天蓬は目を伏せていた。本棚に寄りかかり、開いたままの本を膝の上に伏せて座り込んでいた。音も風も何もない夜半。そこへ突然、ふわりと僅かな甘い香りを乗せた風が流れてきて、そっと頬を撫でた。ゆるゆると目を開けば、窓から桜の花弁を乗せた風が吹き込んでくるのが見えた。
(ああ、また)
 口元に小さな笑みが浮かぶ。天蓬は膝の上にあった本に栞を挟み込み、パタンと閉じて身体の横にあった本の上に積み上げた。
「いこう、天蓬」
 “誰もいなかったはずの”部屋に、男とも女ともつかない幼く甘い声が響き、自分を呼ぶ。スッと差し出された小さな手の平を見つめ、微笑んだ。そしてその手に自分の傷だらけの手の平を乗せる。その小さな手の主は、その傷一つ一つを労わるように撫で、にっこりと微笑み返して、天蓬の手を引いた。
「一緒にきて」
 月明りを背にして、小さな手の主はそう言った。それを見上げて天蓬はまた、微笑む。
(どこまででも)
 大小の影が月下を歩いてゆく。その二つを繋ぐ手は、離されることはない。



 視界を覆うほどに積まれた本を抱え、捲簾は廊下を歩いていた。相変わらず人遣いの荒い部下のせいだ。大人しく部下に使われている自分も自分だと思うのだが、階級に関係なくあの男には相手に有無を言わせぬ強さがあった。それに相変わらず勝てていないのである。我ながら情けない話だ。そうして今、彼が書庫から借りて部屋に置きっ放しだったという本を片付けるため、本を抱えて書庫へと向かっていた。指に食い込む本のハードカバーが憎い。
「……では、昨晩のあれは」
「分からんな、しかし……」
 曲がり角を曲がれば書庫、という所に差しかかって、向こう側から声を潜めた会話が耳に入ってきた。一瞬(聴いてはならないものかも知れない)と足を止め、引き返そうかとも考えた。しかし、そのうちその声が聞き覚えのあるものだと気付く。
「少なくとも、小さい頃の天蓬にはそういうことはなかったな」
「そうですか……私もまさかと思ったのですが。早合点だったでしょうか」
「いや、突然想像もつかないことをやる男だから、当分注意を払うことにする。ありがとう、愀禮」
 声の主は、軍医の李偉と自軍の部下の愀禮だった。会話の中に、“天蓬”という名前が出てきたことに目を瞠る。
「戦いの興奮を引き摺って夜中歩き回る、なんてこともなくはないがな」
「只の散歩、というのであればいいんですが」
(何だ、何の話だ)
 冗談で交わしているとも思えない内容に、重苦しい雰囲気、潜められた声。否応なしに不安になってくる。一番下の本の角をぎゅっと握り締めて、気配を消しつつ会話に耳を傾ける。
「あいつが夢遊病なぁ……笑えねえな」
 そう言いつつ、李偉は向こう側でクッと喉で笑うのが聞こえた。手に汗が滲んで、本を取り落としそうだ。

