を見つめて、小さく頷いた。いつもは目を見つめていると何となく分かってくるその心が、今日ばかりは全く見えなかった。彼はもう既に、何もかも諦めてしまっているのかもしれないだなんて、そんなことを考えるとますます震えが増すような気がした。彼の肩を抱く手に力を込めてその震えを止める。その手をじっと見つめていた彼は、ゆっくりとその手に自分の手を重ねた。その冷たさに、俄かに冷静さを取り戻す。彼の静かな眸が自分を映している。
「――――死ぬな。一緒に行くんだ」
 本当は、お前がいなければ何の意味もないんだ。








「早く行きなさい――――――……早く!」

 腹から血を流し、血に塗れた彼はその紅に濡れた美しい顔を苦痛に歪めながらも自らの刀を抜き、その切先を真っ直ぐに三人に向けた。後ろからは多勢の足音が響き、近付いてくる。彼によって威嚇で切り付けられた金蝉の頬に、細く紅い血の筋が伝った。

「何でだよ! ケン兄ちゃ……何で天ちゃんを置いてくんだよ、ケン兄ちゃん! ……何で、天ちゃ……天ちゃん!!」

 肩に担ぎ上げた悟空は大泣きしながら、最後まで、声が嗄れても彼の名前を呼び続けていた。いつまでも、いつまでもその大きな金の瞳で彼の姿を見つめていた。その視界の中で小さくなっていく彼の姿がふっと糸が切れたように血溜りの中に頽れる瞬間も、ずっと。

「……まさか……最初からこうなると、分かっていたのか……?」

 状況が呑み込めぬまま捲簾に腕を引っ張られ、共に逃げ出した金蝉は、呆然と呟いた。捲簾は、前を向いたまま返事をしなかった。

 決めたことだ。彼との約束だ。金蝉と悟空を最後まで守ると。何のために、なんて、もう、分からなくなっていた。しかし金蝉のためでも、悟空のためでもないことだけは確かだった。自分の矜持と、彼との約束のため――――彼にとっての、最期の我侭を叶えてやるため。あの屈折した男が、自分に傾けてくれた歪んだ信頼を、裏切らないために。

「―――――……知るかよ」

 もうこの逃走に意味なんてない。半身は失われた。彼との約束以外に、縋るものなど残っていなかった。あんな約束しなければよかった。そして、何もかも捨ててしまいたかった。彼を見捨てるくらいならば。今でも約束を遂行した自分が正しいとは思えなかった。泣き喚く悟空を肩に担ぎ、金蝉の腕を引いて走り続けながら頭の中は急速に冷えつつあった。走る先には何がある?
 彼を失い楽園から逃げることに、意味はあったのだろうか?
















