噎せ返るような草の匂いに身体を沈めて、眩しい日差しに目を眇める。何とまあ、平和なことだろう。ふわふわと欠伸をして目を細めた。座ったまま少し後退りして木陰に入れば、大樹の腕に抱かれて薄緑色の木漏れ日が降り注ぐ。しかし時折ちらちらと木の葉の狭間から鋭い日差しが下りてくるのが気になって結局木陰を出た。肌がじりじりと熱い。そうしてちょろちょろと動き回ってばかりいる落ち着きのない捲簾に対して、天蓬は涼しい顔をして大樹に背を預け、悠々と書物に目を落としている。その白い頬に木漏れ日が落ちて、ゆらゆらと水面のように揺れていた。その区画だけまるで別世界である。たっぷりとした睫毛がゆっくり上下して、それが静止画ではないことを知らせている。まったく絵になる男だ。しかしその姿格好を除いては、である。それでも、草の上にふわりと広がった洗われた白衣はそれなり、綺麗に見えてしまうから不思議だった。春風が時折その少し長い前髪を揺らして、眼鏡の奥に影を作る。
 少し離れて太陽の下からそれを眺めて、眩しさに目を細めれば瞼の裏は真っ赤だ。緑に包み込まれてうとうととまどろむその人を遠く見て、ごろりとその場に仰向けに転がった。目の上に手を翳して眩い光を遮ってみれば熱い掌を透かして自らの血潮が見て取れる。不思議だった。こんな穏やかで新緑の色に包まれた景色の中で熱く滾った赤が、場にそぐわないような気がしたのである。自分の血すら止まっていてもおかしくないのではないかというような、時の流れの遅い場所だった。しかしこうして大人しく横になっていても、自らの鳩尾近くで規則的に鳴る音は止まらない。皮膚と血肉の下でトクトクと途切れることなく紡がれる音こそ生の証だ。それなのにどうしたことか生きている感じがこんなにもしないのである。
 それがこの場所の異様さでもあった。自らの生すら偽物ではないかと疑ってしまうほどに時の流れが鈍い。そのことに対して、自分と今こうして人形のように木に凭れている男を除いては誰も違和感すら感じていない様子なのだ。スローな世界の中で自分と彼とだけが普通に動いているような錯覚すら覚えるほど。しかしこうして空を見上げてみれば雲も動いているし、風に揺られて木々の豊かな枝もそよいでいる。結局何もかも動いているのだ。
 焦っているのだろうか。でも何に。
「わっかんね」
「何か疑問でも」
 目を見開く。そしてそろりと上体を起こして振り返ると、先程までうとうとと舟を漕いでいたかの人はほやんと微笑んで首を傾げていた。穏やかで暖かい風が吹く丘で見るには、あまりにも眠気を誘い過ぎる微笑だった。ぱたんと本が閉じられて、その朱色の表紙がやけに目を引いた。先程から、その本を見る彼の目は文字を辿るのではなくぼんやり一点を見つめているのに気付いていた。流石に飽きたのだろう。鮮やかな新緑の芝の上に置かれた朱色がやけに映えた。
「分かんねえことあり過ぎて、何つうか、不愉快……?」
 言葉尻が上がってしまったのは、自分でもこのもやもやをどう表現していいか分からなかったからだ。少し困ったように眉を垂れる彼を見て、「不愉快」では些か語調が強すぎて大袈裟な印象ではないだろうかと考え直した。しかし考え直したところでもっと相応しい言葉が見つかるかと言えばそうではなかった。まるで胸焼けのような不快感がこのところ身を取り巻いている。いつものように行動しようとしても身体に絡み付く不快感がまるで枷のように、後一歩踏み出すのを止めさせるのだ。体調が悪いのだと言われればそれまでかもしれない、しかしそこは本人にしか分からない微妙な感覚であった。
「珍しい」
「何が」
「あなたがそんな、弱音を吐くなんて」
 大きく二度瞬きをして、じっと彼を見つめる。その間にも風は揺れ、木々はざわめいて雲はゆっくりと流れていく。弱音に聞こえたかい、と溜息混じりに訊ねれば、ええ、と眠たくなるようなその微笑みのまま彼は答えた。悪くないんじゃないですか、とも答えた。どこまでも偉そうな男だ。しかしその嫌に呑気な表情を静かに思う存分眺めていると、どうでもいいような気分になってくる。日向を避けて再び芝に横になり、やはり動いている空を見上げた。決して自分以外がスローなわけではない。何がスローかと言えば自分の頭だろうか。暖かな陽気に、脳髄が休息を求めている。眠いわけではないのに身体に重くて仕方がない。前髪が僅かに下がって額を掠めるのがくすぐったかったが、それを払い除けるのも億劫でそのまま目を閉じた。まるで無防備な外にいるという感じがしない。暖かい箱庭に、彼と二人放り込まれたようだ。力が入らない。
