「如何なる局面でも沈着冷静に、チェスの盤面を上から見下ろすように戦局を構築する――――――チェック」
「……」
「こんな簡単なこと、ないでしょう」
 チェックメイト、と静かな声と共に黒のキングの首を奪った男――天蓬元帥は、少しだけ寂しげに目を細めて微笑んだ。元々情緒不安定な質の彼は、今日はまたいやに厭世的な横顔だ。その正面に対峙した、着崩した黒装束に身を包んだ男――捲簾大将は、天蓬の白い掌の上で黒のキングがごろりと転がっているのを見て、降参をするように両手をひらりと振る。すると天蓬はまた小さく笑い、静かに捲簾の目の前にキングを還した。艶やかな微笑みを浮かべる目の前の男に今さっき討ち落されたばかりのキングは心なしか情けなく見える。それに対して天蓬の手中に光る白の駒たちの誇らしげなことといったら。しかしこの負けが口惜しいかと言われればイエスとも言い切れない。自らの右腕、我が部隊が誇る頭脳が冴え渡っているのは誇らしい事実である。自分があっさりと上回ってしまえるような頭脳ならば必要ではないのだから、この結果は喜ばしいことである。一人の男としての矜持が多少疼かないでもないのだが。
「立派なナイトだ」
「盤上の戦争など簡単なものです。……こうやって、盤を濁してしまえば一からやり直すことも出来る……兵は死ぬことはない」
 そう言いながら天蓬は、そのすっとした長い指を伸ばし、盤上に立ち尽くす名誉のナイトを指先で弾き飛ばした。その駒は弾かれ転がって他の駒を倒しながら盤上から落ちた。ごろごろと転がったそれは暫く転がり続け、捲簾の筋張った手にぶつかって漸くその動きを止めた。暫く黙って、白のナイトを見つめていた捲簾は指先でそのナイトを拾い上げて掌の上に立たせる。目の前の男の忠実なる不死身のナイト。彼の頭脳によって力を吹き込まれあっさりと黒のキングを陥落させた。そんな勇敢なる兵士が男の指先一つで呆気なく転がる。そんな滑稽なことが起こるのが、戦場だ。天蓬は盤上に倒れた白のクイーンを助け起こしながら、駒に囁きかけるように一人呟いた。
「僕には戦事のセンスがない」
「馬鹿な。……どうした。何故そんなに感傷的になっている」
 天蓬はついと視線を動かして上目で硝子越しの眸に捲簾を映した。天蓬は捲簾を正面から真っ直ぐに見つめるのが不得意であった。その言葉も視線も、その存在自体が強すぎて自分が末端から霞んでいく感覚が自分で分かるのである。その男の完全さに自分の不完全な部分が際立つようで、胸の奥が捲簾に近付くことに警鐘を鳴らすのだ。その男に触れたが最後、自分は消えてしまうのだと。恐怖と興味が相俟って、近付いていいのか逃げていいのか分からず今の距離を保っている。お互いが手を伸ばし合えば指先と指先が触れ合えても、片方が背を向けてしまえば決して触れることの叶わない一定の距離。延々と、振り向かぬ相手の温度を乞うて手を伸ばし続けているのは一体どちらか。分からない。分からなくていい、自分のこの偏屈で虚弱な神経は、これ以上の屈辱は耐えられぬ。
 天蓬は自由で勇壮な黒の獣に焦がれた。捲簾は強くて弱く、聡明な、一人の軍人を欲した。ただそれだけのことで、それ以下でも以上でも有り得なかった。普段は指先一つ触れ合うこともなく、チェス盤一つ載るようなテーブルを一つ挟んで核心に触れない会話ばかりを繰り返している。天蓬は安堵していた。捲簾は多少のもどかしさと諦めを感じていた。天蓬は終わることが怖かった。捲簾はこのまま止まることが怖かった。終わりはしない、止まることはないだろう、終息へと向かうことはあるとしても。燻った熱が指先に溜まっていく。触れて、どうなる。天蓬は男の才能を羨んだ。捲簾は男の凛々しさに心を奪われた。同じようでその熱は全く違うものである。幾ら触れ合おうとしても二人の温度は違うのだ。お互いがお互いに同じ引力で惹かれているのが事実でもベクトルが違う。天蓬にとっての捲簾は自らの常識を呆気なく打ち破るような男だった。捲簾にとっての天蓬は有り触れた世界の中でたった一人違う光を持つ男だった。
