「何れ、この仕事も大将に取って変わられるのでしょうね」
 告げられた言葉が思いがけない内容だったのか、驚いた表情で振り返った彼に驚かされて、咄嗟に鋭利な鋏を手にしていた手を引っ込めた。利発さを表す様な深い珈琲色の眸が不思議そうに瞬いている。上級の軍人でありながら、目の前に鋏を突き出されても構えるでもない。見上げる透き通った眸が、只無垢であるのかそれとも計算し尽くされた純粋なのか、時々分からなくなってしまう。
「刃物を扱っている時に急に振り返らないで下さい。少し失礼します」
 僅かに自分が顔を顰めたのが分かったのか、眦を少しだけ緩めて彼は笑い、再び首を正面に戻した。それ以上動き回らぬようにそっと彼の頭部に両手を添えて、髪を切るのに調度良い様に少しだけ下を向かせた。形よい小さな頭は大人しくそれに従った。
「すみません、でも、どうして今の話からそんなに飛躍した発想が生まれるのかと疑問に思ったものですから」
「何ら不思議なことでもないでしょう。あれだけ捲簾大将がかいがいしく元帥の面倒を見ているのは皆が承知しています。何れあなたは私の手を必要としなくなる」
「こんな面倒な仕事、さっさと誰かに丸投げして逃れたいものではないですか。それでは、まるで惜しんでいるようだ」
「惜しみますとも。唯一元帥と定期的に腰を据えて話の出来る機会ですからね」

 永繕にとってそれは、他には譲ることの出来ない仕事だった。彼は軍人である。刃物を手にした人間を背にして只身を任せるような行為を人に許すことなどそうそうない。だから初めて彼にそれを依頼された時には、鋏を持ったまま再三の確認を取ってしまい、呆れたような目をされてしまった程だった。『本当に私で宜しいのですか。もしも私が逆賊であったら、とはお考えにならないのですか』と訊ねた自分に対して彼の返した言葉に、逆に身の引き締まる思いがしたのを覚えている。
『もしもそうだったら、僕は自分の見る目の無さを憾みながら死んでいきましょう』
 この上官は、あまり人を傍に寄せることを好まない。それを揶揄して変人、人嫌いと見下す様な輩は多いが、それは所詮彼の目を引くことの出来なかった者の負け惜しみに過ぎない 。彼は嫌いなものを遠ざけているわけではない。嫌いなものに対しては冷淡なほどに無関心なだけである。彼がより遠ざけるのは大切なものだ。誰より自分が危険因子だと、避雷針だと知っている。だからこそ巻き添えにするものをなるべくなくそうとしている。大切であれば大切であるほどより遠く、安全なところへと突き放そうとする。指摘すれば恐らく彼は笑って否定するだろうが、真っ直ぐに彼を見ていれば自ずと分かることである。それが違って見える者がいるのは、彼に対しての間違った感情が彼の像を歪めて見せているからだ。
 しかし、大切なもの扱いなど歯痒いだけ。少なくとも彼に疎まれていないことだけは確かでも、自分は彼と同じ軍人である。同じ場所から同じものを見つめていたかった。部隊の誰もが願いながらもずっと言い出せなかった思いを、着任して数日で彼に伝えた男がいた。
「そんなのいつだって」
「元帥は捲簾大将が配属されてからというもの、訓練にも碌にお出にならない。時々一人で射撃訓練をなさっているのをお見掛けしますが。隊員の訓練はもう全て大将に委ねたおつもりですか」
 しゃき、と彼のこしの強い黒髪を切る。彼の髪はその性格の実直さと頑固さを体現したように真っ直ぐで、指を梳き入れればさらりと逃げていく。以前と同じ長さに揃えるだけの単純な作業ではあるが、影に信奉者が多い彼のことだ、ミスをするわけにはいかないためいつも少しだけ緊張する。元々容姿には無頓着だった彼が、このところは以前に比較してまともな状態を保っているのは、あの新参者のお陰だった。新参者、と心の中では言ったものの、現実世界では自分よりも何階級も上の上官である。その人柄も、人望も、実力も、全てが尊敬に値する、と承知している。上官として、男として、頼り甲斐があり優しい、まるでお手本のような上司だ。素行の悪さなど然して問題ではない。まるでこの人とは正反対である。優しくて、誰もを受け入れる器の大きなあの上官と、大事なものほど大事過ぎて持て余して、結局突き放してしまうこの人。
「僕には指導の能力もなければ、人を惹き付けるようなカリスマ性もありませんからねえ」
「そうして大将と自分を比較なさってどうなるのですか」
 そう指摘すると、彼は一瞬息を呑んだように思えた。しかしすぐに鈴を転がすように静かに笑って最後に小さく息を吐いた。

