軍施設内に大きく構えた白い建物。そこに入っていく一人の黒衣の軍人がいた。閉ざされた重厚な扉を押し開け、中に入ると、所々に蝋燭の灯りだけが灯る薄暗く長い廊下が広がっていた。しかし既にこの病院の常連となっている彼はそれに怯むこともなく、扉を静かに閉めた後、そのまま目的の部屋へ足を向けようとした。その刹那、自分に向かって忍び寄る希薄な気配を感じて、咄嗟に防御の体制を取り、その場から飛び退く。しかし徐々に暗順応していく中で、その存在の正体に気が付いた。暗闇にぼんやりと存在する白。それが一歩此方に踏み出すと、その顔が蝋燭の灯りに照らされてはっきり分かる。猛禽のような鋭く物騒な光を宿す目つきの悪い目、伸ばしっ放しの無精髭。医師という役職名から掛け離れたその男は、白衣のポケットに手を突っ込んだまま言った。
「畏れ多くも捲簾大将。貴殿も承知していることと思うが、ここから先の立ち入りは禁じられている。お引取り願おう」
「李偉。何だその喋り方。誰かに言ってこいって言われたのか」
 そこに殆ど気配もなく静かに立っていたのは西方軍付きの軍医だった。きっと自分がここに入ってきた時からずっとそこにいたのだろうに、それに気付けなかった自分に思わず舌打ちをする。しかしつくづく只の医師にしておくには惜しい男だ。それを如何にも愉快そうに眺めていた男は、自分の顎を手持ち無沙汰になぞり、無精髭を撫でながら面倒臭そうな口調で言った。
「婦長だ。そろそろ来る頃合いだからお前を追い払ってくるようにとな。あの件以降、飛(フェイ)女史はお前を毛虫のように嫌っている」
 あの件、というのは、数ヶ月前の討伐で崖から激流に天蓬が転落し、頭部を強く打ちつけて倒れた時のことである。天界に帰還後、一週間に渡って意識不明の状態が続いた天蓬の覚醒を、捲簾は毎日ここに通い詰めて待っていた。その間に溜まり溜まった鬱憤が、あの眸が自分を映した瞬間に暴発したのである。
「頭を打って一週間意識不明だった者を目覚めた途端に平手打ちする狂人は貴様くらいだ馬鹿者」
「あーもうそれは時効時効」
「馬鹿者の頭の中の時計は余程進むのが早いらしい」
 嘲るでもなく無感情な声で、李偉はそう言って鼻から息を吐いた。白衣のポケットから煙草を取り出した彼は、その先端を近くにある蝋燭に近付ける。ジ、と小さな音を立てて先端が赤く燃えるのを眺めるともなく見て、自分のポケットを探る。煙草を忘れた。舌打ちをして、手持ち無沙汰に首の後ろを掻く。
「あの馬鹿が悪ィんだ。勝手に人を庇って落っこちた上に意識不明なんて間抜けなことになって」
 李偉は火の着いたのを確認して無造作に煙草を咥えた。捲簾とは目を合わせず俯き加減、そして唇の隙間から煙を吐きながらがりがりと頭を掻く。どこか篭ったような歯切れの悪い話し方は癖なのか、それとも自分と口も利きたくないのか。
「俺は長年傍にいてもあいつの考えていることがよく分からんことがある。……だけどな捲簾大将」
 その時初めて彼は捲簾にひたりと視線を合わせた。暗い眸に僅かに蝋燭の灯りが映り込んで剣呑な雰囲気を醸す。
「あなたには言われたくありませんって、十中八九そう言うぜ。あいつは」
 その声は決して似ていない。なのに、その言葉に一瞬萎縮した。異様に喉が渇く。ひり付いた喉が上手く言葉を紡ぎ出せない。早く、ここに来た目的を果たしたいのにその目をどうしてか正面から見つめ返すことが出来なくなっていた。彼の、糊の取れた皺だらけのスラックスを見つめながら、言葉をゆっくりと選ぶように口を開く。
「……天蓬は」
「まだ意識が戻らない。バイタルも不安定でいつ急変してもおかしくない。またあの時のように殴られては困るんでな」
 暗闇の中で吐き出された白い煙が視界を歪める。頭の中がぼんやりする。嫌な夢を見て目覚めた朝のようだ。未だ夢の中、彷徨い続けているのではないだろうか。目覚めた先にはまたいつもと同じ日常が待っているのではないか。その何も変わらぬ“日常”を何より疎んでいたはずなのに、こんな時に限って都合良く願ってしまう。変わらぬ明日を、揺るぎない彼という存在を。
「待つのは辛かろう。お前はいつだってそんな思いを周りにさせてきたんだ」
 たまには思い知れ、と吐き捨ててそれきり黙り込んでしまった彼に、それ以上掛ける言葉はなかった。思えば自分はいつも待たせる側だった。思い立ったらすぐに走り出してしまう癖で、気心の知れた相手ほど蔑ろにしてしまうことがあった。彼ならば分かってくれる、彼ならば待っていてくれる。そう咄嗟に思ってしまうからだ。そうして大した罪悪感もなく彼を待たせた。いつも彼は、自分が帰ってくると何ということもないような顔をしてすぐに迎え入れてくれたから。碌に病院に見舞いにも来ない彼に悪態を吐いたこともあった。自分が幾ら入院しても、彼はいつも、同じように生活をしていた。同じようにだらしなく生活して、たまに仕事もして。そうして、以前と何ら変わらぬ環境で自分を出迎えてくれていた。
「天蓬の上官はお前だけだ。しかし、お前の部下は天蓬だけではなかろう。他に面倒を見なけりゃならない奴等がいるはずだ。軍大将が部下一人失ったくらいで浮付いてちゃ困る。自分が一隊の長であることを自覚しているのなら、分かるだろう。……天蓬を本当に気遣うのなら、あいつが復帰した時によりよい環境で職務に就けるよう部下を鍛えて不祥事を起こさずに待っていることだ」
 そう言って李偉はこちらに背を向け、長く暗い廊下を歩き出した。その白い背中が闇に飲み込まれていくのを、その場から動くことも出来ずに見送る。去っていく白衣の後ろ姿に少し丸まったあの背中がオーバーラップして、居た堪れなくなる。つい手を伸ばしそうになって、きつく拳を握った。その拳を強く額に押し付けて、弱く息を吐き出す。待つというのはどうしてこう、辛く苦しいものなのだろう。ここで追い返されなかったらその苦しみが半減するというわけではない。ベッドに横たわり多くのチューブに繋がれて蒼白い顔をしている彼を見て、安息など得られるわけがない。けれど、走ればすぐに会える距離にいるのに顔を見ることも叶わないなんて。
 ごめん。ごめん、天蓬。ひょっとして今までお前にこんな思いをさせてきていたのだろうか。
 でも、こうして何度心で謝ってもきっと自分はまた、同じ間違いをするのだろう。それが、どうしようもなく、悲しい。


