きれいな花を見つけたんだ。そうしたら、急に天ちゃんのこと思い出して。だから、腕にいっぱいあの花を抱いて、あいにいくよ。


 殺し合いの余韻が、消えない。
 軍服姿のままぼんやりと庭に佇んで、空を何を見るともなく眺めていた。指先が震えているような感覚に襲われて、手の平を見つめてみた。傷だらけの汚れた手。震えてはいない。震えているのは身体全体のようだった。
 下界から帰還した後、気遣うような視線を向ける上官から逃げるようにして隊列から離れた。面倒見の良すぎる彼にこれ以上心配を掛けるのは本意ではなく、そして自分のプライドの高さも素直になることを邪魔をした。依存などしてはならない。自分自身の心の問題は自分以外にどうこう出来るものではない。他人のことであろうと何でも自分が肩代わりしてしまおうとする人の良い彼にだけは、こんな弱みを悟られたくなかった。腹の底から澱んだ空気を吐き出すように深く呼吸を繰り返していると、少しだけでも、それが楽になるような気がした。しかし呼吸は楽になっても心の澱みまで消してはくれまい。正しくないと分かっていて戦いを欲するこの欲望を消し去ることは出来ない。己が命を削って何とか自分の生を確認しているような状態の中で、その欲望が消えたら一体自分に何が残るだろう。
 “純粋であること”が聖なるものだとは思わないし、絶対的に正しいことだとは思えない。同じく“穢れていくこと”がいつでもどんな状況下でも悪ではないことも分かっている。ただ、無い物ねだりというもので、どうしても自分にはないあの何も知らない無垢さを見ていると、少しだけ羨ましいような気分に駆られるのだった。しかし、その愚かにすら見える純粋さがどうにも憎く、鼻に付くのも事実であった。
 震えているのは手なのか、身体なのか、それとも身体のどこかがおかしくて震えているように見えているだけなのか。結局状態のおかしい自分に判断出来ることではなくて、諦めて手を下ろした。土臭い服に数刻前の光景を思い出し、何かぞくぞくするような感覚に襲われた。殺し、殺されるあの場面の余韻が消えてくれない。消えるまで誰にも会うことは出来ないだろう。今の自分が一体何をしようとし出すか、それは自分でも分かり得ないことだった。正しくあるには、一体自分はどうすればいい。今更聖人になんてなり得ない、散々血に塗れた自分には、相応しくない悩みだった。軍人である以上、生きるために、地位を保つために存在価値を維持するために他者を傷つけていくのは仕方のないことと割り切るほかない。苦しい、悲しいなんて、そんな感情にはもう疲れた。泣くのも悩むのももう飽きた。泣いて世界が変わるなら、悩んで明日が変わるなら、いくらでも泣き喚くだろう。しかしそんなことにはなり得ないと分かってしまった以上何をする気にもなれなかった。そして、泣くことも面倒になってしまった自分はこうしてただ空を眺めている。戦いの興奮から未だ醒めない心を落ち着かせるためだ。決して美しいとか、そんな風に思っているわけではない。今更こんな世界を美しくなんて思えない。
「……天ちゃん!」
 無垢のかたまりが近付いてくる。じゃらじゃらと無機物の音が近付いてくるのを感じて、天蓬は一度目を瞑って、開いた。その時にはもう既に冷めた目などは仮面の下に覆い隠した後だった。にっこりと虫唾が走るような温和な笑顔を浮かべて、駆け寄ってくる小さな子供を迎え入れた。どうやって軍の敷地内に入り込んだのだろう。あの男が手引きしたのだろうか。全て覆い隠した笑顔でその小さなものへと向き直り、話し掛けた。
「こんにちは、悟空」
 自分でも薄ら寒くなるような笑顔と声だ。しかしそれすらも慣れ過ぎて今では自分の顔の一部になっている。そしてそれを本物と信じて疑わない子供は、純粋な笑顔で自分へ向かって近付いてきた。そして小さく息を切らしながら天蓬を無邪気に見上げてくる。