「ねえ、永繕。捲簾はいい上官でしょう」
「……そうですね」
 唐突に発せられた言葉に、一瞬詰まりながらも出来るだけ抑揚を付けないように返事をした。返事に迷ったわけではない。答えは一つしかなかった。ただ、彼がそれを自分に言わせることで一体何を証明したいのかを勘繰ってしまったせいだ。彼はいつも人の言葉を勝手に自分のいいように解釈してしまう。どちらかといえば、悪い方向へと。
「近く、僕は隊長の座を彼に明け渡すつもりでいます。いい隊長になってくれるでしょう。彼ならきっと、死者を出すようなへまはしない」
 そう。あの上官は、この人とは違う。この人とはまるで違う、完全の人だ。彼には出来ないことを一足飛びに成し遂げては、平気で笑っている。その笑顔を見つめる彼は、確かに微笑んでいた。何を思いながら笑っていたのだろう。普通に考えれば、それは羨望であったり嫉妬であったり、尊敬であったりするだろう。現に自分の同僚たちはきっとそのような感情を大将に対して抱いているはずだ。しかしこの人の場合は、一般的な話とはまた違う。
 彼の髪を梳って、長さの揃っていない部分を少しだけ切り、整える。足元の敷物の上にぱらりと黒い髪が散った。
「過剰な期待は大将の首を絞めることになりましょう」
「その位が調度いいでしょう、逆境に強い人の様ですから」
 別に大将を庇い立てしたつもりはなかった。しかし彼は自分の言葉をどう思ったか、「あなたは上官思いですね」と笑い混じりに言う。
 苛立ちが募る。一体誰にか。想いのままを伝えられない自分に。人の言葉を悪いように悪いようにしか受け止められない彼に。
「その言葉自体が、私には異様な程の高評価に思えますが。……死んだ彼奴も、元帥にそこまで自身の死が堪えていると知ったら、感動を通り越して自己嫌悪に陥るでしょう。何故あなたを残して死んでしまったのかと」
「いじわるですね」
 その声は笑っていたが、自分の言葉が如何に彼の胸の奥の傷に沁みたか分かっていた。その傷は未だ塞がらない。きっと彼が、あの部下と同じ宿命を辿るまで血を流し続ける傷痕は今も鮮やかだ。長い髪の毛が左右に分かれて露わになった項の、そこかしこに付いた決して癒えぬ傷痕が、その戦を一つ一つ乗り越えては積み重ねてきた彼の後悔の証だ。
 誰もが大将のように、両腕を広げて全て包み込むような愛情表現が出来るわけではない。彼にとって大将はきっと眩し過ぎるのだ。彼を中心に築かれていく新しい隊に、何故か彼は積極的に入ってこようとしていない。まるで少しずつ自分のいた証を消していくように。