「飛女史、捲簾大将は帰られましたよ。随分堪えていたようですが、いいんですかねえ」
「あの方のことです、そんなものすぐに忘れますわ。たまには悪戯の過ぎる小僧に灸を据えることも必要です」
 確かに彼女から見れば自分も彼も小僧だろう、という言葉は口には出さずに笑った。ベッドに横たわる青年は未だ眠りの中。水分と栄養とを点滴で補われて、普通に生活していた頃より余程栄養状態はよさそうだ。しかし唇はかさつき、顔は紙のような白、青白い瞼は閉ざされて開かない。手を伸ばしてその頬に指先を触れさせる。人としての柔らかさはあっても、温度のあまり感じられない体。
「仮にも軍大将でしょう。一度や二度、大切なものを失う恐怖を味わっておくものです」
 捲簾のあの日の行動は自分にも全く読めなかった。彼は少々粗野なところもあるが良識ある優しい男で、部下を気遣う心もあると思っていたので、まさか腹心の部下に手を上げるなどとは誰も予測出来なかったのである。隣で点滴の交換を行っている彼女もその例に洩れない。数え切れないほどの軍人の覚醒を待ち、何人もの死に立ち会った彼女が言う言葉には納得せざるを得ない。
 そういえば、今天蓬の横たわっているベッド、数週間前までは捲簾が住人だったことを思い出す。そして彼が目覚めるまで毎日、終業後に現れては少しの間その寝顔だけを眺めて帰る天蓬の姿があった。そして捲簾が目覚めてからは一度も訪れない。いつもそうだった。捲簾の意識が戻るまでは何があっても毎日やってきて、何もせずに顔だけ見て帰る。そして回復し始めてからは一度も見舞いにはやってこない。照れ臭いからか、それとも見舞う必要はなくなったと思うからか。何れにせよ、確かに分かることは一つだ。いつだって天蓬は捲簾を失うことを想定していて、恐れていた。ぼんやりとベッドサイドで手を組み、ベッドの住人の顔を見つめている姿はさながら祈りのようだった。その耳には何の音も入らない。
「天蓬元帥のように、大人しく見舞うのでしたら入れても良いのですけれど……そうはいきませんでしょ、あの方の場合」
 捲簾が回復を見せ始めると天蓬が見舞わなくなるのは、きっと元気な彼を見るとまた新たな不安が兆すからだ。回復していくということは、彼がまた無謀に危険へと飛び込んでいく時が近くなるということ。いつも、何でもないような顔をして彼の無鉄砲振りを見守りながら、天蓬は常に彼の背後に付き纏う死神と対峙していた。そうして毎日目覚めぬ彼を静かに見舞いながら、決して連れて行かせまいと彼を引き留めていたのである。その視線の先にあったのは捲簾であって捲簾ではなかったのだ。
 ひょっとして、捲簾大将と共に過ごすうちにお前まで死神に魅入られたのか。

「李偉、暇ならバイタル取って」
「はいはい」
 モニターのスイッチを押して、サイドテーブルに置かれたバインダーを手に取る。表示された血圧を記録しながら、そのぴくりとも動かない白い面を見つめていた。お前はよもや、大将の代わりになら自分が連れて行かれても構わないなどと思ってはいないだろうな。確かに彼の身体に装着されたモニターから脈が読み取れる。しかし殆ど呼吸による体の動きも目では見てとることが出来ない。まるで完成前の人形のようにただごろりと転がっている。
「元帥にも早く目覚めてもらわなくちゃ困るのだけど。そろそろ私も休みが欲しいわ」
「そう言わないで下さいよ。ちょっとお寝坊なだけです、昔から」
 寝ているだけだろう? また、十分な休養を取ったら、あっさり目を覚まして欠伸でもするんだろう?
 こいつを連れて行かれちゃ困る。こいつがいなくちゃ困る奴等がいる。本人がそれを一番分かっていなさそうなところが厄介である。そうしてじっとベッドサイドに立っていると、その白い顔をした男に纏わり付く黒い薄靄が見えた気がして目を眇めた。それを払うように手を振って、彼の額に掛かる髪を指で掻き上げる。滲む汗をタオルで拭いながら、彼に忍び寄る靄に神経を尖らせる。ひょっとしてお前もいつもこんな思いをして、捲簾の顔を見つめていたのだろうか。
 ベッドサイドの椅子を引き、腰掛けて、あの日の彼と同じように手を組んでその顔を見つめる。思うことは一つだった。

(返せ。連れて行くな。)










2009/02/14