 話を聞いて、それを解釈すると、愀禮が“天蓬に夢遊病の疑いがある”と李偉に相談したということらしかった。話によれば、愀禮が最近一人部屋で酒を飲んでいると、毎晩、同じ時間に窓の外を天蓬が一人歩いていくという。途中僅かに微笑みすら浮かべ、ふわふわとした足取りでどこかへ歩いていく。一度不安になって追い掛けると、西方軍棟の中庭にある大きな桜の木の下でじっと何時間も何時間も俯いて何か呟いているというのだ。そして、日の高くなる頃になると一人でふらふら部屋に帰って行く。それが、ここ一週間くらい続いているらしい。捲簾はその一週間ほど、仕事の都合で夜天蓬に逢っていない。今日やっと手が空いて逢いに行ったらこの様だ。
(……何かあったのかよ、天蓬)
 何も言わない男だ。弱音なんて吐かない男だ。それがプライドの高さゆえなのか、どうしてなのか知らない。いつも、全てを覆い隠す微笑を浮かべて一人で立っている。寄り掛かることなんてしない。それが“強い”のか“弱い”のかは自分には分からない。本を一冊一冊書庫の棚に収納しつつ、小さく溜息を吐いた。あの男が素直に自分に寄り掛かるところなんて想像出来ない。だけど少しくらいは信頼を預けてくれていると思っていた。
 一瞬指を止めた捲簾は、そのままその指を下の棚に移し、分厚い医学書を引っ張り出す。引いたのは勿論「夢遊病」の項。小難しい漢字が並ぶページに顔を顰めつつ、目を細めてその小さな文字を読んだ。
(睡眠時遊行症、男児によくみられる深睡眠時の複雑な行動、男児に多くみられるが……成長とともになくなる)
 あの男だっていい歳のはず、と書庫の床に座りこんでそのページをじっと眺めていた。しかし、夜にふらふら歩いていたからといってあの男の場合必ずしも病気というわけではない。突然わけの分からない行動を唐突に起こすのが得意なのだから。李偉の言う通り、戦いの興奮を引き摺って歩き回っている、というのが一番有力か。ただ……最近そんな風に天蓬の興奮が醒めないような討伐があったかといえば、否だ。
 あの男の場合、引き摺るのが興奮かどうかも微妙だ。何か悪い過去でも思い出して眠れずいるのかも知れない。
(やっぱり、もう少し早く仕事を済ませるべきだった)
 また何か一人で思い悩んで煮つまっているのだ。捲簾は勢い良く立ち上がり、手にしていた医学書を適当に隙間に突っ込むと鍵を持って部屋を出ていく。ドアが閉められ、施錠された書庫の中で本棚からはみ出たままの医学書が夕日を浴びていた。


 夜。捲簾はじっと、宿舎の近くを張っていた。愀禮の部屋の窓から見える場所を通ると言うのだから、宿舎の前を通って軍棟へ向かうのだろう。本当は、天蓬に直接話を聞こうと思っていた。しかしあの男が正直に話すとも思えなくて、あの後部屋に戻り、いつも通りに彼と会話をした。そして用事がある、といって別れた。本当ならば一週間離れていた分だけ一緒にいたかったのが本音だ。しかし不安のあるままではそういうわけにもいかないだろう。姿を現さなかったらそれが一番いいことなのだけれど。
 宿舎の建物に凭れてじっと身を潜める。黒い軍服は闇の中で身を隠すのには最適だった。少し身動ぎをすると足元の草が揺れそうで、捲簾は息をすることも忘れたように押し黙っていた。
 そして、暫くすると背後から砂を踏むような音が聞こえた。音を立てないように気を付けながらゆっくり気配を探る。
 暗闇の中目を凝らし、愕然とした。
(愀禮、お前)
 愀禮は目がよかったはずだ、あんなものを見間違えるはずがない。彼は天蓬が一人でふらふらとどこかへ歩いていったと言った。しかし天蓬は一人なんかではない。明らかに二人でいる。“小さな子供に手を引かれて”、歩いている。
(嘘だろ)
 子供の顔は天蓬によく似ていた。髪は肩に付くか付かないかの半端な短髪。眼鏡は掛けていない。しかし、どう見ても彼だった。にこにこ微笑んだその子供は無邪気に天蓬の手を引き、天蓬は抗うこともなく、夢でも見ているかのような表情で彼に手を引かれて歩いていく。口元には淡い笑み。ふわふわした足取り。いつもなら見惚れるようなその微笑みに、何故か寒気がした。
(……追うしか、ない)
 手の平にはじわりと嫌な汗が滲む。草むらに隠れた両足が、その場から動くことを嫌がった。