 天蓬は捲簾の力と天性の才能に惹かれ、捲簾は卓越した頭脳を持っている男、そのものに惹かれた。捲簾の感情は僅かな甘さを滲ませるものだったが、天蓬の感情は胸が悪くなるような苦いものだった。嫉妬と羨望とが入り交じってどうにもならぬジレンマに、幾つもの眠れぬ夜を本に溺れて忘れた振りをしながら過ごした。頭脳は努力次第でつけられても、その天性のセンスは決して後天的に真似ることは出来ない。遺伝子レベルに組み込まれた彼の軍人としてのセンスに嫉妬し、全てを手にした彼を憎悪したのである。彼自身にも好感を持っていないわけではない。しかし狂おしいほどの嫉妬と羨望がその好感を押し隠すほどに強かったのだ。しかし消えることはなく確かに心の片隅に残った燻る彼自身への想いには気付かない振りをするほかなかったのだ。
「頭でっかちで、応用が利かない」
「そうして自分を卑下する意味が分からんな」
 事実ですよと笑って、天蓬は捲簾を斜めに見た。やはり天蓬は捲簾を真っ直ぐに見つめることが出来なかった。やはり捲簾はそんな天蓬から目を離すことが出来ずにいた。
「僕の作った机上の空論を事実にしてしまえるのはあなたがいるからです。僕は頭の中で捏ね繰り回した空論を事実に変える力がない。僕は、実現出来ないような相手に無茶な計画を強いるほど向こう見ずではありませんから」
 天蓬の軍略は確かに頭のない者から見れば、どこか物語染みた現実離れしたものと思われるだろう。しかしそれを捲簾ならば簡単に実現することが出来た。天蓬は捲簾に対するハードルを上げる度に、感動を覚えると共に醜い嫉妬を覚えた。呆気なく、自分が精一杯に上げたハードルを越えていく男が憎かった。幾ら高い壁も捲簾は軽く飛び越える。いつも天蓬はそれを間抜けに口をぽかんと開けて見つめているだけだ。
「僕一人では単なる使えない部品です」
 確かに、普通に見れば唯の役に立たない、乗りこなすのが困難な偏屈な男だ。捲簾にとってのそれは最初は単なる面白そうな暇潰しの道具だった。しかし西方軍に飛ばされ新しい環境に馴染むまでのほんの僅かな間暇を潰すつもりが己の時間を削られ心のキャパシティまで削られるようになったのはいつからだったが、思い出すのも億劫だった。振り回すつもりが振り回され、覚えもない憎悪を向けられる不条理さに苛立った。憎まれる覚えはない。そんな風に恐縮される覚えもない。元は唯、いい仲間になれたらと思っていた、それだけだった。今は天蓬自身に興味がある。しかし天蓬は自分にどこか距離を置こうとしていた。そして時折、怖気立つような憎悪の目を向けるのである。なのにふとした瞬間愛しむような目をしたり、切なげな顔をするのだ。手を伸ばしたくなったのは一度や二度ではない。抱き締めて甘やかしたい時もあれば狂うほど痛めつけて泣かせたい時もある。この男を意のままに動かしたい。しかし簡単に自分に屈してしまうような男ならば興味はなかった。
「お前と俺で力差があるなんて今更の話だろう。お前が俺より力があったら俺の存在価値がなくなってしまう」
「あなたは必要とされています」
 厭に不気味だ。目の前にいる男は自分の知る天蓬ではないのではないか。
「たとえばあなたが、いなくなれば、盤上のキングとナイトが一度にいなくなるということです。それはつまり戦力を欠くということであり、そのまま敗北に直結するわけです」
「俺はいなければならないと」
 こくんと頷き、天蓬はそれ以来黙り込んでしまった。天蓬はそれでもやはり、正面から捲簾を見られなかった。
「僕は、次々に奪われていく部下たちを盤を眺めて手を拱いて見ていることしか出来ない。しかも……あなたは僕がいなくても勝手に動くことが出来る」
「それは、自分は不必要だって言いたいわけか」
「そうですね。僕は必要ですか」