「……れん……捲簾!」
 強く揺さ振られ、急速に意識が浮上した。目の前に広がった白い天井へ急に入り込んできた彼の顔に、おかしいほどに身体を震わせた。ベッドの横に膝をつき、珍しくどこか気遣わしげな目をした彼は、その相変わらず冷たい手の平をそっと捲簾の額に乗せた。その冷たさが心地よくてほっと息を吐いて目を細める。じっとその鳶の眸を瞬かせながら捲簾を見下ろしていた彼は、そっと顔を近付けてきた。彼の薄い唇がそっと動くのを、スローで見ているような気分で見つめていた。
「……酷く魘されていました。何か、悪い夢でも」
 一旦立ち上がった彼は、肩で息をする捲簾の元へ白いタオルを持って戻ってきた。そして畳んだタオルをそっと額や首に押し当ててくる。そしてやっと自分が汗だくになっていたことに気付いた。顔に、身体に汗が滲んでいる。柔らかいタオルがそれを拭っていくのを感じながら緩く息を抜いた。彼は笑うこともなく、じっと静かに捲簾を見下ろしている。視線をゆっくりとずらして、ベッドサイドの灰皿を見つめる。そこには二つの異なった種類の吸い止しが捨てられていた。ゆっくりと捲簾の汗を拭っていた彼は、その視線の先を辿って灰皿に辿り着いたようだった。そして少し困ったように笑う。その笑顔はいつもなら美しいと思うようなそれだったのに、何だかその美しさにぞっとして思わず指先を揺らした。そしてその手を咄嗟に彼へと伸ばして力任せに抱き寄せる。自分の加減のない力はきっと痛かっただろうに、彼は何も言わずに黙っていた。きっと自分が何の夢を見て、こんな風になってしまっているのか分かっているのだろう。
 シャツ一枚越しの薄い肩を掻き抱いて、貪るように彼の首筋に顔を埋めた。その身体は、先にシャワーを浴びてきたのか彼の匂いに混じって甘い果実のような香りがする。愛情に飢えた子供のように懸命に体温を感じようとする捲簾の頭を彼の手がそっと撫で、髪に指を絡ませた。頭の上で彼が緩く息を吐くのが分かった。
「怖い夢でも見ましたか」
 夢、なんて見たのは、いつ以来だろう。どうせ夢で逢うなら甘い夢がよかった。
「約束通り、金蝉のカバーはする。だけど、お前が怪我しようと何しようと絶対に担いでいく。……置いて行ってなんてやらねえ」
 それで幻滅されるなら仕方ないと思った。意気地がないと言われようと、嘘吐きだと罵られようとその約束だけは守れまい。白く滑らかな肌に頬を寄せて体温を確かめつつ、じっとその身体が逃げていかないようにひたすら強く抱きしめていた。
「お前が金蝉を置いて行けないように、俺だってお前を置いてなんて行けない」
 態々いらなくリスクを冒してまで彼を失う意味なんて、ない。
 駄々を捏ねる子供のように彼に縋り付く自分が情けなくて、しかし離すことが出来ない。それが自分の素直な感情なのだと頭の中では理解していたからだ。ふと、頭を撫でてくる彼の手が止まった。そして頭上から彼の静かな声が響いた。
「あなたは、そういう人ですよね」
 そんな(約束を破るような)人、という意味だろうかと一瞬不安が過ぎって、そろりと彼の身体から顔を上げた。しかし予想とは裏腹に彼は穏やかに微笑んでいた。そして呆気に取られたような顔をする捲簾の頬を軽く摘む。
「最期の我侭、聞いてもらえませんでしたね」
 茶化すような口調で言う彼に、少し眉根を寄せてみせる。
「他のことなら聞いてやる」
「じゃあ……」
 少し思案するような顔をした彼は、小さく唸りながらベッドの縁に腰掛けた。きしりとマットのスプリングが悲鳴を上げる。まだ朝も早いため、僅かに窓が開けられていても辺りはしんと静まり返っている。彼の息遣いだけがその世界の中で確実に動いていた。そして、思案するように僅かに伏せられていた彼の睫毛が徐に震えた。自嘲するように歪められる口元に、訝しげな捲簾は首を傾げる。そんな捲簾に気付いてか、彼は少し困ったように笑って、額を剥き出しの捲簾の肩に摺り寄せた。そして秘密の話をするように声を潜めた。
「じゃあ……―――最期の瞬間まで、ずっと傍にいて下さいね」
 そんな願いを拒絶することなど出来ようもない。自分の肩に伏せられた彼の頭を見下ろして、捲簾は徐々に表情を緩めていった。そしてその、まだ僅かに濡れた彼の髪に指を通して軽く梳いてやる。
「……お前って、最後の最後で欲がないな」
「おや。自分では最上級に貪欲なつもりなんですが」
 そう軽く嘯いて彼は顔を上げた。その顔にはもう先程のような、何かに戸惑ったような曖昧な色は浮かんでいない。そのことに安堵し、少し残念にも思いながら、彼の顔に自分の顔を近付けた。きょとんとして目を瞬かせる彼の表情を間近で堪能して、軽く口付けた。そして一瞬の内に彼の身体をベッドの腕に引っ張り上げて、自分の身体の下に押さえ込む。彼は驚きに目を瞠った。
「じゃ、貪欲な元帥閣下の為に今日も精一杯頑張らせて頂きますか」
「馬鹿言うんじゃありませんよ、しご……」
 仕事がある、とそう言いかけて、不幸にも今日は休暇だったことを思い出したのか彼は表情を固まらせ、そして捲簾の笑顔に顔を引き攣らせた。そして早々にシャツのボタンに手を掛けられて、彼は焦ったようにその手を掴み慌てて止めようとする。
「冗談はよしなさい、あなた、昨日何回したと思って」
「忘れた」
「は」
 そんなものはその後の衝撃で全て忘れた。あのせいで甘い余韻に浸る暇もなかったのだ。だから今はただ、彼がきちんとここにいることを確認したかった。
「……お前は、居るな」
 ぷつ、とボタンを一つ一つ外しながら呟いた言葉に、ふと抵抗を止めた彼はゆっくりと目を瞬かせた。そして笑いながら溜息を吐く。
「居ますよ。当たり前でしょう」
「……そうだな」
 ボタンを外し終え、白い肌を剥き出しにする。その肌に顔を伏せながら、ふと先程のあの場景が頭を過ぎった。この白い肌が血に塗れて、そしてその彼を夢の中の自分は見捨てた。決してあんなことになってはならない。あんなことはあってはならなかった。夢の中とはいえ一度彼を殺したのだ。白い首筋に舌を這わせるとその身体は小さく震え、眸に甘い色が差す。その変化を満足げに眺め、再び彼の身体の上に乗り上がって深く口付ける。小さく声を漏らした彼は、それでもすぐに抵抗を止めてその手を捲簾の肩に掛けた。
「迷惑ばかり掛けて、すみません」
「今更だろ」
 そう返して笑い、シーツの波に身体を沈ませた。彼の体温を確かめてその肉体を掻き抱いて、それでもまだ安心出来ない自分に苦笑いした。こんな臆病さで今までよくも軍人など続けてこられたものだと今更ながらに驚き、笑った。
 目の前の桃色に染まりつつある色白な肌に徒に噛み付いてみると、薄く潤んだ彼の双眸が恨みがましげに捲簾を睨み上げてきた。その視線をも甘受して、その薄っすらと浮かび上がってくる紅い噛み跡に優しくキスを落とした。彼はここに居る。


(お前がいなければ、楽園を出る意味なんてない)












「何で捲簾は最近金蝉ばかりを庇ってるのか」脳内補完、もとい捏造。もう捲天はいっそ一生あははうふふとラブらせておきたいです。
2006/12/19