+++



 ああ、また今夜も来たのか。ソファに横になっていた天蓬は、無邪気な笑顔で覗き込まれて、諦めたように目を瞑った。子供は、にこにこ微笑んで自分に手を差し伸べる。そして自分は、抗うことも出来ずにその手を取ってしまう。
「いこう、天蓬」
 過去の僕が僕を呼ぶ。それは一週間前ほどからのことだった。最初は夢だと思った。あの頃の自分がこんな風に笑うはずがなかったし、第一何故ここに。その子供はいつも笑っている。自分の子供の頃なんて思い出したくもないけれど、一体どんな子供だっただろう。こんな風には笑っていなかったのは、確かだ。本当にそうなのか疑ってしまうほどにこの子供はよく笑う。しかし、紛れもなく自分だった。
『いっしょにいこう』
 そう誘われて、抗えなかったのも仕方がない。自分なのだから。
「桜が綺麗に咲いてるの、好きでしょ?」
 あの頃の僕はこんな風に明朗な子供じゃなかったはずだ。しかし服装も髪型も顔も、全てが全て、あの頃の自分と同じだった。その一つ一つを見る度に、あの頃の痛い記憶ばかりが蘇ってずきずきと胸を苛む。
「いこう、一緒に」
 ああ、どこに連れていかれるのだろうか。だけどその手の温もりが、自分にとって唯一のものであるような気がしてならなくて、怖くてどうしても手が離せなかったのだ。彼以外、誰も自分を求めてなんてくれないような、そんな気がして。そう考えたら急に怖くなって、握る手に力を込める。すると、振り返った子供は嬉しそうに笑った。
「天蓬、毎日大変?」
「……ええ、大変ですよ、雑業が多いですから」
「そんなことするために、軍人になったんじゃないのにね」
 子供はそう言って笑った。そうだ。こうしてこの子供は自分の心の奥深くをいとも容易く暴く。当たり前だ、自分なのだから。
「本当はいやなんだよね、上官ににこにこするのも、気を遣うのも」
「そう……」
「全部がまんしてるんでしょ」
 明るく笑ってそう言う彼に、思わず頷く。すると彼は、かわいそう、と呟いて、天蓬の手を握る手に力を込めた。

 子供と過ごす時間は穏やかだった。静かな夜、桜の下で少しだけ会話をする。それだけのことが、何故か心地よかった。まるで何か、“包み込まれていくような”。

「好きな人はいる?」
「……多分」
 歯切れの悪い返事にも、深く追求されることはなかった。子供は笑ったまま天蓬を見上げ、そっか、と呟いた。
「その人は天蓬のこと好きなの?」
「……多分……でも、わからない……」
 おかしい。いつもなら、そうだ、と言い切れるはずだった。しかし、この子供を前にすると自分の弱さばかりが露見していく。あの人は本当に自分が好きなのか、疑ったことがないわけではない。だけどそれは一瞬のことで、普段はそんなこと気にならなかった。……なのに、子供の前に立つと、疑念を覆っていたものたちが一斉に剥がれ落ちていく。弱い心が剥き出しになり、ただの一人の臆病な男になる。
「わからない、どうして?」
「……あの人は……誰にでも優しいから……」
「誰にでも優しいから、天蓬が一番かどうかはわからないんだ」
「……そう、……僕だけ、じゃないのかも……しれない」
 ああ、こんなのは自分じゃない。こんな風に人前で弱音を吐くなんて自分じゃない。しかしいつも子供は、弱音を吐く天蓬を見上げて、優しく笑っていた。
 子供が来ると、毎日連れて行かれる場所があった。正直、いい思い出のある場所ではなくて。だけど、この子供と一緒ならば何故か不思議と怖くなかった。しかしその日の子供は、少し様子が違うようだった。嬉しそうににこにこしながら、悪戯を思いついたかのようにふふっと笑って天蓬を顔だけで振り返った。
「ねぇ天蓬」
「何ですか」
 また何を話し出すのだろう、としょうがない子供を見るように天蓬は笑った……しかしその笑顔がすぐに凍りつく。
「この服、何の服だかわかる?」
 少年がくるりと身体ごと振り返る。天蓬は目を瞠った。つい先程まで普通だったはずの子供の服は、前のボタンが全て引き千切られ、布地も裂け、その胸元の肌が露わになっていた。―――その肌には、幾つもの赤い鬱血。繋いだ手から、何か這い登ってくるような不快感を感じた。こんなことは初めてで、思わず振りほどこうとするが、思いのほか強いその力に阻まれて手が払えない。
「知りません」
「うそつき。全部ちゃんと覚えてるくせに」
 不自然なほどに即答する天蓬に、子供はおかしそうに笑った。そして引き千切れたボタンを手に、微笑む。
「ねえ、覚えてるでしょ、天蓬。この木の下で初めて乱暴されて、この世の全てに失望した日のこと」
 目を見開く天蓬に、子供はそのままの笑顔で、微笑み掛けた。
 相手は上級神だった。幼くて、まだ色事にも不慣れだった天蓬はその男に引き倒され、そのまま暴行を受けた。記憶がリアルに蘇る。指先が震えて止まらない。そんな天蓬を見て、子供はあやすようにその手をぽんぽんと叩いた。
「誰も中身なんて見てくれない。容姿だけですぐに僕を性欲の捌け口と決め付けた」
「……やめて」
「痛かったよね、それにきもちわるかった。けど抵抗なんて相手にすれば小さいものだった」
「やめなさい!」
 天蓬が声を荒げる。子供は表情を変えない。そして、その優しい微笑みのまま、残酷なことをあっさりと口にした。
「誰かを信じることなんて、死を選ぶことと同じだ」
「……そんな」
「今好きな人だって、いつ自分を裏切ると思う」
「……」
「あなたでもいいってことは、男相手でも構わない奴なんだ。だから今度はいつどの男へ気移りするか、わからないでしょう」
「そんなことは……」
「永遠なんて存在しない。昔からよく知ってたのに」
 膝から崩れ落ちる天蓬に慈愛の微笑みを向けて、子供は両腕を伸ばして天蓬の首に回した。そしてぎゅっと抱き締める。
「あんな男信じちゃ、後で泣くだけ。わからない? あの男だって、いつあなたのことをセックスだけの相手として見るようになるか」
 身体が震えた。考えなかったわけじゃない、考えたくなくて頭から必死にはじき出しただけだ。彼はいずれ僕に飽きていくだろう、そして他の誰かの肩を抱いて去っていくのだ。膝を地面について、両手で顔を覆う天蓬を子供は抱きしめ続けた。そして耳元に優しい言葉ばかりを注ぎ続ける。
「あの男がいなきゃ、もうだめなんでしょ。つけこまれちゃったんだ、かわいそうに」
「……捲簾、が?」
「あの男は、誰でもいいんだから」
「僕じゃなくても……」
「そう。あなたじゃなくても誰でもいい。今はあなたが気に入ってるから傍にいるだけ」
 彼にそう言われると、本当にそうなのだと思えてきてしまう。あの人は誰にでも優しいから、本当は僕じゃなくても――――。
「僕たちには誰もいない、昔からずっと一人ぼっちだった」
「……そう……誰もいなくて」
 ふらり、と夢でも見ているかのような口調で呟く天蓬に、少年は微笑む。天使の笑顔で、容赦ない言葉を吐き続ける。
「今までもこれからも、……僕はずっと一人だ」
 吐き気がした。口を覆って嘔吐くと、背中を小さな手が擦ってくれる。ああ、もう僕にはこの手しかない。