 唐突な質問に、捲簾は言葉を失った。そして天蓬は初めて正面から捲簾を見つめた。必要か不必要か、考えたこともなかった捲簾には青天の霹靂であり、天蓬にとっては捲簾と出会ってから生まれ、それからずっと胸の中で燻り続けていた不快な蟠りであった。捲簾は天蓬が自分よりも強ければ、自分の存在価値が損なわれると言った。もう、捲簾が第一小隊に配属された時点で、天蓬の存在価値は半減していた。力任せと思われがちだが捲簾は生来の才能がある。彼がやろうと思えば配置から計画まで総て彼一人で行うことが出来るのである。自分がいなければならない意味はあるのか。副官という立場は、彼の足りない部分を補佐するのではなく、彼が忙しくて、本来は出来るのに出来ない部分を肩代わりするだけの立場なのではないだろうか。仲間ではなく、只の助手に成り下がってはいないだろうか。どうせ助手にするのならば、もっと扱いやすい者を捲簾は望むのではないだろうか。従順で、愛想がよく、生真面目な副官を望むのではないだろうか。自分は彼の望むものを与えられない。不必要な存在ではないのか。
「あなたの副官は、僕である必要がありますか」
「あるよ」
「たとえば、永繕ではいけませんか。黎峰では。劉偉ではいけませんか」
「駄目だ。どうして、自分ではいけないと思う」
「――――――僕は、あなたにとって価値のある存在でいられていますか」
 価値とは何だ、普遍の価値とはどうすれば見出せるというのだろう。それまで真っ直ぐに捲簾を見つめていた天蓬は、少しも口を動かせずにいる捲簾を見て諦めたようにふっと俯いて、小さく微笑んだ。そして先程弾き飛ばされたチェスの駒を拾い集め始めた。白の清廉な軍隊が一寸の隙もなく組み立てられ、捲簾を真正面から迎え撃つ。それを見て、ゆっくりと捲簾もまた自分の黒の部隊を招集した。勝ち気な白のクイーンが光を弾く。対して黒のキングは引き気味だ。
「……馬鹿な話をしましたね。もう一ゲームどうですか」
「いいだろう」
 負けの決まった勝負は好きではない。しかし彼なら、と思うのである。
 決まりきったように勝てないゲームだった。不思議なほどに、彼の駒は器用に動く。真っ直ぐ、斜め、それだけしか動けないことが黒の部隊には窮屈だというのに、白の駒はそんな窮屈さを感じさせないほどにすいすいと目的の場所に向かって進んで行く。そして狙った標的を逃すことなく奪って行く。しかし捲簾は決して投了はしなかった。負けは首を取られる時まで決まらない。……しかしやはり、負けるのである。
「盤上であなたを負かせても、苦い思いしか残りません」
 奪われた黒のキングが哀しげに天蓬の掌で転がっている。男の哀しみをそのまま写し取ったように、その黒は少し冷たく輝いている。
「僕はあなたには勝てない」
 少し乱暴に黒のキングを盤の上に置き、天蓬は立ち上がった。窓に向かって歩きながら、白衣のポケットから煙草を取り出し一本を口に咥える。火を着けてライターを近くのテーブルに放り投げた。窓から外を眺めながら、深く溜息を吐いた。その姿を後ろから眺めていた捲簾は、情けない顔で還ってきた黒のキングを指で摘み上げて掌に載せた。すっかり白の軍隊を前に萎縮したキングに溜息を吐く。
「要するに……あれだ」
 そう言葉を切り出すと、煙草を咥えたままゆっくりと振り返った天蓬は、不思議そうに少しだけ首を傾げてみせた。その、何も分からないような振りをしてみせる仕種が憎たらしい、と思った。本当は何もかも分かっているのではないかと捲簾は常々思っているのである。全て分かっていて、捲簾の反応を一つ一つ細かく窺っているのではないか、と思っている。天蓬は本当に、時々何の穢れもないような子供の目をする。
「お前は俺が嫌いなんだ。態と俺との縁を切りたがっている。違うか」
「違いますよ」
 思った以上にあっさりと返ってきた返事に、捲簾は片眉をぴくりと上げた。盤上にキングを戻してから、彼の方に身体を向け膝の上に両肘を突いた。そして真っ直ぐに、白の軍師を見つめる。淡く、桜の花弁を通したような柔らかな桜色の光を背にして、天蓬は捲簾を少しだけ斜めに見て視線を時折ふっと下に向ける。白く洗い上げられた白衣が淡く桜色に染まる。
「何故そう言える?」
「僕はあなたを好きだからです」