「でも、僕は」
「元帥」
 その声に意識を引き摺り戻された瞬間、何故だかテレパスの様に彼の言いたいことが分かってしまった。咄嗟に名前を呼び、それを止めようとするが、彼は自分の言葉など耳に入っていないかのようにそのままのんびりと言葉を続ける。動悸が激しくなる。喉の奥に強い鼓動を感じる。止めろ。その続きを聞きたくない。
「あの日、もしあの討伐で、指揮を執っていたのがあの人だったなら」
「止めて下さい!」
 その続きは言ってはならない。
「あの子は死ななかったと思うんですよ」
「奴はそんな言葉など望みません!」
 苛立ちのままに叫びそうになるのを懸命に押し殺した声でその聞き捨てならぬ言葉を制し、彼の前へ回る。そして、それ以上彼を責める言葉を紡ぐ気力を根こそぎ奪われてしまった。どうしてそんな顔をするのだろう。きっと死んだ彼はさぞや哀しみ、悔やむだろう。敬愛する上官にこんな表情をさせてしまったことを。ここまで哀しい言葉を彼の口から言わせてしまったことを。彼はどうあっても、二度とその身体を支えてやることが出来ないのだ。今彼の傍にいて、こうして立っている自分さえも彼の心に寄り添うことが出来ないというのだから。
 口惜しい、口惜しい。
「その言葉は、懺悔ですか」
 その言葉に、彼はまた少しだけ微笑んで、顔を俯かせた。その目は決して自分を映さない。彼らしくもない、低く、篭った呟き声が風の音だけが支配する部屋に響く。
「取り返しの付かぬ過ちを犯した自分自身を、僕はもう信用することが出来ません。自分のことなのに、おかしいですね」
 そう茶化すように付け加えて、彼はいつものようにへらりと笑って軽く肩を竦めた。しかし見上げた永繕の顔が思ったほどに明るくならなかったのを残念に思ったのか、その笑みにはじわりと寂寥の色が滲み始める。
「あなたたちをもう、誰一人失いたくはない。だから全てを彼に託します。あなたたちの命を。あるべき未来を」
 今日まで彼と過ごしてみて、きっと、その方がいいと思ったから。そう呟いて、彼は淡い笑みを唇に刷いて瞼を伏せた。
 彼の頬に、切られた短い髪の毛がついている。失礼します、と一声掛けて、タオルでその頬を拭った。伏せられた長い睫毛が光を弾いて、その奥の昏い眸を更に翳らせているようだった。血の気の感じられない蒼白い頬に薄く走る傷痕が見えた。
 彼が影ならばあの上官は光。あの強過ぎる光に真上から照らされ、影は小さく小さくなり、しかしその濃度を増していく。

 託すの、失うのと、本当に自分勝手なお方だ。隊員にだって一人一人言い分がある。大将が配属されて数日が経ち、すっかり彼に懐いてしまった者も多い。しかし、誰一人として大将を元帥の代わりに据えようなどと思っている者がいるはずがない。どうして彼はこうも突然極論にばかり走るのだろうか。どうしてそれほどに卓越した頭脳を持ちながら、我等がこうも長く自らに付き従っている理由が分からないのだろう。あなたの目の前で散っていった部下が、最期まであなたを庇おうとしていたその理由が、分からないとでも言うのだろうか。
 この命は只一つ。捧げる相手は自分が決める。
「たとえ未来がどうなろうとも、私が元帥の部下であることは変わりません。いつまでも」
 あなたはいつも自分に向けられる視線に気付かない。いつも自分の帰るべき場所があることを見失ってしまう。何も言わない、ちっとも頼ってくれない人だったけれど、戦場で見るその背中にはいつだって希望を見出すことが出来ていた。いつだって部下の被害を最小限に留める様、何度も策を練り直していることも知っていた。差し伸べられる手にはいつだって力を振り起こされていた。それだけで十分だった。信じていなければここまで付いては来ない、尊敬していなければこんなに辛くは思わない、それなのに彼はそれすら理解することが出来ない。差し出された愛を愛だと受け取れなければ、得られないのと同じだろう。受け止め方を知らない、返し方が分からない。愛し方が分からなくて無条件に与えられる温もりに怯えて逃げて、突き放す。そして今、自分よりも“愛されるに相応しい人”に全てを委ねて、愛から逃げようとしている。
 信じて、裏切られて傷付けられて絶望して、愛すら分からなくなってしまった優しい人。
 どうして誰もこの人がこんなに哀しい人だと分かってくれないのだろう。









玲蘭さまのところの永繕に激しく萌え盛った結果。本当にすみません、激しくイメージを崩しました…。
内面は情熱的ではあるけれどそれは心に秘めて一応は紳士な対応が出来る子。     2009/01/22