「――――天蓬!」
 背後から強い声で名前を呼ばれ、びくりと背筋を震わせる。子供は忌々しげに顔を顰めた。ゆっくりと天蓬が膝をついたまま振り返ると、そのまま勢い良く何かに強く抱き締められた。そして目の前の子供に銃が突きつけられた。
「何者だ、あやかしの類か」
 銃を額に押し当てられたまま、子供はにっこりと笑った。捲簾は気味悪げに顔を一瞬引き攣らせ、しかしすぐに顔を引き締めてトリガーに指を掛けた。それを見守っていた天蓬は、何とかそれを止めようと腕を伸ばそうとする。しかし腕が動かない。
「……捲簾、やめて」
 思ったよりも弱々しい声が出て、天蓬は舌打ちしたい気分だった。その声に驚いたように捲簾も天蓬の顔を覗き込んでくる。
「……―――それは、僕です」
 捲簾が目を瞠る。少年は、美しく微笑んだ。ゆるゆると銃を持った腕を下ろしながら、視線を天蓬と子供の間に彷徨わせた。
「……は……?」
「彼を殺したら、僕も、消えてしまう」
 捲簾の服に掴まり、何とか身体を立て直して子供に向き直る。すると、子供も嬉しそうに天蓬を見て、笑った。そしてその小さな手を天蓬に向かって伸ばしてくる。
「いこう、天蓬。そんな男、置いて」
 そしていつものようにそう誘う。しかし、それがいつものものと違うことに気付いていた。捲簾もまた気付いたのか、威嚇するように顔を厳しくして、一層強く天蓬を抱きこんだ。決して渡さないとでもいうように。すると子供は先程までの笑顔をすっと消して、目を眇めて捲簾を睨みつけた。絶対零度の視線に、そうそう怯むこともない捲簾ですらぞっと寒気がした。得体の知れないものへの恐怖にも似ていた。しかし、それが、恋人のそれにそっくりだったからかもしれない。