 目を見開いたまま動けずいる捲簾を見て、天蓬は表情一つ動かすこともなく煙草の煙を吐き出した。捲簾の視界が、心の中と同じように煙に巻かれてものが見えなくなっていく。彼の煙草の匂いが鼻に届いて、胸が苦しくなる。天蓬が自分に距離を置く理由を、どうしても受け入れられなかった。好きだと言いながら目が嫌っているようで、愛していると言いながら態度が憎んでいるようで、その言動と態度に振り回されてばかりいる。捲簾は振り回すつもりでいた。天蓬は振り回されているつもりでいた。実際にそうだった。しかし、その反対でもあった。天蓬は捲簾に泣かされながら泣かせていて、捲簾は天蓬を振り回しながら振り回されていた。お互い全てが思い通りにいかないのである。
 天蓬は捲簾が分からない。捲簾もまた天蓬が分からなかった。捲簾は天蓬が好きだった。天蓬も捲簾が好きだと言う。しかし二人の心は少しも重なる部分がない。永遠に交差することがないのである。捲簾は天蓬と心を通わせたかった。しかし天蓬は捲簾と交わることが出来なくてもいいと思っていた。今まで生きてきた世界も、生い立ちも、取り巻いてきた周囲の人間もまるで違いすぎた。その価値観の差は簡単には埋まらない。
「じゃあ、どうして俺を受け入れられない」
 天蓬は受け入れる方法が分からなかった。捲簾は受け入れてもらう方法を知らなかった。煙草の先をぼんやりと眺めていた天蓬は、まだ長いそれを机の端に置かれた灰皿に押し込んで困ったように前髪を掻き毟った。その表情が今までに見たことがないような苦悶に満ちていて、捲簾は掛ける言葉を持たなかった。からかうことなど決して出来ない。
「あなたが好きです」
 その言葉が嬉しいはずなのに苦しい。そんな泣きそうな表情で告げられる言葉に良い気持ちなど持ちようがなかった。
「だけど僕は、あなたを受け入れたくないんです。愛したくない」
 愛したら、本当にあなたに負けてしまう。そう言って彼は苦しげに微笑んで、ゆるゆると首を振った。そして、再び天蓬は捲簾の前に腰を下ろした。ふわりと天蓬の動きと共に風に乗って、重い煙草の香りが流れてくる。ぎゅっと胸を掴まれるような気分で捲簾は俯いた。風に乗って入り込んできた桜の花弁が、丁度キングの座にふわりと舞い落ちた。
「もう一局、お願い出来ますか」
「ああ。……今度は、俺が白でもいいか」
「構いませんよ。でも、どうして?」
「黒のキングは面構えが悪い」
 成程、と笑って、天蓬は黒の部隊を集め始めた。対して捲簾は白の部隊を集め始める。自らの手を離れ、天蓬の手によって配置された黒の部隊は先程とは打って変わって妙に凛々しく見えた。黒の部隊が弱いのは自分のせいなのか。やはり、天蓬に動かされる駒は生き生きと盤上を駆け巡り、あっさりと白の駒を奪ってゆく。
「駄目だな。黒のキングはどうも俺のことが嫌いだったらしい」
「え?」
「俺の手を離れた途端に元気になりやがって」
 チェックメイト、と穏やかな声と同時に白のキングは首を奪われた。
 テーブルに肘を突いて深く息を吐く。天蓬は小さく笑いながらそんな捲簾を見て、掌に載せた黒のキングを捲簾の目の前に差し出した。突然目の前に現れた、先程までの自分の駒に目を瞬かせる。そしてちらりと天蓬を見上げると、彼はふふ、と小さく微笑んだ。
「こんなことくらいでしか、僕はあなたに勝てないんですから」
「……負けっぱなしだ」
 天蓬の掌から憎々しいその黒のキングを指で摘み上げた。憎たらしいその顔を見つめながら、その向こうで微笑む天蓬を意識した。穏やかに微笑んでいるのが見えた。憎たらしい。好きだというくせに、自分も彼が好きなのに、どうしてこうも交わることが出来ないのだろうか。天蓬の方は努めて見ないようにしながらその黒い駒をじっと見つめた。
「俺はお前が好きだよ」
 静かな室内に自分の声が響いて、少し気恥ずかしい思いを覚えた。部屋にあるのは時折桜の木が揺らされる時の枝の撓る音、天蓬が身動ぎする時の僅かな衣擦れ、それだけだ。黒い駒を見つめたまま、天蓬がどんな顔をしているのかが気になっていた。天蓬は真っ直ぐ捲簾を見つめたまま、唇を動かすことも出来ずにいた。