「もう、まだ眠いんですか」
 パスン、と気の抜けた音がして、彼の手にしていた朱色の書が閉じられた。それはそっと鮮やかな緑の芝の上に置かれ、それを包み込んでいた手はこちらにゆっくりと伸ばされる。そしてよっこいしょ、と掛け声と同時に立ち上がった彼は、ゆっくりこちらに向かって歩いてきた。柔らかな新緑を踏み分ける音がして、そっと彼の気配が自分の傍に陣取る。ふと見れば、彼は裸足だ。白くて少し筋張った足が草を踏み締め、その場にゆっくりと座り込んだ。彼の匂いがする。
「いい加減起きないと」
 そう言いながら白衣の腕をそっと伸ばし、捲簾の額に掛かった前髪を掻き上げるように撫でてくる。その指がやけに優しくて温かくて、このままもっと寝ていたくなる。
「やだ。もう少しこうしてたい」
「我儘だなあ」
 くすくす笑いながらも男は何も否定しない。この空間は、何故かすべてがすべて、自分を否定しない。何でも受け入れてくれる。可笑しい、と分かっていたが、その優しい指は余りに甘美で抗い難い。暖かい日差し。柔らかく包み込む芝。服の袖口から香る彼の匂い。額を滑る彼の優しい指先。
「そろそろ起きたらどうですか」
「もうちょっとだけ」
「駄目ですよ。溢れてしまいます」
 不思議な言葉に、伏せていた瞼をゆっくりと薄く開けた。思っていたような日差しはなかったのではっきりと目を開き、視線を巡らせて男の顔を探す。見下ろす男の顔は慈愛に満ちていて、滅多に受けられないその恩恵に、もう少し甘えていたくなる。溢れてしまうって、一体、何が、どうして。
「溢れてしまう前に、起きて」
「何が」
 彼は笑った。手を伸ばしてその唇に触れてみる。男は少しきょとんとしたようだったが、僅かに口元を緩めて、自らの唇に触れた捲簾の指先にそっと口付けた。そして唇から離れると同時に、閉じていたその瞼をゆっくりと押し上げた。
「もう時間ですよ。溢れてしまう」
「溢れると、どうなるの」
「あなたはきっと、困るから」
 肩にそっと手を掛けられて、困惑しつつもゆっくりと上体を起こした。そして自分の横で膝を折って座っている彼と正面から目を合わせた。天、と言い掛けて、近付いてきた彼の顔に言葉を失う。柔らかくて温かい彼の体温を僅かに移し取って、ふっと彼の顔が離れていく。濡れた唇に彼の吐息が掠めた。
「そろそろお帰り。時間です」


 ふっと、身体を包みこんでいた柔らかな芝の感触が固いものに変わり、暖かな日差しが閉ざされる。身体中を襲い始める冷気と痛みに身体が強張った。全身の体温が一気に奪われていく。血管が収縮して、筋肉が軋みを上げた。無意識のうちに、懸命に手を伸ばした。もっと、もっと手を伸ばせば先程のように彼に触れられるのではないかと思ったのだ。しかし伸ばした手を取ってくれる相手はいない。痛みを堪えて歯を食い縛った瞬間、どこからか水の粒が落ちる音がした。ついと首を巡らせればその先に光が映った。その音と共に、伸ばした手の先に温かな温度を感じられるようになる。そしてその瞬間、強く見えない引力に引かれるように瞼を開いた。
「……ごめん」
 目を開いた瞬間、遅かった、と思った。もう溢れた後だった。カラカラに渇いた喉からは拉げた声しか出なかったが、咄嗟にその言葉を発していた。傷だらけで、泥塗れの男の頬には溢れてしまった跡。懸命に伸ばした右手は、彼の両手に包み込まれている。首が動くかどうか確かめて、ちらりと自分の身体に視線を巡らせる。右足には添え木がされており、腹部にはきつく包帯が何重にも巻き付けられている。道理で痛いわけである。
 何度も何度も起きろと言われたのに。遅かった。でもその溢れた雫が帰る先を教えてくれた。
「遅い」
 掠れた、強張った声が耳に届いて、生きていることを実感した。
 俺がお前の側で生きている。
 それが、痛みも忘れる程に嬉しい。







拍手お礼(〜09/03/03)