「放せ」
 吐き捨てるような子供の言葉に、それでも捲簾は天蓬から手を離さなかった。天蓬はどうしていいのか、自分がどうしたいのか分からなかった。このまま捲簾の腕を振り払って子供の手を取りたいのか、このままずっと抱き締められていたいのか。
「嫌だ」
 切り捨てるような捲簾の言葉に子供は顔色を変えて牙を剥いた。
「そうやって皆僕のことを縛る!」
 子供は激昂してそう叫んだ。その目にあるのは嫌悪と消し切れない恐怖。嫌悪の眼差しで肩を怒らせ捲簾を苦々しげに見つめてくる。その視線に、捲簾は逆に冷静になり、子供の顔を静かに見上げた。
 この子供は何を怖がっている。
「……お前は何を怖がってるんだ」
 訝しげに捲簾が問うと、子供はひく、と肩を揺らして、一歩後退る。
「男が怖いのか、大人が怖いのか。どちらにしても何故今の天蓬を連れて行こうとする」
 淡々と訊ねてくる捲簾に、精一杯虚勢を張った顔で、感情のない声が返ってくる。
「……果てのない孤独を終わらせるために」
「今、お前は孤独なのか?」
 静かに問い掛けると、子供は唇を噛んで俯き、小さく頷いた。それを見て、捲簾は左腕で天蓬を支えながら右腕を子供の方へ伸ばした。その腕に子供は怯えて逃げようとするが、捲簾はそれを許さず腕を掴んで引き寄せ、その白い頬にそっと触れた。
「何か怖いことがあったのか」
 俯いた唇を噛んだままの子供の瞳に影が差す。捲簾は先程までの天蓬と子供の会話を聞いていた。それにあの天蓬が酷く怯えていたのも、見ていた。有り得なくはない話だと、前々から思ってはいた。しかしあまりに彼が普通でいるから、頭の隅に追いやられていた可能性だった。幼い時分にそんな目に遭って、こんな風に怯えるのなら仕方のないことだ。
 体温の低い子供の頬を撫で、やりどころのない怒りや哀しみが湧くのを感じた。
「その頃のお前を、守ってやりたかった」
 腕の中の天蓬の肩が揺れ、子供の目が信じられないというように見開かれる。それに笑いかけて、子供の半端に長い髪の毛を撫でた。自分にさえ怯えるその様が痛ましくて可哀想で仕方がない。その頃、彼の隣にいられなかったのは仕方のないことだけれど、もしも傍にいられたら少しは防いであげられたはずだ。
「これからお前は、今以上の孤独も、恐怖も味わうことになる」
 子供は怯えるように唇を噛んで目を伏せた。今でも、子供の心には抱え切れないような恐怖を味わい、孤独に晒されているのだろう。噛み締められている唇を親指でなぞる。すると子供の目が、躊躇いがちに捲簾に向けられた。
「だけど、頑張ってくれ。……そうじゃないと、俺がこいつと逢えないんだ」
 左腕の中でぐったりとしている男を見下ろしてそう言う。その視線は、子供には与えられたことのないような優しい愛おしむようなそれだった。それを暫く見つめていた子供は、ぎゅっと手を握り締めた。自分にはそんなものは与えられない。所詮この男も偽善者だ、と視線を鋭くして捲簾を睨みつけた。
「……セックスが出来れば誰だっていいくせに」
「よくないよ」
「そんなのただの偽善だ!」
「駄目なんだ」
 静かに、それでも重く深く返される声に、子供は泣くのを堪えるように顔を顰める。
「俺は、こいつじゃないと」
 そう言って、左腕の抱く力を強める。そして強い目でぽつんと一人立ち尽くす子供の目を見上げた。
「ひとりぼっちの天蓬は、もうここにはいない」
 子供の眸が揺れる。それでも逃げることなく自分を見つめ返してくるこの子供は強い、と思った。強い、だけど子供特有の脆さと移ろい易さが見え隠れした。天蓬が、自分以外の何物も信じられなくなった過程が、ほんの僅かだけ見えた気がした。きっと、彼の味わってきた全てはこんなものではないのだろう。
 ぽつん、と所在なさげに立つ子供の頭に手を回して引き寄せる。そのまま捲簾の膝元まで近づいてきた彼は、抱き寄せられるにしたがって捲簾の肩に額を押し付けた。
「誰も、いなくて」
「うん」
「痛くても、一人で」
「よく頑張った」
「誰も好きなんて、言ってくれない」
 そう言って、子供はじっと押し黙った。何と返していいのか解らなくて、その背中に腕を回して抱き締める。小さくて細い身体だった。
「俺が。お前を好きになるから、早く大きくなれ」
 驚いたように顔を上げた子供は、咄嗟に捲簾の顔を見て、その表情に戸惑ったように顔を伏せた。そんな風に優しい顔で見つめられたことがないのだ。いつも蔑まれるか、欲に満ちた目で見られてばかりだったから。背中を撫でる大きく優しい手に、泣きたくなる。
「どんだけ捻くれてもいいから、生きてくれ」
 子供は初めて、一粒だけ涙を零した。