「……何を」
「このキングに言ってんだよ」
 そう言うと、彼はムッとしたように唇を歪め、そのまま席を立ってしまった。その後ろ姿を見ながらくくっと笑う。そして、黒の駒を再び盤の上に戻してから、盤上を掌でぐしゃぐしゃに乱した。白も黒も混じって、仲間も敵も分からなくなる。窓辺で怒ったようにこちらに背を向けて煙草を吸っている天蓬をちらりと窺って、捲簾は酷く物悲しい気持ちになった。笑って話をしていても天蓬はどこか遠くを見ている。捲簾の言葉は真っ直ぐに天蓬の心に届くことはない。天蓬の心はどんな仕組みになっているのか、真っ直ぐに放たれた言葉を勝手に歪めたり、縮めたり、大きくしたりしてしまう。天蓬は全て自分にとって悪いように、痛いように、苦しいように受け止める。どうしたら、自分の思う侭の気持ちが彼にそのまま伝えられるのだろうと捲簾は常々考えていた。天蓬は、どうしてこんな風に歪んだようにしか受け止められないのだろうと考えていた。天蓬は、自分が歪んだものの捉え方をしていると気付いているのである。それでも今までそうしてやってきて間違いはなかった。今から変えることなど出来ないのである。今ものの考え方を変えられたとして、それで傷付いてしまえばもう二度と誰も信じることが出来なくなる。今、ほんの少しだけ捲簾という男を信じられそうな状態にあるというのに、その望みが絶たれてしまうことが怖かった。やっと、信じられる相手を見つけたような気がするのに、裏切られるのが怖かったのだ。
「お前が、俺を信じてくれなくても……だ」
「……駒と語り合うのは、部屋に返って一人でやってくれませんか」
「キングならそこで不貞寝してるよ」
「……なら、クイーンですか」
「ああ。澄まし返って、俺の方を見てもくれないクイーンだ」
 天蓬は肩越しに捲簾を振り返りかけて、そのまま首の動きを止めて背を向けた。白衣を着ていればそれなりなのに、天蓬が軍服を着るとどこか背中が小さく、傷付きやすく思えてしまうのである。捲簾は手を伸ばしたい、と一瞬思って、すぐにそれをやめた。天蓬は追われると逃げたくなるのだろう。対して捲簾は逃げられると更に追いたくなる質だった。クイーンと喩えられたのが不愉快だったのか、彼の横顔は一瞬冷気を帯びた。それには気付かぬ振りで、捲簾は盤上のクイーンを摘み上げて振ってみせた。
「もう一局やろう、また俺が黒だ。ここは一つ、……俺が勝ったら、俺の話をみっちり一日中聴いてもらう。お前が勝てば、この休日はお前のものだ。どうだ? 退くか、乗るか。全てお前次第だ」
「――――――どうせ、負けるくせに」
「俺は物が賭かれば強いぜ」
 肩越しに横を向いていた彼は、視線だけをちらりと背後の捲簾に向けた。そんな天蓬をよそに、捲簾は黒の部隊を整えて白の部隊の調整に掛かる。今度こそ負けはしない。戸惑うように近くの机の上で握り締められていた天蓬の手は、諦めたように開かれて近くの煙草のケースを強く掴んだ。そして、戦いに挑む男の顔でチェスボードの前へと歩いてくる。少し緊張したような顔で白の駒を並べ始める天蓬を眺めながら、捲簾もまた煙草を一本咥えた。そして天蓬の机へ向かい、既にかなり吸殻の溜まっている灰皿をテーブルに運んだ。長い戦いになりそうな気がしたからだ。白の部隊を召集し終えた彼は、その場で手を組んで焦れたように待っていた。自分に風が吹いていることを感じた。煙草の先に火をつける。視線をちらりと送ると、緊張した面持ちで、天蓬が手を伸ばした。事実、天蓬は緊張していた。別に一日中彼の話を聴かされることがそれほど苦痛であるわけではないのに、焦っていたのだ。負けを意識した瞬間だった。その白い指先が摘み上げたポーンも心なしか震えているようにも見える。捲簾に勝機はあった。

 一日中、朝も夜も耳に痛いほどの愛の言葉を聴かせてやる。









ネガティブ天蓬。        2008/01/21