「今日は白衣じゃないんだ」
「ええ、ちょっと下に行ってきたんですよ」
 何をしてきたかなんてこの子は知らなくていい話だ。知ろうとしなければ分からないこともある、と誰かが余計なことを言ったというが、知ろうとしない方がいいことだって幾つもある。知るという行為は決していいことばかりではない。吐き気を催すような血生臭い話でも全て呑み込まなければならない。それも全て、何も知らずにそれを知りたがった本人に責任があるからだ。
「ふぅん……」
 子供は何も分からない顔をして首を傾げている。それでいい。純粋なら純粋なりに、知ろうとしなければいい。
「今日は一体どうしたんですか? ……金蝉は?」
 どうやらいつもべったりの保護者も付いていない。あれは今、やっと退屈から抜け出して全てを知ろうとし始めている男だ。庇護され敬われる立場にいるからこそあれだけ大きくなっても純粋なままいられたわけだ。自分なりの覚悟の上で全てを“知ろう”とする彼に、天蓬は特に何も忠告しなかった。ただ、心の中で“知ってから文句を言うな”と思ってはいたが。
「金蝉は仕事、またハンコ捺してる」
 数少ない彼の趣味である、判子捺しである。あれも大概変人だ。あの姿を想像すると何だか呆れてしまって、脱力する。本を読むのに没頭してしまう天蓬に対して文句ばかりの彼だが、あの姿を見るとお前には言われたくない、と内心思ってしまうこともある。
「そんでね、今日一人で首飾り作ってたんだ」
 視線を落としてみれば、彼の小さな手には白詰め草が綺麗に組まれた首飾りがあった。それは以前、天蓬が彼へ作り方を教えたものだった。その頃はまだ不器用であまり形になっていなかったのだけれど、上手くなったものだ。そして自分を見上げてくる期待に満ちた眸を少し不思議に思いながら見つめた。
「ナタクが怪我してるだろ、だからこの前お見舞いに持ってったんだ」
「……そう、ですか」
 そういえば、この間観世音がこれによく似た首飾りを提げてうろうろしているのを見かけた。何だか非常に不愉快な可能性に思い当たらなくもなかったが、花の首飾りなんて誰が作ったって大体同じようなものだろう、とその可能性をすぐに打ち消した。そして嬉しそうな顔をする彼を微笑んで見下ろした。
「おれ、上手になった?」
「ええ、すごく上手ですよ」
 褒めて褒めてと言わんばかりに目を輝かせて見上げてくる子供に笑って、思わず頭を撫でようと手を伸ばしかけた。しかしその汚れた手の平を思い出し、天蓬は手がその子供に触れてしまう前に腕を下ろした。子供はそんなことにも気付かずに嬉しそうに笑っている。その笑顔から見えないところで、その拳を強く握り締めた。
「今日ね、いっぱい咲いてるところ見つけてさ。そんできれいだなぁって思ってたら天ちゃんのこと思い出して、だから天ちゃんにも作ってあげようって思って、がんばったんだ」
「……僕に、ですか?」
「うん!」
 悟空が天蓬の服の裾を引き、しゃがむように促してくる。それにしたがって彼の前に膝をつくと、ふわりと白いものが一瞬視界を覆う。そして微かに花の香りが鼻先を擽った。驚いて顔を上げると、少年の少し照れ臭そうな笑顔が目の前にあって。
「やっぱり似合うなー」
 やはり純粋さは罪かもしれない。
(似合うわけ、ないじゃないですか、悟空)
 この少年が名の通り、目に見えぬものを悟ることが出来るなら、自分の腹の底のどろどろした汚いものの存在だって分かっていてもおかしくないだろう。指先で、首にかけられた花の首飾りに触れる。自分に捧げられるためだけに摘み取られてしまったそれらが、何だか可哀相で仕方がなかった。捧げられるほど、大層な相手ではないというのに。例えばそれが、この子供の保護者のあの男だったら、まだ花も報われるというものではなかろうか。