+++



 全て夢だったんだろうか。
 頬を撫でた甘い風に、捲簾は混濁した意識の中から目を覚ます。気付けば自分は膝に天蓬を寝かせたまま、ぼんやりと桜の木の下に座り込んでいた。慌てて回りを見渡したが、あの子供はどこにも見当たらない。それに眉根を寄せつつ、ゆっくりと頭を掻きながら自分の膝に頭を載せて眠っている天蓬の顔を覗き込む。すやすやとそれはもう深い眠りについているようだ。珍しく無防備なそんな姿を見て、捲簾は苦笑しながらその顔に手を伸ばした。
「……」
 ひた、と触れた彼の頬がやけに熱い。元々体温の高くないはずの彼が、以前にもこんなに熱くなっていたのは。
(熱出しやがったな!)
 ぺたぺたと首筋、額にも触れてみる。彼はじわりと汗を掻くほどに高熱を出していた。

 それからたっぷり三日間ほど、天蓬は高熱で寝込んだ。部下たちには最近の無理が祟ったのだと伝えてある。李偉と愀禮には、天蓬は最近寝付きが悪くて夜うろうろしていたらしい、とそれとなく話を流しておいた。どちらも聡い男だからどこまで信じるかは分からないが、それでも事は解決したのだということは伝わっただろう。
 それから暫く天蓬はぼうっとしていた。殆ど口もきかない。捲簾も無理に話させようとはしなかった。今も何も言わず、捲簾の持って来た粥を僅かながら口に運んでいる。微熱はまだ、下がらない。原因も解らなかった。そして暇になれば、いつものように本を読むことすらせずにぼんやりと、部屋の窓を見つめているのだった。ベッドの周りに落ちた本を拾い、片付けながら、きちんと食べているかどうか横目に窺う。蓮華を持ったまま、じっと手元に視線を落としていた彼は、だるそうに細く息を吐いてゆっくりと口を開いた。
「……捲簾」
「ん」
 それは三日振りに聞いた天蓬の声だった。少しだけ掠れている気がしないでもない。蓮華を手にしたままの彼の元に歩み寄って、ベッドサイドにしゃがみ込む。そして、感情の読み取れない目で自分を見下ろす天蓬を見上げた。
「どうした」
 なるべく脅かさないように優しい声色を心掛けて訊ねる。すると、何とも言えない切なげな目で捲簾を見下ろしていた天蓬は、見ていられないというように目を逸らし、俯いた。露わになる首筋に汗が滲んでいた。
「彼が、あなたは僕じゃなくても誰でもいいんだ、って言った時、本当はすごく揺れたんです」
「……」
「疑ってしまうのは、僕の弱さゆえです。気を悪くしたら、すみません」
 そう言って天蓬は蓮華を盆の上に降ろした。そしてそれきり目を伏せてしまう。酷く顔色が悪い。自分は悪いことをしていないはずだ。あの子供と一緒に行かせてはならなかったはず。しかし、こんな風に憔悴しきった彼を見ると、あのまま行かせてやった方がよかったのかもしれないと思ってしまう。
(そんなはずない)
 盆の横に置かれた彼の手を取り、両手でぎゅっと包み込む。彼はあの日からいつも、ベッドの中から窓の外を見ていた。今でもあの子供が来てくれるのではないかと期待しているのではないだろうか。
『早く、早くこんな場所から連れ出して』
 そんな風に思っているのではないかと疑念に駆られてしまう。
「……行かせないからな」
 思わず口を突いて出た言葉に、天蓬はゆっくりと首を捲簾の方へと向けた。その無表情な眸が捲簾を映し出す。
「行く場所なんて、ありません」
「どこかに行きたいのか」
「孤独のない場所なら、どこへでも」
 今にも彼が一人、この手をすり抜けてどこかへ行ってしまいそうで、両手に包みこんだ冷たい手を離すまいと握った。彼は寧ろ、一人でいることを好む男だと思っていた。そんな風に思っていると、天蓬はそんな思いを察したかのように口元に小さな笑みを浮かべ、微笑んだ。
「一人の時間を好むことと、孤独を好むことは違うんです」
 小さく笑う彼を、眩しいものでも見るかのように目を細めて見上げて、捲簾はそっと口を開いた。決して、永遠に言うことはないだろうと思っていた言葉を彼に伝えるために。
「お前は、何かに縛られるのを嫌がるだろうと思ってた」
「……」
「だけど」
 天蓬は、その言葉をどう思っているのか分からないような表情で捲簾を見下ろす。それに怯むこともなく、捲簾は天蓬の眸を見つめ返した。想いの宿らないその眸が憎かった。
「お前がそう言うなら、もうお前を縛って放せないかもしれない」
 こんなこと、永遠に言うことはないだろうと思っていた。自分たちの間柄は冷めてもいなく熱くもないもの、そして近付き過ぎることもなく離れ過ぎることもないものだと思っていた。そう思うようにしていた。彼が誰と夜を共にしようと、自分が誰と寝ようと、お互い口を出すことはない。そんな関係が、その言葉で簡単に崩れてしまう。
「本当は隠しておきたいくらいだった」
 たとえそれが偽りであっても、誰にでも愛嬌を振りまく彼を。それが彼が今まで生きてきて身に付けた彼なりの処世術なのだと分かっていても面白くなかった。しかし、それを窘める資格は今まで自分にはなかった。
「……捲簾?」
 まるで、初めて見る相手に話しかけるように天蓬が躊躇いがちに名前を呼ぶ。
「言っただろ、俺がお前を好きになるって」
 ベッドの端に膝を掛け、彼の頭を抱き寄せる。余程動転しているのか、彼は抗うこともなく大人しく捲簾の胸に身体を預けた。苦々しいものが胸に広がる。こんな風に弱みにつけ込むような奪い方はしたくなかった。だけど今更、解放なんて出来るはずもない。
「分かるか。今は一人じゃないんだ」
 分かってくれ、と懇願したい気分だった。彼の手が躊躇いがちに自分の背に回されるのを感じた。その遠慮がちな力が何だかもどかしかった。その分自分が彼を抱く腕に力を込める。それなのに距離があるような気になるのは。
 ふと、腕の中にいる彼がどんな顔をしているのかが気になった。しかしそれを見る勇気が出なくて、そんな意気地のない自分を情けなく思いながら、視界の下にある彼の頭に頬を寄せた。



 この人の温かさが自分には熱すぎるのかもしれない、と思った。それを受け止めきれないのも信じられないのも、そのせいだ。煙草の匂いのする軍服に顔を擦り寄せて思う。それが自分には熱すぎて大きすぎて、現実味がなさすぎて受け止められない。今までこんな風に沢山の愛を受けたことがなかった。だからそれが本物なのか贋物なのか解らなくて信じられない。我侭な悩みだと分かっている。しかし。
 熱で未だふらふらする頭を彼の胸に預けて、細く息を吐く。顔を上げれば今でも窓の外から、あの子供が迎えに来てくれるのではないかと思ってしまう。今度一緒に行こうと誘われたら、一体自分はどうするのだろうか。
 あの子供が泣いたのは、嬉しかったからじゃない。その温かさと優しさが怖くて、それがなくなるのが怖くて泣いたのだ。
 彼の言う通り、もう自分は一人ぼっちじゃないはずなのに。

(……二人でいるのに、淋しいのはどうしてですか)











どうすれば受け止めてもらえるのか解らない捲簾と、受け止め方を知らない天蓬。
BGM*L'Arc〜en〜Ciel 「瞳の住人」|hyde 「evergreen」         2006/09/10