 膝をついて座り込んだまま何の返事もしない天蓬に、悟空は少し不安げな顔をして見下ろしてきた。それにやっと我に返って、また同じ笑顔を浮かべて見せた。しかし悟空はまだ不安そうで、逆に天蓬が困ってしまう。彼を安心させるように何とか微笑みをかたちどって、天蓬は悟空の顔を見つめた。天蓬が膝をついて座っているせいで、立っている悟空の顔を見上げる格好になる。
「どうしたんですか、悟空」
「うれしくなかった? 天ちゃん」
 純粋さは痛い。魚は美しすぎる水の中では生きられない。泥の中に、血の海の中に慣れた自分はその過ぎた清潔さに文字通り身を切り裂かれるようだった。切羽詰まった自分には、少年の優しさも、美しい首飾りすらも枷のように思えた。今の自分は彼の目に、完璧な笑顔として映っているだろうか。
「嬉しいですよ、ありがとうございます」
「……何か天ちゃん、無理してるみたいだ。どこか痛い?」
 子供の精一杯の気遣いにも上手く対応してやれない自分が歯痒い。躊躇いを振り切って手を伸ばし、その頭を撫でてやると、少しは彼も安心したらしかった。そして少し照れたように天蓬をおずおずと見つめて、頭を掻いた。ふくふくとした柔らかそうな子供の頬が僅かに紅潮している。
「天ちゃんはいつも無理ばっかりするんだって、さっきケン兄ちゃんも言ってた」
 彼も、この子も、その優しさが逆に辛いのだと分からないのだろうか。心の中で眉を顰めつつ、それでも天蓬は笑顔を保ったままいた。優しくなんてしなくていい、と思ってしまう。放って置かれたら置かれたで勝手に淋しさを感じるくせに、自分勝手なことだ。そっと指先で首に掛けられた花飾りに触れてみた。触れたそこからじわじわと花が腐っていくような錯覚に陥って、慌てて手を離した。
「天ちゃん?」
 戸惑ったように手を伸ばしてくる悟空に思わず身構えた。ただ何気なく手を伸ばしただけだった少年は当然何事かと目を瞬かせる。これ以上彼を困らせないようにと頭の中で気の利いた文句を探した。しかし混乱している頭で色々なことを一気に考えられるはずもなく、余計に苦しくなって手で口元を押さえた。最近碌に物も口にしていない。ただただ喉の奥がひりひりと焼けるように痛むばかりだった。
 その時、突然背中に何か当てられたような感触を感じ、天蓬はゆっくりと顔を上げた。目の前には少し硬い表情をした少年がいて、背中に当てられているのは彼の小さな手だと分かった。小さな手は労わるようにそっと上下して、少年の目は優しく天蓬を見下ろしていた。その目は不意に、いつもと違い大人びて見えてはっとした。
「……まだ苦しい?」
「あ……いえ」
「苦しいときに、苦しいって言うのは普通だと思う、よ」
 静かな声でそう告げて、小さな手で天蓬の頭を撫でた。じゃらり、と音を立てた鎖が、眼鏡のフレームを僅かに掠った。子供の手は温かくて清潔で、苦しいのか申し訳ないのか、よく分からない感覚に苛まれて再び胸が押されるように苦しくなった。胸の辺りを押さえて俯く。見下ろした自分の手は微かに震えていた。見下ろした芝が徐々に歪み、じわりと目の奥が熱くなる。どうして、何でこんな時に。
 この子供の前では造った仮面も、何もかも簡単に崩れ去ってしまう。だから彼に触れられることが怖いのだ。

 ぱたり、と落ちた水滴が短い葉を揺らす。金の眸はそれを捉え、少し辛そうに顔を歪めた。そしてそれから顔を逸らすようにして、小さな両腕で天蓬の頭を一杯に抱き寄せた。

「苦しいって言うのは、かっこうわるいことじゃないよ」

 かっこうわるいのは、こんな子供の腕の中でしか泣けない、自分か。









2007/02/18